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そこにあるはずだ、と思った瞬間、
もうそれしか頭にありませんでした。
体は動かない。
声も出ない。
でも、指先だけでもいいから少しでも動いてくれたら。
あれに触れられる前に、何かひとつでも現実のものを掴めたら。
そんなことを、必死に考えていた気がします。
私は目だけで位置を確かめながら、
意識を右手に集中させました。
動け、と思いました。
お願いだから、動いて、と。
女の手は、まだゆっくりと肩へ近づいてきていました。
あと少しで触れられる。
その距離がわかるのに、避けられない。
あまりの恐怖で、頭の中だけが妙に冷えていく気がしました。
そのとき右手の指先に、ほんのわずかに力が入ったんです。気のせいかもしれないくらいの、小さな感覚でした。
でも、それだけで十分でした。
私はそこにすべてをかけるみたいに、
指先から腕へ、無理やり力を通そうとしました。
重い。
信じられないくらい重い。
水の底で体を動かそうとしているみたいに、
何かに押さえつけられながら、それでも少しずつ、右手をベッドの端へずらしていきました。
視界の端で、女の指先が見えていました。
もうすぐそこまで来ていました。
肩に触れられる、と思った瞬間、
私はほとんど投げるみたいに右手を伸ばしました。
指先が、スマホの角に触れました。
その感触だけは、今でもはっきり覚えています。
冷たくて、硬くて、確かにそこにある現実の感触でした。
私はそのまま、落としそうになりながらも無理やりスマホを掴みました。
その瞬間。
息が、一気に肺へ流れ込みました。
体が跳ねるみたいに動いて、
喉の奥で止まっていた空気が、ようやく音になって吐き出されました。
私はほとんど反射で上半身を起こしていました。
心臓が、壊れそうなくらい速く鳴っていました。
肩を押さえながら、何度も荒く息を吸って、
それから、部屋の中を見回しました。
何もいませんでした。
足元にも。
床にも。
ベッドの上にも。
あの女の姿は、どこにもありませんでした。
部屋は昼のままで、
カーテンの隙間から差し込む光も、
置きっぱなしの鞄も、積んだままの雑誌も、
何ひとつ変わっていませんでした。
本当に、何もなかったみたいに。
今度はちゃんと体が動くのに、
さっきまでの感覚があまりにも生々しくて、私はしばらくその場から動けませんでした。
スマホは、強く握りすぎていたのか、手のひらにうっすら跡がついていました。
画面を見る余裕なんてなかったのに、それを握っていることだけが、自分がまだ現実の中にいる証拠みたいに思えました。
しばらくして、ようやく呼吸が落ち着いてきた頃。
ふと、右肩に違和感があることに気づきました。
何かが触れたような、
皮膚の表面だけが妙に冷たいような、
そんな気持ち悪い感覚でした。
私は恐る恐る、肩に手をやりました。
そこには、何もありませんでした。
けれど、鏡で見た右肩には、
指で掴まれたみたいな、薄い跡が残っていました。
もちろん、それが本当にあのときのものだったのかはわかりません。
寝ている間にどこかにぶつけただけかもしれないし、
寝具の跡がたまたまそう見えただけだったのかもしれません。
今でも、あれが夢だったのか、金縛りだったのか、
本当のところはわかっていません。
ただ、あれ以来。
眠りから覚めた直後、
まだ体がうまく動かないようなあの数秒だけは、
どうしても部屋の端を見られなくなりました。
もしまた、あのときみたいに、
目を動かした先に何かがいたらと思うと――
今でも、怖くてたまりません。
お読みいただき、ありがとうございました。
またどこかの夢の中で。




