危険な時間
「これぐらいで、次は……っ」
何気なく通りの方を一瞥した、それが良かったのだと思う。ただ、幻かとも思った。
「女の人? こんな場所に?」
後方で寝てるような少女なら解るのだが、僕が目にしたのは肌の露出が大きくそれでいてこんな場所にはそぐわない、清潔そうな衣服で身を包んだ女性の姿だったのだ。
「まるで――」
そちらも治安はよろしくないので僕は足を運んだこともなく、遠目に見たことしかないが、歓楽街の春をひさぐ女性のようにも見えて。
「いけないっ!」
我に返った僕は、女性の視線がこちらを向いていないのを確認すると紙屑を穴に蹴り込み、出来るだけ音をたてないように土をかけつつ後ずさる。
「そのまま気づかずにいてくださいよ」
こんな所に場違いな女性。十中八九あのシャロスと言う男の仲間だろう。外を歩くのが自殺行為と言われる時間帯に普通の女性がうろつける筈がないのだから。
「けど」
迷いなくこちらに向かってきていないのは、僕の現在地を完全に把握してはいないのか、それともそう思わせて油断を誘う為で、実はもう気取られているのか。
「あと少し」
すり足に近い形でゆっくりと後退し、もう少しで板の裏側に潜り込めるところまで至る。
「はぁ、はぁ」
緊張で呼吸が荒い。水分の不足で粘つく唾液を嚥下し、そういえば走りっぱなしだったのに何も口にしていなかったと今更ながらに思い出す。
「水……この辺りの水、僕が飲んだらお腹壊しますよね、たぶん」
かなりピンチの筈なのにずれたことを考えてしまうのは、現実逃避で心の平静を保とうと僕の身体がしているのか。
「あと少し」
もう少し。短い移動時間が、やたら長く感じる。だが、本当にあと少しなのだ。今のところ女性は遠く、顔の向きは通りの先へと向けられている。
「そりゃ、そもそもここ行き止まりですからね」
板の偽装を取っ払って、少女の寝床を撤去しても、元々あったのは行き止まりの筈。偽装の板の為に行き止まりまでの距離がほんのわずかに短くなってはいるが、行き止まりから通り側が見える時点でお察しだ。
「大丈夫。大丈夫……」
根拠はない。だが、疑えば不安に押しつぶされそうだ。
「紙屑は埋めたし、僕も板の裏側に隠れればそれまで通りの何もない行き止まり……」
あの女性は目もくれないと、願望を小さな声で口にする。
「見るな、まだ見るな……」
細心の注意を払い、板を傾け、半身をゆっくりと滑り込ませる。
「そういえば――」
市井の子供たちはかくれんぼという遊びをすると以前家庭教師の先生に聞いたことがある。僕は生憎とそういう遊びをしたことはないが、もし経験していたらこういう時に役だっただろうか。
「って、いけない!」
また意識が余所に逸れかけた。無意識に逃れたくなるほどの精神的負担を強いられているということだろうが、状況が状況。今はよろしくない。
「よしっ」
顔が半分ほど板から覗くだけまでこぎつけたが、女性の視線は未だこちらに向かいない。安堵と共に顔を引っ込め、ほうと吐息を吐きだす。
「ああ、緊張した……けど」
気を緩めるわけにはいかない。板にはまだ僕が身体を滑り込ませるために隙間を作ったことでズレたままだし、女性が去ったわけでもないのだ。
「確か、板の裂け目は……」
内側から外の状況を確認し、隙間を閉じるべく僕は板を支えながら顔を移動させ。
「っ」
裂け目の横に顔を移動させ、外の様子を窺って身体をこわばらせた。女性がこちらを見ていたのだ。
「バレました?!」
それとも、まだ気づかれていないのか。隙間の小ささと女性までの遠さからそれ以上の事は解らず、僕に出来ることと言えばただ板を支えじっとすることのみ。
「はぁ、はぁ」
呼吸の音が、自分の心臓の音が、異常なほど大きく聞こえていた。