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万命炉のリリメリア  作者: 曇裡空子
一章 帰る場所のない少女
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15/35

逃げること

【主な登場人物】

リリメリア

旧帝都で見つかった記憶のない少女。調査隊と旅をしながら、言葉や感情や剣の扱いを少しずつ覚えていく。


隊長

調査隊を率いる男。大柄で声も大きく頼りになる。

リリメリアを発見物ではなく、保護すべき人として扱う。


アリア

調査隊の副隊長。口数は少ないが、周囲をよく見ている。

元近衛という経歴を持つが、王宮との関係にはどこか冷えたものがある。


ロイ

槍を使う調査隊員。

よく喋り、よく笑い、重くなりがちな場の空気を和ませる。


エルナ

金色の髪の魔術師。

真面目で手順やルールを重んじる。魔術や歴史に詳しい。


シエナ

調査隊の記録係。旧帝国語や古い記録を読み解く。


ミラ

調査隊の料理係。食事や包帯や日々の暮らしを支える人。

「リリ」


ロイの声は、掠れていた。


それでも、リリメリアには聞こえた。


黒い剣を握ったまま、石畳を這う。


膝に力が入らない。


手のひらが血と白い粉で滑る。


少し進むだけで肩の傷が開き、視界の端が暗くなった。


それでも止まらなかった。


「ロイ」


ようやく辿り着き、そばに膝をつく。


ロイは胸を押さえていた。


指の間から流れた血が、服を黒く濡らしている。


呼吸のたびに喉の奥で湿った音がした。


エルナは離れた場所から手を伸ばす。


杖は届かない。


指先に魔力を集め、治癒の術式を組もうとする。


けれど淡い光は輪を描く前に揺らぎ、形を失った。


「待ってください」


エルナは掠れた声で言った。


誰に向けているのか、自分でも分かっていないようだった。


「今、治します。もう一度だけ」


魔力を練る。


光が生まれる。


また消える。


行商人はその様子を眺めていた。


白い猫はリリメリアの隣に座り、音の鳴らない鈴を胸元に揺らしている。


「うわ」


行商人がロイを覗き込んだ。


「かなり苦しそう」


エルナの指が止まる。


行商人はいつもの笑みを浮かべたまま、軽い調子で続けた。


「この人、もう死にそうだし」


リリメリアへ視線を向ける。


「殺しちゃう?」


何を言われたのか、すぐには分からなかった。


エルナだけが先に動いた。


「ふざけないでください」


声が震えていた。


痛みを忘れたように身体を起こし怒りを顕にする。


「ふざけてないよ」


行商人はニヤニヤ笑っている。


「このまま苦しませるより早く終わらせてあげた方が良いんじゃないかな〜」


「黙りなさい」


「魔術師って、死ぬ相手にも希望を見せたがるよね」


「黙りなさい!」


エルナは行商人の外套を掴んだ。


指が震えている。


それでも離さなかった。


「あなたにロイさんの運命を決める権利はありません」


赤色の瞳だけが冷たくエルナを見下ろした。


「触んなよ」


冷たい声だった。


エルナの手が払い除けられる。


強く押したわけではない。


けれど傷ついた身体は耐えられず、エルナは石畳へ倒れ込んだ。


「エルナ」


リリメリアが名を呼ぶ。


行商人は掴まれていた外套の皺を手で払った。


その時、ロイの喉が鳴った。


「……勝手に」


リリメリアが振り返る。


薄く開いた目は、まだこちらを見ようとしていた。


「勝手に、殺すな」


行商人はロイを見た。


「喋れるんだ」


「悪いか」


声になりきらない息だった。


それでも、言葉にはなっていた。


「悪くないよ」


行商人の口元に笑みが戻る。


「じゃあ本人の意思確認は取れたね」


「最初から」


エルナは肩で息をしながら言った。


「あなたが決めることではありません」


ロイが咳き込んだ。


唇の端から血が流れる。


リリメリアは何をすればいいのか分からず、ロイの手を握った。


力はほとんど返ってこなかった。


「ロイ」


「泣いてるな」


「うん」


「素直だな」


少し笑おうとして、また咳が出る。


胸が小さく上下した。


「勝手に殺されるところだった」


「ごめん」


「リリが謝ることじゃない」


「死なないで」


それは、考える前に出た言葉だった。


他に何も浮かばなかった。


ロイは目を細める。


「それは、ちょっと難しいな」


エルナが再び術式を組もうとした。


「そんなこと」


光は生まれなかった。


「そんなこと、言わないでください」


「エルナ」


ロイが呼ぶ。


「はい」


「悪い」


「謝らないでください」


エルナの声が割れた。


「謝るのは私です。私が起きていれば。私がもっと早く治療を」


「違う」


短い言葉のあと、息が続かなかった。


ロイはしばらく目を閉じ、浅く呼吸を繰り返した。


やがてもう一度リリメリアを見る。


「リリ」


「うん」


「飯、食えよ」


リリメリアは瞬きをした。


「飯?」


「そう」


ロイは一つずつ言葉を落とした。


「腹が減ると、悪いことばっかり考える」


「食べる」


「ちゃんと食べろ」


「うん」


「寝ろ」


「うん」


「眠れない時も、目は閉じろ」


「うん」


「それから」


一度、呼吸が止まりかける。


リリメリアは握る手に力を込めた。


「逃げなきゃいけない時は、逃げろ」


その言葉に、リリメリアの身体が固まった。


「でも」


「でもじゃない」


ロイは弱く眉を寄せた。


叱るような顔だった。


「逃げろ」


リリメリアは頷けなかった。


逃げた。


行けと言われて。


走って。


その間に、ミラが死んだ。


シエナが死んだ。


アリアが死んだ。


隊長を斬った。


今度はロイが死のうとしている。


「私が逃げたら」


声が震えた。


「また誰かが死ぬ」


ロイの指が、リリメリアの手を少しだけ握り返した。


「逃げたから、生きてる」


「でも」


「生きてる奴が、次に繋げられる」


焦点の合わない目で、それでもリリメリアを見ようとしている。


「死んだらもう何もできない」


リリメリアは俯いた。


涙がロイの手へ落ちた。


「だから、逃げろ」


「うん」


今度は頷いた。


小さく。


何度も。


「あと」


「うん」


「分からないことは、分からないって言え」


「分かった」


ロイの口元が少しだけ緩んだ。


「それは、分かってない奴の返事だな」


リリメリアは涙を拭わずに言い直す。


「分からない」


「ならいい」


エルナが唇を噛んでいた。


ロイの視線が、そちらへ動く。


「エルナ」


「はい」


「立ってろ」


エルナの表情が歪んだ。


誰かを助けたいなら、まず自分が立っていろ。


夢の中で聞いた隊長の言葉が蘇る。


「私には」


「今じゃなくていい」


ロイは息を吐いた。


「でも、立て」


エルナは何も答えられなかった。


ただ目を逸らさず、ロイを見つめている。


それで十分だったのか、ロイはわずかに頷いた。


「隊長は」


リリメリアの肩が跳ねる。


「止めたんだろ」


「私が斬った」


「うん」


「隊長を」


「うん」


「私が」


「リリ」


ロイの声が、ほんの少しだけ強くなる。


「止めたんだ」


リリメリアは首を横に振ろうとした。


けれど、その目に止められた。


「俺は、そう思う」


白い粉が静かに降っている。


燃える町の音は遠かった。


ロイの指から、少しずつ力が抜けていく。


「覚えてる」


リリメリアは言った。


「飯を食べる。寝る。逃げる。分からないって言う」


「そうか」


「覚えてる」


「なら」


ロイは息を吸った。


胸が一度だけ持ち上がる。


「いい」


手から力が消えた。


リリメリアは動かなかった。


ロイの目は薄く開いている。


けれど、もう何も見ていない。


「ロイ」


返事はない。


もう一度呼ぶ。


やはり返らない。


エルナが這い寄り、震える手をロイの胸へ重ねた。


魔力を流そうとするが何も起きない。


「まだ」


唇が震える。


「まだ、間に合います」


行商人が冷たく言った。


「間に合わないよ」


「黙ってください」


「それ、もう治療じゃない」


行商人の声には、先ほどまでの軽薄さがなかった。


「祈りだよ」


エルナの手が止まる。


リリメリアはロイの手を、そっと石畳へ戻した。


離したくなかった。


それでも離した。


逃げられる時は、逃げろ。


ロイの声が残っている。


行商人が町の奥を見た。


第六位天使が退いた方角から、白い粉が流れてくる。


「あれ、まだ町にいるよ」


エルナが顔を上げる。


「今度戻ってきたら、私も止められるか分からない」


白い猫が立ち上がった。


南の鐘の外へ向かい、ゆっくりと歩き始める。


「立てる?」


行商人が聞いた。


リリメリアは黒い剣を支えに身体を起こそうとした。


膝が震える。


立てるかどうか分からない。


「分からない」


そう答えた。


「じゃあ、分からないまま歩くよ」


リリメリアの腕を取る。


優しくはない。


けれど、倒れない程度には支えていた。


エルナはロイのそばから動けずにいる。


「魔術師」


行商人が呼んだ。


「立てって言われたんでしょ」


エルナの肩が揺れた。


「聞いていたんですか」


「聞こえた」


行商人は白い猫を顎で示す。


「あの子が待ってる」


エルナはロイを見た。


隊長の剣を見た。


遠くに転がる自分の杖を見た。


肘をつく。


膝を立てる。


痛みに耐えきれず、一度崩れた。


それでも、もう一度身体を起こした。


立ててはいない。


けれど、倒れたままでもなかった。


「上出来」


「あなたに褒められたくありません」


「じゃあ忘れて」


行商人は歩き出した。


白い猫が先を行く。


リリメリアは一度だけ振り返った。


ロイがいる。


隊長の剣がある。


血に濡れた石畳がある。


全部そこに残っている。


「ロイ」


返事はない。


それでも、リリメリアは続けた。


「覚えてる」


その時、南の鐘が鳴った。


一度だけ。


低く、重い音だった。


合流を知らせる音ではない。


勝利を告げる音でもない。


もう誰も戻らないと、町全体へ伝えるような音だった。


エルナが目を閉じる。


白い猫の鈴は鳴らない。


南の鐘の余韻だけを背中に受けながら、三人は町を離れた。


前には、まだ白い粉が降っている。


どこへ向かうのかも分からない。


それでも歩いた。


逃げるために。


生きるために。

ここまでお読みいただきありがとうございます。


初執筆で設定だけ固めて文章を書いてます。


続きが気になると思っていただけましたら、ブックマークや評価で応援していただけると嬉しいです。

感想もいただけると励みになります。


次回もよろしくお願いいたします。

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