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性質


 何にも身が入らないのにも関わらず、強制的に机の前に固定されたのが三日前。それから蛍章(けいしょう)に会うことはおろか、外に出ることさえ叶ってない。

 確かに、積み上げられていく仕事を横目に蛍章を追いかけていたのは悪いと思う。

 でも、だからって。

 小さく彼の名を呟いて、目に片手を押し当てた。

 ずっと会えないというのは辛い。向こうは何とも思っていないだろう。むしろ、来ないから仕事がはかどるとでも思っていそうだ。

 背筋を伸ばして、文机に向かう背中が見えるような気がする。それに向かって、津嶺(しんれい)はため息をついた。

 まだ少しも届いていない思いがある。先は長い。目指す場所は遠い。だからこそ、少しでも長く一緒にいたいのに。

 もう一度、彼の名を呟いた時だった。

 失礼しますという声と一緒に部屋の扉が開いた。

 もしかしたらと思って慌てて目から手を離すが、そこにいたのは新たな仕事を追加しに来た見慣れない官吏の顔。

 声で分かっていたはずなのに、それでも落胆の気持ちを抑えられない。

 官吏は、津嶺の机に紙の束を乗せると一礼して出て行った。


「……」


 額の中央に眉が寄る。

 出て行った官吏の姿を思い出した。本来来ているのが当たり前の正装。黒い帯。在るべき官吏の姿。今頃、あの色の帯を締めて仕事をしているのだろう。蛍章が浅葱色の帯を締めるのは津嶺と会う時だけだ。

 別に年中あの帯を締めていて欲しいとは思わない。いや、思っているけれどそれは無理だと分かっているから何も言わない。でも。もちろんがっかりする気持ちはある。

 もう一度ため息をついて、津嶺は増えた紙の塔から一番上にあった書類を手に取った。

 面倒な思いを隠そうともせずに頬杖をついて紙に目を滑らす。と、その瞬間に目が釘付けになった。


 そこには、丁寧に整った字の群れがあった。墨で書かれたそれは、揺らぐことなく真っ直ぐに、同じ大きさで列を作っている。

 力強く。けれどどこか柔らかくて。それが隠れた優しさを表しているような気がして。

 まるで、彼の内にあるものが全部その紙から伝わってくるような。


「綺麗な字ですね……」


 綺麗。そんな簡単な、ありがちな一言では表せない。

 彼の体温が感じられそうで、紙の上の黒に指を滑らせる。

 私にも、この字のようにありのままをさらけ出してくれたらいいのに。彼にとってのそういう対象にはまだなれない。

 三度目のため息を、落ちていきそうになる思考と一緒に押さえ込んで、書類の内容を頭に入れていく。

 呆れるほどに完璧な文章だった。しがない一人の官吏から、時の丞相津嶺様に当てた文章。身分の差がわきまえられた文書だ。

 自然にうめき声が漏れた。

 公私がはっきりしすぎているのだ。それが蛍章らしいと言えば蛍章らしいけれど。

 でも、もう少しもう少しと、願ってしまうのはただの我儘だろうか。

 無情にさえ思えてくる一枚の紙。

 見せ付けられている。彼にとって自分はただの上司なのだと。

 自分一人が思っている恋など、聞こえは良いが美しいものじゃあない。

 くそ。……くそ。

 怨みを込めた目で紙を見る。また、ため息をつこうとした時だった。


「……なに人の書類にガンつけているんですか、丞相様」

「え?」


 扉が開く音。

 たった三日間会っていなかっただけなのに、懐かしく思える落ち着いた声。

 顔を上げて見やれば、背筋を伸ばして立つ蛍章がいた。走って来たのか、あの綺麗な髪が少し乱れている。


「蛍章?」


 独り言のように呟くと、つかつかと歩み寄ってきた彼は座る津嶺を見下ろしてふわりと微笑んだ。


「そうですけど」

「あなた、どうして……?」

「頼まれたんですよ、右大将様に。丞相様が仕事に手がつかないようだから見てやってくれ、と」


 保護者みたいですね、僕。


 蛍章は、静かにそう付け加えた。そこはぜひとも妻みたいだと言って欲しかったが。まあそれは、彼がここにいることに免じて忘れよう。

 彼は、机に積まれた紙を見て思い切り眉を寄せた。


「よくもここまでためれますね、丞相様」


 全部あなたのせいだとは言えない。

 蛍章は何かぶつぶつ言いながら紙の束を手にして視線を走らせた。


「ほら、お手伝いしますから筆をお持ち下さい」


 丁寧だが有無を言わせぬ口調にぴんとした津嶺はふと、蛍章の腰に目をやった。それに気付いたのか、蛍章はああ、と自分自身を見下ろした。


「右大将様に言われてから急いで来たので、替えてくる時間がなかったんです」

「そうですか」


 官吏なら誰でも着ている服。白いそれには汚れも皺もない。

 髪を見た。いまだ乱れてくしゃくしゃになっている。

 手を伸ばした。不思議そうにこちらを見る蛍章の頭に手を伸ばし、梳く。さらさらとした手触りは心地良い。

 彼に笑顔を向ける。


「乱れてましたから」

「……ありがとう、ございます」


 蛍章は恥ずかしそうにうつむいて、小さくそう言った。





 『急いで来た』


 果たしてどちらが良いのでしょう。

 時間を優先するか、帯を優先するか。

 そこを、自分に都合の良いように解釈してもいいでしょうか。



 例えおめでたい人間だと馬鹿にされたとしても。

 あなたの性質は、この思いの分だけ知っているつもりですから。




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