62.逃亡
このまま永遠の繁栄を享受し、スイを犠牲にし続けるか。
スイを救う代わりに、永遠の繁栄を手放すか。
これは、二者択一ですらない。
仮に後者を望んだとしても、俺はスイを救う方法を持っていないからだ。
諦めるのか?俺は自分自身に問いかける。
このまま諦めて、スイの犠牲を受け入れるのか。
そうすれば大学院での研究は続けられるし、親も弟も、不幸にすることはない。
カサマツやほかの機械化人間たちのように、生きるか死ぬか、病に勝つか負けるかという瀬戸際の人たちを切り捨てる必要もない。
すべての国民が貧困を知らず、無限のエネルギーを消費しながら、幸福に生きていく。
それで、本当にいいのか?
俺にとって、スイにとって、世界にとって、善いこととはなんだ?
「……」
思考は言葉にならない。時間だけが過ぎていく。
諦めそうになったそのとき——固く閉ざされた入り口の扉が突如、開かれた。
そこに立っていた人物を見て、息を呑む。
そこにいたのは、小柄な少女だった。
大きめのパーカーと細身のズボンを身に着けた、少女。
袖からのぞく細い指も、フードで覆われた小さな顔も、金属のパーツと銅の配線がむき出しになっているけれど。
その奥で輝く瞳は、翡翠の色をしていた。
「……スイ」
イズミノ陸将より先に、俺は彼女の名前を呼んだ。
その音にはっとしたように、イズミノ陸将は目の前の少女を見つめる。
「何をしている」
少し震えた声のまま。
イズミノ陸将は少し間を開けて、顔に笑顔を張り付けた。
「修理は終わったのか。すぐに現場に戻りなさい」
気を付けて行ってくるんだ。故障しないように。と、娘を案じるような言葉をかけている。
「……ゼン」
そんなイズミノ陸将のことは視界に入っていないかのように、——いや、あえて見ないようにしているのだろう。震える身体で、スイはイズミノ陸将を怖がっているのがわかる。
短く俺の名前を呼ぶと、一歩一歩、ゆっくり近づいてきた。
そんなスイの様子を見て、脳内に雪崩のように言葉が浮かぶ。
スイ、ごめん。ひどいことを言ってごめん。
スイを励ましたくて、浅はかな考えのまま、きみの犠牲を肯定してごめん。
本当はあのとき、言わなければいけなかった。どんな理由があっても、きみが虐げられて、搾取されて、犠牲になることは許せないと。
そう、真っすぐに、言わなきゃいけなかったんだ。
「ゼン。……じっとしててね」
思いは言葉にならずに、スイの両手が俺の身体に伸ばされて——そして、身体が浮き上がる感覚。
「……えっ」
気づけば俺は、まるで大きめの荷物のように、スイに抱えられていた。
そしてそのままの勢いでスイは走り出す。
「ええええ」
俺の叫びは何の意味もなく、スイは俺を抱えて部屋を出ていった。
長い廊下に出ると、スイはあっという間にトップスピードに到達した。
周りの景色は瞬く間に流れていって、目が回りそうだ。
速い。速すぎる。
いくら俺がヒョロガリと評される体格をしているとしても、それでも成人男性を一人抱えて、これはあり得ない。
そもそも、物理的におかしくないか!?
パニックになった脳みそがそんな的外れなことを思う。
かつてマリノが言っていたことが脳裏によみがえった。「スイは大の男が10人束になってかかっても倒せないくらい強いから」——強いって、単純なパワーも含まれるのかよ!
機械化人間ってこんなに凄いの!? それともスイが特別すごいのか!?
その疑問に答えてくれる人はいないし、たぶん両方とも合っている。
思考を引き裂くようなけたたましい音が鳴り響く。緊急事態を告げるサイレンの音だ。
赤色のランプが回転しながら辺りを照らして、異様な雰囲気に包まれる。
スイは全く動じる様子なく、真っすぐ走り、時折曲がり、喧騒から逃亡し続けている。
スイが階段を数段飛ばしで飛び降りるたびに、腹の中身がふわふわと浮いて、嫌な感覚がした。




