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あの時間をもう一度  作者: ゆうき
第三章 これからのこと

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白き花の約束


 学院長室を出ると、廊下には昼下がりの柔らかな陽射しが差し込んでいた。


 磨き上げられた床には窓枠の影が規則正しく並び、遠くからは講義を知らせる鐘の余韻と、生徒たちの賑やかな話し声が風に乗って聞こえてくる。


「こちらです。」


 学院職員の女性が穏やかに微笑み、ゆうきを先導した。


「一年生の教室は少し離れています。歩きながら学院の案内もいたしますね。」


「お願いします。」


 ゆうきは一度だけ後ろを振り返る。


 閉じられた学院長室の扉。


 アムはまだ中に残っている。


「終わったら迎えに行く。」


 別れ際にそう言っていた姿を思い出し、小さく笑みを浮かべた。


 それだけで、不思議と緊張が和らぐ。


 職員は歩調を合わせるように少しゆっくり歩き始めた。


「アルバフローラ魔法学院は、座学だけではなく実技も重視しています。講義棟のほかにも演習場や図書館、錬金工房など、多くの施設があります。」


 ゆうきは話を聞きながら廊下の窓へ目を向けた。


 中庭では何人もの生徒が魔法の練習をしている。


 火球を浮かべる者。


 風で的を狙う者。


 魔法陣を何度も描き直している者。


 失敗して頭から水をかぶり、友人たちに笑われている少年までいた。


 どこを見ても、生徒たちは楽しそうだった。


 誰かが教え、誰かが笑い、誰かが失敗する。


 そんな当たり前の景色が、この学院には溢れている。


「すごいな……。」


 思わず漏れた声に、職員が微笑んだ。


「初めて来られた方は、皆さんそうおっしゃいます。」


 ゆうきは足を止めず、その光景を目に焼き付ける。


 強くなるためだけじゃない。


 知るために学び、支え合うためにここへ来た。


 その選択は間違っていなかったと、まだ一日も経っていないのに感じ始めていた。


 やがて二人の姿が角を曲がり、学院長室のある棟から見えなくなる。


     ◇


 廊下へ遠ざかる足音が完全に聞こえなくなった頃。


 学院長室では、小さく息をついたリリィが椅子から立ち上がった。


「さて。」


 ふわり、と魔力が揺れる。


 次の瞬間、学院長らしい威厳をまとっていた大人の女性の姿は淡い光へ溶け、小柄な少女の姿へ戻っていた。


 長い耳。


 幼い顔立ち。


 百年以上前とほとんど変わらない、小さなハイエルフ。


「やっぱりこっちの方が楽じゃの。」


 肩を回しながら呟く姿に、アムが思わず笑う。


「お疲れさま。」


「毎日あの姿でおるのも、なかなか疲れるんじゃ。」


「でも似合ってるよ。」


「そう言われると悪い気はせんの。」


 リリィは照れ隠しのように笑い、棚から二つのグラスを取り出した。


「酒でも飲むかの。」


「昼間から?」


「学園長室じゃ。誰も文句は言わん。」


「……ハハ。」


 アムは肩をすくめる。


「じゃあ一杯だけ。」


「その言葉、信用しておらん。」


「失礼だなぁ。」


 言いながら収納魔法から新たに一本の酒瓶を取り出す。


 先ほど渡した百年熟成の酒と同じものだった。


「せっかくだし、一緒に飲もう。」


 リリィの目が輝く。


「やはりおぬしは最高の飲み友達じゃ。」


「酒だけ目の色変わるよね。」


「気のせいじゃ。」


 即答だった。


 二人は笑い合いながらグラスへ酒を注ぐ。


 琥珀色の液体がゆっくり揺れ、ほのかな香りが部屋へ広がった。


「乾杯。」


「うむ。」


 小さくグラスを合わせる。


 静かな音が学院長室へ響いた。


 一口含むと、リリィは幸せそうに目を細める。


「……うまいのう。」


「気に入った?」


「これを嫌う者はおらんじゃろ。」


 アムはくすりと笑い、窓際へ歩いた。


 中庭では、生徒たちが次の講義へ向かって歩いている。


 風に揺れる木々。


 白い花壇。


 遠くから聞こえる笑い声。


 その景色を眺めているうちに、自然と口が開いた。


「いい学院になったね。」


 リリィも同じ景色へ目を向ける。


「長かったからの。」


「うん。」


「本当に、長かった。」


 その一言には何百年という時間が込められていた。


 アムは窓の外を見つめたまま、小さく呟く。


「……無理言って、ごめんね。」


 リリィは首を横へ振る。


「おぬしが謝ることではない。」


「でも。」


「姫様に頼まれたんじゃ。」


 その呼び方は、昔から一度も変わらない。


 王国は滅び、世界は移り変わり、グレイは『白銀の真祖』として恐れられる存在になった今でも。


 リリィにとっては、あの日命を救ってくれた王国のお姫様のままだった。


「『先に行って、俺たちの分まで安全な場所を取っておいてくれ』……。」


 静かな声が部屋へ溶ける。


「わしは、あの約束を果たしたかっただけじゃ。」


 アムは何も返さない。


 返す言葉を探しているわけではなかった。


 そんな必要がないくらい、お互いに分かっている。


「最初は小さな学び舎じゃった。」


 リリィは懐かしそうに笑う。


「魔法を学びたい子を数人集めて始めただけじゃったが、少しずつ人が増えての。」


 窓の向こうへ視線を送る。


「気付けば、こんなに大きくなっておった。」


 中庭で笑う生徒たち。


 魔法を教え合う教師。


 木陰で本を読む少女。


 学院そのものが、約束の続きを歩いているようだった。


「姫様がきても。」


 リリィは穏やかに笑う。


「『悪くない場所だな』と言ってもらえるように、ずっと続けてきた。」


 アムはその横顔を見つめ、小さく笑みを浮かべる。


「レイなら、きっとそう言うよ。」


「そうかの。」


「うん。」


 しばらく静かな時間が流れた。


 酒の香りと、窓から吹き込む風。


 どちらも心地よかった。


「そういえば。」


 リリィが思い出したように尋ねる。


「姫様には最近会ったんじゃろ?」


「会ってきたよ。」


 アムは嬉しそうに頷く。


「元気だった。」


 その一言に、リリィの表情が柔らかくなる。


「そうか。」


「相変わらず、お城で本ばっかり読んでた。」


「……らしいの。」


「人形のみんなとも普通に話してたし、庭の手入れもしてた。」


 思い返すように目を細める。


「昔より、少しだけ笑うようになってた。」


 リリィは安心したように息を吐いた。


 窓の外では、一枚の白い花びらが風に乗って空を舞う。


 その小さな花びらを目で追いながら、リリィは静かに呟いた。


「姫様が元気なら、それで十分じゃ。」


 グラスの中で揺れる琥珀色を眺めながら、リリィは静かに微笑んでいた。


 昔から酒は好きだった。


 珍しい一本が手に入れば誰よりも喜び、気の置けない相手と飲み交わす時間を何より大切にする。


 けれど今日の酒は、味だけではない。


 長い付き合いの友人が持ってきてくれた一本だからこそ、胸の奥まで温かく染みていく。


「うまいのう……。」


「そこまで喜んでもらえると、持ってきた甲斐があるよ。」


「この酒のためなら一日くらい仕事を休める。」


「学院長がそれ言っちゃ駄目でしょ。」


「冗談じゃ。」


 そう言いながらも、リリィはグラスをもう一度口元へ運んだ。


 アムは呆れたように笑い、窓際へ歩く。


 窓の向こうでは、午後の授業が始まったらしく、中庭にいた生徒たちの姿はほとんどなくなっていた。


 代わりに演習場の方から、魔法が炸裂する乾いた音だけが時折聞こえてくる。


 学院は静かになったわけではない。


 学ぶ場所らしい賑わいへ変わっただけだった。


「本当に、大きくなったね。」


 ぽつりと漏らした言葉へ、リリィは優しく頷く。


「気付けば数百年じゃ。」


「最初なんて机が何個か並んでるだけだったのに。」


「雨漏りもしておったしの。」


「してたね。」


 二人は同時に吹き出した。


「天井からぽたぽた落ちてきてさ。」


「本を濡らすなーって皆で桶を並べておった。」


「あの頃の先生、一人だったよね。」


「わしじゃ。」


「授業も掃除も料理も全部。」


「人手などおらんかったからの。」


 懐かしい記憶を話すたび、学院長室の空気まで少し若返るようだった。


 長命種である二人にとって、数百年前の出来事は昨日ほど近くはない。


 それでも、大切な思い出だけは驚くほど鮮明に残っている。


「途中で何回か諦めそうになった?」


 アムの問いに、リリィは少し考える。


「諦めるというより……。」


 グラスを机へ置き、ゆっくり窓の外を見る。


「不安にはなった。」


「うん。」


「本当に姫様が帰ってこられる日が来るのか。」


 風が木々を揺らす。


 葉擦れの音が静かに部屋へ届いた。


「学院を作っても意味があるのか。」


「約束を果たせるのか。」


「そう思う夜は、何度もあったの。」


 アムは何も言わない。


 その時間を想像するだけで十分だった。


 約束を胸に、一人で積み重ねてきた年月。


 誰にも理由を話せず。


 誰にも本当の目的を知られず。


 ただ前だけを向いて歩き続ける。


 それがどれほど大変だったのかは、簡単には言葉にできない。


「でも。」


 リリィは穏やかに笑う。


「姫様なら待たせても怒らんじゃろうと思っての。」


「……ハハ。」


 アムも笑みを零す。


「怒らないね。」


「『よく頑張ったな』くらいしか言わん。」


「うん。」


「だから頑張れた。」


 その言葉に飾りはなかった。


 ただ、本心だった。


 しばらく二人は景色を眺める。


 校舎の屋根。


 風に揺れる白い花。


 石畳を歩く教師。


 遠くには訓練用の塔も見える。


 どれもリリィが少しずつ増やしてきたものだった。


「そういえば。」


 アムが思い出したように振り返る。


「レイがね。」


「うむ。」


「今度時間があったら遊びに来たいって言ってた。」


 リリィの耳がぴくりと動く。


「本当かの?」


「うん。」


「学院がどう変わったか見てみたいって。」


 リリィは少しだけ視線を落とした。


 それだけで胸が熱くなる。


 何百年も前。


 瓦礫だらけの道で交わした約束。


 あの日、自分が渡した白い花。


 そして未来を託された言葉。


 そのすべてが、この学院へ繋がっている。


「来たら驚くじゃろうな。」


「多分。」


「昔の面影なんてほとんど残っておらん。」


「でも。」


 アムは窓の外を指差した。


「あそこ。」


 中庭の中心。


 一際大きな白い樹が青空へ枝を広げている。


「ちゃんと残したんだね。」


 リリィは優しく頷く。


「あれだけは切れんかった。」


 学院が増築されるたび。


 校舎を建て替えるたび。


 何度も設計を変えた。


 それでも、あの樹だけは残した。


「白い花が咲く頃は綺麗じゃぞ。」


「知ってる。」


「見たことあるか。」


「去年。」


「勝手に来おったな。」


「ばれた?」


「結界が反応したわ。」


 アムは少しだけ舌を出す。


「見回りついで。」


「酒を置いて帰っただけじゃろ。」


「それもある。」


「まったく。」


 リリィは呆れながらも笑っていた。


 アムらしい。


 何百年経っても変わらない。


 突然現れ。


 酒だけ置いて。


 またふらりと旅へ出る。


 その自由さに何度振り回されたか分からない。


「でも。」


 リリィは小さく呟く。


「おぬしが元気でおると安心する。」


 アムは少し驚いたように目を瞬かせた。


「そんな顔をするでない。」


「いや。」


 困ったように笑う。


「なんか照れる。」


「何百年の付き合いじゃ。」


「それでも照れるものは照れるよ。」


 二人は顔を見合わせる。


 そして、どちらからともなく笑い声が重なった。


 学院長室には、午後の柔らかな陽射しが静かに差し込み続けていた。


 窓から吹き込む風が、机の上に置かれた書類を一枚だけめくった。


 リリィは慌てることもなく指先で紙を押さえ、小さく息をつく。


「最近は書類ばかり増えて困るのじゃ。」


「学院長だもん。」


「昔は生徒十人くらいじゃったからの。今は教師も職員も増えて、朝から晩まで判子ばかり押しておる。」


「それでもちゃんと一枚ずつ読んでるんでしょ?」


「当然じゃ。」


 リリィは胸を張る。


「生徒が安心して学べる場所にすると決めた以上、手は抜けん。」


 その言葉に、アムは静かに微笑んだ。


 あの日から何百年。


 約束を守るという言葉だけでは、ここまでの場所は作れない。


 毎日の積み重ねがあってこそ、今のアルバフローラ魔法学院がある。


 それを誰よりも知っているのは、長い付き合いのアムだった。


「本当に頑張ったね。」


 ぽつりと漏れたその一言に、リリィは照れくさそうに鼻を掻く。


「一人では無理じゃったよ。」


「先生たち?」


「うむ。」


 リリィは窓の外へ目を向けた。


「卒業した子が教師になって戻ってきたり、『この学院で学んだから今の自分がおる』と言って協力してくれたり……。そんな積み重ねじゃ。」


 中庭を歩く教師たちの姿が見える。


 生徒に手を振る者。


 荷物を運ぶ者。


 談笑しながら演習場へ向かう者。


 その誰もが、この学院の日常を支えていた。


「最初は、わしが守る場所じゃと思っておった。」


 リリィは優しく笑う。


「じゃが気付けば、皆で守る場所になっておった。」


「それが一番いいよ。」


「そうじゃな。」


 静かな沈黙が流れる。


 言葉はなくても、心地よい時間だった。


 やがてリリィは思い出したように机の引き出しを開ける。


「そうじゃ。」


「ん?」


「これを見てみるかの。」


 取り出したのは、一冊の古びた冊子だった。


 革張りの表紙は長い年月を感じさせるものの、大切に扱われてきたことが一目で分かる。


「卒業名簿じゃ。」


「まだ残ってたんだ。」


「もちろんじゃ。」


 ぱらりとページをめくる。


 古い紙独特の香りが漂った。


 そこには、何百年にもわたる卒業生の名前が整然と記されている。


「懐かしい名前ばかり。」


 アムは指先でページをなぞる。


「あ、この子。」


「覚えておるか。」


「うん。魔法が苦手で毎日泣いてた子。」


「最後には教師になった。」


「知ってる。」


 二人は自然と笑みを浮かべた。


 またページがめくられる。


「この子は?」


「商人になった。」


「この子は?」


「冒険者じゃ。」


 一人ひとりの人生を語るリリィの声は、とても優しかった。


 名簿ではない。


 まるで家族の話をするようだった。


「みんな、それぞれの場所で頑張ってるんだね。」


「そうじゃ。」


 リリィは冊子を閉じる。


「それを見るたびに思う。」


「?」


「学院を作って良かったとな。」


 その言葉に飾りはない。


 生徒が笑い、卒業し、また誰かを育てる。


 その繰り返しが、約束の続きを紡いでいた。


「姫様が見たら、きっと喜ぶじゃろう。」


 リリィはそっと呟く。


 アムはゆっくり頷いた。


「うん。」


「レイなら絶対。」


 その返事を聞き、リリィは安心したように目を細める。


「今度来た時は、ちゃんと案内してやらんとの。」


「きっと照れるよ。」


「なぜじゃ。」


「レイ、自分が理由で作られた場所って苦手だから。」


「ああ……。」


 思い当たる節があるらしい。


 二人は同時に苦笑した。


「『オレは何もしていない』とか言いそうじゃな。」


「絶対言う。」


「困った姫様じゃ。」


「そこがレイらしい。」


 また笑い声が重なる。


 窓の外では、一羽の小鳥が白い樹の枝へ舞い降りていた。


 枝先には、小さな蕾がいくつもついている。


 花が咲く季節はまだ少し先だ。


 それでも、その樹は毎年変わらず花を咲かせる。


 何百年も。


 約束を忘れないように。


 リリィはその樹を眺めながら、小さく微笑んだ。


「姫様が安心して帰ってこられる場所。」


 誰に聞かせるでもない独り言だった。


「それだけは、これからも守っていくのじゃ。」


 その声は穏やかで、揺らぐことはなかった。


 アムは何も言わず、その横顔を見つめる。


 長い時を生きてきた友人。


 約束を胸に歩き続けたハイエルフ。


 その背中は昔よりずっと小さく見えるのに、不思議なくらい頼もしかった。


「ありがとう。」


 静かに漏れた言葉に、リリィは照れくさそうに笑う。


「今日はどうしたんじゃ。おぬしらしくないの。」


「たまにはちゃんと伝えようと思って。」


「そういうのは酒を飲みながら言われると弱い。」


「もう一本出す?」


「……誘惑するでない。」


 二人は顔を見合わせ、声を上げて笑った。


 その笑い声が落ち着いた頃、学院長室の扉が静かに叩かれる。


「学院長、失礼します。」


 職員の声だった。


「一年生のホームルームが終わりました。」


「そうか。」


 リリィは椅子から立ち上がる。


「おぬしの親友も、そろそろ学院生活の第一歩を踏み出した頃じゃな。」


 アムも立ち上がり、軽く伸びをした。


「迎えに行ってくる。」


「うむ。」


 リリィは優しく頷く。


「また酒を持って遊びに来るのじゃぞ。」


「約束。」


 アムは笑いながら学院長室を後にした。


 扉が静かに閉まる。


 部屋に一人残ったリリィは窓辺へ歩き、白い樹を見上げた。


 陽射しを受けた葉が風に揺れ、その隙間から青空がのぞいている。


「姫様。」


 自然と、その呼び名が口をついた。


「少しずつじゃが……ちゃんと約束は続いておるよ。」


 返事はない。


 けれど、吹き抜けた風が白い葉を揺らし、まるで誰かが穏やかに笑ったような気がした。

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