5.冷たい手
体が、ふわり、としていた。祖父は外に出て、空を見上げた。元気だった頃に見たものと同じ、あの星空があった。
暗闇で輝く月も、星も、昔と全く変わっていない。
(ああ、わしは夢を見ているんだ)
祖父は大好きな柳の所へと泳いで行った。すると、庭の草木が柳の木に集まり、せっせと柳の木の伐り口に何かの屑を塗っていた。
(そういや、なかなか柳を伐り倒せんって言っていたな。ちょっとずつしか伐れんで、次の日に延ばしたらもう塞がっていると聞いた。ははぁ、柳の伐り屑を、こうして色んな植物が塗り戻しておったのか)
何の脈絡もなく、祖父の夢は違う所へ飛んだ。
『お義父さん、あの柳のせいで紗枝は苦しむことになるんですよ。今までだって、色々悪く噂されて学校で苛められたし、近所でも嫌な目で見られているんですよ。それに、このままだと紗枝は一生結婚できずに寂しい人生を送ってしまうんです』
(これは、この間言われたな)
祖父の脳裏に紗枝の笑顔が浮かんだ。紗枝には幸せになってほしい、強くそう願った。しかしそのためには、大好きな柳の木を伐らなくてはならないのだ。
息子に、言おう。柳を伐った屑を直ぐに燃やしてしまうように。そうすればきっと柳を切り倒せる筈だ。
大好きな柳。しかしそれ以上に、大切な紗枝がいる。
翌朝、祖父は父を自分の部屋に呼んだ。父は切り倒せない柳の木をとても気味悪がっており、早急に処分したいのだと祖父に打ち明けた。
そこで祖父は、あの夢の話をした。父はたかが夢だと信じていなかったが、あまりにも祖父が真剣なので、柳の伐り屑を全てきれいに燃やすことにした。
やっとのことで少しだけ伐った柳の屑を丁寧に掻き集め、赤々と燃える炎の中に入れる。その作業を何日も続けた。
すると、見る見る、柳の木が痩せていったのだ。
***
その夜、紗枝は病室のベッド上に座り、ぼんやり窓の外を眺めていた。町の灯りが小さくポツポツとあった。こんな時間に起きている人が、何人もいるのだ。彼らはこうして紗枝が眺めているとは知らずに、何も考えず、暗闇に灯を点し、活動をしている。
――彼は今なにをしているだろうか。紗枝はふと思った。
ああ、あの青年に会いに行きたい。大好きな、あの立派な柳に。
紗枝が窓の方ばかり向いていたら、後方にあるドアの開く音がした。
振り返り、紗枝は目を見張った。
「久しぶりだね」
彼だ。こちらに歩いてくる。
「まだ家に戻れないの? 」
紗枝は乱れていた髪の毛を手で直し、「そうなの」と答えた。顔が紅かったかもしれなかった。けれど薄暗いから彼には知られないだろう。
「どうしたの、突然」
その声が意外と大きかったため、紗枝ははっとした。病室には他にも入院患者がいる。
「どうしたのって、紗枝が僕のことを呼んでいたから、飛んできたんだ」
紗枝の紅潮が増した。知ってか知らずか、青年は笑った。
「――なんて、嘘だよ」
そう言って、青年は紗枝の頬に手を当てた。そのあまりの冷たさに驚き、青年の顔を見上げた。薄闇のせいか、彼はとても蒼白い顔色をしているように見えた。紗枝は頬に当てられた手に手を重ねた。しかしどんなにそうしていても、彼の手は一向に温まらないようだった。彼の手はどうしてこんなにも冷たくなってしまったのだろう。
「本当は……」
冷たい手を紗枝に預けたまま、彼は口を開く。「――本当は、僕の方が紗枝に会いたくて堪らなかったから……、だから来たんだ」
紗枝の心臓がドクンと跳ねた。その瞬間、青年は紗枝の体を力強く抱きしめた。
病室は奇妙なほど静かだった。普段は聞こえる他の人の寝息も、寝返りの音も、何も聞こえない。青年はゆっくり体を離し、紗枝の長い髪の毛を優しく撫でながら言う。
「大丈夫、彼らは目を覚まさない。僕は、紗枝の夢の中に会いに来たんだから」
「私の夢の中に……?」
疑問に思って顔を上げると、それを待っていたかのように、青年の唇に口を塞がれた。それは、彼らが初めてする口づけだった。
紗枝は熱い吐息を漏らした。顔を離し、彼を見ると、手の冷たさとは対照的に熱を帯びた眼差しで紗枝を見つめている。彼女の心の琴線が揺れた。
「紗枝」
彼が、辛そうに、けれども愛しむように名前を呼ぶ。紗枝は、彼になら何をされても構わないと思った。そして、彼のことを女として好きなのだとはっきり自覚した。
青年が、再び紗枝の体を抱き寄せた。今度は紗枝も、きつく彼を抱きしめ返した。けれど彼はすぐに体を離し、辛そうに口を開いた。「さよなら」と。