侯爵の帰還
アリアとの邂逅から三日。レオンはヴィクトルとの訓練に明け暮れていた。
「はぁ、はぁ」
「走れぇ!どこまでも!」
「はい!」
屋敷の訓練場で、レオンはひたすらに走っていた。ヴィクトルは椅子に座りながらヤジを飛ばしつつ、レオンが止まろうとすれば咎めてくる。
まだ春の肌寒い時期だというのに汗だくで、足がプルプルと震えている。
毎朝起き上がるのもつらい。でも、その疲労感を心地よく感じていた。
「ん? ちょっと抜ける。休むなよ」
そう言って、表情を引き締めたヴィクトルは訓練場を後にした。
「はぁはぁ、――あ?」
「久しぶり」
訓練場に姿を現したのは、こちらに手を振っているアリアだった。今日もドレスを身に纏い、花のような香りを醸し出している。
レオンは足を止め、アリアの方に駆け寄った。
「こんな格好で失礼しますアリア様。もしかしてヴィクトルさんに用ですか? 今さっき出て行って――」
「ううん。ヴィクトルは今、お父様の所だと思う」
「お父様? ――侯爵閣下!?」
レオンが思わず声を上げたことに、アリアは苦笑いをした。
最近教えてもらったことだが、村に来ていた貴族と、この都市を治める侯爵閣下では文字通り天と地の差があるらしい。
「そうなの。普段はあちこちを行ったり来たりしてるんだけど、今日は帰ってくるんだって」
「えっと、よかったですね?」
「うん、久しぶりに会うの。一か月ぶりくらいかな?」
そう言うアリアの顔は、どこか浮かない。
「どうかしたんですか?」
「うん。私、そろそろちゃんとしようと思って。だから、勇気をもらいに来たの」
アリアはレオンが首をかしげる様子を見て、くすっと笑って――
「ありがとう。じゃあまたね」
アリアは訓練場を後にした。
結局、勇気をもらうとはなんだったのか。その疑問を考えながら、レオンは走った。
――数時間後。
レオンは途中休みをはさみながら、ヴィクトルに課された量を走り切った。それでもまだ走れそうなので、再び訓練場に来ていた。
「あれ? 人がいない」
訓練場はレオンだけの貸し切りではない。それこそ、普段はレオンの隣を走っている人がいるし、素振りをしている人もいる。
アリアが来たときは全員姿を消していたが。
「アリア様かな。――誰だ?」
レオンの独り言が聞こえたのか、レオンの視線の先の男がこちらに歩み寄ってきた。
その男は、銀の髪を後ろでまとめていて、縦に走る一本の顔傷があった。加えて、明らかに出来の良さそうな服を着ていて、漂ってくるいい香りが鼻をくすぐる。
「やあ、君がレオンかな? 私はハイド・カローラル。アリアの父さ」
朗らかな笑みと柔らかな曲線を描く目尻を見て、レオンの心臓の鼓動が早まる。必死に手を当てて抑えようとするが、いっこうに収まらない。
「は、はい。俺がレオンです」
「はは。そう緊張しなくてもいい。言っただろ? 今の私はアリアの父さ。久しぶりに帰って来たら娘が随分と様変わりしていてね。娘に聞けば、君にはとても感謝していると」
「それは……ありがとうございます」
「ああそれと、娘の友達になってくれたそうだね」
「はい……」
ハイドの若葉色の双眸からは怒りも喜びも感じ取れない。出会った当初のアリアを天空で育った天使とするなら、ハイドは天空にそびえたつ城だろうか。
そこにあるだけで、形容しがたい圧を感じる。
「私としても君を歓迎しよう。娘の友としても、ヴィクトルの弟子としても、より一層の励みを期待する」
「全力を尽くします」
「では、失礼する」
ハイドはそのまま訓練場を後にした。
「――ふぅ」
レオンはようやく、深く息を吸った。
♦♦♦
時は遡り、アリアが訓練場を後にした後。
「お父様、おかえりなさい」
「――アリア。ただいま」
アリアはハイドを乗せた馬車が止まった地点に先回りしていた。ハイドは一瞬アリアの姿に目を見開いたが、すぐに元に戻した。
「お父様にお話があります」
「ああ、今日はもう予定もない。部屋でゆっくりと聞こう」
アリアの薄青の双眸には、確かな光があった。
最近はずいぶん持ち直したと思っていたが、ここまで大きな変化を伴うものではなかった。一体何がアリアをそうさせたのか、知る必要がある。
「それで、話って?」
正面、応接用のソファーに姿勢を正して座るアリア。
さしものハイドでも、こうして娘と一対一で話す状況は初めてだった。
いつもの会談では、各国の要人なり、厄介な国内の貴族なりがいる。だが、こうして目の前に座ってなお、こちらの心をざわつかせるのは一握りの人物のみ。まさか、娘がその一人になるとは思いもしなかったが。
「私は、もう逃げたくない。だから、外に出たい」
「――アリア、無理をしなくていい。例え誰が命令しようとも、私が何とかする。これからもずっとだ」
「私は無理してない。むしろ、それはお父様の方でしょ? 私にだってわかるよ。私に魔法があるかぎり、いつまでもこうして屋敷の中で何も知らずに生きていくことができないことくらい」
「それでも、だ。私が死んでも、カイトがいる。あいつなら、私の意志を引き継いで――」
「――私は、もう私から逃げないって決めたの」
そう言い、アリアは両手を握りしめる。
確固たる意志を見せたアリアに、ハイドは困惑の表情を浮かべながら、
「これは逃げではない。あれはアリアが思っているより重く、厄介なものだ。アリア一人に抱えきれるものじゃない。分かっているだろう?」
「――そうかもしれない。でも、それでも、私は自分の人生に向き合いたい。だって、お母様がくれたものだもの」
「アリエルが……」
アリアの表情からは、悲嘆は読み取れない。
アリアがアリエルの名を口にしたとき、思わず驚きを表情に出しそうになった。あれから一年。アリアが心に負った傷を癒すには、まだまだ時間が足りなかったはず。むしろ、深くなっていくばかり。
「アリア。これを言うのは酷だが、あえて言わせてもらう。アリアにのしかかる期待は、あの時の比ではない。それでも、やりたいと言えるのか?」
「――はい」
アリアの目も、声も、表情も、捉えうるすべての情報が、その答えに嘘がないことを証明している。
「いいだろう。ちょうど今、パーティーへの招待状が届いている。それで、アリアの覚悟を見せてもらう」
♦♦♦
その日の夜、ハイドは自室の天井を見上げて、
「アリエル、私達の娘は大きく成長しているようだ」
かつて背負わせた責と重圧は、アリアの心に深く傷を残した。あの時、アリアが壊れていく様をただ見ていることしかできなかった自分には、こうして後悔する権利さえないのだろう。
せめてもの償いとして、屋敷の中で一生を過ごせるように手配してきたが、無駄になりそうだ。
「ようやく、会いにいける」
屋敷の中に眠る妻は、受け入れてくれるだろうか。まあ、きっと尻を叩かれるだけだと思うが。
「ふっ、それにしても。アリアも難儀なことだ」
ハイドは、アリアが楽しそうに話していた黒髪の少年を思い浮かべる。友達、アリアにそう言わせた少年は、とても不安定に見えた。
父親としては、娘が良しとするならそれでもいい。だが、アリアの傍に置くには不十分だ。
「頑張れよ、少年」
ハイドのつぶやきは、夜空の星に消えていった。




