エピローグ
「い、いいか? 開けるぞ?」
「う、うん……」
「……せぇーのっ!」
古びた廃倉庫の扉が勢いよく蹴破られ、光が差し込む。二人の少女が、中に入ってくる。
一人は、スポーティなジャージ姿。もう一人は、高校の制服の上にファーのついた暖かそうなコートを羽織っている。
「あ、あれ……? なんか、ボロボロだね……?」
「お、おい! 本当にここなのかよっ⁉ こんなとこ、人間どころか、ネズミ一匹住んでなさそうじゃねーかよっ!」
「で、でも、調べた場所は、確かにここだって……」
その瞬間、倉庫の奥から小さな生き物が現れ、二人のいる入口に向かってきた。
「わっ……」
コートの少女は片足を上げ、その生き物を避けようとする。しかし、隣のジャージの少女が……、
「うぉーっ! な、なんだなんだ⁉ こっち来んじゃねーっ!」
と絶叫しながら、コートの少女に抱きついた。
「きゃ!」
お陰で、二人ともバランスを崩して、その場に倒れてしまった。
「ちょ、ちょっと悠ちゃーん!」
「し、仕方ねーだろ! なんか分かんねーもんが、いきなりこっち向かって来たんだから!」
「もおー……意外とビビりなんだからー……」
「う、うるせぇーなっ! メロこそ、落ち着きすぎなんだよっ! も、もしもウイルス感染して凶暴化した野犬とかだったら、どうすんだよっ!」
悠と呼ばれた少女はブルブルと震えながら、隣のメロと呼ばれた少女の体に両腕を回している。メロの方は、呆れた様子で悠を見ながら、
「えー、でもどう見たってさっきのって、ただのかわいい『ウサギちゃん』だったよー? っていうか、今までFRウイルスで人間以外が凶暴化したことなんてなかったじゃーん……」
と苦笑いを浮かべていた。
やがて、倉庫を飛び出して自分たちから遠ざかっていく子ウサギを確認した二人は、また気を取り直して先に進んだ。
「ウサギがいたってことは、誰かが定期的に餌をあげてるってことかもしれないね」
「つまりそいつが、あたしらが探してるやつ……。『FRウイルスの開発者』ってことか……」
「うん。多分ね……」
そして、その倉庫の最深部まで入ったところで……、
「きゃっ!」
「うぉっ⁉」
二人は、人間の白骨死体を発見した。
「こ、こ、これは……」
「う、うげぇぇーっ!」
「も、もしかして……ウイルスの、開発者……? そ、そんな………じゃあ、開発者はもう、死んじゃってたってこと⁉」
「お、おげぇぇー!」
がっくりとうなだれるメロと、骸骨を目の当たりにしてとにかく吐き気が止まらない悠。
そんな彼女たちに、背後から人影が近付く。
「ああ、最後の一羽も逃げてしまったのカ。フム……動物を育てるというのは、存外に難しいものなのだネ」
「え?」
声に振り向いたメロは、そこにいた美しい女性に一瞬にして目を奪われてしまった。
金髪に白い肌と青い目、そして独特のアクセントがある語尾。明らかに、日本人ではない。しかし彼女は、そんなことを超越したレベルで、人をひきつける不思議な魅力を持つ女性だった。
「あ、あなたは……?」
「ワタシは、『彼女』の友人だよ。君たちは、『彼女』に用があってここにきたのかナ?」
「え……あ、はい……」
その女性は、まるで母が子に向けるような優しい笑顔を白骨に向けていた。その表情に言葉にはできない何かを感じとったメロは警戒を忘れ、自分たちがここに来た理由を正直に話していた。
「わ、私たち、これまでいろんなところをまわって、ずっとFRウイルスの開発者を探してたんです。ウイルスの開発者なら、きっとウイルスを殺す方法も知ってるって思って……。それで、その人に会って、FRウイルスのワクチンを作ってもらえるように、お願いしに来たんです。な、なのに……その開発者は、もう……」
白骨にチラリと目線を移してから、うなだれるメロ。
隣の悠も、ようやく吐き気が収まってきたらしく、口元を抑えながらもその外国人の女性に真剣な表情を向けている。
そんな二人に彼女は穏やかに、「安心していいヨ」と言った。
「実は、今世間を騒がせているそのFRウイルスには、研究発案段階での根本的な欠陥があるのサ。その欠陥によって、ウイルスは放っておいてもすぐに勝手に死滅するノ。だから君たちは、この開発者の手を借りる必要なんて、ないのヨ」
「で、でも……」
「そ、そうだぜ! いきなりそんなこと言われて、ハイそうですかって引き下がれるかよっ! あたしたちは、これまであのウイルスで何度も危ない目に合ってきたんだ! 完璧にあのウイルスを消す方法を聞いて納得するまでは、帰れねーよ!」
「フム、それもそうだナ……」
それからその外国人女性は、FRウイルスの基本的なメカニズムと、そこにどんな欠陥があるのかということを、悠とメロに説明をした。
それは本来ならば、普通の高校生である二人にとっては恐ろしく難解で、高度な内容だ。しかし、その女性の説明が論理的で非常に分かりやすいものだったこと。さらには、彼女が簡単な実証実験までしてくれたため、悠とメロでもなんとか理解することができた。
「じゃ、じゃあ本当に……そんな『簡単なこと』で、このウイルスは……」
「ああ。嘘みたいだが、間違いないと思ってもらっていいヨ。ワタシの試算では、今夜か……あるいは遅くとも明日の朝には、先程ワタシが言った『ウイルスが死滅する条件』が揃うはずだネ。そうなれば、ウイルス感染者たちは、みんな元通りサ」
「マ、マジかよ……」
理解はしたものの、未だに完全には納得できていない様子の悠とメロ。
だが、先程の説明以外の可能性を自分たちの知能で考えられそうもなく。また、現時点でこれ以上出来ることもなさそうなので、結局は、そこを立ち去ることにした。
廃倉庫を出た途端、二人は凍えるほどの外気に包まれた。倉庫にいる間に日が沈み始め、気温がだいぶ下がっているようだ。ブルブルと体を震わせる二人。吐く息も白い。
やがて、彼女たちがこれからどうしたらいいか途方に暮れ、その場に立ち尽くしていると……。
「あ……」
その顔に、フワッと冷たい塊が落ちてきた。
「雪……だな……」
「うん……。雪、だね」
それは、上空から静かに降り落ちる、その冬の初雪だった。
その雪は、見ているうちにどんどん量を増していく。このままなら、今夜は積もるだろう。
「じゃあこれで……全部、終わるんだ……」
「ああ……。そう、だな……」
「終わっちゃうんだ……ね」
先程廃倉庫で不思議な女性から告げられた「ウイルスが死滅する条件」。それは、空気中の気温と気圧と湿度が、「ある絶妙な組み合わせ」になることだった。厳密にその条件を表すには、複数の計算式や化学式が必要になるのだが……さっきの女性は、その条件が、もっと具体的で分かりやすい現象が発生する条件と同一であると説明してくれた。
その現象こそが、「雪が降る」ということだったのだ。
「……」
無言になる、悠とメロ。
この雪によってFRウイルスが消滅することは、おそらく間違いないのだろう。それはすなわち、ウイルス感染してしまった多くの少女たちが救われるということでもある。
だが、それは同時に、二人の旅がここで終わるということも意味していた。だからこそ二人は、目的が達成できたことを純粋に喜ぶことができずにいたのだ。
二人の脳裏に、今までの旅で経験してきたことがフラッシュバックしていく。
感染者の少女たちに追われ、一緒に逃げたこと。小さな廃屋で、不安を感じながら肩を寄せ合って夜を過ごしたこと。せっかく出会えた「生存者」が途中でウイルス感染してしまって、泣く泣く見捨てて来たこと……。
そういったすべての出来事も、今となっては愛おしく思える。
「これでもう、ウイルスは消えて全部が元通りになっちゃうんだね……。感染しちゃったみんなも……私たちも……」
うつむいているメロ。
悠とメロは同じ学校のクラスメイトだが、もともとは何の交流もなかった。そんな二人がここまで一緒に行動していたのは、FRウイルスがあったから。二人が、ウイルスに感染していない「生存者」だからに過ぎない。それがなくなってしまえば、もう二人が一緒にいる理由はない。もともと趣味も性格も違う、接点など何もなかった二人を繋ぎ止めておくものなど、もう何もなくなってしまったのだ……。
「あ? 何言ってんだ、お前」
いや……。
「あたしらの関係は、元通りなんかにはなんねーだろ? ウイルスが死のうが生きようが、あたしらはもう……」
「え……」
隣に視線を向けるメロ。そこには、恥ずかしそうに顔を真っ赤に染めている悠がいた。
「あ、あたしらは、もう……アレだろ? その、切っても切れねー……親友……的なやつだろーがよ!」
「ゆ、悠ちゃん!」
「……メロ」
じわっと涙を浮かべるメロ。そんな彼女に、恥ずかしがりながらほほ笑む悠。
そして感極まったメロが、そのまま悠に向かって思いっきり……。
「って、おぉい⁉ な、なんでいきなり殴りかかってくるんだよ! そういう流れじゃなかっただろーがっ!」
「え?」
突然素手で思いっきり殴りかかってきたメロを、なんとか受け止めた悠。メロは、きょとんとした顔で答える。
「あ、あれ? だって、悠ちゃんって、いつも私に対してヒドいことしか言わないから、急にそんなこと言うなんて、きっとウイルスに感染しちゃったんだなって思って……。雪が降っても消えないくらいに強力なのが、悠ちゃんの体に残ってるんだなって思って……」
「だとしても、いきなり殴りかかるのはおかしーだろーがっ! 意味わかんねーよっ!」
「だ、だって……もしも悠ちゃんがウイルス感染しちゃったりしたら、多分私……受け入れちゃうよ? そのまま、感染した悠ちゃんと、イケるとこまでいっちゃうよ?」
「は、はあ?」
「多分私、悠ちゃんがウイルスから解放されたあとに恥ずかしくて死にたくなるようなこと、いろいろしちゃうよ? だ、だから、そんなことにならないように、悠ちゃんを守るために、悠ちゃんを遠ざけようとして…………って、あれ?」
「お前……な、何言ってんだよ……?」
「…………あ、そっか。もしかしてこれ、夢? いつも私が見てる、ただの婬夢かぁー! なーんだ。だったら別に、遠慮する必要なんてないじゃーん!」
「お、おい、違うぞ⁉ 夢じゃなくて、現実だぞ⁉ だ、だから、にじり寄ってくるんじゃねーよっ!」
「えへへ……夢の中なら、何してもいーよねー?」
「や、やめろーっ! 来るんじゃねー! やっぱお前なんか、親友でもなんでもねーよ! もう口も利いてやんねーからな!」
「あーん……。そんな『気持ちいい』罵倒を言ってくれるなんて、今日の夢って、さいこー!」
「ふ、ふざけんなーっ!」
「悠ちゅわーん!」
思いっきり悠に抱きつくメロと、そんな彼女に必死に抵抗している悠。
悠にとっては、悪夢が終わったあとにまたさらなる悪夢が始まったようなものかもしれないが……。しかし、そんな風に賑やかに騒ぐことができるのは、ウイルスが死滅することが分かったからだ。今日この場所に、雪が降っているからだ。
それはきっと、とても喜ばしいことなのだろう。それからも、いつまでも騒ぎ続ける親友たちの上には、柔らかな雪は降り続けていた。
そしてもちろん。
彼女たちの上だけでなく、別の空にもその雪は降っている。
例えば……連続殺人犯の女性と、彼女に誘拐された少女のもとにも……。
※
「降ってきたわ。積もるのかしら……。いやあね……」
信号で停車している黒いセダンの運転席から、空を見上げる女性。
視線をバックミラーに移して、後部座席に乗っている少女を見やる。
「寒くないかしら?」
「……」
無言で首を振る少女。彼女の首にはもう、首輪はない。もちろん、猿ぐつわや手錠などの拘束具の類も、つけられてはいない。しかし、彼女は何も喋らなかった。少女は、運転席の女性に誘拐されるずっと前から、言葉を出せなくなっていたのだ。
「そう。それなら、よかった」
可愛らしい子供服の裾がめくれて、少女の腕が露わになる。そこには、だいぶ前につけられたらしい、痛々しいアザがあった。それを視界にいれた女性は、眉間にシワを寄せて、つぶやく。
「貴女の両親、もうとっくに離婚して、両方とも別の相手を見つけたらしいわ。……ふざけてるわよね。やっぱり、生かしておくべきではなかったかしら……。いっそ、今からでも……」
「……」
そのつぶやきを聞いた少女は、後部座席から立ち上がり、女性の腕に手を置く。そして、弱々しく首を振った。
彼女のその行動に表情を緩め、殺人犯の女性は笑顔になる。
「うふふ、優しいのね……。貴女のそんなところも、大好きよ……」
やがて信号が赤から青になると、その女性が運転するセダンは走り出した。
「貴女のことは、私が絶対に守るからね……。どんなことをしてでも……」
その車は、白ずんでいく町並みの中に消えていった。
雪は、さらに降り続ける。
ささやかなパーティーを開いている、古びたアパートにも。
※
「はーい六華ちゃーん、クリスマスケーキでちゅよー? あーん……」
「あ、あの……春お姉さん? 私、もう小学生なので、ケーキくらい自分で食べられます……」
「もー! 六華ちゃんてば、そんなツレないこと言わないでよー! こういうのは、お姉ちゃんから可愛い妹に食べさせてあげるって、相場が決まってるんだよー? 仕方ないなー。じゃあせめて、お姉ちゃんがふぅふぅしてあげるからねー?」
「い、いえ……ケーキは別に熱くないので、ふぅふぅもいらないですから……」
「あ、そおう? じゃあ、六華ちゃんが食べやすいように、お姉ちゃんがケーキ噛み砕いてから食べさせてあげようか? く、口移しで……え、えへ、えへヘ……」
「い、いえ、あの……」
ドン引きしている末妹の六華と、彼女に迫る四女の春。
その二人を、少し離れた席から、次女の千秋と三女の夏未の二人が見ていた。
「すごいよねー、春ちゃん。これだけ六華ちゃんに気持ち悪く迫っといて、相変わらず私たちのことは受け入れてくれないんだもんねー。いやーホント、自分のことって自分が一番見えないんだねー」
「は、春ちゃんも……今の夏未ちゃんにだけは、そういうこと言われたくないと思うんだけど……」
「えー? 千秋姉、それってどういうことー? もしかして、今の私って、どっかおかしいのかなー? ただ私、『春ちゃんへのクリスマスプレゼントは私自身だよ』って意味で、裸にリボン巻いてるだけなんだけどー?」
「そ、その裸にリボンが変だって、春ちゃんは言ってたけど……」
「えー、でもでもー。こういう格好って、千秋姉が描いてるようなエロマンガだと、よく女の子がやってるじゃーん? 結構ありがちだと思うんだけどなー?」
「そ、それが『ありがち』なのは、エロマンガの世界だけだよ……。普通の女の子は、裸リボンなんて……しないから……」
「もー! なんだよなんだよー! 千秋姉のくせに、春ちゃんみたいなこと言ってー! そんなこと言ってると、千秋姉が、春ちゃんが入ったあとのお風呂に春ちゃんの下着浮べて、『春の七クサ粥……うふふ……』とか言って遊んでたの、バラしちゃうよー⁉」
「そ、そ、そ、それだけはぁー!」
「もう二人とも、こんな日にまで馬鹿なことを言ってるんじゃないわよ!」
「あ、冬姉……」
そこで、仕事を終えて帰ってきた長女の美冬が、パーティー会場に合流する。
「まったくあなたたちときたら……そんな変態的なことを大声で言って! ご近所様に噂にでもなったらどうするのよ!」
そう言って、厳しい表情で千秋と夏未をおとなしくさせた美冬。それから、相変わらず六華に気持ち悪い方法でケーキを食べさせようとしている春の前にやってくると、バッグからとてつもなく分厚い黒い本を取り出した。それは、六法全書だった。
「春、それから六華ちゃん? 実は私、趣味で法律を勉強していて、それで気付いてしまったのだけどね……。
確かに現在の日本では、いまだに女同士、しかも姉妹同士では正式な結婚は出来ない。でもね、不倫関係なら問題はなさそうなのよ。つまり、法律上の不倫関係はもともと『男女間の不貞行為』だから、女同士とか姉妹同士の不倫は法律上はオッケーなわけ。
で、これは二人に提案なんだけど……例えば、戸籍上は六華ちゃんが春の本妻という形にしておいて、私は春の不倫相手……つまり、妾になるというのはどうかしら? これなら、六華ちゃんが私を民事裁判で訴えなければ、私は犯罪者にはならなくてすむの。ね? いろんな可能性を考えると、これが一番最適な方法だと思うのだけど……」
「もおーう、冬姉! いきなり何言ってるの⁉ そんなの問題ありすぎでしょ!」
「そ、そうですよ、美冬お姉さん……。わ、私だって、春お姉さんとは姉妹ですし、女同士なんですから……そもそも本妻とか、そういうのは……」
「私と六華ちゃんが結婚したら、不倫なんてするわけないでしょっ⁉ 私は六華ちゃん一筋なんだから、冬姉が私の妾になんて、なれないよっ!」
「いえそうじゃなくて……そもそも結婚ができないって話なんですけど……」
騒がしい5姉妹のパーティは、それからも続いていた。
雪は、奇妙な主従関係を結んだ二人にも、降っている。
※
「……ねえ? クリスマスに、このわたくしにこんなしみったれた料理を出すとか……あなた、正気なの? こんなの、私の世界じゃあドブネズミでも食べないわよ? まったく……。こんな独房みたいな狭い部屋に押し込まれたかと思えば……そのうえ、年に一度のクリスマスに、こんな生ゴミを食べさせられるなんてね。ああ、屈辱だわ」
「そ、そんな贅沢言うんだったら、食べなきゃいいじゃないですか! うちは昔から、クリスマスはケンタのチキンって決まってるんです! お母さんたちにバレないようにあなたを部屋にかくまって、そのうえ料理まで持ってきてあげたんですよ⁉ むしろ、感謝してくださいよ!」
「はいはい……。もう、なんでもいいから、早く食前酒を出してもらえるかしら? 食前酒がなければ、晩餐を始めることができないでしょう? ……あら? それによくよく見たら、ナイフとフォークが銀製じゃないわね? わたくし、銀以外の食器では、食事をしない主義なのよ。さっさと取り換えてちょうだい」
「あーもー! この、ワガママお嬢様がぁーっ! ただのJKに、お酒やら銀食器やらが用意出来るわけないでしょうがぁーっ! ゴチャゴチャ言ってないで、いいから黙って食べろやぁーっ!」
「まあ、なんて口のきき方なのかしら? 庶民というのは、品がなくていけないわね。……でも、分かったわよ。ここはあなたの顔をたてて、このガラクタのような食器で、この生ゴミを食べてあげるわよ。その代わり、食後のお風呂は付き合ってちょうだいね?」
「え?」
「何驚いてるの? 当たり前でしょう。着替えをしたり、お風呂でわたくしの体を洗ったりするのは、わたくしの『メイド』であるあなたの仕事に決まってるじゃない。わたくしが、自分でそんなくだらない仕事をするはずがないでしょう?」
「え? き、着替え……? 体を、洗う……? そ、それはぁ、そのぉ……さ、流石にちょっとぉ……ま、まずいんじゃあないですかねぇ……あ、あはは……」
「何よ……急にいやらしい顔になったわね? まったく……これだから下賤の者は……」
「ち、違っ、違いますよ! い、今のは、そういう意味じゃなくて……!」
「はあ……わたくしは、つくづく運がないのね。まさか、こんな変態と『メイド』契約を結んでしまうなんて……」
「ち、違いますってばぁーっ!」
雪は降る。
自らの人生を研究にささげた者と、その彼女を愛した女性のもとにも……。
※
悠とメロが出て行ったあと、フィボナは、廃倉庫の中で、白骨化した稲葉ミトに寄り添っていた。
それは、数年前にフィボナが今の姿になったミトを見つけてから、彼女がずっとやってきたことだった。
「ミト……君はすごいナ……。君はあのときから、とっくに持っていたんだネ? ワタシが、自分の研究に夢中で、周りが見えなくなっていたあのときから……。黄金なるもの……美しく完璧で、永遠なるものを、君自身の中に完成させていたのだネ?」
フィボナは微笑む。
「あのときの君は、ワタシには眩しすぎたヨ……。完璧な君に、合わせる顔がなかったヨ……。雪が降れば消えてしまうような不完全な研究しかできない自分が、君に好かれていることに耐えられなかったんだヨ……。だからワタシは、逃げ出してしまったんだ……」
悲哀など微塵も感じさせないような、優しい笑顔を、ミトに向けている。
「バカだったヨ……本当に……。君がただ、ワタシだけを見てくれていたように……ワタシもただ、君だけを見ていればよかった……。そうすれば……君のすばらしさに、もっと早く気づけたのに……。ウサギは、寂しさを感じることなんてなかったのに……」
それから彼女は、ミトと体を重ね、目を閉じる。
そして、静かに白骨のミトに口づけをした。
(もう、逃げたりしないよ、ミト……。これからは、ずっと一緒だ……)
それは、永遠のように長く、輝くほどに美しい、恋人たちのキスだった。
それからも。
いつまでもいつまでも、雪は降り続けていた。
すべての汚れを、白で覆い隠すように。
そして、今日という日を祝福するように。