(後編)
【アップルパイ王国 後編】
第四章 アップルパイ王国を離れて
(一)
若殿様は馬にまたがり、急いで本国へと駆け戻ります。本当はお殿様や武将達、サムライ達の行く末が心配でならないのですが、止むを得ません。こちらはこちらで大変な事態なのです。ようやく本国に近づきつつあるとき、お城が見えるよりも早く、
どぉぉぉぉおおおん……。
どぉぉぉぉおおおん……。
どぉぉぉぉおおおん……。
という大砲の音が聞こえてきました。余程、大きな大砲を鳴らしているに違いありません。
「畜生! あいつらナメやがって! 俺が叩き斬ってやる!」
鼻息荒く、そう意気込んでいるのは、腰に二本、背中に大刀を差しているちっちゃな剣豪、チビ助です。それはとても勇ましいのですが、あんな大きな大砲を相手に、刀で勝てるわけがありません。きっとまともな戦いにならないでしょう。ましてや、お殿様や多くの武将達があの王国に出向いているのです。若殿様は「短慮はいかんぞ」とチビ助をたしなめます。
もっとも、チビ助の気持ちが判るし、全てのサムライ達も同じ気持ちでしょう。あんな大砲を国の鼻先で撃たせておいて黙っているなど、サムライとしては面目丸潰れです。若殿様はとことん文句を云ってやらねばと、意気込んでお城に戻りました。しかし――。
お城で待っていたのは、あの大砲に負けないくらいの大きな体をした、ピストル合衆国のピストル大統領でした。
サムライが二本の刀を差しているなら、大統領は二丁の大きな拳銃を腰に吊し、チビ助が大きな刀を背中に差しているのと同じく、長くて大きなライフルを背中にしょっていました。同じような完全装備で、体の大きな護衛達が大統領の周りを囲んで、守りを固めています。その彼らだけでも、このお城を攻め滅してしまうに違いありません。
大統領は(自分に比べて)小さな体の若殿様を見下ろしながら云いました。
「ヘイ、ボーイ! この城のキングはどこだい?」
相手の巨大な体と重厚な装備に、若殿様は思わず体をすくませてしまいました。しかし、負けている訳にはいきません。その若殿様の顔を、すぐ側にいた参謀が心配そうにのぞき込みましたが、大丈夫だと若殿様は頷きました。
「拙者が代理だ! 今、殿は不在だ! そもそも、あの大砲はなんだ! あんなふうに撃ち鳴らすなど、我が国に対して失敬ではないか!」
その言葉を聞いて、大統領は意外と素直に謝ります。
「オー、ソーリー、ソーリー。あれはデモンストレーションなのさ! 我が国から武器を買えば、あんな大砲も手に入るのさ!」
「いらぬ! 殿は全て断れと仰せだ!」
「ヘイヘーイ、ユー達はそうも云ってられませんヨ? いずれ、どの国もあれぐらいの大砲を持つようになるのですヨ?」
「そ、それは……」
確かに、そうなれば大変なことです。武器の威力が違えば、どんなにサムライが頑張ったって戦に勝てるはずがありません。
それを後ろで聞いていたチビ助がついに頭に来たようです。背中の大刀だけでなく、腰の刀も抜き払い、両手に刀を振り回して大統領に挑みかかろうとしているではありませんか。
「貴様! サムライを愚弄すると叩き斬るぞ! そんなに俺達が弱いというなら試して見ろ!」
若殿様は困り顔で「デカ助、ちょっとチビを引っ込めてくれ」と頼みました。外国との謁見の場で刀を抜くなど、それだけでも事件と云っても良いのですが、なにせ小さなチビ助がしたことです。大統領は子供が癇癪を起こしたように見えたので、気を悪くした様子もなく「オー、ソーリー、ソーリー」とニコニコ笑って謝ります。
チビ助の癇癪のお陰か、若殿様の頭が冷えてきたようです。若殿様は落ち着いて話しました。
「大統領、あなたの国の武器は確かに強力ですが、我が国はとても貧しく、買うことなど出来ないのです。故に、我が主君は全て断れとの仰せです。無い袖は振れません。どうかお引き取りを」
ですが、大統領は尚も武器を売り込みます。彼らにもニンジャのようなスパイがいるのでしょうか。大統領は何でも知っていました。
「でも、ユー達は戦争に勝利したネ? アーンド、カンフー帝国とも戦うつもりネ?」
「そ、それは……」
「戦争に勝ったのなら、ずいぶん儲かってる筈ネ? そのお金で大砲を買えば、カンフー帝国も戦わずにホールドアップするヨ! あの国にはまだ大砲は無いヨ! どうだい?」
「……」
「HAHAHA! ユー達は本当に戦争が好きネ! みーんな、どこの国もそう思ってるヨ! その戦争が大好きな国が大砲を持ってなくちゃ、みんなにつぶされちゃうんじゃないかナー?」
若殿様はもう何も云えなくなってしまいました。特に、戦争が好きと思われているのがショックでした。でも、仕方がないのです。国を治めているのは、戦うのが専門で腰に刀を差しているサムライと武将ばかりで、戦争が好きと思われても仕方がありません。
そんな黙り込んでしまった若殿様に、参謀はそっと囁きます。
(若、ここは取りあえず、殿は忙しいので相談してから返事をすると申し上げては?)
確かにそうするのが一番でしょう。若殿様はそのように返答しようとしたところ――。
「若! 大変です! 大変でございます!」
と、別のサムライが別の方角から駆け込んできました。今度は何だというのでしょうか。
(二)
「若! 我が国の漁船が、キムチ王国の軍艦に取り囲まれています!」
「な、なんだって!」
確かに、これは大変な事態です。なにしろ、軍艦が相手ですから、うっかりすれば戦争になりかねません。
しかし、今はお殿様をはじめ、多くの武将達が王国に攻め込んだままのため、国に残る留守番の武将とサムライは少ししかいません。
参謀は尋ねます。
「若、どうしましょう」
「とにかく、現場に行こう。こちらは漁船だし、取り囲まれているだけなら戦いにはならないかもしれない。そうなる前に、その場を解決できるかもしれない」
「判りました。では、出港の準備を」
ピストル合衆国の対応は適当に片づけ、今度はキムチ王国の対応に走り出します。
参謀は他のサムライに軍艦の準備を頼もうとしましたが、若殿様は、
「いや、小舟の方が良い。こちらも軍艦を出したら、嫌でも戦になってしまうぞ。僕達だけで現場に行こう」
えーっ! という声が、チビ助や他のサムライ達からあがりました。もし、戦いになってしまったら、なにも抵抗できずに沈められるだけです。しかし、若殿様は云います。
「喧嘩は意気投合と爺様が云っていた。やる気のない相手では戦になんてならないよ。ほら、あの王国と同じ立場に立てばいいのさ」
成る程と参謀は頷きましたが、チビ助はまだ渋り顔。デカ助は何が何だか判っていません。
そのデカ助に若殿様は、
「急ぐから頼むよ、デカ助! ほら、おにぎり三つ!」
そう云いながら小袋を投げてよこします。このときばかりは機敏なデカ助。しっかと袋を受け止め、「わかりもうした!」と合点承知。ドスドスと巨体を揺らして、若殿様について港へと急ぎました。
そして一同が小舟に乗り込むが早いか、デカ助は両手に櫂(ボートで云うオール)を握りしめ、「ふんッ!」と気合い一発! 小舟は空に飛び出さんばかりに、港の艀からものすごい勢いで進み始めます!
「ふんッ! ふんッ! ふんッ! ふんッ!」
そのままの勢いで、どんどん小舟が進みます。進むのは良いのですが、その勢いは猪突猛進。「おい待て! 右だ! もっと右!」と若殿様の指示をしなければ、どこまで沖へ進むか判ったものではありません。そんなすったもんだをしながら、あっという間に現場に到着。サムライ帝国の漁船をぐるりと取り囲んだ、キムチ王国の艦隊が見えてきました。
さあ、ここからが出番だとチビ助は気合い十分、やおら、腰と背中の刀を引き抜いて――。
「参謀、デカ助に替わってゆっくり漕いでくれ。デカ助、チビ助を肩車だ。何もさせるんじゃないぞ」
と、若殿様はデカ助に食後の饅頭を投げ渡しながら、そう命じました。さあ、なんか文句を云い続けるチビ助は放っておいて、キムチ王国の軍艦をかきわけ、現場に乗り込む若殿様です。
「御免! 一同、そのままで待たれよ! サムライ帝国の者である!」
大声でその場を制しました。幸い、争いごとにはなっていないようです。まず、若殿様は漁船に乗っている漁師の方に向かいました。
「漁師共、いったいこれはどういうことだ」
「おお、おサムライ様、お助けくだせぇ!」
「助ける。助けるから訳を話せ」
「別にあっしら、悪いことはしてないんでやんす。普通にいつもの漁をいつもの領海(国々の海での領地)でやっていただけでやんす」
若殿様は周囲を見渡します。そして、妙なことをしました。自分の手の指を立てて、周囲の島々の大きさがどう見えるか計っているのです。参謀は驚いて尋ねました。
「判るのですか?」
「ああ、確かにここはウチの領海だ。もうすでに、キムチ王国の連中はウチの領海に入っている」
「詳しいですね」
「まあな――で、あの軍艦の者はなんて云ってきたんだ」
と、漁師に尋ねなおすと、
「へえ、連中は俺達が採った魚を、とンがらし漬けにするってきかねぇんでやんすよ。お助けください! おサムライ様!」
「なんだって! そんなことをしたら、魚をお刺身にも塩焼きにも出来なくなってしまうではないか!」
それはサムライ達にとって大変なことです。若殿様はキムチ王国の軍艦に向かって大声で怒鳴りました。
「話を聞いたぞ! どういうことだ! 何故、うちの魚をとンがらし漬けにするんだ!」
すると、キムチ王国の軍艦から艦長が姿を現し、答えました。
「それは、とンがらしが素晴らしい香辛料であるからだ。全ての食べ物はとンがらし漬けにされるべきなのだ」
「何故だ! ここは我がサムライ帝国の領海だ! この領海で採れた魚は我々のものだぞ!」
「ああ、知っている。ここはあなた方の領海だ。その領海で採れた魚はあなた方のものだ。ただ、我らの素晴らしいとンがらしで、より美味しくしようとしているだけだ」
「――えっと」
ここで、若殿様は言葉を詰まらせました。
若殿様は、とンがらし漬けが素晴らしいとは、それほど思っていないのですが、素晴らしいと思っている相手を否定すると、それこそ争いごとになってしまいます。云い間違えては大変です。
若殿様が言葉に迷っているとみえたので、参謀が入れ替わり、話を続けました。
「あなた方が、採った魚をその場でとンがらし漬けにする習慣は知っている。確かにそれは旨いだろうが、我々には別の食べ方がある。我が国の魚屋は、とンがらし漬けにしていない魚が届くのを待っているのだ」
若殿様は、なんでそんなことを知っているんだと参謀を振り返りましたが、上手く話が進みそうです。一歩下がって、参謀に交渉を任せることにしました。
参謀は更に話を続けます。
「そちらが我が領海に侵入している。そちらの目的が我が国への友好であるなら、まずはこの場を引いてもらいたい。でなければ、我々はあなた方に、侵入の罪を問わなければならないぞ」
キムチ王国の艦長はうなずいて、侵入したことにお詫びしました。
「了解である。我々が性急すぎたようだ。しかし、是非とも我々のとンがらし漬けした魚の味を進呈したいのだ。そちらに大変な危機が迫っているからな」
「――その大変な危機とはなんだ」
そう、参謀が尋ね返すと、艦長は少し驚いた様子でした。
「いや、そちらが知らない筈はないだろう。あのカンフー帝国との戦をするなら是非とも、とンがらし漬けで精力と活力をつけて頂きたいと、こうして出張ってきたのだがな」
思わず、若殿様は溜息をつきました。どうやら、サムライ帝国がカンフー帝国との戦に備えていることを、どこの国も知っているようです。
ともかく、この場は納めてしまおうと、若殿様は姿勢を正して、艦長に別れの挨拶を告げました。
「あー、ともかく、そちらの友好には感謝しよう。まだまだ、戦の備えに急ぐのでこれで失礼させて頂きたい」
「そうか、確かに急がれた方が良いな。もう、カンフー帝国の兵隊が出発した頃合いだろうから」
「え……?」
若殿様の一同は、顔が真っ青になりました。
(三)
(……もしや?)
若殿様がようやく事情を察したようです。
戦の準備は、あくまでも、戦になるかも? と不安に思ったための「用心」でしかなかったのです。
今の話が本当なら、「用心」する程度の話ではなく、既にカンフー帝国が戦を始めようとしていることになります。
若殿様は尋ね返します。
「おい! 今の話は誠か!」
「おやおや、そちらが知らないとは驚いたな。これまで、あなた方との戦争に負けた多くの国々から要請を受けて、カンフー帝国はあなた方を攻め滅ぼそうと決意したのだ」
「……な、なんだって」
「ああ、そうか。それはむしろ、あなた方に連絡は来ないのかもしれないな。我が国には協力してあなた方を攻めるよう、要請が来たのだ。しかし、我々とサムライ帝国との友情は……」
その時です。遠くの方から波の上をぴょいぴょい飛び跳ねる者がやってきました。飛び魚よりも素早く波の上を駆け回るのは、あのちっちゃいニンジャです。サムライ帝国のお城から急いで知らせを持ってやってきたのでした。
その知らせはまったく同じ話でした。カンフー帝国の兵隊がサムライ帝国に向けて出発したということです。
若殿様はニンジャに尋ねました。
「それで、殿はなんと?」
ところが、ちっちゃいニンジャは首を横に振り、何も指示は無いと云いました。この一大事、総大将であるお殿様の指示が無いというのは、どういうことなのでしょう。
いろいろ考えられるのですが、まだ、若殿様に命令をすることが、今はまだ無いだけかもしれません。若殿様よりも重要な責任を負っている武将達が沢山いるのですから。
でも、何だか不安を感じて仕方がありません。そう感じたのか、若殿様と参謀は顔を見合わせました。
「これは……どういうことなんだろう」
「判りません。とにかく、急いで戻りましょう」
「よし、急ぐぞデカ助! おにぎり十個!」
「合点ッ!」
ピストル合衆国の時は只の空砲でしたが、今度こそ敵が攻めてくる大変な事態です。友情に熱いキムチ王国の艦長はもうほったらかしで、若殿様達は血眼で走り出します。
デカ助、再び櫂を両手に、もの凄い勢いで波をかき回します。それも、来るときとは比べものにならない勢いで、今度こそ空に飛び出さんばかりです。若サムライ一同は波にさらわれそうになりながら、必死で小舟に掴まります。
その大騒ぎの中で、参謀は尋ねました。
「城に戻って、戦う準備を?」
「……いや、僕達が戻ったって、大した足しにはならない。それになんだか、もの凄く嫌な予感がするぞ」
「それは、どういうことですか」
「全ては、殿次第だ――先回りして、馬の用意をしてくれ。僕達は殿のところに向かおう」
ちっちゃいニンジャはそう命じられ、小舟から飛び出して凄い勢いで波の上を駆け抜けていきます。
若殿様はその様子を見送りながら、繰り返しました。
「とにかく全ては、殿次第だ」
第五章 アップルパイ王国の魔王
(一)
お城の王女様は、ぐったりとベッドで横になっていました。未だに、リンゴしか食べていないのでしょう。そんな食事では、元気が出る筈がありません。体を作るお肉や、体調を整えるお野菜、エネルギーとなるパンやお米のような炭水化物もしっかり食べなくては、体が持つはずが無いのです。
(もうダメ……もう死んじゃう……)
流石の王女様も、もう限界のようです。とはいえ、こんな状態になるまでアップルパイを食べようとされないのは、王女様ゆえのプライドが頑なに拒んでいるためでしょうか。あるいは、それほどまでに、甘い物がお嫌いなのでしょうか。
しかし、人間ですから飢えには勝てないものです。
(もう何でも良い……食べよう……パイでもなんでも良い……でないと……)
王女様は覚悟を決めて、這いずるようにしてベッドから降りて、部屋を出ました。
「ひいっ……」
部屋を出た王女様はあたりの光景に驚きました。
もう、そこは既に「地獄」――お城の中は、アップルパイ地獄へと姿を変えていました。
見渡す限りアップルパイです。床も、壁も、どっちを向いてもアップルパイです。お城では何処でも、何処の誰もがアップルパイを焼いています。
アップルパイを焼いて、アップルパイを焼いて、アップルパイを焼いて、そしてアップルパイを食べて、焼いて、焼いて、焼いて、食べて、焼いて、焼いて、焼いて……。
明らかにアップルパイを食べるよりも、焼く方が上回っています。兵隊も、召使いも、誰もがアップルパイを無我夢中で焼いているのです。誰かが、大声を上げました。
『アップルパイを焼くのだ! 全ては我が国を救うため! 我が国が生きていくため! 我が国はアップルパイを焼き続けるしかないのだ! 我々こそがアップルパイなのだ!』
サムライ帝国に征服され、アップルパイを焼き続けるしか、生きる術がなくなってしまったのです。アップルパイを焼かなければ無惨に殺されてしまうと恐れているのです。誰もが白い服と白い帽子のコックとなって、ひたすらパイ生地を伸ばし、リンゴの皮をむき、クリームを泡立てて、ひたすらパイを焼き続けているのです。
ダメだ。もうダメだ。ここに居てはダメだ。
王女様は、「なんでも良いから食べよう」という決心を覆しました。お城の有り様を見て、空腹も吹き飛んでしまうような、とてつもない恐怖を感じたのかもしれません。あるいは、身震いするほどの嫌悪感だったのかもしれません。
王女様は、自分が飢えていることも忘れ、ふらふらと走り出しました。あっちでもない、こっちでもないと、アップルパイの迷宮を彷徨いました。
すぐ手を伸ばせば食べ物に手が届くのに、それさえ食べれば生きていけるのに、もはやアップルパイは、単なる自分の嫌いな甘いものでもない、もはや食べ物ですらない、恐ろしい物でしか無くなっていました。王女様は、とにかく怖い、恐ろしい、絶対にここにいてはいけない、早くここから離れるんだと、必死で駆け回りました。
そして、その地獄から脱出するのとは逆に、自分にとってもっとも恐ろしい場所へとやってきてしまったのです。
そこは、お妃様のお台所でした。その部屋こそ、アップルパイの根元、本拠地、中心地でした。そこで今も尚、お妃様はアップルパイを焼き続けているのです。焼きあがったアップルパイを積み上げ、それを更に部屋から押し出して、更に焼き上げては、積み上げ続けているのです。
そして、王女様は見ました。何処までも美しく華麗にアップルパイを焼き続けるお妃様の、その恐ろしいお姿を。
「……ここでお砂糖を入れて、お塩もほんの少し、お酒を少々……あら、良い匂いね。さあ、もっともっと甘くなあれ……美味しくなあれ……」
そうしてリンゴのお鍋をかき混ぜているお妃様のお姿は、まるで恐ろしい呪いの毒薬を煮立てている魔女のようでした。恐らく、実際に煮立てているのは只のリンゴで、呪いがかかっている筈もなく、毒薬のような悪い物は何も入っていないのでしょう。
しかし、そのお姿こそ恐ろしく、まるで何者かに呪われたようでした。もしかしたら、本当に呪われているのかもしれません。見入られてしまったのかもしれません。アップルパイそのものに。
王女様はそれまででした。もはや気力を失い、ふらりとその場に倒れてしまいました。
(二)
若殿様は、王国に出向いているお殿様達のところに戻るため、急いで馬を走らせました。一応、サムライ帝国のお城に立ち寄り、守りを固めるように残っているサムライ達に命じました。
実のところ、若殿様は文字通り若いので、命じるというほどのことも出来ません。ですので、残っている武将に現状の確認と、とりあえずの方針――城門を閉ざして、敵が来てもいっさい応じず、いざとなったら逃げようということだけ、決めた程度です。実際、それ以上のことは出来ないでしょう。
カンフー帝国に対し、下手に手向かいをしなければ、少なくとも民百姓には乱暴なことはしないでしょう。これもまた、キムチ王国の軍艦のもとに小舟で向かったのと同じく、そして、アップルパイ王国がサムライ帝国に全面降伏したのと同じ対応というわけです。
無論、残酷で乱暴な強盗のような相手でなければ、の話です。そうでなくても、降伏の後は、かなり不利な立場に追いやられるでしょう。アップルパイ帝国と同じように。
(だからこそ、サムライ帝国は強くなければならなかった。戦に強い国でなければならなかった)
馬に乗り、お殿様の元へと急ぎながら、若殿様は考えていました。
(国と国とは敵同士。戦に勝てなければ、自分達の国は無くなってしまう。他の国に従わなければならなくなる。そうなっては生きていくことすら、ままならない)
(だから、サムライ帝国は戦と共に生きてきた。戦は言葉だ。国と国が語り合う会話のようなものだ。だから、サムライ帝国はサムライが支配する国だったのだ)
(それが国だと、思っていた)
「若!」
突然、若殿様は参謀に声をかけられ、我に返ります。
「若! 一度、馬を乗り換えないと!」
「――おう!」
若殿様は自分達が乗っている馬だけではなく、乗り換え用の「空馬」を用意していました。同じように走るにしても、人を乗せてばかりいてはくたびれてしまうため、空馬と乗り換えなければならないのです。
若殿様は馬を止め、ついでに、少しだけ休憩をとり、おにぎりを頬張って食事をしました。そうしながらも、若殿様は深い考えに沈みます。
(戦が国の言葉……それが国というものだと思っていた。しかし、こうしてみると、いろいろな国があるものだ。戦ばかりが国の言葉ではないのだ)
(ピストル合衆国も戦に生きる国に見えて、実は違う。ピストル合衆国は強力な武器を作り、それを売ることを商売としている商人の国だ。戦が起こりそうな匂いがしたら、そこに駆けつけて武器を売りつける。敵と味方、両方に――)
(キムチ王国は、国王から民衆まで辛い物が大好きで、軍艦まで食べ物を辛くすることに夢中だ。しかも、それが素晴らしいことで、それを他の国に勧めることがとても良いことだと、本気で信じている。異なる味覚を持つ外国にとって、最悪だ)
(我々が占領したあの王国――今はアップルパイとやらに夢中だが、はて? 以前は確か違う特徴があったのだが、もはや、その名残すらない)
おにぎりを食べ終え、竹筒の水をゴクゴクと飲み干してから、若殿様は馬に飛び乗りました。他のサムライ達もそれにならいます。そして何も云うこともなく、先を急ぎます。若殿様の表情は暗く、尚も黙々と考え込んでいます。
(なぜ、そうなったんだろう。そこまで、国の個性や風土を塗り替えるほどに、あのアップルパイというお菓子に魔力があるのだろうか)
(キムチ王国の辛い物の押し売りは、大して広まりはしないのに)
(もしかしたら――)
ようやく、若殿様達は到着しました。不安に心を曇らせながら。
(もしかしたら、僕達は触れてはいけないものに、踏み込んでしまったのだろうか)
しかし、若殿様達は再びやってきたのです。触れてはならなかったアップルパイ王国に、再び、踏み込まなくてはならないのです。
(三)
若殿様は王国に入りました。若殿様は王国の城の、その城下街の入り口に立っているのですが、そこから動こうとしません。何故でしょうか。
なんだか、王国は静かでした。静かすぎます。なぜ、静かなのか、しばらく判りませんでした。あたりを見渡していた参謀は尋ねました。
「若、見張りがいませんね」
そう、街の入り口に立っているべき、見張りや門番がいないのです。
その理由が判るはずもなく、若殿様は「うん」とだけ返答しました。
いざ、街に入ってみると、静かに見えた街並みから、わずかですが、人々が活動しているのを感じ取ることが出来ました。
静かだと感じたのは、誰も表で歩いておらず、人の気配が感じられないためだったのです。
実は街は活発に動いているのです。
街の建物の煙突から煙がモクモクと立ち、中で人々が活動していることは想像がつきます。よく聴いてみると、人の歩く足音、食器を積み重ねる音、荷物を投げ降ろす音などが聞こえてくるのです。
では、その中で何をしているのでしょうか。無論、若殿様には判っています。付き添いの若サムライ達にも想像がついているでしょう。
ああ、デカ助はちょっと怪しいですが。
無論、人々は建物の中で一生懸命にアップルパイを焼いているのでしょう。しかし、こうして人の姿が見えないと、実は建物の中にも、人っ子一人、誰も居ないのではないか、と思ってしまいそうです。
誰の手でもなく、誰の考えでもなく、もはや、何の目的もなく、アップルパイが焼かれていく、アップルパイだけの街――。
実際、本当にそうなりつつあるのかもしれません。人に誉められたいため、有名になりたいため、あるいは、端に商売のため、自分が食べるため――そうした目的をもってアップルパイを焼いている人が、本当に残っているのでしょうか。
参謀は、若殿様が街の異様さに圧倒されていることを気遣って、無闇にせかしたりはせず、そっと促そうとします。
「若、参りましょう。殿のところに」
「いや」
若殿様は否定しました。そして、云いました。
「慌てても大して変わらないだろう。まず、寄りたいところがある」
「ああ――『街角レストラン』ですね」
「そうだ。まず、アップルパイがなんなのか、それを理解していこうじゃないか」
(四)
「アップルパイはただのお菓子です。みんなが焼いて、みんなが食べているのは、間違いなく普通のお菓子でしかありません」
そう答えたのは白い帽子と白い服の白ずくめの衣装を身につけた、「元」街角レストランのコックさんです。「元」と付けたのは、もうそこはレストランでなくなったからです。そこはもう、ただひたすらアップルパイを焼くだけの工場となっていました。
もはや、コックさんも狂ったようにアップルパイを焼き続けているのかと思いきや、意外と落ち着いて、若殿様の質問に答えてくれました。
「私がコンテストで優勝した理由は判りますか? 他の人のパイに比べて、もっとも甘かったからですよ。審査したのは子供達なんですが、子供は甘いのが好きでしょう? そりゃ私のを選ぶに決まってるんです。実は大人だって負けないくらい甘いのが好きなんです。塩加減も、実は甘さを引き立てるためだったりします」
「こちとら、商売ですからね。普通のご家庭でお料理するよりも、ぐっと味付けを濃く、より甘く感じるように作るんです。お料理によって、そして、相手にもよりますが」
「あなた方はサムライ帝国の人ですね。知ってますよ? あなた方のお刺身だって、お醤油をつけて食べますけど、お醤油はお刺身の甘みを引き立てるためで、脂身が多いほど高級なのは、脂身の甘さが好きだからです。無論、お国柄もありますがね」
「え? お妃様が、甘さの違うアップルパイをお出しした? そりゃ、いきなり甘すぎるものをお出ししちゃ、飽きられてしまうからじゃないですかね? 相手によって味付けを変えるのも、我々コックの常套手段、つまり、よく使う技の一つなんですよ」
「なんでこんなにみんな夢中なのか? うーん……判りませんね。お妃様が焼いているんだから、かもしれませんが。でも、子供だけじゃなく大人だって甘いのが好きですから、甘いお菓子を焼いて食べてさえいればそれで良いって云われりゃ、誰だって止めたくないじゃないですかね」
「さて、私から云えるのはこれぐらいですかね。では、仕事に戻らせて頂きますよ。さあ、そろそろ焼けたかな……」
若殿様達は仕事中に手を止めて、話してくれたことに礼を述べて立ち上がりました。参謀は何だかよく判らない顔をしていましたが、若殿様は静かな面もちで考え込んでいます。
参謀は頭をかきながら、若殿様に尋ねました。
「若には、何か判りましたか? 拙者には何とも……」
「うん。ごく自然な成り行きでこうなった、と云えばいいのかな」
「そんな、おかしいじゃないですか。自然な成り行きで、この王国をこんな姿に変わってしまうことなどありうるんでしょうか」
「そうだなあ……」
若殿様はすぐには答えず、夜空を見上げました――今はもう夜でした。夜空には星が瞬き、冷たい夜風がさわやかに駆け抜けていきます。街は相変わらず、パイを焼く甘い匂いが充満していたのですが、ほんの一瞬だけ、夜風がその匂いを吹き消してくれました。
「小さな小石が広大な水面の全てを揺るがす――と、爺様が云っていた。数多の魚が生きているからこそ、海は決して静まることがないのだ、とも」
「では、あの王国の妃が小石であったのだと?」
若殿様は少し苦笑いしながら、頭をかきました。
「たとえ話はほどほどにしないとな。僕は、爺様の云う『満腹の獅子は虫も殺さぬ』という言葉を信じて、決してカンフー帝国は攻めてこないと思っていた」
「そうですね。カンフー帝国は只の獅子とは違いますからね」
「あのお妃は小石だとしても、揺れているのは水面だ。水底に沈んだ小石はもう動かず、水面を揺るがすことはないが、波紋は水面の全てに伝わる。そして――」
「そして?」
若殿様は意を決したように歩き始めました。
「もしかしたら、殿が二つ目の小石だったのかもしれないぞ」
「……え?」
「さあ、行こう。殿のところへ」
(五)
若殿様はお殿様と最後に別れた閲兵場にやってきました。そこでチビ助が、「あれ? あれれ? あれれれれ?」と騒ぎ始めました。
「うちのサムライ達はどこにいったんだ? いや、誰がうちのサムライ達なんだよ!?」
騒然とするチビ助、呆然とするデカ助、唖然とする参謀、そして、愕然とする若殿様――。
(まさか――多少は想像はしていたけど、これほどまで我々サムライが変わってしまうなんて)
そこでは、何千人ものコックがアップルパイを焼いていました。それは、あの「街角レストラン」で出会ったようなコックが、無限に増殖したかのような光景でした。
その彼らはもちろん、人数から見て、この国の兵隊達と、サムライ帝国のサムライに間違いありませんでした。
しかも、誰もがうつろな目つきで、目の前に若殿様がやってきたにも関わらず、必死でアップルパイを焼いていました。声をかけても、誰も何も応じません。
業を煮やしたチビ助が、その一人の肩に手をかけて「おい、止めろ! 止めろと云ってるだろ!」と怒鳴り散らしましたが、その手を払いのけて、尚もパイを焼く手を止めようとしないのです。
そのサムライ達の変わり様は、若殿様の想像を超えていました。
もはや、誰がサムライで、誰がこの王国の兵隊なのか区別がつきません。しかし、それぞれが入り交じっているのは明白です。閲兵場の傍らには、王国の鎧が脱ぎ捨てられていたのですが、それに加えて、サムライが着る鎧甲もまた、入り交じっていたのですから。
平たい台でパイ生地を伸ばし、野外用のカマドでリンゴを煮立てて、パイを焼いて、焼きあがったパイを食べて、焼いて、食べて、焼いて、食べて、焼いて、食べて……。
「甘いか」
「うむ、甘い」
「いや、まだ甘くない」
「もっと甘くか」
「もっと甘くしよう」
「どんどん甘くしよう」
「甘く甘く」
「甘い甘い」
「まだまだ甘く」
そんなことばかりを念仏の様に唱えながら、サムライ達は必死でアップルパイを焼いているのです。焼いては食べ、食べては焼いて、自分達の焼いたアップルパイが、少しでも王国の味に近づけるように頑張っているのです――そう、頑張っているのです。
彼ら、サムライ達は頑張っているのです。巨大なカンフー帝国と戦うため、新たな生命線となる新しい食糧、アップルパイを焼けるようになるために、必死で戦っているのです。
この国の兵隊達も必死で教えているのです。サムライ帝国に占領され、この王国が生き続けるために、必死に頑張っているのです。戦っているのです。
若殿様が国に戻って、再び帰ってくるまで、それほど日数がかかっていないでしょう。その短い日数で、これほどサムライを変えてしまうものでしょうか。
ふと、参謀は投げ捨ててあった鎧を手に取りました。自分達のサムライの鎧甲と、そしてこの王国の鎧――それは、銀色に輝く美しい騎士の鎧でした。
ナイト王国――それが、この国の元々の名前でした。銀色に輝く鎧を身につけた、誇り高き騎士が守る、気高い気品に満ちあふれた王国だったのです。それゆえに、強く猛々しいサムライ帝国も、これまでは手が出せなかったのです。
「お、お前達……サムライの命、刀まで粗末にしやがって……」
再び、チビ助が騒ぎ始めています。鎧の他にも、腰に挿していた刀までもが閲兵場の傍らに置き去りにされていました。併せて、王国の騎士達が使う強力な槍も。
「あ……」
若殿様は思い出しました。槍と云えば、あの王女様が物干し竿に使っていた、あの槍と同じです。参謀に云いました。
「あの王女が心配だ。無事だろうか」
「我々は心配すべきは我々の主君、殿の行方ではないんですか」
「いや、殿は戦って死ぬ訳じゃないんだ。でも、あの王女は飢え死にしてしまうかもしれないぞ」
「いや、これだけ食べ物に囲まれているのですよ。流石に諦めて食べるのでは……?」
「あの王女こそ、誇り高きこの王国の末裔なんだ。自分の主義を貫くためなら、命だって惜しまない筈だ」
「では、急ぎましょう。殿にせよ、王女にせよ、きっとお城でしょう」
「ああ、気を引き締めていこう」
若殿様はそう云いながら、デカ助の口に飴玉を放り込みながら云いました。デカ助はもう少しでアップルパイに手を伸ばすところでした。
(六)
城に入ると、そこはアップルパイでした。
何を云ってるのか判らないって? いや、これが一番、判りやすい説明なのです。見渡す限り、アップルパイの山、アップルパイの柱、アップルパイの壁、窓を開ければアップルパイ、扉を開ければアップルパイ……。
「若、やはりデカ助は外で待たせた方が……」
参謀がそう云うのも無理はありません。城に入れば、いきなりアップルパイなのです。右を見ても左を向いても、アップルパイが積み上げられているのです。自分達だって、どこまで我慢が出来るか不安でしょう。ましてや、食いしん坊のデカ助が手を着けないはずはありません。ですが、若殿様は云います。
「いや、目の届くところに居ないとダメだ。チビ助、デカ助の肩に乗れ。しっかり見張ってろよ」
「合点!」
「さあ、王女は確か――どっちだったかな」
若殿様達にとって、このお城には前に来たことがあるといっても、まだ二回目です。不慣れな上に、辺りはアップルパイで充満しているのですから、迷うのは当たり前。そこをなんとか、参謀が頭を巡らせます。
「前に、中庭で洗濯物を干していましたね」
「では、城の中心か」
「急ぎましょう――デカ助でなくても、この匂いじゃ我々だって持ちませんよ」
一同、アップルパイをかき分けてお城の中心を目指します。途中、お城の人々にすれ違うことはありましたが、誰も若殿様達に構ってやしません。夢中でアップルパイの材料を運び込み、アップルパイを練り上げ、アップルパイを焼いて、アップルパイを積み上げて、アップルパイを運び出しています。多少なりとも役割分担があるようですが、誰もがアップルパイのことしか眼中にないようです。
そこに、誰かの声が響きわたりました。
『アップルパイ! アップルパイ! アップルパイ! アップルパイ! アップルパイ!! 全てはアップルパイのために! 全てはアップルパイ! 全てがアップルパイなのだ! この世は全てアップルパイだ! 全てがアップルパイなのだ! 我々こそがアップルパイなのだ!』
これを聞いた若殿様は真っ青になりました。もはや、狂っていると云っても良いでしょう。人々は自らアップルパイに狂い、なおも他の人々をアップルパイで狂わせているのです。こんなところに居たら、本当に自分達もアップルパイに狂わされてしまいそうです。参謀は若殿様を急かします。
「若、立ち止まってはダメです――若?」
「この声……アップルパイを叫び続ける、あの声は……アップルパイ……アップルパイと……」
大変! 若殿様の目がうつろになってきました! しかし、そこは参謀、
「えい!」
と、若殿様の口に何かを放り込みました。
「か、からい!」
「よく効くでしょう? ニンニクのとンがらし漬けです。あのキムチ王国でも最高の際物ですよ」
「た、頼む、水を」
「ダメです! お水は全てが終わってから!」
「厳しいなあ……うう、からい……くさい……」
「さあ、走った! 走った!」
若殿様は余計に足元がフラフラしてますが、参謀に追い立てられて、どうにか走り出しました。本当に、若殿様は良い家来を持ったものですね。後々は安泰でしょう。
(七)
どうにか中庭に到着しました。洗濯物が掛けられたままで、そこは誰もいません。
思えば、その洗濯物が掛けられている物干し竿こそが、この王国の騎士達が使う槍でした。サムライにとっては魂と云うべき刀と、同じ様なものでしょう。若殿様は少し悲しい気持ちになりましたが、そうも云っていられません。
「居ないな……」
「この辺の小部屋が寝床ではなかったですか」
「あった! ここが王女の寝床だ!」
そう叫んだのは、デカ助を肩の上から操るチビ助です。指示を受けるのを待たずに、デカ助を操縦しながら方々の部屋を探し回ってました。
「で、王女は居たか?」
「いえ、寝床はもぬけの殻で」
「うーん……」
こうしている間にも、まるで霧や靄、毒ガスや放射能、あるいは、魔物が放つ瘴気のように、アップルパイが濃くなっていきます――それって、どんな状態かって? 説明できませんよ。そんなこと、想像したくもありません。私だって、今日も明日も、美味しくアップルパイを食べたいのですから。
ともあれ、どんどん危険な状態になりつつあります。参謀は顔をしかめて云いました。
「これ以上は本当に我々も持ちませんよ。もう打ち切って、身の安全を確保しないと」
「いや、出来れば殿にも会っておきたいし、この城の要所だけは巡って行こう」
「……そうですか。では、もう一つ、アレを食べていただきましょう」
「アレって――アレ?」
参謀はコクリと頷き、今度は全員の口に「アレ」を放り込みました。
「ぐはぁ! からい!」
「くさい!」
「ひぃー!」
もちろん、アレとはとンがらしのニンニク漬け……じゃなかった、ニンニクのとンがらし漬けでした。いやまあ、どっちでも大して違いはありませんね。
若殿様はかえって意識を失いそうになりましたが、そこはなんとか踏ん張って、先へ進もうとしましたが――どっちへ?
「よし、あっちだ」
「いや、こっちじゃないですか」
「よく見ろよ、そっちだ」
「えー、どっちだよ」
足は迷走、目は朦朧として、頭は妄想、ニンニクのとンがらし漬けが流石に効き過ぎたようです――いや、まだ、若殿様にはとっておきの助け船がありました。
すとん――と、何者かが若殿様の肩に飛び乗りました。そう、あのちっちゃいニンジャが若殿様に追いついたのです。そして、あっちです! と、アップルパイの壁を指さしました。
チビ助、若殿様の指示を待たずに、
「デカ助、やれ!」
「どっせーい!」
どどーん!
デカ助はその巨体に身を任せ、見事にアップルパイの壁を吹っ飛ばします。
「よいしょー! どすこーい!」
どどーん!
どかーん!
あの王女様がグルグルと迷っていたアップルパイの迷宮を、一直線に突っ切っていきます。早い早い、あっという間に到達しました。アップルパイの中枢、お妃様のお台所に――。
(八)
王女様はそこにいました。王女様は倒れていました。倒れ伏した王女様のその先に、お妃様が背を向けて立っていました。そして、尚もアップルパイを作り続けていました。
王女様は倒れたままでした。お妃様は王女様に構ってはいません。無言で、パイ生地を長い長い麺棒で伸ばしています。薄く、薄く、引き延ばされた生地を折りたたみ、更に伸ばして、パイ生地を何層にも重ねていくのです。そんな緻密な作業を経て、ようやくパイ生地が仕上がっていくのです。
若殿様は、その光景をジッと眺めながら、ゆっくりと王女様と、そして、お妃様に近づいていきました。流石の参謀も何も云いません。流石のチビ助も、勇み立って刀を抜いたりしません。デカ助は……何も判ってないのかもしれませんが、何も動じず、何か食べたいとも云いません。一同、身動きができないほど、恐ろしい光景でした。
確かにそれは、とても恐ろしい光景でした。パイを焼くためのカマドは燃えさかり、パイ生地を伸ばすお妃様を赤く赤く照らしてます。人が倒れているというのに、ましてや、その人が王女様であるというのにいっさい構わず、パイ生地を伸ばして、クリームを練り、リンゴを煮立てて、アップルパイを焼き続けているのです。その作業に夢中で王女様のことに気づいていないのでしょうか。
いえ、そうではありませんでした。既に気づいていました。王女様はともかく、若殿様が、ここにやってきたことに。
「その腰の刀で、私を成敗しにきたのですか――小さなお殿様?」
と、仰いました。
若殿様は既に、腰の刀に手をかけていました。いつでも、刀を抜けるように。
「それは、あなた次第です」
若殿様は、そう答えました。
(九)
「ならば、心してお答えしなくてはいけませんね。何をお聞きになりたいのですか?」
そう云いながらも、お妃様はパイ生地作りを止めようとしません。振り向かず、ひたすら麺棒を振るって、生地を伸ばし続けます。
若殿様は、例え若くとも立派なサムライです。同じく若くとも、頼もしい家来達を率いています。そのサムライ達を相手にまったく怯えることなく、背を向けたまま、パイ生地づくりを止めようとしません。その姿に、威厳、風格、気品すら感じます。
しかし、若殿様は別なことを感じました。それは自分の母上様のこと――台所に立って炊事をしている母親の後ろ姿に、「ただいま」と云いに来たような、そんな穏やかで暖かい光景を思い浮かべていたのでした。
(案外、悪い人ではないのかもしれない)
一瞬、若殿様はそう感じたのですが――王女様が倒れたままで、それはほったらかしなのです。
お妃様は、機先を制して、尋ねられる前に自分から仰いました。
「やはり、王女様は本当に誇り高いお方なのですね。あくまでも、私のアップルパイはお召し上がりにならないのです」
それを聞いた若殿様は尋ねました。
「ならば、何故、手を打たないのです。助けようとしないのです。そもそも――」
若殿様は顔を引き締め、そして厳しく問いかけます。
「どうして、この王国をこんなふうにしてしまったのですか。もう、国として成り立たっていないし、お陰で、我がサムライ帝国も――」
「こんなふうに?」
お妃様はようやく振り向いて、若殿様を遮りました。
「この国は元々、誇り高く、高貴なお国柄でしたが――ご存じないですか? 私が来る前の、前のお妃様は、その誇り高き故に亡くなられたことを。その誇り高きお国柄が、かえって災いであったことを」
「え……?」
「そして、あなた方のお国は、周囲の国々にとても恐れられているのです。絶え間なく戦争を続ける恐ろしい国だと」
「……」
それを云われると若殿様は何とも云えなくなってしまいました。父親であるお殿様なら何かを言い返したかもしれませんが、若殿様は戦がそれほど好きなわけではないのです。
お妃様は話を続けます。
「かつて、この王国とも戦争をしたこともあったとか。両国は疲弊して、大勢の人が戦死して、それでも、どちらかの国が豊かになった訳でもなく、何も良くならなかった」
「……」
「勇ましいあなた方なら、今の有り様は良くないことかもしれませんね。でも、誰かが死ぬわけでもなく、みんなで仲良く、そして可愛らしく甘いお菓子を作っている今の方が、私は好きです」
「……そうかもしれない。でも、この王女様のことは? どうしても、あなたを受け入れられない相手は……王女様は敵なんですか。そうして、倒れていることが良いことだとお思いですか」
お妃様はすぐには答えず、倒れている王女様をジッと眺めていました。その様子は、なんと答えて良いのか、迷っているようでした。
それでも、お妃様は頷いて、答えました。
「敵と云えば、そうですね――その通り。王女様は敵です。王女様の中にある、誇り高き気品を砕いてしまいたかった」
お妃様は王女様の側に寄り、跪いて、王女様を助け起こしました。まだ、気を失ったままの王女様の髪をそっと整えながら。
「私は意地悪な気持ちで、倒れる王女様の姿を見ていました。それでも――こうなってまでも、私のアップルパイを食べないのかと。私は――」
お妃様は苦笑いで、悲しげに云いました。
「私は、悪いお妃様ですね。あなたに成敗されても仕方ない……新しい母親になり損ねた、悪い継母です」
若殿様は何も云わず、ジッと話を聞いていました。既に刀から手を離しており、もちろん、成敗するなどという素振りはありませんでした。
お妃様はしばらく、王女様の髪を撫でていましたが、改めて若殿様に向き直り、云いました。
「この王女様のこと、お願いできないでしょうか。私はもう、お妃にも、新しい母親にもなれない、アップルパイを焼き続けるだけの女です」
若殿様はしばらく考えていましたが、心を決めて、頷きました。
「判りました。王女様が嫌だと仰らなければ、拙者がお預かり致します」
「ありがとうございます、お殿様」
「……ええっと」
若殿様は振り返り、若サムライ達に頼んで王女様を運ばせようと考えますが、どうしたものか。相手は何しろ王女様だし、どんな担ぎ方をすればいいのか、ひと思案が必要です。力仕事なら、デカ助一人で十分ですが、王女様ほどの方をおんぶさせたり、肩に担がせるのもどうかなぁ、などと悩むところですが――。
ぴぃっ!
かん高い指笛が響きました。それはニンジャが使う掛け声でした。
すると、若殿様に仕えるちっちゃい方ではなく、お殿様に仕えていた大人のニンジャ達が、ひょいひょいと姿を現したのです。五・六名は居たでしょうか。若殿様やちっちゃいニンジャが何も云わずとも事情は判っているみたいで、長い布を広げて、いわゆるタンカを用意しました。そして、王女様の体を二人掛かりでそっと乗せようとした――丁度、その時!
『さあみんな! この世はアップルパイだ!』
また、あの声です。地の底から響くようなその声に驚き、一同はビクリと身体を震わせました。とはいえ、驚いたのは若殿様達だけです。もうお妃様やニンジャ達は慣れっこでしょう。
『さあ、アップルパイだ! 今日もアップルパイ! 明日もアップルパイ! いつでもアップルパイ! 全てがアップルパイなのだ! さあ、もう焼けたか! まだ焼けないか! 焼いたら焼け! 焼けたら食べろ! 食べたらまた……』
この声の主はいったい誰なのでしょう――若殿様は既に気付いていました。その声の主が誰なのか。
お妃様は答えました。
「お父上は、玉座の間です。ご案内いたしましょう」
(十)
『アップルパイ! アップルパイ! アップルパイ! アップルパイ! アップルパぁーーーい!!』
そんな風に叫んでいたのは、なんと、若殿様のお父上、お殿様だったのです。サムライ達を率いていた手腕で、今度はアップルパイの陣頭指揮を執っているのです。この国に戦をしかけたのは何のためだったのか、もう絶対に忘れています。
そこは玉座の間でした。そこはお城でもっとも大きな所で、学校で云えば体育館ぐらいはあるでしょうか。普段は、奥の玉座に王様が座り、それに向かって赤くて長い絨毯が敷かれています。その両側に大勢の家臣や騎士が居並び、王様が客人を迎えて謁見する、お城でもっとも格調の高い場所なのです――そう、普段なら。
今では、アップルパイの材料が高く積みあがり、アップルパイを作るための道具が散乱し、アップルパイを焼く為の即席のカマドまで据え置かれて、もうもうと煙が上がっています。もう、王国の格式なんて欠片も残っていません。そして何よりも、うず高く、山のように積み上げられたアップルパイ……もうなんだか、とても食べ物には見えないのですが。
その玉座の間では多くのサムライ(だった人)や、王国の騎士(だった人)が入り交じり、一生懸命にアップルパイを焼いています。そう、一生懸命にです。
更に、その玉座の間の中心では、サムライ達が忠誠を尽くすべき、若殿様の父親であるお殿様の姿がそこにありました。
そのお殿様の姿は、もうとても、お殿様などとは呼べない有様でした。鎧甲は(当然ながら)脱ぎ捨てて、コックと同じ白い服と白くて高い帽子をかぶり、周囲の武将やサムライ達と、この王国の大臣や召使いなどもひっくるめて、アップルパイを焼く陣頭指揮を執っているのです。周囲に焼きあがったアップルパイを高く積み上げ、叫んでは食べ、食べては叫び続けているのです。
その自分の父親の姿に、若殿様は唖然としました。背後の参謀を始め、若サムライ達も同じです。ぽかんと口を空けたまま塞がりません。お殿様は、もう完全におかしくなってしまったのでしょうか。
その時、そのお殿様のすぐ脇の方で声がしました。「もういい加減に黙らんか。騒々しい」と――それは、この王国の王様でした。
王様もまた、白いコックの格好に身を包み、自らの手でアップルパイを作り続けているのでした。お殿様は顔を真っ赤にして云い返します。
「騒々しいだと? 何事も気合いだ! 気合い損なって、アップルパイが焼けるものか!」
「では、あんたはアップルパイの何を知っているというのだ? まったく――ほれ、焼けたぞ。今度こそ完璧だ」
「むむ、焦げておるではないか」
「その焦げ具合が良いのだ」
「なんだと――(もぐもぐ)――やっぱり焦げてるだけではないか。ほれ、自分で食って見ろ」
「なにい? そんな筈は――」
まったく酷い有様です。大声を張り上げてみんなを叱咤するところは、多くのサムライ達を指揮していたお殿様の健在ぶりを物語っていると云っても良いかもしれません。しかし、その大声と気合いをアップルパイに振り向けられてはたまりません。もう既に夢中だった両国の家来達は、尚更、無我夢中でアップルパイを焼き続け、もはや止めることも、休むことも許されなくなってしまいました。
焼いては食べ、食べたら焼いて、倒れたら眠り、起きたら食べて、焼いて、食べて、焼いて、食べて、焼いて食べて焼いて食べて焼いて食べて焼いて食べて焼いて食べて……。
唖然としてみている若殿様に、お妃様は云いました。
「酷い有様かも知れません。おサムライ様にとっては」
「確かにそうです。ですが――」
若殿様は、ためらいながらも、認めました。
「これなら、戦にもならないし、殺し合うこともない。両国が殺し合うこともなく、一つのことに夢中になっている」
無論、若殿様は不満が無いわけではありません。死に勝る不幸は無く、両国の争いが止むのならば、本当に仕方が無いことなのでしょうか。
サムライの誇りは? 騎士のプライドは?
(ただ、殺し合うだけの伝統なら、損なわれても良いのでは無いか?)
そう、若殿様が考え始めた、その時です。今まで黙っていた参謀が、前に進み出ました。
そして、お妃様に向かい、云いました。
「失礼、あなたはカンフー帝国の姫君でしたね?」
第六章 アップルパイ王国の崩壊
(一)
繰り返します。参謀はお妃様に向かい、云いました。
「失礼、あなたはカンフー帝国に姫君でしたね。あの帝国から、新しいお妃として嫁入りしたのは有名だ。ただ、気になるのは――」
お妃様は、黙って、参謀の云うことを聞いていました。参謀は構わず、問いつめます。
「あなたは、アップルパイを食べていませんね? その変わらぬ美しさが物語っている。とても、アップルパイに夢中とは思えない」
お妃様は落ち着いて、「美しいと誉めていただいて恐縮ですが」と前置きしてから、言葉を返します。
「私はただ、食べるより焼く方が多いだけ。申し上げたはずです。私はこの誇り高い王国で上手くやっていくため、夢中でアップルパイを焼くしかなかったのだと」
「では、あなたは何を食べて生きている?」
いよいよ、参謀は強い口調で問いつめます。
「あなたはそちらの王女様と違って、いたって健康だ。見ろ! 我が主君の顔色を! あなた方の国王の体つきを! 既に異常が出始めていることが判らないか! お菓子だけを食べて、人が生きていける筈がない!」
「……」
「あなたは意図的にみんなをアップルパイに狂わせたのだ! パイを食べていない王女様に続いて、あなたの王国の人々も、例えすぐに死にはしなくとも、いずれは病で倒れていくだろう。人は、肉も野菜も食べずして健康を保てない体なのだ。みんなが夢中になっているのを見下しながら、自分だけは健康な食生活を保ちつつ、王国を破滅に追いやっていたのだろう――違うか!」
そう問いつめられ、お妃様は何も云えなくなりました。いよいよ、参謀は『王手』を仕掛けました。
「全てはあなた方、カンフー帝国の陰謀だ! あなたを送り込んで、この王国と我々のサムライ帝国、双方を骨抜きにする計画だ! 既にカンフー帝国の兵が、我がサムライ帝国に攻め込もうとしていることは知っている。全てはそのお膳立てだったのだ」
「それは……」
「さあ、答えなさい。アップルパイに夢中になっていると云いながら、たった一人だけ、尚も健康と美しさを保っているあなたは、いったい何を食べて生きているのだ!」
「ワシからの仕送りじゃよ」
お妃様が答えるより先に、別の声が背後から聞こえてきました。それは年老いた老人の声でした。
「お初にお目にかかる。ワシはカンフー帝国の皇帝――つまり、お前さん方の宿敵の、その親玉じゃよ」
そう、名乗りを上げました。
(二)
若殿様達はすっかり取り囲まれていました。若殿様達が話をしている隙に、大勢のカンフー帝国の兵士達が侵入して、若殿様達だけでなく、サムライや騎士、お殿様や王様達を、ぐるりと取り囲んでいたのです。こちらは誰も武器を持っておらず、パイ生地を伸ばす麺棒や、リンゴの皮を剥くナイフでは戦いようもありません。サムライや騎士達は戦うこともできず、両手を上げて降参する他はありませんでした。
(サムライ帝国に攻め込もうとしていた筈では?)
若殿様は、そう疑問に思ったのですが、その疑問を解消する余地はありません。敵に囲まれている大変な事態です。
勝利者は余裕綽々、皇帝と名乗った老人は、「ちょっと座らせてもらうよ。どっこいしょ」と云って、王様が座るはずの玉座に、悠々と座り込んでしまいました。
そして若殿様の家来である、参謀に向かって云いました。
「お前さんの見方は正しい。じゃが、『王手』をかける相手が違ったな。そのお妃であるワシの孫娘は、ワシの『手駒』にすぎん。『手駒』にとって、計略や陰謀など知ったこっちゃ無いよ。しかも――」
皇帝は、王様とお殿様を見て、ニヤリと笑いました。
「もうすでに、ワシの打つ手で『詰み』が完成しておる。時、既に遅しじゃ。ふふっ……あっはっはっはっは」
更に、皇帝陛下は大笑いしたのですが――、
「なんちゃってな。そんな訳がなかろう」
と、舌をぺろり。若殿様は「え?」と首を傾げました。
(ちなみに、『王手』や『手駒』、『詰み』というのは、将棋に使われている言葉です。ここでは解説はしませんが、ご存じない方は、是非ともルールを覚えて遊んでみてください)
(三)
若殿様は尋ねました。
「初めから、この王国や我がサムライ帝国を征服するつもりではなかったと云うのですか」
「ああ、その通りだとも。ワシの孫娘をこの王国に嫁に出したのも、その孫娘がお菓子が好きだったのも、何の考えも企みもなかったのじゃ」
皇帝は手招きをします。その側にお妃様は近づき、「お久しぶりです、お爺様」とお辞儀をしました。皇帝は話を続けます。
「孫娘は悩んでおってな。この王国で上手くやっていくにはどうすれば良いだろう、とな」
「それが、アップルパイであったと?」
「そうじゃ。特に企んでいた訳ではないよ。考えてみよ、普通のお菓子を普通に作って、それがここまで国を狂わせるなどと、誰が思う? 恐らく、人の意識が渦巻いて、怒濤のように流れてしまうのも、歴史上、珍しいことではない。民衆の起こす『革命』や、お前さんところでいう『百姓一揆』も、そういうものじゃろう」
「はあ……そういうものですか」
「無論、流行らせようという意識は、孫娘にあったのじゃろう。少々、やり過ぎたと思うがな。革命の扇動は時に人々から疑われ、懸念の目を向けられるが、お菓子なら警戒されない」
「……成る程」
「そして、この王国は狂いだし、そこに、お主らの国が食いついた。お主らさえ、この国に手出しをしなかったら、こんな有り様にはならなかっただろうよ」
「どうして、そう思うのです?」
「如何にアップルパイというものが旨いお菓子だとしても、いずれは誰だって食い飽きるし、そっちの若いのが云った通り、健康を害して、もっとまともな食事をしなければならなくなる。こんなものは、一時的な流行にすぎん」
それを聞いた参謀は、自分の意見を拾われたことに喜ぶわけでもないのですが、腕組みをして頷いています。意見が一致しているといった様子です。
そして、参謀は口を挟みました。
「では、一時的な現象で、いずれは収束する筈であったと?」
「ああ、その通りだとも。我がカンフー帝国の古い歴史の中でも似たようなことがあったし、意図的に起こすことも可能で、その手法を孫娘が使っただけじゃ。そして、その効果はいずれ消えていくはずじゃった――しかし」
「しかし?」
「お主らが食いついて、そうさせなかったのじゃ。しかも国の存亡という大層な話にしてしまったために、尚更この国を狂わせ、お主らの国をも食らい尽くしてしまったのじゃよ――まあ、お陰でワシらは、大した苦労もせずに両国まとめて征服できたのじゃがな」
「やはり……父上が二つ目の小石であったのか」
ぼそりと、若殿様は呟きました。少し肩を落としながら。
云い方は悪いのですが、「自分の手で、自分の墓穴を掘った」と云えなくもない結果です。しかも、若殿様は前からその予感をしていただけに、悔しくて仕方がないようです。
そんな若殿様を皇帝陛下はなだめました。
「人を殺すのは刃物ではなく、刃物を持った者の仕業じゃ。征服したのは、このワシじゃよ――もっとも、このアップルパイ騒ぎを利用したのはワシじゃが、ワシが企んだわけではない。こんな風になれば良いとは思ってはいたがな」
「――え?」
「そんな風になれば良いな」というのは、以前、若殿様自身が使った言い回しです。この王国に攻め入る前に挑戦状を勧めた時にも、そんな風に考えていました。
(この皇帝は、うちの爺様に似ている。僕はこの爺さんを好きになれるかも知れない)
敵であるはずの相手でしたが、若殿様はそんな風に思いました。
しかし、油断はできません。この現場で自分達の将来やサムライ帝国の行く末がかかっているかもしれないのです。
ただし、もう時は遅すぎました。
さて、考察はここまで。皇帝は改めて、実質的な話を始めました。
「さて、この王国はもうワシの支配下にある。といって、国民や兵士達のほとんどは気づいておらんかもしれんがな。お前さんのサムライ帝国も同じじゃよ。もうすっかり征服しておる」
若殿様は一瞬、顔が青くなりました。本国の城に残っている留守番組の武将やサムライ達はどうなったのかと――皇帝はすぐに察して、云いました。
「お前さん方の城で幾らかのサムライ共が頑張っているがな。戦いにはなっておらぬし、ワシの兵隊共にも、抵抗がなければ手を出すなと云ってある。ただし――」
「ただし?」
ここで初めて、皇帝は皇帝らしい、厳しい顔つきをしました。若殿様をギラリと睨みつけます。
「そこから、逃げることだけは許す。戦うというのなら容赦はせぬぞ」
「ぐっ……」
若殿様は拳を握り、思わず顔をしかめました。しかし、こうなっては是非もありません。皇帝は厳しく云います。
「城を明け渡せ。ワシがこの王国と一緒にまとめて面倒を見てやる――面倒といえば、本当に面倒くさいことじゃ」
「面倒くさい?」
「ああ、面倒じゃし、我がカンフー帝国には余計な出費じゃよ。お前さん方を征服したら、お前さん方に飯を食わせて面倒を見てやらねばならんからのう」
「ああ、成る程」
「しかし、尖った性格のサムライ共が、食うや食わずで辺りの国々に攻め込んでおるとなれば――我が帝国はどうってことはないが、他の小さい国々から泣きつかれては、放っておけなくなってのう」
「……」
『カンフー帝国は攻めてこない』という若殿様の予測は遠からず当たっていた訳ですが、もう少し広い情勢を見るべきでした。そんな風に、若殿様は考えていました。
そんな若殿様をなだめるように、皇帝陛下は、少し優しい口調になって云いました。
「なあに、我が帝国は大きい。お前さん方の国も食うや食わずで困っておったのじゃろう? おまけにサムライ共は、人に頼れば弱みを掴まれると、向こう意地を張ってきかない」
「……そうですね。サムライの、どうしようもないところです」
「ふむ――それでは、この王国とお前さんの国は、我がカンフー帝国が支配する。もう、両国とも、この世から無くなったのじゃ」
再び、皇帝の目はギラリと光り、若殿様を睨みつけました。さあ、結論を出さなくてはなりません。
「お前さんはどうする? 降伏か、戦うか。それとも、逃げるか」
(四)
降伏するか、戦うか、それとも、逃げるか。
しばらく、若殿様は間をおきましたが、迷い無く、答えました。
「逃げます。逃げて――そして、再起を図ります」
そう力強く答えました。背後の若サムライ達も強くうなづいて、そうだ! と握り拳を固めます。
まだ若くとも立派なサムライ達です。ここに強く結束しました。
その様子に、皇帝は微笑んで、
「よかろう。お前さん達は既に、どうしようもない立派なサムライ達という訳じゃ。よきかな、よきかな」
そして、このまま別れることとなりました。この国から退散しますが、本国であるサムライ帝国に戻ることもできません。しかし、立派な家来達も居ることですから、何も恐れることはありません。何事も恐れず、将来に向けて進まなくてはなりません。
取り囲んでいたカンフー帝国の兵士達は、若殿様達の為に道をあけました。そして、若殿様が去れば、閉ざされるのでしょう。そして父親である、お殿様は捕らえられたまま。
お殿様は夢中になっていたアップルパイを取り上げられ、取り囲まれて、何が何だか判らなくなったようで、ぼんやりとしていました。
息子として、若殿様は声をかけるべきでしょうが、あのお殿様の様子では、なんだか声をかけづらくなってしまいました。これまで、力強く国を統治していた父親があんな有り様なのです。きっと、お殿様も合わせる顔が無いでしょう――正気に返れば、ですが。
そして皇帝からも、お殿様に近づくことは許されませんでした。「後ろに未練を残すな。さっさと行け」と、強く促されながら。
ただ、立ち去る最後に、あのお妃様から呼び止められました。
「王女様のこと、よろしくお願いします。それから――これを」
と、何やら袋に入ったものを手渡されました。若殿様が、何でしょう、と首を傾げると、お妃様は答えました。
「私がアップルパイを焼きながら食べていたものです。お菓子が大好きだけど、どうしても欠かすことが出来なかった故郷の味――それは、ギョーザです。お肉やお野菜を包んだお料理で、とっても美味しいですよ」
最終章 新たな王国へ
(一)
(だめよ……だめ……)
(だめよ……私は……私は……)
(私は……甘い物が苦手なのよ……っ!)
(いやああああああ……っ!!)
「はっ」
王女様は目を覚ましました。そして、辺りを見渡そうとします。でも、体が云うことを聞かず、起きることもままなりません。
見上げた天井は見慣れない造りで、辺りには、竹で編んだザルや素焼きの壷など、粗末な生活品で充満しています。そして、自分が横たわっているのはベッドではなく、つぎはぎだらけの薄いお布団でした。
更に、自分が見慣れない服を着ていることに気がつきました。綺麗で華やかな色合いの布地で、それを帯で締めた、キモノというサムライ帝国の衣装でした。
ふと、一人の小さな女の子に顔を覗き込まれていることに気がつきました。その女の子は、同じ様なキモノを着ていました。
王女様が目を覚ましたことが嬉しいのか、ニコニコしながら王女様を助け起こしました。どうやら、ずっと看病してくれていたようで、傍らに水の入った桶と絞った手拭いが置いてあります。そして、お茶を煎れた湯飲み茶碗を、王女様に手渡しました。
驚いたのは、次の瞬間です。女の子は、ぴゅっと飛び跳ね、どこかに消えてしまったのです。
「……?」
王女様は首を傾げながら、お茶を一口。美味しいお茶でしたが――。
「か、からい!」
(二)
「からいか」
「うむ、からい」
「いや、からくない」
「まだ、からくないぞ」
「よし、とンがらしを」
「もっと、とンがらしを」
そんなことを云い合いながら、若者達がとンがらし漬けを漬けているのです。いったい、何を漬けているのでしょう。白菜でしょうか。大根でしょうか。それとも……ニンニク?
その横を、ちっちゃな女の子はぴゅーっと駆け抜けていきました。やがて、聞こえてきました。ざざん……ざざん……という波の音が。
そこは、キムチ王国の漁村でした。そして、その女の子は黒装束を脱いだ、あのちっちゃいニンジャだったのです。
そして目指すは新しい主君、若殿様の元へ――。
(三)
「では、若の爺様というのは漁師だったのですか」
「そうなんだ。僕の母上は元々漁師の娘で、サムライの家系じゃなかったんだよ。たまたま、父上が漁村に視察で来たときに見初められてね」
そんなことを話しているのは、沖合まで小舟を出して海釣りをしている若殿様と参謀でした。
「それで、若は海にお詳しいのですね」
「よく、母上に連れられて里帰りしていたからね。爺様とこうして、同じように釣りをしながら、いろんなことを教わったものだよ」
「へええ……でも、漁師のお爺様が戦のことまで、よくお判りですね」
「ああ、物事は何でも同じだと、それはそれでお説教されたよ」
「はあ、そういうものですか」
「聞かされるうちはうんざりしていたけどね。だんだん大人になってくると、意外と役に立つことが多くて……おお!」
若殿様の釣り竿がぐいぐい引いています。これは大きい! 二人はすったもんだの末に、
「やった! 若、やりましたね! 鯛じゃないですか!」
「よおーし、これは幸先がいいぞ!」
「若、どうします? 塩焼きですか?」
「いやあ、釣ったばかりの鯛は、すぐにお刺身にしたほうが」
と、楽しい議論の最中に、遠くの海岸から、波の上をぴょいぴょいと飛び跳ねてくる者が居ます。そうです、あのちっちゃいニンジャです。
「若、どうやら王女様がお目覚めのようですね」
「ああ、さっそくこの鯛を食わせてやろう。お粥に刺身をいれたら、生煮えになって旨いんだ」
(四)
「私のお母様は、病気で死んだの」
王女様はゆっくりと話し始めました。若殿様が作ってくれた、鯛入りのお粥を何杯かおかわりして、お腹が満たされて気持ちも解れてきたのでしょう。
「どんな病気だかよく知らないけど……お母様は助からなかった。なぜだか判る? お医者様に見せるのが嫌だったの。とても気位の高い人だったから、身分の低い医者なんかに体を触られたくないって。それでは、お医者様もどんな病気だか判らず、どんなお薬を用意してよいかも判らなくて」
「ああ、前のお妃様のことは、少し話を聞いてはいたが――ちょ、ちょっと婆さん。もう、とンがらしは入れないでくれ。僕達には十分からいから」
若殿様は、お婆さんがとンがらしで山盛りになっている籠を抱えて、お鍋に流し込もうとしているのを慌てて引き留めました。お婆さんは、からさが足りないんじゃないかと不安で仕方がないようです。いや、良い人なんですよ? お客様を、とても気遣ってのことなんです。
ここはキムチ王国の片隅の漁村で、若殿様達はそこでご厄介になっていました。ちなみに、あの漁船が取り囲まれていた事件の時の、軍艦の艦長の紹介でした。「いやあ、大変なことになりましたなあ」と心配し、若殿様と知り合ったのも一つの縁と、何かと手助けを申し出てくれたのです。
王女様はそのお婆さんの様子を微笑ましく思いながら、話を続けました。
「私はそうでもないと思っていたの。お父様は割とおおざっぱな人だから――でも、あくまでもアップルパイを食べなかった自分のことを思い返すと、ああ、やっぱりお母様の娘なんだなって」
「判らないさ。人は変わるものだと――」
「また、爺様ですか?」
と、ここで参謀が口を挟みましたが、今度は違ったようです。若殿様は苦笑いで首を振り、
「いや、僕だよ。戦一本槍の僕の父上があんな風になるなんて、誰が想像しただろう」
「まったくです――お、帰ってきましたよ」
「おーい、今、戻ったぞー!」
と、元気イッパイにやってきたのは、チビ助にデカ助です。といっても、デカ助の方は相変わらず呆然としてますが。
若殿様は立ち上がり、出迎えました。
「やあ、成果はどうだい?」
「豚肉に鶏肉、野菜は白菜、人参、椎茸、えのき茸、お葱に生姜――若の方は?」
「おう、僕もたくさん釣ったし、あの艦長がずいぶん分けてくれたよ。よーし、今日は寄せ鍋だな」
後ろで聞いていた王女様は、沢山の食材を耳にして、早くも胸を躍らせましたが――はて、寄せ鍋って何だろうと、小首を傾げています。
若殿様は笑って答えました。
「大きなお鍋で何でもかんでも煮込んで、好きな物を好きなだけ食べる鍋料理だよ――そうだ、僕達も寄せ鍋で行こう。いろんな顔をした僕達だけど、一つの鍋でグツグツ煮込めば、必ず上手くやっていけるさ」
若殿様は高らかに宣言しました。
「さあ、寄せ鍋王国の誕生だ!」
(五)
さっそく、みんなは建国に取りかかりました。
若殿様は大きな魚も小さな魚も、そして参謀は鶏肉や豚肉を上手に捌いていきます。その隣で、(今度は刀から包丁に持ち替えて)白菜や人参、お野菜ばかりをサクサクと切り刻みます。デカ助は大きな大きなお鍋をガシガシとたわしで洗っています――そう、お鍋は小さくては間に合いません。
やがて、大勢のサムライ達が到着したのです。ナイト王国と共に崩壊してしまったサムライ帝国の留守番組です。大勢といっても、サムライ全体から見ればほんの一部ですが、新たに若殿様に仕える決意の元に集まりました。
実のところ、あの王国でのお殿様の顛末について、みんなは知らなかったので、説明が大変でした。とはいえ、お殿様やサムライ達の大半が捕まり、カンフー帝国の大軍に取り囲まれたとあっては是非もありません。
そして、あのニンジャ達も集まりました。ニンジャについては一悶着がありました。
それは、「どうして、お殿様の側についていながら、サムライらしからぬ醜態に落ちるのを――つまり、アップルパイに夢中になってしまうのを、黙って見ていたのか」ということです。
そこで、普段は無口なニンジャは初めて口を開き、若殿様に説明しました――そう、ニンジャ達は決して自分の意見を云わず、報告する以外は口を開かないのです。
「我らニンジャは陰に生きる者。主君の御意のまま、命じるままに従うのみ」
「では、殿がサムライらしからぬ振る舞いをしても、それでも、黙って見るべきだと思ったのか?」
「我らはニンジャ……おサムライのなさること、その全てが、サムライらしさと見る他はござらぬ。全て、主君の思し召しのままでございます」
「そうか。では、これからも殿――父上に仕えるか?」
「いえ、我らが仕えるのは、サムライ帝国の主となるお方。しかし、もはやその国はなく、若が新たな旗を掲げられるなら、その旗印にこそ、我らは従いまする」
「元のサムライ帝国とは限らんぞ。まだ、サムライが少し集まっただけだ。しばらく、逃げ回るだけの生活になるかもしれん」
それを聞いたニンジャはニヤリと笑いました。
「ならば、それこそ我らニンジャの本領にございますぞ。ニンジュツの本領は遁法――つまりは身を隠して逃げるための秘術。逃げて逃げて逃げのびて、戦い抜いて生き抜くための技。若、どうか我らを自在にお使いくだされ」
「判った――僕達の大事な門出だ。お前達も宴会に参加してくれ」
「はっ……」
判った、とは云ったものの、お殿様のことが悔やまれてなりません。自分の主君であり、父親でもあるのです。
(六)
少し先のお話になるかもしれませんが、お殿様や王様、そしてサムライ帝国とアップルパイ王国、もとい、ナイト王国の先行きについて、お話ししておきましょう。
両国は完全にカンフー帝国に飲み込まれてしまいました。それぞれの兵隊達は全て捕らえられ、今度はカンフー帝国の兵隊達に民衆は支配されています。とはいえ、乱暴なことにはならなかったようです。なぜなら、まずはナイト王国といえば完全にアップルパイに夢中になっていたので、支配者が入れ替わったところでどうでもよかったし、サムライ帝国と云えば作物の不作で食うや食わずで困っていたので、そこにカンフー帝国が膨大な支援をしたので、むしろ大喜びだったのです。
お殿様や王様達はカンフー帝国の本国に護送されました。そして、アップルパイで培ったお料理の腕を生かされ、ギョウザやシュウマイなど小麦粉を使ったお料理を作る仕事に従事することになりました。やがては、国の統治や戦うこともすっかり忘れてしまうでしょう。
「父上やみんながあのアップルパイというお菓子に夢中になったか、なんだか判ったような気がするんだ」
と、若殿様は参謀に云いました。
「……どういうことです?」
「恐らくだが……本当のところは、サムライで居ることが辛かったんじゃないだろうか。実際、辛いだなんてサムライ同士で云えることじゃないし、そう考えるだけでもサムライとして言語道断、不謹慎と云っても良いくらいだ」
「でも、お菓子とは関係ないでしょう。饅頭を食ってもサムライで居ることには変わりない」
「たまに口にするのとは訳が違うよ。王国を占領して、国策としてお菓子作りを始めてしまったんだ。そりゃあ、楽しいだろう。みんな本当は甘い物が大好きなんだ。ほら、あのコックも似たようなことを云ってただろう?」
「ふむ……」
「初めは国のため、生きるためにお菓子に手をつけちゃって、そこからズルズルと素直な欲求に身を任せてしまい――こう云っては何だが、サムライや、あの王国の騎士達は重荷を捨てることが出来て、幸せになれるのかもしれない」
「では、若はこれで良かったとお思いですか。サムライは消え去るべきだと?」
「いや――」
そして、若殿様は感慨深げに空を見上げ、云いました。
「――サムライは戦で死ぬべし。これは爺様じゃなくて、父上から聞いた言葉で、それは何代にも渡って受け継がれたんだ。でも、そうして国を守ってきたんだ。家族を守ってきたんだ」
「そうですよね。この世は戦い、弱肉強食の世界です。どんな言い訳をしたって、何かを食らって生きていく他はない。サムライが居なくなったら、誰もがサムライにならなければ生きていけません」
「それも一つの手段として悪くはないが――まあ、続きは鍋をつつきながら考えよう。こんな議論は尽きそうもないな」
「まったくです」
食べることこそ、弱肉強食の象徴。沢山のいろんな素材を食べるお鍋ですから、それを食べながら考えることとしては、とても有意義なのかもしれませんね。
(七)
さあ、大宴会です。みんなでお鍋をつついて大いに食べ、お酒も大いに飲みました。
若殿様はもっぱら鍋奉行、「それはまだ早い」「そろそろ野菜も継ぎ足そう」などと、陣頭指揮に奮戦します。チビ助は小さな体の割にはお肉の確保に奔走し、その傍らで参謀はシャクシャクと白菜やお葱を食べています。デカ助と云えば、大きな茶碗にご飯を大盛りにして、それと一緒にガツガツ何でも食べています。
いろいろな材料に加えて、あのお妃様から頂いたギョーザもお鍋に入れました。それをお鍋で煮込むと小麦の皮がつるんとして、中の具材の味も絶妙。
やっぱりカンフー帝国に大して虫が治まらない気分ではあったのですが、「食べ物に罪も恨みも無い」と、みんなは美味しく食べました。
皆それぞれに、それぞれの食べ方で大いにお鍋料理を楽しみました。そこに集まった大勢のサムライ達――「サムライ」と一括りにしても、一つとして同じ顔はありません。それでも、同じお鍋で仲良く食べています。
そして王女様は、(もうすっかり専属の侍女のようにお仕えしている)ちっちゃいニンジャに白いお豆腐を注いでもらい、お匙ですくってゆっくりと食べていました。
それは不思議なお味でした。最初は淡い大豆の味だけでしたが、二杯目、三杯目となると、他のいろんな具材の味が染み込んでいき、とても美味しくなっていくのです。
そうか、これがお鍋なんだ――王女様は、そう思いました。
そんな王女様に「どうだい、食べてる?」と声をかけてきたのは若殿様です。みんなにお酒をついだり、鍋の具合を見ながら、今度は王女様のところにも回ってきました。
「あんまり食べてないね。よーし、とっておきのを王女様に献上しちゃおう」
そう云ってお鍋の真ん中から引き上げたのは、見事に真っ赤っかに茹であがった、大きな大きな蟹でした。それを大皿に乗せて、でーんと王女様の前に置いたのです。
王女様は目を丸くして、呆然としてしまいました。熱々で、しかも堅い甲羅に覆われていて、どうして良いやら判りません。
「ああ、待ってな。ちゃんと食べられるようにするから」
そういって若殿様は、やっとこ(ペンチのようなもの)を片手に、器用にバキバキと甲羅を割って、食べやすいようにして王女様に差し出しました。
王女様はおっかなびっくりで、熱々の蟹の身を口にして――。
「お……お……おいしいっ!」
王女様はその蟹の美味しさに、思わず笑顔で顔をほころばせました。すっかり痩せて頬がこけてはいましたが、それはそれはとても可愛いらしい笑顔でした。
若殿様もニッコリ微笑んで、自分も一緒に同じ蟹を食べていたら……サムライ達がそんな二人をニヤニヤと眺めながら、口々に冷やかします。
「おやおや、蟹もご両人も熱々で旨そうですねぇ」
「ご婚礼の儀式は二人で一つの蟹って訳ですか」
「こりゃまた、食いしん坊なご夫婦だこと」
王女様と若殿様のお顔は、蟹に負けじと真っ赤っかに茹であがりましたとさ――めでたし、めでたし?
なんて、そんな締めの文句など許されないのが現実。
その隣を、もっと赤いものが横切りました。それは、お世話になっているお婆さんが抱えた、山のような真っ赤っかの「とンがらし」――。
「お、おい! その婆さんを止めろ!」
「婆さん、待ってくれ! 俺達はそんなにからいものは食べられない――ああああっ!!」
さあ、この後のお鍋は大変な我慢比べ大会となりました。勝利者は参謀です。
では、勝利者インタビューを。
「実は私は、幼少の頃にキムチ王国で育ったので」
「やっぱり……そんなことだと思った」
「さあ、締めの雑炊を作りますか」
「えーっ、この激辛鍋で!?」
「ひいいっ!! もう勘弁してくれーっ!!」
(おしまい)