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53.雲泥


「お前、HETの真実知って、それからどうするつもりなんや」


 カサマツの静かな問い。


 スイを救うためにどうしたらいいのか。絶対的な結論はいまだに出ない。

 けれど、先送りにするわけにもいかない。


「……公表する。俺が知ったことを論文にして、世間に発表する。……こんなことは間違っていると、知らしめるんだ」


 俺の答えに、カサマツは薄く笑みを浮かべる。

 それは、嘲笑だった。


「アホか。……そんなん、ただのテロやろ。今さらそんなんバラしてどうすんねん、社会ごと崩壊するだけやん」


 カサマツの指摘はもっともだ。俺も何度も考えた。

 それでも、1億3000万の生活と、スイの解放。

 どちらかしか選べないのなら。


 俺は、それでもいいと思っている。


「あの子を救うためにはそれしかない」


「公表したところで、誰も賛同せんやろ。人間誰だって、豊かな暮らしを捨てたくないもんや」


「やってみなきゃ分からないだろう!」


 一人でも、二人でもいい。

 これに賛同してくれる人がいるのなら。

 100パーセント納得してくれなくてもいい。

 ただ、ほんの少しでも、社会の歪みが誰かの心に引っかかってくれたら。


 カサマツは呆れたように俺に言う。


「お前、本当の貧乏がどんなもんか、知ってるか?」


「……何の話だ」


「貧困を、知っているかって聞いてんねん」


 貧困。食べるものを切り詰めて、着るものも切り詰めて、住むところも切り詰めて。

 明日の暮らしがままならない経験はないが、俺だっていつも金はない。

 飛び級したのだって、学費を節約するためだ。

 じっくり勉強したいのはやまやまだが、弟たちのぶんの学費や、両親の老後資金まで使い切るわけにはいかない。


「腹減ってるのを、親に言えんかったことはあるか?」


「え……?」


 本当に、何の話だ。

 貧困まではいかなくとも、貧乏なら俺だって知っている。


 記憶にある限り、食べるものに困ったことはない。

 それでも実家では節約のために、外食は月に一度だけと決まっていた。

 その外食も、本当は焼き肉がよかったけれど、だいたいサイゼかガストだった。


「ただでさえ服も靴も小さくなってんのに、大きくなり続ける自分の身体を呪ったことは? 毎日寝る前に、伸びるな、伸びるな…………って祈ったことはあるか?」


「……」


 そこまで聞いて初めて、今はそんな話をしているのではないと、気がづいた。


 成長期は、中学に入学して間もなく訪れた。買ってもらったばかりのスニーカーが、1か月で入らなくなったことがある。

 クラスで流行っていた、スポーツブランドのかっこいい靴をねだる俺に、母はなんて言ってたんだっけ。

 思い出せないけれど、結局、イオンでワゴンセールになっていたスニーカーで妥協した覚えがある。

 あの時は不満だったけれど、それでも、俺は着るものに困ることはなかった。


 まさか、カサマツは、その日食べるもの、明日から着るものに、困ったことがあるのか?

 HET黎明期の、高度経済成長の前の時代だと仮定しても。

 それは本当に、俺と同じ国、同じ時代の話なのか……?



「金がなくて中学にも行けんかったんや」


 カサマツの独白に、俺は反射的に返答する。


「……そんなはずないだろ。義務教育は無料で……」


 俺たちが中学生の頃にはすでに、学費や教科書代どころか、給食費でさえ無償化されていた。

 経済的な理由で義務教育が受けられないなんて、そんなことは、——思考はカサマツの叫びでかき消される。



「買えんかってん、制服が!」



 自分の想像力の乏しさに。貧困への解像度の低さに、打ちひしがれる。

 知らなかった。知らなかった、そんなこと。

 たかだが数万円、もちろん大金ではあるが、その数万円の「絶対に必要なもの」が買えない。


 確実に必要なのはずっと前から分かりきっていて、それでも、買えない人がいる。

 すべての子供に対して、国が保証しているはずの、最低限の教育を受けられない。



「おふくろは病気で、24時間つきっきりで世話せなあかんかった。親父はおふくろの介護で働けへん。じいちゃんも叔父さんも、おふくろと同じ病気でとっくに死んでて、頼れる人は誰もおらん。いくら医療費がタダでも、食うもんと着るもんはタダやない。俺がさっさと大人になって働かなあかんのに、……俺まで、何もないところで転ぶようになって、箸が使えんくなって、口が回らんくなって……」


 ぐらり、足元が崩れるような感覚。

 俺の家族や友人に、重篤な病気の人はいなかった。それが、ふつうだった。


 不治の病は過去のものとなった。

 どんな病気かは知らないし、想像もできないが、カサマツは機械化できてよかったな、そう、簡単に、思っていた。


「おふくろと同じ病気やって宣告された時の気持ちが分かるか? 全身が麻痺して指一本動かせん、寝たきりのおふくろは、……死んだじいさんと叔父さんは、俺の未来の姿やったんや」


 遺伝性の、不治の病——


「14歳の頃やで?お前、その頃何してたん。お受験で入った学校で、楽しくお勉強してたんとちゃうんか?」


 カサマツの言う通りだ。俺は高いところから、分かった気になっていただけだったのかもしれない。


「そんなお前が、やっと手に入れた、この機械の身体を奪うんか?機械化手術の実用化に、おふくろはギリギリ間に合わなくて、結局死んだよ。でも、俺は間に合った。それがどんなに幸福なことか、お前に分かるか?」


 痛い。痛い。胸の奥がずっと痛い。

 これは、視界に入っていなかった現実。知らなかった、現実。


 俺が切り捨てようとした、この国の人々の暮らしだ。


「今は中学の制服も、修学旅行も部活動も、全部タダやって聞いた。俺と同じ思いをする子供は、もうこの国にはおらん。……機械化手術をタダで受けられたのも、日本の経済成長のおかげで、それはつまり、HETのおかげや」


 仮に、生まれるのがあと十年遅かったら。カサマツは中学に通うことができただろう。

 カサマツの母親の病気があと十年遅かったら。カサマツの母親も機械化手術を受けて、カサマツの成長を最後まで見守ることができたかもしれない。



「不幸自慢したいわけやない。ただ、お前みたいな奴には一生分からへん。お前がHETシステムを破壊するつもりなら…………俺はお前を殺さなあかん」


 カサマツはそう言って、顔を歪めた。


「俺にそれをさせんといてくれ、頼むから」


 機械の瞼から、涙は流れない。それでもカサマツは、泣いているのだと思った。




本作には、進行性の疾患描写が含まれています。これらは物語上の演出および設定として描かれたものであり、実在する特定の疾患や患者団体、および闘病中の方々を中傷・否定する意図は一切ございません。

本作はあくまでフィクションであり、実在の人物・団体・医学的事実とは無関係であることをご理解いただけますと幸いです。

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