第五話
けたたましい警笛が、白み始めた空の下、野営地に響き渡った。
兵役を経た者であれば、その意味するところを瞬時に理解する。
敵襲。
通常、夜襲は暗い闇に紛れて行われる。その方が混乱が拡大する上、少数で多数を相手取ることができるからだ。しかし、目的が敵に被害を与えることではなく、何かを探すことであったなら、闇はそれを妨害する。闇さえも味方にして、探し物を探せる人間がいたら、それは怪人の類であろう。
アシュロンは浅い眠りから即座に目を覚ますと、いつも傍らにおいてある金棒を手にした。慣れ親しんだ、皮の握り部分が手に馴染む。即座に周囲を見渡すと、薄闇のなか、キャラバンの護衛隊も既に起き上がっていた。
野営地のそこここで嫌な金属音が鳴り響いていた。それにあわせて響き渡る警笛は、戦場音楽の先触れだ。そこに、悲鳴や鬨の声まで加われば、立派なカンタータとなる。
「どこまでついてきやがるんだよ。よっぽど大事なものがあるらしいな」
アシュロンの隣でガルが嫌そうに呟いた。ガルの右手にはスティレットが握られ、左前腕部には何時の間にかバックラーが固定されていた。
輸送隊は特別、気を抜いていたわけではない。夜間の見張りも三交代で行っていた。そして、街道のこの地点は充分に蛮族の勢力圏から離れていた。しかし、夜襲を仕掛けた蛮族は、人数は多くないが、全員が全員、手錬といって差し支えないほどの精鋭揃いだった。
深く考える時間もないうちに、アシュロン達キャラバンの周辺、つまり野営地の奥まった場所にも蛮族が現れた。その誰もが顔に複雑な刺青をいれていた。
アシュロンは知らず、冷たい汗が背をすべり落ちるのを感じた。刺青の入った蛮族は、城塞の戦いでは一人しか目にしなかったが、その一人はとんでもない腕前の持ち主だった。今、対峙している集団も、そのような腕前の持ち主なのだろうか。
アシュロンの心配は杞憂ではあった。確かに、刺青を入れた蛮族達は各部族の精鋭ではあったが、アシュロンが敗れた程の卓越した腕前ではなかった。
ただ、彼らからは積極的に攻撃するつもりがないらしい。最初期の混乱では、目に付く者を片っ端から殺していた。しかし、こちらが対峙しはじめると、退路を気にしながらも、しきりに何かを探している様子だった。
そのとき、対峙している集団から離れた場所で蛮族の声がした。
蛮族の言語は帝国の公用語に比べると、鼻が詰まったような音を、余り口を大きく開けないで発声する。
アシュロン達には耳慣れない言葉で、男と女が激しく言い争っているようだった。見れば、少年を背に隠す少女に、城塞でアシュロンを打ち倒した、刺青の蛮族が怒りを向けているようだった。周囲には兵士の死体が転がっていた。
口論自体は時間にして数分もないだろう。蛮族の男は怒りの余り、手の甲を少女の頬に打ち付けた。
成人の、しかも屈強な男が、加減をせずに叩きつけた為に、少女は地面に転がった。 少年はすかさず、少女に走りよった。
少女は地に倒れ付しても、鋭く、意志を秘めた眼差しを蛮族の男に向けた。その口元には唇が切れたのだろうか、血が滲んでいた。
蛮族の男はその光景を目にして、一瞬、悲しげな表情を浮かべたが、すぐに少年と少女ににじり寄った。
蛮族の男が少年の腕を掴み、立ち上がらせようとするが、少年は少女の傍を離れたくないのか抵抗した。
蛮族の男がなにか、短く少年に言葉を告げたが、少年はイヤイヤをするように首を振り、仕舞いには頭を抱えて蹲ってしまった。
その瞬間、蛮族の男は何かを決意した。遠目にもその変化が感じ取れるほど、空気が変質した。
蛮族の男が手にした剣を握り締める。その剣にはアシュロンが夢で見たような豪華な装飾は施されておらず、簡素な造りの、粗雑な剣だった。しかし、その鋭さはある種の冷気すら纏っている様に感じさせた。
故知らず、アシュロンがキャラバンの一陣から飛び出した。いや、理由はあったかもしれない。余りに辛い記憶なので、思い出さないようにしているだけなのだ。
駆ければ数秒。並々ならぬ体躯のアシュロンだったが、その素早さも常ならぬものだった。そうでなければ、戦場では生きていけない。鈍重な力自慢は身軽な小兵に簡単に倒されてしまう。本当の戦士は力と速さを備えてこそだった。
蛮族の男が見せた、一時の逡巡が、アシュロンを間に合わせた。蹲る少年の首筋に、今にも振り下ろされようとしていた刃が、鈍い金属音を鳴らし、眩い火花を散らせた。その一撃が最後の慈悲であったかのように、渾身の力をこめた一太刀は、果たして、アシュロンによって防がれていた。
アシュロンが動きを見せたことで、緊張を伴った、それでいて静寂な対峙は終わりを告げる。蛮族達は次々にキャラバンの面々に踊りかかった。一人も、アシュロンの元には行かせないという気概さえ感じられた。
蛮族の男達は精鋭揃いであった。だが、キャラバンの護衛隊も十分な経験を有した者の集まりだった。人数的にはほぼ互角。後は、収まりつつある周囲の騒ぎから想定するに、時間を稼ぐだけで良いという点がアシュロン達の優位だった。
キャラバンの周辺で戦闘が始まった。
同時にアシュロンと凄腕の蛮族との戦闘も始まった。
アシュロンに少年への一撃を防がれた蛮族の男は、数歩の距離を後ろに下がった。そして、アシュロンの顔を見ると、大きく目を見開いた。その視線はまるで、幽霊でも見るかのようで、戸惑いに揺れていた。しかし、さすがと言えば良いのか、すぐに意識を切り替えると、油断無く剣を構えた。
アシュロンも金棒を構えた。
アシュロンの身体能力は並外れていたが、剣や槍の扱いに必要な繊細さが欠けていた。戦場働きをする中で、重装備の敵を相手取ることもあった。そういった相手に対しては、優れた技で防具の隙間を穿ったり、防具の薄い部分を貫いたりする必要がある。だが、アシュロンにはそういった細やかな才能はなかった。戦場で刃を欠いたり、半壊させてしまうといった、幾つもの苦い経験を重ねた末に、たどり着いた答えがこの金棒だった。
重さにして、二十キロはあるだろうか。振り回しやすいように持ち手部分は六角柱の適度な太さになっており、先端部には幾つもの突起が形成されている。柄の部分に木材を用いて撓りの余裕を待たせることはせず、全てを鉄で形作ったそれは、重さが武器だった。そして、なによりも頑丈で、小さな岩すら叩き割ることができた。
だが、アシュロンにも苦手な相手がいる。真の技量に長けた軽戦士だ。そして、相対している蛮族の男はその類の人間だった。
蛮族の男が何の予備動作も無く剣を振るう。弱卒であれば、その軌跡すら目に捉えることが出来ないだろう。
しかし、アシュロンは寸でのところで金棒で弾く。そして、余力を残して、金棒を横薙ぎにした。常であれば、渾身の力で敵を叩き潰すところであるが、今の相手では隙が大きくなりすぎるのだ。
蛮族の男はアシュロンの予想通り危なげなく、横薙ぎの範囲外に跳び退き、僅かなタメを作って鋭い突きを繰り出した。
アシュロンは喉元に迫る切っ先を、またも間一髪といった様子で、強引に横に逸らす。
その後も、数合の鬼気迫る、命のやり取りが行われた。
アシュロンはそれだけで、相手が自分より遥かに強いことを確信した。それでも、死なないだけならどうにかなると考えた。
蛮族の男に焦りの色が滲む。彼にとって見れば、アシュロンに構っている暇などないのだ。
蛮族の男が魂の底から出たとしか思えないような絶叫と共に、渾身の振り下ろしをアシュロンに放った。細身の剣やショートソードの類であれば、その刀身ごと肩口に一撃を受けていたであろう。しかし、アシュロンの金棒はその一撃をどうにか受け止めた。
アシュロンは生涯で初めてといって良いほどの、強烈な一撃を受け止めた。アシュロンは自分の腕に雷でも落ちたかのような痺れを感じた。
蛮族の男もそれは同じだったようで、冷静に距離を取ろうとした。
しかし、蛮族の男にも腕の痺れが残っていた最中、鋭いナイフが二本、蛮族の男に向かって投擲された。
僅かに時間差を付けられたナイフの内、一本目を弾き返せただけで、上等だったと言えるだろう。二本目のナイフを弾くことが出来ず、回避も間に合わないと悟った蛮族の男は、その左腕を肉の盾とした。
ナイフはガルが投擲したものだった。ガルは既に二人の蛮族を倒し、今しも、アシュロンに加勢しようとしていた。
ことここに至って、蛮族の男は目的の達成を諦めた。悔しそうに、蛮族の少年と少女を一瞥すると、さらにアシュロンに深い憎しみの目を向けた。
そして彼らの言葉で何事かを吐き捨てると、俊敏な動作で逃げ出した。
アシュロンは追わなかった。勝てる相手ではなかった。
ガルも追わなかった。金にならない戦いをこれ以上したくなかった。
蛮族達が引き上げていく。キャラバンの護衛隊は無理に追わなかった。彼らも酷く傷ついていたのだ。
時間にして半刻に満たない間に、嵐のように現れて消えていった彼ら。彼らが森の中に消えて、野営地全体に朝の静けさが戻った。
野営地の皆が疲れたようにその場に座り込んだ。
アシュロンとガルも同様だ。
そして、その傍らには少年と少女の姿もあった。
朝日が東から昇り、普く大地を照らし始める。
少年の零した涙が、大地にシミとなって後を残した。