冬の紫野
──茜さす紫野ゆき標野ゆき
野守は見ずや君が袖振る──
かつて、このように詠まれた近江国蒲生野。日野はその恋歌の地にある。
冬姫が忠三郎に連れられて、日野にやってきたのはその年の内だった。既に暮れ。
岐阜から日野までの道中、馬上の忠三郎はずっと冬姫の輿の横にぴたりと付き従っていた。時々休憩しては、その都度姫の身を気遣う。
何度目の休憩だろう。すでに蒲生野に入った頃、忠三郎が見晴らしのよい丘に、冬姫を連れ出した。
雪が薄ら積もっていた。向こうに見事な桜の大木が立っている。
「お寒くありませんか?」
隣に立って、忠三郎は冬姫の様子を窺う。姫の爪は桜色をしていた。そんなに寒くもないのだろう。
「綺麗」
姫は雪かぶる桜木に目を細めている。
「あの桜は毎年とても見事に咲きますよ。花の色がとても濃くて、青空によく映えるのです。姫様にもお見せしたい。早く花の季節にならないかなあ」
彼は毎年、この桜の花を見に来るという。
「忠三郎様は桜の花がお好きなのですね」
「ええ、とても。この桜花を冬姫様にも見せて差し上げたい」
「花を見るの、楽しみ。でも、今の姿もとても綺麗」
ふわりとした雪が載っているのは、その桜木だけではない。紫野の丘は今は紫草の姿も見えず、一面真っ白だ。
この世界の全てが白い。汚れのない清らかな景色。冬姫はその中で、瞳を輝かせた。
「桜木だけでない、皆きれい。まるで評議したように」
「評議?」
忠三郎が首を傾げると、姫は真顔で言った。
「桜は花を愛でる人はいても、葉桜を愛でる人がいますか?」
忠三郎は少し考えてから、
「……いいや」
と答えた。冬姫は頷く。
「牡丹なんて。花の季節以外にその存在を意識する人がいます?」
「まずいないでしょうね」
「藤は花を見ず、実の方に注目する人がいますか?」
「そんな人がいるでしょうか?」
「楓は青葉を愛で、赤く色づいたのを気にとめない人は?」
「普通は青葉は気にとめず、紅葉を愛でるものかと」
「つまり、人間はそれぞれの木を、一つの季節しか見ません。特に冬は完全に無視します。寒い中、冬こそ最も頑張っているのでしょうに。でも、雪景色はどうでしょう?雪が積もって木々を飾れば、私達はそのいかなる季節よりも美しくなった木を愛でます。雪景色は皆大好き」
「ほお。なるほど、それで木々は、一番頑張っているところを見せてやろうと評議して、雪を呼んだわけですか」
忠三郎は微笑んだ。冬姫が話す時はその瞳や口元を凝視し続けているが、自分が話す時も彼女の眼を見ている。
「冬姫様、御身の名にこそ相応しい」
美しい雪。全てのものを美しくしてしまう雪。厳しい季節に堪え、美しく背筋を伸ばす桜木を従える冬の姫君。
雪の中で輝く冬姫の清らなる姿に、彼は感動した。
「私が辛酉の生まれなので、辛酉の年は人の心、冬になるとて、冬と名付けられたに過ぎません」
見つめ続けられて、目の合わない瞬間がないことに堪えられなくなったのか、恥じらいか、冬姫は目を伏せた。
二人が三千人の花嫁行列のもとへ戻ると、何だか蒲生家の郎従に殺気立ったものというか、一種の緊張のようなものを感じた。道中それはずっと続いたが、日野に着くとすっと消えた。
日野の蒲生氏の居城は中野城である。この城と城下町は忠三郎の祖父・快幹軒定秀が築いた。
冬姫は町の賑わいに驚いた。岐阜ほど大きくはないが、かなり裕福な商業都市なのである。
築いた時から楽市令を布き、漆器の日野椀、鉄砲の日野筒作りをしているためで、城下には人が集まり、活気に満ちているのだ。
その民達が、冬姫の豪奢な行列をやんやと迎える。皆歓喜に溢れ、忠三郎の帰還を喜び、冬姫を歓迎していた。
この南近江を昨年まで守護として治めていた六角氏の時代には、その関所の数たるや異常で、人々は道をほんのちょっと進む度に、関所に捕まり、通行料を支払わされた。
しかし、信長がこれを全て撤廃し、今は自由に往来できる。商人の行き来も自由になり、他国へも移動できるようになった。
民は信長の支配を歓迎している。その実の娘を、人質に出された当地の若君が嫁にして帰って来たのだから。民は冬姫の行列を喜んだ。
その喧噪を抜け、中野城に到着する。快幹軒が一族郎党従え、城門に立って出迎えていた。
三千人もの行列。しかも絢爛豪華。いかに裕福な蒲生家とはいえ、京に近く、名門・六角氏に仕えていたとはいえ、こんなに豪勢なものを目にしたのは初めてだ。
家臣達はその中央に堂々としている忠三郎に目を見張り、次いで輿から降り立った冬姫の幼さと愛らしさ、優れた器量に驚いた。
これほど可愛い容姿の少女は誰もまだ見たことがない。めったにいない美少女である。
快幹軒も冬姫を一目見て、
「これは参った」
と呟いた。
北近江の浅井家とは、六角家は長年関わりがあり、蒲生家も常に浅井家の情報は知る必要があった。近年は何度も戦っており、何かあればすぐに六角家中に介入、領内に侵攻してくる浅井家である。浅井家の情報は全て詳細に得ている。その浅井家に嫁いだのが信長の妹で、日本一の美女だということも当然知っている。
そして、この冬姫。織田家は随分人物を揃えているものだ。
快幹軒は一瞬の驚きの後には優しげな笑顔を冬姫に向けた。
「みどもは昔、尾張にいたことがあるんですよ」
そして、二言三言、尾張言葉を喋ってみせた。
その表情に、冬姫の乳母人に付けられた加藤次兵衛は、織田家から来た者らしく警戒した。やがて、冬姫が与えられた居室に入ると、くれぐれも蒲生家には注意するようにと声をひそめた。
「姫様が道中お感じになった蒲生家の郎党どもの殺気は、甲賀山中に潜んでいる六角承禎を警戒してのものでしょう。再起を狙っている六角が、織田家の姫様を襲わないとも限りません。ですが、蒲生家はその六角の家臣だったのです。快幹軒様などは、承禎の父と共に六角の全盛を築き上げ、幕府を支えたのですから。長年仕えた六角が、なおその辺をちょろちょろしている。いかに姫様を賜ったとはいえ、昨日今日俄かに仕えはじめた織田家と六角家とでは──」
「六角家の方に心が傾くかもしれないと言うのですか?」
信長に蹴散らされ、本拠地を追われた六角氏が、再起するため山中で着々と準備している。もとの家臣達に再び仕えるよう要請してくるはずで、旧臣達がそれに従えば、南近江は信長の手からすり抜けてしまう。
それを防ぐためにも、冬姫が日野にどっしり構え、六角家旧臣はじめ近江の諸氏を、織田家に繋ぎとめておかなければならないのだ。
冬姫は忙しなく荷解きをしている阿ろくを見やった。彼女は冬姫付きの侍女となり、岐阜からつき従ってきている。
今のところ、蒲生家に六角家との接点があるようには思えない。岐阜城で忠三郎に井口殿から文が届いたが、それは井口殿付きの侍女と斎藤家の侍女との関係によるものである。蒲生家は無関係だ。
それに、蒲生家は冬姫を主君として丁重に扱っている。
「さ、そこは態度だけではわかりませぬ。野望がある者ほどそれを秘し、かえって下手に出るものです。快幹軒様が姫様を大事にすればするほど、怪しいともいえまする。何しろ──」
次兵衛は幼い冬姫をしっかり教育するつもりで述べてゆく。
「先程、快幹軒様が尾張にいたと申されましたが、あれは本家乗っ取りに関わることにございます。当蒲生家は本家ではございませんでした。本家を乗っ取ろうと、おそらく野心丸見えだったのでしょう。若き日の快幹軒様は本家に睨まれ、当地にいられなくなり、尾張に逃げた。結局、本家を毒殺して、当蒲生家が本家を継いだわけですが」
野望を秘する必要性は、快幹軒が身をもって知ったことであろう。次兵衛はさらに続ける。
「それに、小倉家のこともございますからな。なかなか小狡い家にございまする」
信長の側室・小倉殿(お鍋の方)の家のことである。
小倉家は六角家に仕える家であった。岐阜では井口殿から小倉殿にも文が届いていた。
その小倉家は、本家と分家で争いが絶えなかった。快幹軒は小倉本家を強奪した上で、息子の実隆を養子に入れていた。だが、実隆は分家との戦で討ち死にしている。蒲生家は実隆が死ぬと、逆に分家を討ち果たしていた。
単純に本家と分家の争いではなく、分家は分家どうしでも戦をしている。小倉殿はこの一連の内訌で夫を失い、子を蒲生家に奪われた。彼女は蒲生家を信長に訴え、助けを求め、それがきっかけで、最近、信長の新しい側室になったのである。
蒲生家は信長に降伏した折、小倉殿の子を返還している。信長はそのこともあって、蒲生家の狡さは見抜いているはずだ。そう次兵衛は言うのだ。
「臣従したと見せて、本心が見えない。何を企むかわかりませぬ」
だが、冬姫は次兵衛に釘をさした。
「それならば、こちらは疑っているような素振りは、少しも見せては駄目ですよ。次兵衛は、生まれた時から蒲生家に仕えていた者のようになって下さい」
次兵衛ははっと冬姫を見て、すぐに平伏した。話を聞いていた阿ろくも、感服した様子で頭を下げていた。




