第十五話「始めた日について」
【私の日記】
帰ってきてから、二十一日目。
朝。
昨日の青いファイルの人が、私の机の前に立っていた。
ファイルは持っていない。
「昨日はすみませんでした」
「いえ」
「自分で見直しました」
そう言って、一枚だけ紙を差し出した。
受け取らずに見る。
チェック欄が増えている。
金額。
日付。
会社名。
添付。
四つ。
「昨日、断られたので」
少し笑った。
「自分で見られるようにした方がいいなと思って」
「そうですか」
「一個、間違いも見つけました」
嬉しそうだった。
私は何と返すか迷った。
昨日、私はこの人を助けなかった。
でも。
助けなかったことが、今日この人の役に立っている。
「よかったです」
そう言った。
相手は紙を戻した。
「次からまず自分で見ます」
「はい」
「それでも分からなかったら、聞いていいですか」
私は少し考えた。
「その時に聞いてください」
「分かりました」
昨日と同じ返事。
でも今日は、意味が違った。
相手が戻っていく。
隣の同僚がこちらを見ていた。
「うまいね」
「何がですか」
「人に自分でやらせるの」
私は眉を寄せた。
「昨日は、ただ断っただけです」
「そう?」
同僚はコーヒーを飲んだ。
「でも、そういうとこあるじゃん」
「そういうところ」
「全部やってあげないで、一回本人に考えさせるやつ」
私は黙った。
同僚は何でもないことみたいに続けた。
「前の新人の時もそうだったし」
前の新人。
知らない。
「いつですか」
「去年」
去年。
私はまだ、この会社にいた。
たぶん。
でも、その出来事を覚えていない。
スマホが震えた。
《新規履歴:一件》
その下。
《類似履歴:検索》
少し待つ。
《類似履歴:四件》
《統合開始》
私は画面を消した。
昨日までなかったものを作ればいい。
そう思いかけていた。
でも。
作ったものに似た過去が、あとから生えてくる。
昼。
青いファイルの人は、自分で資料を見ていた。
こちらには来なかった。
それでよかった。
午後二時。
社内チャットに通知。
青いファイルの人からだった。
《午前の件、ありがとうございました。自分で確認できました》
私は返事を打つ。
《よかったです》
送る。
すぐ、隣の同僚がその画面を見て笑った。
「相変わらず短い」
「そうですか」
「昔からそれだよね。褒める時も一行」
私は手を止めた。
また。
スマホ。
《統合完了》
《新規履歴:〇件》
一件だった表示が、ゼロになっていた。
その下。
《既存傾向:五件》
昨日の私の選択は残っている。
青いファイルの人も覚えている。
自分で確認したことも、本当に起きた。
消えたのは。
昨日が最初だった、ということだった。
【真意の調査記録】
三十五日目。
助手から報告。
昨日発生した新規関係の分岐。
結果が一件。
新規依頼を断られた第三者が、自力確認を開始。
これは昨日以前には存在しない因果。
少なくとも、助手の報告上は。
現在の利益も確認できる。
第三者は自分で誤りを一件発見。
ここまでは、昨日の選択から続いた結果。
その後。
助手の「断る」「本人に考えさせる」「短く返答する」という現在の行動に対し、周辺人物の過去記憶が追加。
新規履歴一件。
類似履歴四件。
統合後。
新規履歴、〇件。
既存傾向、五件。
私は昨日の記録を開いた。
今日:三件
残っている。
消えていない。
でも、この三件のうち一件は、もう向こうでは「新しくない」。
昨日まで。
減るものを数えていた。
昨日から。
増えるものも数えることにした。
今日。
増えたものの始点が消えた。
私は白紙を見る。
整合率:74%
三上昇。
身体適合率との関係は、まだ不明。
その下。
履歴起点
統合中
私はペンを置いた。
電話をかける。
助手が出た。
「真意さん」
「昨日のこと、覚えてる?」
聞いてから、失敗したと思った。
確認させた。
でも助手はすぐ答えなかった。
「どのことですか」
「青いファイルを断ったこと」
「覚えてます」
「昨日が最初だったと思う?」
長い間。
「分かりません」
私は目を閉じた。
「そう」
「でも」
助手が続ける。
「昨日、あの人が困った顔をしたのは覚えてます」
「うん」
「今日、嬉しそうだったのも」
「うん」
「そこは、昨日から今日です」
私は白紙を見る。
履歴起点
統合中
数字が一つ増える。
75%。
「真意さん」
「何?」
「昨日が最初じゃなくなったら、昨日やったこともなくなるんですか」
答えようとして止まる。
今までなら、仮説を並べた。
今回は。
「分からない」
それだけ言った。
助手は少し笑った。
「じゃあ、明日見ます」
「うん」
電話を切った。
白紙。
75%。
動かない。
私は昨日の「今日:三件」の横に書いた。
起点:一件不明
消さない。
分からなくなったことも、昨日から増えたものだから。
【私の日記】
帰宅。
机の上に砂糖が一包ある。
まだある。
ノートを開く。
《二本だった。》
残っている。
その下。
《今日は、あの人に書いてもらった。》
その次のページ。
昨日のことを書く。
青いファイル。
断った。
今日、その人は自分で一件見つけた。
そこまで書いて、止めた。
「昨日、初めて断った」
とは書かなかった。
本当か分からなくなったから。
代わりに。
《昨日、私は断った。》
と書いた。
最初かどうかは要らない。
昨日やった。
それだけなら、まだ覚えている。
スマホが震えた。
《履歴起点:不明》
続けて。
《行動履歴:保持》
私は画面を見た。
勝ったとは思わなかった。
守れたとも思わなかった。
ただ。
今日まで来た。
【真意の調査記録】
三十五日目。
最終追記。
再構成は、新しく生まれた行動そのものを即時消去しなかった。
代わりに、その行動が「いつからその人のものだったか」を過去へ統合した。
新規性の消失。
行動の消失とは、まだ一致しない。
助手は「最初だった」を保存しなかった。
「昨日やった」を残した。
これは防御法ではない。
次も残る保証はない。
ただし。
昨日まで私は、助手の差分を探していた。
今日からは、もう一つ見る。
何が助手らしいかではなく。
いつ、助手がそれを選んだか。
その時刻まで消えるなら。
その時、また考える。
まだ結論はいらない。




