45.地下空間
壁の白い塗装が、横一直線にえぐりとられている。
コンクリートでできている頑丈な壁には、深さ数センチの爪痕が刻まれていた。
その向こうの床には布でぬぐわれたらしい、鈍色の液体がにじんでいる。
おそらく、モンスターの体液。スイにナイフで切り裂かれたときに噴きあがったものと、同じ色をしている。
ナグモ研究室がある、工学部1号館に戻ってきた。
あの日——モンスターが大学を襲撃した日。
無数のモンスターは窓や扉から次々に侵入し、校舎を破壊していった。
今では、割れたガラスや崩れた壁は撤去され、新しい窓が張られているが、細かい傷や汚れは残り、未だ補修を待っている状態だ。
その痕跡をたどっていく。
構内の案内図に、ボールペンでマッピングしていく。
玄関や1階の窓からはじまり、長い廊下を一直線に進んでいた。
モンスターが通ったであろう道を追っていく。
モンスターが大量に押し寄せていた廊下はやはり、壁や床に無数の傷がついていた。
スイが戦っていた地点に到着する。
やはり、この周辺の損傷が一番激しい。
床の一部は板が剥がれ落ちたようになっており、赤いコーンで囲まれている。
床や壁の広範囲に鈍色の飛沫が飛び散っており、あとから布で拭われて滲んでいた。
こうなれば、もう、上から塗料で塗りなおすしかないのだろう。
無数の傷や汚れは、その先まで続いているようだった。
手元の紙にマッピングを続けながら、それを追う。
スイが戦っていた地点の少し先、廊下の右側の壁に、白い金属の扉が張り付いていた。
そこにもモンスターが押し寄せたのだろう、無数のへこみが残っている。
防火扉か何かだろうと思い、一度そこを通り過ぎた。
「……」
しかし、すぐに違和感をおぼえて、そこへ引き返す。
右側の扉にモンスターが押し寄せているのに対して、廊下を直進する方向には、一切モンスターの痕跡が残されていない。
手元の構内図を確認する。
無論、そこには一直線の廊下と、突き当りの講義室だけが書き記されていた。
ほかに空間は存在しない。それでも。
「モンスターが、方向転換している……?」
もう一度、扉の前に立つ。
平たいドアノブをゆっくり回すと、金属同士が擦れる音がした。
そのまま、扉を開く。
「……」
そこには、構内図には書かれていない階段が存在した。
地下に続く階段がある。
そして、その階段の先まで壁の傷やへこみが続いている。
「……地下だ」
もともと軍の研究施設だった建物が、大学の創立とともに研究棟に転用された校舎だと、誰かから聞いたことがある。
そのことを考えると、地下に空間があることは、決しておかしくはない。
この校舎にはほぼ毎日通っていたが、地下があるとは知らなかった。
そうか、あの日モンスターたちは、地下に向かったのだ。
スマホのライトをつけて、足元を照らす。
モンスターに破壊されたからのか、建物が古いからなのか、階段はところどころひび割れ、欠けていた。
階段を降りる靴音が、暗闇に反響する。
映画であれば、ゾンビとか幽霊なんかが現れそうな、そんな重々しい雰囲気だ。
コンクリート打ちっぱなしの壁に、1階の廊下と同じような傷がついていたから、やはりモンスターはここを通ったのだろう。
階段を降りきると、長い通路があった。
壁と同じ材質の床には、モンスターの爪によってえぐりとられた跡がついている。
あの日モンスターが向かった先に、自分も向かっている。
こつん、こつん。自分の足音だけが響く。
足元をライトで照らして、慎重に進む。
モンスターがつけた傷を目視しながら、一歩ずつ。
どれくらい進んだだろうか。
暗くてよく分からないが、30メートルほどだと思う。
打ちっぱなしのコンクリートばかりだった足元に、鈍色が見えた。
モンスターの体液だ。
すでに乾燥しているものの、濃くべったりと、床に張り付いている。
「……なんだ、これ」
よく見ると、周囲の床や壁に無数の穴が開いていた。
数秒眺めて、それが銃弾の跡だと気づく。
ここでモンスターと軍の戦闘が行われたのだ。
この場所で、銃を持った軍によって、モンスターが処理された。
それを裏付けるように、先のほうを照らしても、目立った傷や汚れは見られない。
すべてのモンスターが、ここで処理されている。
「……」
自分の左手側を照らすと、そこには黒い金属の扉があった。
そこにもモンスターの痕跡と、無数の弾痕が残されている。
それは執拗に爪で掻かれ、押し寄せるモンスターの質量に歪んでいた。
モンスターたちの目的地は、この扉の先だ。
この先に、何かがある。
『……あの日、16年前……緯新14年9月9日、駐屯地内の病院で、赤子が生まれていないか? ……一人、いた』
ドアノブに手をかけながら、ウダガワ教授の言葉が思い出された。
それが事実なら。モンスターを引き寄せる体質の人間が、本当に存在するのなら——
そんな思考は、視界の隅から突然現れた『何か』に阻まれた。
「!」
それは、人間の手だった。
咄嗟に自分の手を引こうとするが、間に合わない。
5本の指が、俺の手首をしっかりと掴んでいた。




