第1話「エリートサラリーマン、借金を相続する」
俺には前世の記憶がある。
名前は思い出せない。だが中身は覚えている。四十歳、独身、都内の商社勤め。営業成績は常に上位、部下からの信頼もそこそこ、上司からの当たりもそこそこ。絵に描いたようなエリートサラリーマン――と言えば聞こえはいいが、要するに仕事しかない男だった。
死因はタクシーだ。乗っていたタクシーが交差点で横から突っ込まれた。走馬灯の最後に浮かんだのが企画書の締め切りだったのだから、我ながら救いがない。
いや、もうひとつあったか。
弁当だ。会社の後輩が毎日持ってきていた、彩りのいい手作り弁当。あれを「一口ください」と言えないまま、俺は死んだ。
「アルフレッド様、お目覚めですか」
窓の外から鳥の声。ノックとともに執事のセバスの声がして、俺は天蓋付きのベッドから身を起こした。
「ああ、起きてる。今日は学園は午後からだ」
「かしこまりました。旦那様は本日もご不在とのことです」
「……そうか」
アルフレッド・グランベル。それが今の俺の名前だ。グランベル伯爵家の長男、十六歳。学園に通いながら、家によっては働きにも出る。そういう世界だ。剣も魔法もステータス画面もない。あるのは貴族と平民と、金の話だけ。前世よりよほど現実的で助かる。
前世を思い出したのは十歳のときだった。階段から落ちて頭を打った瞬間、四十年分の記憶が流れ込んできた。三日ほど寝込んで、四日目の朝に結論を出した。
――これが現実だ。なら、この役を演じきる。
どうせ二度目の人生だ。今度は締め切りに追われて死ぬんじゃなく、謳歌してやる。そう決めた。
決めた、はずだったんだが。
「兄様ー、朝ごはんまだですかー?」
「お母様がね、新しいドレスを注文したんですって。三着も」
食堂に降りると、妹二人がすでに席についていた。次女のリーゼと三女のミア。そして上座で優雅に紅茶を傾ける母、マルグリット。
「あら、アル。おはよう。ねえ聞いて、今度の夜会用にね、真珠を――」
「母上。先月も買いませんでしたか、真珠」
「あれは白でしょう? 今度のは、桃色なの」
にっこり。悪気ゼロの笑顔である。
……うちの母は、こう言ってはなんだが、頭の中が春だ。年中春だ。父が金の話を一切家庭に持ち込まない人だったせいで、金は湧くものだと本気で思っている。
「兄様、真珠より焼き菓子を増やすべきだと思います」
「ミアに賛成。あと兄様、その眉間のしわ、老けて見えますわよ」
「誰のせいだと思ってる」
妹たちは顔を見合わせてくすくす笑った。まあ、いい。平和なのはいいことだ。伯爵家の家計がどうなっているのか俺は知らされていないが、父が回しているのだろう。当主とはそういうものだ。
そう思っていた。
その日の夕方までは。
◆
「――旦那様が、馬車の事故で」
セバスの声は震えていた。学園から戻った俺を玄関で待っていたのは、その一報だった。
父、ジェラルド・グランベル伯爵、死去。享年四十五。街道の崖崩れに巻き込まれたという。
葬儀の三日間を、俺はほとんど覚えていない。母は泣き崩れ、妹たちは呆然とし、俺は喪主として弔問客に頭を下げ続けた。前世で葬式の段取りなら覚えていた。まさかこんな形で役に立つとは思わなかった。
異変が起きたのは、葬儀を終えた翌日だ。
「アルフレッド様。……お見せしなければならないものが、ございます」
執務室。セバスが机に置いたのは、分厚い書類の束だった。一番上の紙に、見慣れない商会の印が押してある。
「これは?」
「借用書に、ございます」
「……借用書?」
めくる。めくる。めくる手が、途中で止まった。
「セバス。この額、桁を間違えてないか」
「間違いございません。ロダン商会より金貨八千枚。バルツ金融より金貨五千枚。その他、細かいものを合わせまして――総額、金貨一万五千枚」
金貨一万五千枚。この家の年間収入が、領地の上がりを全部かき集めて金貨八百枚だ。
……年収の、十八年分。
「なんでだ。うちは派手にやってた家じゃないだろう。母上のドレス程度でこんな穴は開かない」
「旦那様は五年前より、東方航路の交易船に出資しておられました。三隻。……三隻とも、沈みました」
「保険は」
「この世界に、船の保険というものは……」
ないのか。そうか。ないのか。
俺は椅子に沈み込んで、天井を仰いだ。前世の記憶が嫌な速度で回り出す。負債総額、年収比十八倍、資産は屋敷と領地、換金性は低い、当主死亡、後継者は十六歳。
会社ならとっくに倒産している。民事再生も無理だ。清算案件だ。
「相続放棄は」
「爵位と共に借財も継ぐのが、この国の法にございます。爵位を返上なされば放棄は叶いますが……その場合、ご家族は平民となり、屋敷も領地も明日にでも」
「母上と妹たちが、路頭に迷うわけだ」
「……はい」
脳裏に浮かんだのは、桃色の真珠がどうとか言っていた母の顔だった。あの人が平民街で生きていけるか? 無理だ。三日で詐欺に遭う。断言できる。
俺は書類の束をもう一度、今度は最初から丁寧にめくり直した。返済期日、利率、担保設定。読めば読むほどひどい。特にバルツ金融、利率がえげつない。前世なら金融庁が飛んでくる数字だ。
「……セバス」
「はい」
「使用人を集めてくれ。それと、帳簿を全部。ここ十年分だ」
「アルフレッド様、まさか」
「継ぐよ、爵位も借金も。その代わり、返す。全額」
言い切ってから、我ながら無茶を言っていると思った。だが口に出した瞬間、腹の底が据わったのも本当だった。
なんのことはない。前世で散々やったことだ。傾いた取引先の再建計画、赤字部署の立て直し、無理筋の債権交渉。あれを今度は、自分の家でやるだけだ。
第二の人生を謳歌する。その方針に変更はない。
――謳歌の前に、完済だ。
◆
それから二週間、俺は走り回った。
まず資産の洗い出し。売れる調度品は売った。母は「おうちの絵が減ってるわ?」と首をかしげていたが、「模様替えです」で押し切った。使用人は半分に減らした。セバスは残ると言った。給金を下げてもか、と聞いたら、「旦那様に拾われた恩がございますので」と笑われた。泣きそうになったのは内緒だ。
次に債権者との交渉。ロダン商会とは月賦での返済計画をまとめた。前世の経験上、債権者は「踏み倒されること」を一番恐れる。誠実な返済計画と担保の一部差し入れで、利率を下げさせた。我ながらいい交渉だった。
問題は、それでもなお、月々の返済額が領地収入を上回ることだ。
「……足りない。どう組んでも足りない」
夜の執務室で、俺は帳簿の前に突っ伏した。経費はもう削り切った。収入を増やすしかない。だが領地の増収には年単位の時間がかかる。即金性のある事業が要る。商売だ。商売をやるしかない。
だが、何を売る? 元手はほぼゼロ。人手もない。俺一人が学園の合間に動いて回せる商売なんて――。
「兄様、まだ起きてらっしゃるの?」
扉の隙間から、ミアが顔を覗かせた。その後ろにリーゼもいる。
「ああ……悪い、起こしたか」
「あのね、兄様。私たちにも、何かできることは」
「気持ちだけもらっておく。お前たちは学園をちゃんと出ろ。それが一番の親孝行だ」
妹たちは何か言いたげに顔を見合わせて、おやすみなさい、と扉を閉めた。
……このときの俺は、気づいていなかった。
閉まる寸前、二人が交わした目配せの意味に。妹たちが妹たちで、まったく別の「家を救う方法」を考え始めていたことに。それが後々、借金なんかよりよほど厄介な火種になることに。
何も知らない俺は、ただ帳簿を睨んでいた。
◆
転機は、その週末に来た。
金策のあてを探して商業区を歩き回り、成果ゼロ。日が暮れて、財布の中身と相談して夕食を諦め、裏通りを近道して帰る途中だった。
路地の隅に、誰かがうずくまっていた。
ぼろ布のようなフードをかぶった、小柄な人影。浮浪者なら珍しくもない。関わっている余裕は今の俺にはない。そのまま通り過ぎようとして――。
ぐぅぅぅ、と。
盛大な腹の音が、路地に響いた。人影がびくりと跳ねて、フードの奥から慌てたような声がした。
「ち、違うんです、今のは、その」
……女の子の声だった。それも、たぶん俺と同じ年頃の。
通り過ぎかけた足が、止まった。前世で数字と締め切りに埋もれて死んだ俺の、数少ない良心が言った。飯も食えてないガキを見捨てて何が第二の人生だ、と。
俺は財布を確かめた。硬貨が三枚。今夜の俺の夕食代。
「……おい、君」
声をかけると、フードの少女はびくりと肩をすくめて、おそるおそる顔を上げた。
煤で汚れた頬。ひどく痩せた輪郭。なのに、その目だけが妙にまっすぐで――どこかで見たことがある気がした。思い出せないのに、懐かしい。そんな目だった。
「腹、減ってるんだろ。……パンくらいなら、奢れるけど」
少女は目を見開いて、それから、消え入りそうな声で言った。
「…………いい、んですか?」
このときの俺は知らない。
この薄汚れた少女が、グランベル伯爵家の運命を変えることを。そして俺自身の、前世からの心残りに決着をつける相手だということを。
俺はただ、なけなしの硬貨を握りしめて、頷いた。
「ああ。ただし安いやつな。こっちも余裕がないんだ」




