目を動かした先
少しでも、夢のような不穏さが残れば嬉しいです。
これは、数年前に私が体験した話です。
あれが夢だったのか、金縛りだったのか、
今でもよくわかっていません。
ただ、あのとき目を動かした先にいたものだけは、
今でも忘れられません。
その日は昼食をとったあと、少しだけ横になるつもりでした。
外は明るく、カーテンの隙間から差し込む光が、部屋の床に細く伸びていたのを覚えています。
ほんの少し眠るだけのつもりだったと思います。
夜みたいな深い眠気ではなくて、ただ、まぶたが重くて、気づけばそのまま意識が沈んでいました。
どれくらい眠っていたのかはわかりません。
ふと目が覚めたとき、最初に思ったのは、
まだ明るいな、というどうでもいいことでした。
ぼんやりと天井を見つめながら、体を起こそうとしたんです。
でも、動きませんでした。
最初は、寝ぼけているだけだと思いました。
腕に力を入れたつもりなのに、指先ひとつ動いた感覚がない。
足も、肩も、首も、まるで布団に縫いつけられたみたいに重くて、自分のものじゃないみたいでした。
息はできていました。
苦しいわけではないのに、なぜか胸のあたりだけが妙に重たくて、呼吸が浅くなっていました。
声を出そうともしました。
けれど、喉の奥がひりつくように震えるだけで、音にはなりませんでした。
そのときになって、ようやくおかしいと思いました。
でも、不思議と「金縛りだ」とは思わなかったんです。
そういう知識はあったはずなのに、そのときの私はただ、
なんで動けないんだろう
としか考えられませんでした。
しばらく天井を見たまま、何度も体に力を入れようとしていたと思います。
そのうち、ふと気づきました。
体は動かないのに、
目だけは動かせることに。
それに気づいた瞬間、どうしてかわからないのですが、
急に嫌な感じがしました。
このまま天井だけ見ていた方がいい。
どこも見ない方がいい。
そんな考えが、理由もなく頭に浮かんだんです。
なのに、人の目って変なもので。
見ない方がいいと思えば思うほど、逆に気になってしまうんですよね。
視線だけを、ほんの少し横にずらしました。
部屋の端が、ぼやけたまま視界に入ります。
見慣れた壁。
床に置きっぱなしにしていた鞄。
その隣に積んであった雑誌。
そこまでは、いつもの部屋でした。
けれど、そのさらに奥。
ベッドの足元のあたりに、何か黒いものがあることに気づきました。
最初は、服か何かだと思いました。
脱ぎっぱなしにしていた上着か、床に落ちていた毛布の端か、そんなものだと。
でも、それにしては形が変でした。
黒い、というより、
そこだけ光が届かないみたいに、輪郭がぼやけて見えました。
それが何なのか確かめたくなくて、
私は一度、無理やり視線を天井へ戻しました。
心臓が、さっきまでとは違う速さで鳴っていました。
見間違いかもしれない。
寝ぼけていただけかもしれない。
そう思おうとしたのに、次の瞬間にはまた、
どうしても気になって、視線を足元の方へ動かしてしまっていました。
今度は、さっきよりも少しだけはっきり見えました。
それは、女でした。
髪が長くて、顔はうつむいていて、
床に手をつくような、不自然に低い姿勢でそこにいました。
人がいるはずのない場所に、
人の形をしたものがいる。
それだけで十分おかしいのに、
そのとき私がいちばん怖かったのは、
それがまるで、最初からそこにいたみたいに自然だったことです。
悲鳴を上げたかったのに、声は出ませんでした。
ただ、見てはいけないものを見てしまったという感覚だけが、遅れてじわじわと全身に広がっていきました。
そして、次に目を動かしたとき。
その女は、
さっきより少しだけ、こちらに近づいていました。




