紫に匂へる
「姫、この父はどうしても、忠三郎を息子に欲しい。忠三郎をしっかりつかまえておいてくれよ」
祝言の前日はあっという間に訪れた。
その日、信長は冬姫の部屋を訪ねると、色々と細かい指図はせず、ただそれだけ言ったのだが、冬姫はどう理解したのだろう。
「父上はご自分のお志を、忠三郎様に継がせたいとお考えなのですか?」
「そうだ」
信長が頷く。冬姫は自分の判断は間違っていなかったと思った。忠三郎を守ったのは正しかったのだと──。
信長が忠三郎に冬姫を与えるのは、色々理由がある。蒲生家云々もあるが、忠三郎という童を気に入ったからというのが何より大きい。そして、単純に、娘の父として、忠三郎ならば娘を大事にしてくれそうだという算段もある。
側室などは持ちそうにない。何しろ、女でさえ一人の夫に仕えるのに、男ばかりが一人の妻に満足できず、幾人もの側室を置くのは情けないと思っている変わり者だ。同じ人間である女が堪えられることを、男には堪えられないなど、忠三郎には許せないに違いない。
世の中には、生涯不犯で過ごせる人間もいるのだから、ただ一人の妻しか持たぬことくらい、何てことはない。そう考えていそうだ。
武家が側室を置くのは、単なる男の多情と我が儘ばかりが理由ではないが、忠三郎は、正室に子が生まれなければ、養子をもらえばすむという考え方らしい。
そもそも蒲生家にさほどな執着、拘りが感じられない。幕紋を変えることも厭わないし、特に抵抗なく改姓もしそうだ。それらを寄越せと言われれば、いくらでも授けそうだし、他家に行けと言われたら、躊躇いなく行きそうだ。そもそも、蒲生家が断絶したとしても構わないくらいなのではあるまいか。
だから、妻が子を産まなければ、実子に恵まれるまで幾人でも側妾を持つなどということは、ないだろう。
そんな忠三郎だからこそ、信長は娘を託したい。
冬姫はただひたすら忠三郎に愛されればよいのだ。信長は多くを語らなかった。
そうしている間に、濃姫もやって来た。
濃姫は例の螺鈿の箱を両手に捧げ持っていた。冬姫の前に置き、蓋を開けると、信長の隣に座った。そして、そこから中の紫草染めの麻布を眺めやった。
「これは以前言うた通り、近江の麻布、蒲生野の紫草染めじゃ。日野に嫁ぐそなたに伴われ、この布も故郷に行きたいと思うているであろうな」
ため息をつきながら、濃姫は、けれどと。
「これはそなたが使っていたそなたの物ゆえ、そなたが持っているべきであろう。されど、手放し難くてのう。祝言が決まってから、しきりにそなたの赤子の頃のことが思い出されて。今後は離れて暮らすことになるゆえ、すまぬが、これはそなたの代わりにこのままここに置いておいても良いか?そなたと思うて傍に置いておきたい。父上も同じくお思いじゃ」
傍らで信長は表情を動かさないが、かすかに頷いていた。
冬姫は昨年それを見せられるまで、その存在すら知らずにいた布である。もとより執着などない。何でもないような顔で、はいと返事した。
「ありがとう。いずれ渡す」
いずれとはいつだろうかと、今回以外に適した時などありはするまいにと、濃姫は苦笑した。
明日は祝言。信長と濃姫は万感の思いで冬姫を見つめていた。
翌日。いよいよ祝言となった。
祝言は岐阜城内で盛大に行われた。信長の手元で我が子の祝言を挙げさせるのは初めてである。先に徳川家に嫁いだ五徳姫、神戸家の養子となった三七丸、また、嫁いでいった養女達は皆、婚家で式を挙げた。
信長は姫を嫁がせたいというより、結婚式がしたいのではないか。出席した木下藤吉郎秀吉が首を傾げたほどの豪華な宴だった。それに、嫁に出すのに実家で祝言とは。忠三郎が人質だからとはいえ、まるで婿とり婚である。
宴には織田一門は勿論、家臣達も招かれ、蒲生家からも賢秀や重臣が出席している。
信長は終始上機嫌で、普段は飲まない酒を珍しく口にしていた。
夜も更けると、皆酔い乱れ、陽気に舞い遊ぶ者や寝てしまう者もいた。信長は一切咎めず、気狂い水で人の変わった家臣達の様子を、にやりと観察している。
口忠実な稲葉一鉄などは、花婿の父の隣に座り込み、忠三郎の岐阜での一年余の生活を語って聞かせていた。
「いや誠に立派なご子息です。それがし、あのような子は見たことがありません。将来が楽しみです」
自分の長すぎる武辺話を一心に聞いていたとか、鋭い質問をされて窮したとか、しまいには昼間会っても追い回されて質問攻めにされて降参したと、随分長いこと喋っている。対照的に、賢秀ははにかみながら、ずっとそのよく回る舌に耳を傾けていた。
肝心の花嫁花婿は、まだ子供だというのに、酔いつぶれた大人達を前にじっと座っていた。冬姫は緊張した様子で、まるで我慢競べのように、何も言わずに座り続けている。横目にちらと見て、忠三郎はそんな彼女を案じたが、忠三郎は忠三郎でけっこう大変なのだ。
酒を注ぎにやって来る者があとを絶たない。大概織田家の家臣達だが、祝いを述べては忠三郎の杯に酒を満たしていく。
若い身で、ろくに酒など口にしたこともないのに。失態は絶対できない。
だが、前田利家や柴田勝家などは何度もやって来ては、気遣いもなく注いで、喋って行く。ようやく二人が去ってほっとしたのも束の間、今度は藤吉郎がいざり寄ってきた。
藤吉郎も今では立派な家臣だ。信長から京方面の守りを任され、頼りにされている。
しかし、藤吉郎の百姓の根は抜けていないのか、花嫁を前に額を床にこすりつけ、慇懃に過ぎるひれ伏し方をした。だが、丁寧な祝いの言葉の後に上げた面相は、いつも通りの人懐こい笑顔である。
「いやあ、お屋形様の直感は見事に大当たりでございました、忠殿」
藤吉郎は忠三郎を馴れ馴れしく忠殿と呼び、冬姫と彼とを交互に見やる。
「忠殿が初めて御前にご挨拶に参られた折、お屋形様は忠殿の目をご覧になって、驚かれたそうです。その瞬間、婿にと閃かれたとか。何でも忠殿の目が重瞳に見えたと。重瞳といえば虞舜でしょう。なるほどお屋形様は帝堯にござれば、堯が舜に娘を与えて婿とし、やがて禅譲して帝位を継がせたことをとっさに思い出されたのだとか。その後、忠殿をお側に置いて様子をご覧になるに、いよいよまことに婿にしたいと思われるようになったと。初対面での直感は正しかったのです」
忠三郎は初めて聞く話なので驚いた。傍らで聞いていた冬姫も驚いたが、途中で得心したように頷いた。
以前、藤吉郎が冬姫に重瞳をどう思うかと尋ねたことがあった。姫の婿が重瞳だったら嬉しいですかと訊かれて、何故そんなことを訊くのかと首を捻ったものだが。理由はこれだったのか。
「忠殿、わしからの一献もお受け下されましょうや?」
「戴きまする」
忠三郎が応じると、藤吉郎は瓶子を手にする。そっと杯に注ぐその六指が、冬姫の目の隅に映った。
忠三郎が杯をすっと口に運び込む。それを横目に、藤吉郎は冬姫に言った。
「姫様は覚えておられましょうや?昔、まだお市御寮人様も嫁がれずにおられた頃、姫様が異形は王者の証であると仰せられましたことを」
その言葉の間に飲み干した忠三郎が、目を上げて藤吉郎を見た。
「わしの指をお褒め下さいました。わしはそのことを、一日たりとも忘れたことはござりませぬ」
忠三郎が妙な顔をする。冬姫に視線を移せば、姫にはそんな記憶はないのか、やや首を傾げ気味にしていた。
「だから、お婿様が異形だったら嬉しいかとお尋ねになったのですか?」
花嫁姿の冬姫が、口をかすかに動かして、小さな声でおっとり訊いた。まだ少女の彼女だが、化粧のためか今夜は大人びて、色香が閃く時もある。
藤吉郎は無遠慮にじっと姫を見つめて。
「わしは、姫様のお言葉を支えに、今日まで励んで参りました」
と、ここまで言うと、忠三郎の表情を気配から察したか、急に顔じゅうしわしわにして笑った。
「おかげで、ここまで出世できました。これも姫様のお言葉のおかげですわい。おかかにも、姫様に感謝するよう言うておりますので。まことに有難うございます」
本当に人のよさそうな笑顔である。しかし、忠三郎の耳は、藤吉郎の本当に微かな呟きを聞き逃さなかった。
──姫様は重瞳を嫌っておられた。虞姫の四面楚歌の死を嘆かれて──
藤吉郎がほくそ笑んでいるように見えてならなかった。
『平家物語』にいう。高倉天皇は大変親孝行であったと。父はかの日本一の大天狗と呼ばれた程の後白河法皇であったが、それでも、その父院が政変によって鳥羽殿に幽閉された時には、高倉天皇は譲位して出家してしまおうかと悩み惑ったという。
「百行の中には、孝行をもつて先とす。明王は孝をもつて天下を治むといへり。されば唐堯は老い衰へたる母をたつとび、虞舜はかたくななる父をうやまふとみえたり。彼賢王聖主の先規を追はせましましけむ、叡慮の程こそ目出たけれ。」
虞舜もまた、極悪の父であっても、孝行を尽くした。
舜の父、継母、義弟は何度も舜を殺そうとしたが、舜はそれでも父に仕えて尽くした。帝堯は娥皇女英を与え、舜は勤勉に働き、その実りで父母を支えた。帝堯、ついに舜に禅譲して、舜は王位を継いだ。
王となった帝舜、その聖君の証ともいえる重瞳のために、名を重華という。有虞氏。




