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第二章・第十三話 「偶然」

 誠は部屋に戻り、外出の支度をした。

 塩田綾の件は頭が痛いが、自分の生活も大切だ。車の車検を受けなくてはならない。ジーンズとTシャツに着替え、財布を開いて保険のカードが入っている事を確認する。

 ハワイ州では保険に入っている証明と、州の車両登録証が無くては車検が受けられない。車検と言っても実に簡単なもので、ちょっとした設備のあるガソリンスタンドでも受けられる。

 サンダルを突っかけてアパートを出ると、誠は近所のオート・メンテナンス店へ車を走らせた。

 粋なつなぎのユニフォームを着た青年が、てきぱきと応対してくれる。受付付近のベンチに腰を下ろし、備え付けの新聞を拾い読みながら時々整備工達の姿を眺めた。

 空調はないけれど、好きなラジオ局に合わせて音楽を流し、冗談を言い合いながら仕事をする彼らはとても楽しそうに見える。腕一本で稼いでいるという風だし、冗談のように高価な靴やバッグを売るよりは世の中に必要とされる仕事だろう。

 仕事の後のビールは美味いだろうな、と誠は思った。

 そして肩を竦めた。誰にでもある事だろうが、自分のしている事が下らなく思えることがあるものだ。ジェームスだって、犬も喰わないような夫婦の諍い事の処理をさせられてこぼしている時がある。

 仕事ではないけれど、塩田綾は自分が不倫をしていた頃に、下らない付き合いだと思ったことはあるのだろうか。

「兄ちゃん、終わったよ。あんたの車は古いけど、まだまだ大丈夫」

 声をかけられて、誠は我に返った。いつの間にか、また塩田綾の事を考えていた。

 受付で料金を払い、車検合格の証明書を受け取って車に乗り込んだ。このままアパートへ帰り、ビーチへ出直すという手もあったが、何となく誠は車を走らせた。


 東へ流れるフリーウェイに乗り、カイムキ、カハラ地区を過ぎると、高速道路は途切れ、そこからはカラニアナオレ・ハイウェイになって更に東へ続く。

 更に東のハワイ・カイ地区に入ると、右手に海も見えて来る。左手のココマリーナ・ショッピングセンターを横目に真っ直ぐ進むと、信号を挟んでそれまでの平坦な道とは異なって、急な上り坂になって行く。車線も両面一車線ずつになる。

 まだまだ大丈夫と太鼓判を押されたばかりだが、少々年のいった誠の車はエンジンを喘がせて坂を上った。ほぼ登り切った辺りに、ハナウマ湾への入り口がある。珊瑚礁とそこに集う魚で有名なこの場所は、州が特別に保護している。

 レンタカーが行列を作っているハナウマ湾の入り口を過ぎた時、後ろから凄まじい勢いでクラクションを浴びせられた。

 咄嗟にスピードメーターに目をやり、バックミラーを見た。のんびり走り過ぎたかと思ったのだが、針は規定の速度より十マイルも上を指している。そもそもハワイのドライバーはのんびりしていて、ちょっとやそっとの事ではクラクションなど鳴らさないのが普通だ。

 バックミラーには、どこかで見たような大型のバイクが写っていた。ドライバーは大きめのサングラスをしているので顔が見えない。

 ハワイ州の法律は、十八歳以上ならばバイクやスクーターの運転に、ヘルメットの着用を義務付けない。

 彼は大きく口を開けて何か叫んでいる。多分もっとスピードを上げるか、脇に除けて先に行かせろと言っているのだろう。

 誠はむっとした。常識で考えて迷惑になる程のスピードではあるまいし、この道路を越えて行くとあるクイーンズ・ゲイトやカラマ・バレーに急用があるのなら、上り坂の手前の信号から伸びるルナリロ・ホームロードを通った方が早い。

 要するにバイクの彼は、ただ飛ばしたいだけなんだろう。アクセルを踏む足を、誠はわざと緩めた。制限速度以下に落とし、ついでに煙草を取り出して火を点けた。

 道路は一車線のまま海沿いに向かって延びている。しばらくは海に面した崖をカーブが続いて見晴らしは実に良いが、それに気を取られれば大事故になる。追い越しなどは以ての外だ。

 バイクのドライバーはついに中指を立てた。車体が大きいため、スクーターのように歩道側をすり抜ける事は出来ないし、対向車も途切れないので誠の車は追い抜けない。

 煙草の煙を出す為に窓を少し開けると、それだけで彼の罵声が耳に入った。聞き覚えのある声に、誠はバックミラーを注視した。

 ホノルル、というかオアフ島の狭さは時々嫌になる。ナナウエだった。

 ナナウエは、車の運転手が誠だとは分かりようがない。声を張り上げて罵りつつ、車を煽り始めた。バイクの前輪を車のバンパーぎりぎりにまで近付ける。同時にクラクションも鳴らした。

 対向車のドライバーが驚いた顔をしたのが、一瞬だけ見えた。海沿いで一度カーブを回ると、下り坂になる。

 誠は対向車が来ているのを確認して、車内で右手の中指を立て翳してみせた。車外に出すと、対向車へのものだと思われる可能性もある。後ろへ引くようにしたから、ナナウエには見えた筈だ。クラクションがさらに大きくなった。

 カーブを数回通り抜け、右手にある最初の展望台を過ぎてから、誠は次の展望台に車を乗り入れた。頭に血が上ったナナウエは追いかけて来るだろう。殴られる前に言ってやりたい事はいくつもあった。

 海への眺望が素晴らしい展望台には、他にも何台か車が停まっている。予想通り、ナナウエがついて来た。他の車と少し離れた場所を選んで車を停め、エンジンを切って素早く車外へ出る。

 ナナウエはバイクに跨ったまま、少し意外そうな顔をした。しかし、表情から怒りが消えた訳ではない。

「よう嘘吐き野郎、もっと静かに走れねぇのか」

 機先を制するつもりで怒鳴りつけた。ナナウエの顔が歪む。

「何だよ、オカマ野郎。やるってのか?」

 言いながらナナウエはバイクから降りて、スタンドを立てた。やはり肉体的な威圧感では、とても敵わない。

 こっちを見ている人もいるから、いざとなったら息が絶える前に警察か救急車を呼んで貰えるかもしれない。つまらない慰めだけを心に描きつつ、誠は虚勢を張り続けた。

「ふざけんなよ、下らねぇ嘘言いやがって。何が別れてから彼女と会ってないだ。何がシャーク・マンだよ。襲うんなら、ハワイアンを襲え。それが伝説だろ? 出来ないから、新参で弱い日本人の女の子を食い物にしてんだろう。お前は、臆病者の玉なしだ」

 怪訝そうな顔をして、ナナウエは誠に近付いた。

「何を怒ってやがんだ。お前、後ろにいるのが俺だと分かってて、ちんたら走りやがったな」

 肩でも掴もうとしたのか、ナナウエが伸ばして来た手を、誠は邪険に振り払った。

「当たり前だ。おい、塩田綾はどうしたんだ? よりを戻したんだろう、知ってるぞ」

 鼻息も荒く言いながら、誠は逆毛を立てている猫を連想した。大きな犬を相手に、威嚇の声を上げているのは自分だ。

「何だよ、分からねぇな。俺は嘘なんか吐いちゃいねぇ。誰がお前にそんな下らねぇ事を吹き込んだ? 綾とは会ってねぇよ、もう金もないみてぇだったしな」

 長身を屈め、下から誠の顔を覗き込むようにしてナナウエは言った。キスでも出来そうな距離だが、それどころではない。今にもボディフックを繰り出して来そうなナナウエに、誠は歯を剥き出して答えた。

「お前の知った事かよ」

「そうかよ、畜生、どうでもいいや。お前、ハワイアンを襲えって言いやがったな。言っとくが俺はハワイアンだって大嫌いだ」

 両の眉毛を吊り上げたまま、ナナウエは誠を睨み付け、誠も負けじと強い瞳を向けた。

「嫌な野郎だ」

 顔を傾けて地面に唾を吐くと、ナナウエは半歩下がって着ていたTシャツを脱いだ。今度は誠が困惑する番だった。ナナウエは後ろ向きになって、誠に背中を晒した。

 背中の刺青が映画「ジョーズ」を思い出させる。大きく口を開き、牙を剥き出した鮫の絵柄はかなり大きい。口腔中の赤色が鮮やかでないのが、かえって生々しい。

「触ってみろ。鮫の牙の辺りと口の中だ」

 ナナウエの意図がさっぱり読めない。しかし、背中を向けつつ殴り掛かるのは不可能だろうと判断して、誠は言われるままにした。

 一メートルも離れれば分からないが、近くで見ると、刺青の下の肉には少しだが凹凸がある。指で触れるともっとよく分かる。かなり広範囲に渡って、彼の背中にはひきつれの様なものがあった。

「何だよ、これ? 怪我の跡か? お前、何が言いたいんだ」

 ナナウエは振り返って、凄みのある笑みを浮かべた。その中には自嘲も混じっているのを、誠は見て取った。

「お袋が癇癪持ちでな。日本人だった親父を呪って、俺の事は邪魔でしょうがなかったんだよな。馬乗りになって、焼けたフライパンを押し付けやがった。近所の連中が駆け付けなかったら、死んでたろうぜ。俺はお袋も大嫌いだったよ。ハワイアンの文化が何だってんだ。フードクーポンでドラッグ買ってた女がよ。ふん、あいつら襲ったって何にもなりゃしねぇ」

 現在では全てカード化されたが、ハワイ州では以前フードスタンプという物があった。低収入者に申請によって発行される商品券のようなもので、スーパーなどで使用出来るが、食料や必要品しか購入出来ない。しかし名前が書いてある訳でもないので、一部では現金の代わりに、そのスタンプを使って闇の売買があったという話は聞いている。

 それにしてもわざわざ自分の生い立ちを語って聞かせる、この男はなんだろう。日本人の父親とハワイアンの母親のどちらも嫌っているのは分かったが、喧嘩を売っている相手にする事でもあるまい。

「俺の知った事じゃない。それより塩田綾だ。とにかく日本に連絡するように言え。会ってようが会ってまいが、どうでもいい。好きなだけ金を絞り取ったんだから、それ位したっていいだろう」

 会話を締め括るつもりで吐き出すと、ナナウエは皮肉っぽい笑いを返した。

「そっくり返すぜ、俺の知った事じゃねぇ。どうせあの女は金持ちのお嬢ちゃんだ。日本から金を送って貰ってどっかで遊んでるに違いないさ」

 反論しても水掛け論になる。誠は黙って車に向かった。

 誠が運転席に滑り込む前に、ナナウエはバイクをスタートさせた。「今度はちんたら走るなよ」と叫び声を残し、走り去って行く。

 ナナウエが消えた東側とは逆の、今走って来た方向に向けて、誠は車を動かした。東へ向かえばサンディ・ビーチに出る。ブギー・ボードをする地元の若者が多いビーチだ。ここへ来る前は、その辺りをぶらぶら散歩でもしようかと思っていたのだが、またナナウエと出喰わすような羽目になるのは御免だった。

 生い立ちが明るいものでない事は、よく分かった。母親は「ナナウエ」という名前を付けただけでは飽き足らず、肉体的にも虐待していた訳だ。しかしそんな事を誠に言ってどうなるのだろう。

 まるで自分の事を気に掛けて欲しいかのようだ。多分、心のどこかが虐待された子供の儘なんだろう。あの露悪的な所もそう考えれば納得出来ない事もない。ただ誠としては、アピールする相手を間違っていると思うだけだ。

 明るい気分にはなれなかったが、誠は市街へ戻った。アパートへ戻って着替え、結局休みの残りはアラモアナ・ビーチでいつものように過ごした。


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