#36 天秤
翌日の授業。
教室に入ってきた先生は、黒板に一つの言葉を書いた。
『過剰反応』
カズトはその文字を見つめた。
「今日は、これについて考えてもらいます」
先生は教壇に立つ。
「例えば――花粉症」
教室から少し笑い声が聞こえた。
「もちろん、これは医学的な話をする授業ではありません」
先生は続ける。
「ここでは、あくまで比喩として考えてください」
黒板に、
『刺激』
と書く。
その横に、
『反応』
と書いた。
「人間は何か刺激を受けると、それに反応します」
「音」
「言葉」
「匂い」
「視覚」
「誰かの表情」
「過去の記憶」
「様々なものが刺激になります」
そして先生は、二つの皿がついた天秤の絵を描いた。
「問題は――」
天秤の片側を大きく下げる。
「刺激に対して、反応のほうが必要以上に大きくなることがある」
カズトは天秤を見る。
「これを、この授業では『自分の天秤の割り増し』と呼びます」
「割り増し……?」
ユキジが呟いた。
「はい」
先生は頷く。
「例えば、誰かに一言だけ注意されたとします」
黒板に、
『一言』
と書く。
「それ自体は小さな刺激です」
その下に、
『昔の失敗』
『恥ずかしかった記憶』
『また失敗するかもしれない』
『嫌われるかもしれない』
と書いていく。
「しかし、その一言をきっかけに、過去の経験や未来への不安まで一気に反応することがあります」
「すると――」
天秤の片側が大きく傾いた。
「最初の刺激以上の大きな反応になってしまう」
カズトは黙って聞いていた。
先生は言った。
「ここで重要なのは、反応すること自体が悪いわけではないということです」
「怖いものを怖いと感じる」
「危険を危険だと感じる」
「それは大切な能力です」
「ただし――」
先生は天秤を指した。
「自分の天秤がどれくらい割り増しされているのかを知らないと、必要以上に大きな反応をしてしまうことがあります」
教室が静かになる。
「これは詠唱魔法でも同じです」
カズトが顔を上げた。
「例えば、敵が目の前にいる」
「怖い」
「焦る」
「それによって呼吸が乱れる」
「そこまでは自然なことです」
先生は黒板に書く。
『恐怖』
↓
『集中力低下』
「問題は、その恐怖によって言霊のイメージまで壊してしまうこと」
『火』
と書く。
「本来なら『火』という言葉から、炎をイメージできる」
「ところが恐怖が大きくなりすぎると――」
『火』
↓
『敵』
↓
『恐怖』
↓
『逃げたい』
↓
『イメージ消失』
「これでは詠唱魔法が成立しにくくなります」
ユキジが頷く。
「前にやった授業とつながってるな」
「そうです」
先生は笑った。
「ピンチになって集中力が少し落ちること自体は問題ではありません」
「しかし、言霊のイメージまで完全に失ってしまうのは困る」
カズトは昨日の動画鑑賞を思い出した。
主人公が追い詰められても、最後に一つだけ何かを握っていた。
「じゃあ……」
カズトが手を挙げる。
「自分の天秤がどれくらい傾くのかを知っておけば、ピンチになったときに調整できる?」
先生は頷いた。
「それが今日の授業です」
先生は生徒たちに紙を配った。
そこには、いくつかの場面が書かれていた。
『突然、大きな音がした』
『知らない人から話しかけられた』
『大勢の人の前で発表することになった』
『予定が突然変更された』
『自分の魔法を失敗した』
「それぞれについて――」
「どの程度の刺激だと思うか」
「そして、自分の反応はどの程度になるか」
「書いてください」
カズトは考えながら記入していく。
刺激。
反応。
その差。
自分の天秤。
先生が説明する。
「ここで大切なのは、他人と比べることではありません」
「十の刺激に対して、自分が十五の反応をするなら十五でいい」
「五なら五でいい」
「大切なのは――」
『自分の天秤を知ること』
カズトはその言葉を書き写した。
先生は続ける。
「そして、もう一つ」
「皆さんには、言霊のイメージにも『割り増し』を使ってもらいます」
黒板に、
『火』
と書く。
「瞑想の授業では、火のイメージを鮮明にしました」
「色」
「熱」
「光」
「音」
「それによってイメージを豊かにする」
ここまでは良い。
しかし先生は、その隣に新しい天秤を描いた。
『必要なイメージ』
『余計なイメージ』
「割り増ししすぎればいいわけではありません」
「必要な情報を増やす」
「必要でないものは減らす」
「これもまた、頭の最適化です」
カズトはノートに書いた。
『天秤』
『刺激と反応』
『イメージの割り増し』
『割り増ししすぎない』
そして最後に、
『自分の天秤を知る』
先生は黒板を見渡した。
「皆さんはこれから二年間、自分自身について学びます」
「強い魔法を覚えるためだけではありません」
「自分が何に反応し」
「どこで意識が乱れ」
「どこまでなら集中を維持できるのか」
「そして、どの程度までなら言霊のイメージを割り増しできるのか」
「それを知るためです」
カズトは自分のノートを見た。
今までなら、
強く集中する。
もっと頑張る。
そう考えていた。
けれど――
大切なのは、ただ強くすることではない。
強すぎれば、それもまた制御できなくなる。
弱すぎても、イメージが作れない。
必要なところまで割り増しして、
必要なところでは抑える。
まるで――
自分自身の中にある天秤を扱うように。
「では、次の時間から実際にやってみましょう」
先生が言った。
「自分の天秤を使って、言霊のイメージを調整する実習です」
カズトはペンを置いた。
次は、頭の中だけではなく――
自分の反応そのものを扱う授業だった。




