幸せってのは自分で掴み取るものなのよ
「まったく人騒がせにも程があるよな。あんな不謹慎な電話をかけるなんてさ……」
俺はそう言いながら、ココアの入った二つのマグカップをダイニングテーブルに置いた。
「不謹慎だなんて酷い言い草ねえ。私にとっては十分大変な出来事だったのに」
二つのうち片方のカップを受け取った母は、ぶつくさと不満を唱える俺に不快感を示す。
「んな事はわかってるよ。だからこうして予定を早めて帰って来たんだろ?」
結局、怪我は命に関わるものではなかったものの、生活には何かと不便なので、サヤや愛美達に断って先に帰ったのである。
現在も俺が代わりにココアを入れてやっている。
「まだ高校生なのに親の介護をする羽目になるなんてな……」
「私は女手一つでアンタを養ってきたのよ。これくらいで文句言われる筋合いはないでしょうが」
「う……そ、それは確かに感謝してるけど……」
母は父さんが死んで以来、俺の前では決して悲しむ素振りも見せずに一家の主として頑張っており、そのことに関しては本当に頭の下がる思いだ。
「まあ養育費のほとんどは扶養手当と、お父さんの遺したものがあるから、私の貢献度はそんなに高くないんだけどね」
「オイ……」
自分から評価を下げてどうする。
「まあまあ、これくらいで目くじらたてないでよ。そうだ、冷蔵庫にプリンがあるわよ」
「今は別にいらないよ」
「いやそうじゃなくて、私が食べたいから取って欲しいの」
「あのなあ……それくらい自分で取れよ!」
もしかしなくても、この母親は怪我を口実にして自分が楽したいだけじゃないのか?
「っていうか何で階段から転げ落ちたんだよ? 」
父さんの事故があってから、階段を通る際は細心の注意を払っている。
さすがに楽したいが為にわざと怪我した訳ではあるまいし。
「いやね、電話じゃ言えなかったんだけど、ちょっとビックリするものを見ちゃったもんで」
「ビックリするもの?」
「そ。ホラ、ここの階段にある窓って、お隣の佐伯さんの家が良く見えるじゃない?」
「そうだな」
佐伯さんとは、サヤ達が居なくなった後で、代わりに引っ越してきた三十代の夫婦の事だ。
「それであの時、ふと窓を覗いてみたらなんと、佐伯さんが奥さんとは別の女の人とキスしているのを見たのよ」
「ええ!? ま、マジで?」
思わず声を張り上げてしまう程の衝撃。
もし母の言っていることが事実なら、それは要するに不倫……。
「マジ○ガーよ。あの後、本人に直接訊いて確かめたもの。相手は同じ職場の同僚ですって」
「えぇ……」
母が最初に発したよくわからない単語は無視して、確かにいきなりそんな場面を目撃してしまったら、階段踏み外してしまうのも無理はないかもしれない。
それで死ぬ羽目になったら元も子もないけど。
「まったく奥さんを裏切ったうえに私にまで怪我を負わせるなんて、とんでもないお隣さんよね」
「いやその二つを同列に語るのはどうなんだ……」
間接的な原因を作ったとは言え、怪我をしたことは半分は自分の責任だろう。
対する奥さんの方は事件の当事者だ。
「それで、そのことは奥さんに話したのか?」
「アンタ帰ってきてから佐伯さんを見かけた?」
「いや……」
「じゃあ奥さんに追い出されたのかもね。もう顔も見たくないとか言ってたから」
……その内またお隣さんが引っ越すかもしれないな。
まあ夫婦のいざこざなんて他人が口出す問題でもないし、この件はこれ以上関知しないでおこう。
「なあこの話はここまでにしようぜ。そろそろサヤとビデオチャットする約束の時間だし、俺は部屋に戻るぞ」
静岡でのライブを終えたマジカル・セプテットは、引き続き中部地方を回っており、昨日、サヤと電話して、母の容態やこちらの状況を説明した後で、今日この時間帯にチャットをする約束を交わしていた。
サヤに母の容態を説明する時は「母さんなら大丈夫だよ。自分でココアも入れられないくらい元気だから。代わりにお隣の夫婦が大丈夫じゃなくなったけど……」って言えばいいかな。
サヤが帰ってきた時、もしも夫婦が離婚していたら、どんな反応を示すだろう。
「ああ水輝。行く前にちょっとアンタに渡したいものがあるからこっちに来て」
カップをシンクに置いて部屋に戻ろうとしたら、母が俺を呼び止めた。
「渡したいものって何だよ?」
「ホラ、これよ」
そう言って母はズボンのポケットから、手のひらサイズの小さな箱を取り出した。
一瞬、何の箱なのかわからなかったが、が蓋を開けて中身を見せた途端、俺は飛び上がりそうなほど驚いた。
「え……」
それはダイヤとサファイアをあしらった、とても綺麗な指輪だった。
もしただのアクセサリーのプレゼントだったらこれほど驚愕しなかっただろうが、その指輪の意味するところは一つしかない。
「ええっ!? オイオイ待ってくれよ母さん! いくら父さんが亡くなったからって俺達は親子なんだぞ!」
「何アホな勘違いしてんのよアンタは。んなワケないでしょう」
「は?」
母の一声で少し冷静になった俺は、とんでもない誤解をしてしまっている事に気づいた。
あまりに突然の出来事に、ラブコメとしては前代未聞の実母エンドとかだったらどうしよう……などと考えてしまったが、普通に考えてあり得なかった。
しかし、だとすればその指輪は……。
「これはアンタがサヤちゃんに渡す為の指輪よ」
「いやいや、それはそれで待ってくれよ。第一、俺はまだ結婚出来ないんだし、そういうのはまだ早すぎるだろう」
「別に今渡すんじゃないわよ。いつかその日が来た時の為にこれを持っておきなさいって言ってんの」
なるほど、少し気が早い感は否めないが、母の言い分は頷ける部分もある。
将来の為にあらかじめ用意しておくのは、それほどおかしな事ではないかもしれない。
「でも本当に貰っていいのか? その指輪って物凄く高価なものだろ?」
「まあね。私がお父さんから貰ったものだけど、軽く八十万はしたわね」
「へー……」
この歳でそんな大切なものを貰い受けるなんて、失くしたらどうしよう……。
死んだ父さんが買ったもので自分もプロポーズするなんて、言葉では言い表せないような感慨深さがある。
「これはお父さんからのプレゼントで一番嬉しかったものだから、いつかアンタが結婚する時はこれを使って欲しいの。勿論、お古が嫌なら色々とリメイクしていいわよ」
「いや、嫌じゃないよ。何というか……その、俺なんかが本当にいいのかって思って……」
「いい水輝? よく聞きなさい」
真剣な眼差しで語る母の姿は、いつもの能天気さは欠片もなかった。
「幸せってのは自分で掴み取るものなのよ。そして掴んだら……絶対に放さないようにしなさい」
……私みたいにね。
言葉には出さなかったが、母の表情はそう語っているようで、俺は言葉に詰まった。
「……ありがとう母さん。この恩は一生忘れないよ」
「んじゃ、お礼ってことで冷蔵庫からプリンを――」
「あーはいはい、しゃーねえなあ、わかったよ!」
まったく世話の焼ける親だな……。




