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万命炉のリリメリア  作者: 曇裡空子
一章 帰る場所のない少女
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13/24

死に至る前の赤

【主な登場人物】

リリメリア

旧帝都で見つかった記憶のない少女。調査隊と旅をしながら、言葉や感情や剣の扱いを少しずつ覚えていく。


隊長

調査隊を率いる男。大柄で声も大きく頼りになる。

リリメリアを発見物ではなく、保護すべき人として扱う。


アリア

調査隊の副隊長。口数は少ないが、周囲をよく見ている。

元近衛という経歴を持つが、王宮との関係にはどこか冷えたものがある。


ロイ

槍を使う調査隊員。

よく喋り、よく笑い、重くなりがちな場の空気を和ませる。


エルナ

金色の髪の魔術師。

真面目で手順やルールを重んじる。魔術や歴史に詳しい。


シエナ

調査隊の記録係。旧帝国語や古い記録を読み解く。


ミラ

調査隊の料理係。食事や包帯や日々の暮らしを支える人。

隊長の腹が、開いていた。


裂ける、というより、口が開くようだった。


アリアに斬られたはずの場所。


さっきまでは傷一つなかった場所。


そこが内側からゆっくりと広がっていく。


それは白くなかった。


人の口を、そのまま腹の大きさまで引き伸ばしたようなものだった。


厚い唇に似た縁が濡れて、内側には小さな歯のようなものが不揃いに並んでいる。


その奥から、長い舌が垂れていた。


人のものよりずっと長く、濡れて、重く、石畳へ触れそうな程に伸びている。


舌の先から、透明な雫が落ちた。


ぽたり。


ぽたり。


水の落ちる音。


隊長は、もう何も言わなかった。


白いものが首を覆い、顎を覆い、頬を覆っていく。


血も煤も、服の裂け目も、すべて白い石膏の下へ沈んでいく。


やがて頭部は、兜の形を取った。


鼻筋を覆う面。


頬を守る頬当て。


額から後頭部へかけて伸びる、硬い曲線。


兜の上には、王冠があった。


小さな冠ではない。


白い石で作られたような、歪んだ王冠。


尖った飾りは羽根にも、骨にも見えた。


隊長は、もうこちらを見ていない。


見ていないということだけが、分かった。


南の鐘の下に立っているのは、真っ白な騎士だった。


頭から腹まで、石膏で作られた西洋の騎士。


けれど、腹だけが違っていた。


真っ白な甲冑の中央に、人の口を大きくしたようなものが開いている。


唇が震え、歯が鳴り、長い舌が濡れた音を立てて揺れる。


そのさらに奥に、白く濁った核があった。


エルナは柱の根元に倒れていた。


金色の髪が血と煤で汚れている。


杖は少し離れた石畳の上に転がっていた。


指先がわずかに動いた気がした。


けれど、目は開かない。


ロイは胸を押さえて倒れている。


息はあるが、胸元から流れる血は止まらず、石畳の上の赤を広げていた。


ここに立っているのはリリメリアだけだ。


シエナの記録帳を足元に置き、黒い剣を握りなおす。


白い騎士が動いた。


そして白く変色した隊長の剣を持っていた。


構えだけは、見覚えがある。


訓練の時、隊長が何度も見せてくれた構え。


剣先を少し下げ、相手の動きに合わせて踏み込む姿勢。


それが今は、目のない兜と、腹に口を持つ白い騎士の中に残っている。


一撃目は、黒い剣で受けることしかできなかった。


隊長の剣が落ちてきた瞬間、腕の骨が内側から軋み、足裏が石畳の上を滑った。


リリメリアは押し返そうとしたが、白い騎士の力は重すぎた。


刃と刃が噛み合い、火花の代わりに白い粉が散る。


肩が沈み、息が詰まる。


目の前の騎士は声も出さず、迷いも見せず、ただリリメリアを斬るためだけに剣を押し込んでくる。


リリメリアは横へ逃げようとした。


だが、身体が動くより先に白い刃が来た。


肩を掠めた刃が服を裂き、白い肌の上に細い赤を引く。


痛みは少し遅れて、熱としてやってきた。


リリメリアはその熱に息を詰まらせながら、歯を食いしばって黒い剣を振った。


刃が白い騎士の腕に入る。


普通の剣なら弾かれたはずの白い石膏が、音もなく裂けた。


白い粉が舞う。


白い騎士の動きが一瞬だけ止まった。


けれど、止まっただけだった。


腹の口が少し開く。


濡れた舌がゆらりと動き、その奥の核が白く濁って脈打つ。


ぽたり。


また、水の音がした。


リリメリアの手は震えていなかった。


それが怖かった。


大事なものを斬る時に、手が震えなくなる。


白い女の声を思い出す。


「嫌」


声が漏れた。


誰に向けたのか、分からなかった。


隊長に。


白い騎士に。


黒い剣に。


自分に。


白い騎士が踏み込む。


リリメリアは黒い剣を上げたが、今度は受けきれない。


刃ごと身体が弾かれ、視界が傾く。


肩から石畳に叩きつけられた衝撃で息が抜け、目の前が白く跳ねた。


黒い剣はまだ手から離れていない。


けれど、指に力が入らない。


起き上がろうとしても、身体のどこを動かせばいいのか分からなかった。


頭を打ったのだと、少し遅れて理解する。


額から何かが流れる。


温かい。


赤い血が、目尻を伝って頬へ落ちた。


白い騎士が近づく。


隊長は、もういない。


それなのに、その手は隊長の剣を握っている。


そのことが、何よりもつらかった。


白い騎士が剣を振り上げる。


兜の王冠が、煙の中で白く浮かんでいた。


リリメリアは動こうとした。


動けない。


ロイの指が、石畳を掻いた。


槍へ伸ばそうとするが届かない。


エルナは動かない。


白い剣が降りてくる。


額から落ちた血の一滴が、頬を離れた。


その赤は、炎に照らされて小さな宝石のように光った。


落ちれば石に砕け、ただの血になるはずだった。


けれど世界は、その一滴がまだ血であり、

まだ落下していて、まだ死に至る前のわずかな赤であるところで、息を止めた。


滴は空中に留まり、赤い玉のまま揺れもしない。


炎は燃える形を保ったまま止まり、白い粉は雪になる前の羽根のように空に張りついている。


ロイの手は槍に届く寸前で凍りつき、白い騎士の剣はリリメリアの顔の上で、振り下ろされるためだけの姿勢を保っていた。


音もない。


風もない。


ただ、落ちない血だけが、世界の真ん中に置かれていた。


リリメリアは、自分の身体を見ていた。


石畳に倒れている自分。


額から血を流し、黒い剣を握ったまま、白い騎士に殺されそうになっている自分。


不思議だった。


見ている自分は、痛くなかった。


寒くもなかった。


ただ、胸の奥だけが重い。


「ほら」


後ろから声がした。


「言った通りになった」


リリメリアは振り返った。


白い女がいた。


白い服。


長い銀髪。


水色の瞳。


前に会った時と同じ顔で、彼女は悪戯っぽく笑っていた。


「大事なものを斬る時が来るって」


リリメリアは何も言えなかった。


白い女は、止まった血の一滴を指先でつつく。


血は揺れない。


世界は止まったままだ。


「このまま死んじゃったら、多分楽だと思うよ」


白い女は静かに語る。


「もう痛くないし、もう誰も斬らなくていい」


女は白い騎士を見た。


「隊長だったものも」


ロイを見る。


「そこで死にかけてる人も」


エルナに視線を向ける。


「眠ってるあの子も」


それから、リリメリアを見た。


「ミラも、シエナも、思い出さなくていい」


名前が並ぶ。


そのたびに、胸の奥が少しずつ潰れていく。


「置いていくことも、置いていかれることもない」


白い女はリリメリアの横に立ち、倒れているリリメリアの身体を見下ろした。


「ね。楽でしょ」


リリメリアは、自分の手を見た。


幽霊のような手。


そこには黒い剣がない。


血もない。


痛みもない。


本当に楽かもしれないと思った。


もう何も見なくていい。


分からないことを抱えなくていい。


隊長だったものを斬らなくていい。


ロイの血を見なくていい。


エルナを起こせないまま立っていなくていい。


シエナの記録帳を持たなくていい。


ミラの手を思い出さなくていい。


行って。


ミラの声を思い出した。


違う。


声ではなく思い出だった。


背中を押した手。


行って、と言った顔。


それから、シエナが見送るために最後まで笑っていた顔。


リリメリアは唇を動かした。


「嫌」


白い女が首を傾ける。


「死ぬのが?」


「うん」


「生きてても辛いことのほうが多いよ」


「うん」


「また大事なものを斬る事になるかもしれないよ」


リリメリアは、止まった世界の中で白い騎士を見た。


白い王冠。


暗い兜。


腹の口。


その奥の核。


頼れる隊長の姿とは、おおよそ異なる。


しかしあれは、隊長の形をしている。


「それでも」


声が震えた。


でも、消えなかった。


「生きたい」


白い女は口を閉じる。


水色の瞳が、リリメリアではなく、倒れているリリメリアの身体を見る。


落ちない血を見る。


白い騎士を見る。


その沈黙は、答えを待つためのものではなかった。


もう答えを聞いてしまった者が、その答えを受け入れるまでの短い間だった。


やがて白い女は、心底残念そうにため息をついた。


「そっか」


彼女は悲しそうに笑った。


「じゃあ、ちょっとだけ剣の使い方を教えてあげる」


白い女が、リリメリアの後ろへ回る。


背中に手が重なる。


温度はなかった。


けれど、その手が置かれた瞬間、止まった世界の中で白い騎士の形が変わって見えた。


王冠。


兜。


肩。


腕。


剣。


腹の口。


その奥の核。


全てが線になった。


動く前の線。


動いた後の線。


斬るべき線。


斬ってはいけない線。


白い女の声が耳元で響く。


「受けないで。君の身体じゃ押し負ける」


白い騎士の剣筋が、止まった世界の中で薄く光る。


「右足は下げない。左へ落ちる」


次に、腹の口が開く。


奥の核が見える。


「王冠は飾り。頭を斬っても終わらない」


白い女の指が、腹の奥を示す。


「あそこ」


「口が開いた瞬間だけ、奥が見える」


リリメリアはじっと見ていた。


分からないことを、分からないまま。


けれど今だけは、少しだけ分かる。


「怖い?」


女が囁くように聞く。


「怖い」


「じゃあ、よく見て」


白い女は口元に笑みを浮かべた。


「怖いものは、見えなくなった時が一番怖いから」


世界が戻る。


止まっていた血の一滴が、石畳へ落ちる。


ぽたり。


今度は水の音ではなかった。


自分の血の音だった。


白い剣が降りてくる。


リリメリアは右へ逃げずに、左へ身体を落とした。


刃が髪を掠め、石畳を割る。


割れた石が頬に当たった。


痛い。


でも、動ける。


黒い剣を引き寄せる。


重い。


けれど、重さの向きが分かる。


白い騎士が剣を引き戻す。


次は横薙ぎ。


受けない。


白い女の声が、頭の奥で言った。


リリメリアは膝を曲げ、剣の下を潜った。


風圧で耳が痛い。


白い騎士の胴が近い。


腹の口は閉じている。


まだ。


まだ。


白い騎士の左腕が動く。


掴まれる。


リリメリアは黒い剣を短く振った。


白い指が三本落ちる。


白い粉が散った。


音はない。


悲鳴もない。


隊長の声も、混じらない。


ただ、白い騎士が次の動きへ移ろうとする。


リリメリアの足が止まりかける。


止まらないで。


白い女の声が聞こえる。


リリメリアは強めに踏み込む。


白い騎士が大きく剣を振り上げた。


重い一撃。


その動きに合わせて、腹の口が開いた。


長い舌が濡れた音を立てて垂れる。


その奥が見える。


白く濁った核。


鼓動のように、ゆっくり膨らむ。


「あそこ」


声がした。


リリメリアは黒い剣を両手で握った。


腕が痛い。


肩の傷が開く。


額の血が目に入る。


それでも、見えている。


白い騎士の剣が振り下ろされる。


リリメリアは、その下へ入った。


自分から。


白い剣が背中を掠めた。


痛みで息が止まる。


でも、黒い剣の切っ先は腹の口へ届いていた。


リリメリアは叫ばなかった。


泣かなかった。


ただ、斬った。


黒い剣が腹の口の奥へ入り、白い核を裂く。


肉を斬った感触ではなかった。


石を割る感触でもない。


水の音が、途中で断ち切られる感触だった。


ぽた。


その音は、最後まで落ちなかった。


白い騎士の身体が震えた。


王冠にひびが入る。


兜が割れる。


肩当てが崩れ、腕の白い石膏が粉になっていく。


腹の口は開いたまま、声も出さずに崩れていく。


リリメリアは黒い剣を抜けなかった。


膝が折れた。


白い粉の中に倒れ込みそうになる。


けれど、誰の手も伸びなかった。


隊長は、戻らなかった。


白い外殻が崩れても、人の顔は出てこない。


王冠も。


兜も。


腹の口も。


全部、南の鐘の下で風に散った。


あとに残ったのは、隊長の剣だけだった。


石畳の上に落ちたその剣には、血と白い粉がついている。


リリメリアは、それを見ていた。


「隊長」


呼んだ。


返事はなかった。


もう一度、呼ぶ。


「隊長」


やはり、返事はなかった。


黒い剣だけが、リリメリアの手の中に残っている。


リリメリアは、その重さを抱えたまま、動けなかった。


目の奥が熱くなった。


喉の奥が詰まって、息がうまく吸えない。


涙は、出し方を考えるより先に落ちていた。


額から流れる血とは違う。


熱くて、苦しくて、止め方の分からない水だった。


リリメリアは隊長の剣を見たまま、声にならない声を漏らした。


泣いているのだと、少し遅れて分かった。


石畳の上では、額から落ちた血が赤く広がっている。


その赤のそばに、涙がいくつも落ちた。

ここまでお読みいただきありがとうございます。


初執筆で設定だけ固めて文章を書いてます。


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感想もいただけると励みになります。


次回もよろしくお願いいたします。

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