逃亡令嬢
大観劇祭、二日目。
舞台のお披露目は今日で終わり。今夜までにお客は自分が見た舞台の中から最も素晴らしかったものを選び、投票します。
結果は明くる朝に発表され、最優秀賞者への表彰式と、優勝記念公演が、立派な野外ホールで行われるのだそうです。
私たちの一座の優勝は、おそらくないでしょう。脚本はとてもおもしろいものでしたが、役者不足はさすがにカバーしきれませんでした。舞台裏の余裕のなさがあからさまで、お客の失笑を買っていたように思われます。
それでも、完璧ではなかったかもしれないけれど、最後まで観てくださった方にはきっと、楽しんでいただけたと信じております。
「あなたには心から感謝しています」
早朝、舞台の背景に筆を入れている私の傍へ、アーロン座長が腰を降ろしておっしゃいました。
軽い疲労の窺えるお顔には、それに勝る充実した気が満ちているようでした。
「何人か役者が動けるくらいにはなりました。けど、ベアトリスだけは最後まであなたに演じていただきたい」
「ええ、もちろんですわ」
筆を置き、私は彼に向き直りました。
「私のほうこそ、このような経験をさせていただき感謝しております。さらには、こんな我がままを聞いてくださって」
「いや、我がままを聞いたつもりはありませんよ。おもしろいと思ったから採用しただけです。一度、脚本を書いてみてはいかがです? あなたには才能がある」
「あらあら、お世辞がお上手ですのね」
「お世辞なんか言いませんよ」
アーロンさんは、少々むっとされたようでした。
「ラティーシャさん、これは本気のお願いですが、来年も私どもと観劇祭に参加していただけませんか。我々は旅の一座です。我々にはあなたの望む自由があり、人生を分かち合える仲間がいます。あなたさえ良ければ――」
ふと饒舌なお口が止まります。
私が人差し指をそこに添えたためです。
「残念ながら、私は私にしかなれませんの」
私にできるのは、嫌われ者の悪役以外にございません。
それでは、彼らの役に立たないでしょう。
「どうかお許しくださいませね? 真の自由とは、孤独の傍らにあるものなのです」
指を離しますと、アーロンさんは詰めた息を吐き出しました。
まるで観念したかのようです。
「一人で寂しくありませんか」
「ええ、時折。けれど、寂しさを埋めるのにたくさんのものは必要ありません。私には紙と、筆と――最愛の方が一人、胸の内にあれば十分ですわ」
すると、アーロンさんは大仰に驚いていました。
「想う相手がいるんですか?」
「もちろん。これからできる予定です」
恋の一つや二つや、三つや四つ。乙女たる者、殿方へのときめきなくして生きられましょうか。
――と思いつつ、まだその類のときめきは少なく平然と生きておりますが、いつかハイスペクタクルな恋に落ちる未来があるのです。おそらく。
ですが、誰かを愛したとしても、きっと、私は独り。
何も手にしないかわりに、何にも囚われない。
私が選択したのは、そういう人生なのですから。
*
「信じられませんわ!」
黒髪のかつらをかぶった女が、狭い舞台で今日も喚く。
このシーンを見るのも、もう四度目か五度目になろうか。いい加減、うんざりしている。
演技、演出の良し悪しはさておき、題材が私にとって極めておもしろくない劇なのだから、仕方のないことだろう。
舞台の最終日とあって、どこも客入りは前日の倍に増えているようだった。
特に人気の一座の公演は、客が通りの幅いっぱいに詰めかけている。野外観劇で特に席もなく、客を整理する者もいないため、彼らは地べたに座り込んだり舞台の端に肘を置いたりと、ひどく不作法ながら不思議と混乱は生じていない。
皆、熱心に舞台を観ている。
私は彼女が逃げ出さないよう見張っているが、舞台に張り付いている客が奇しくも柵のようになり、彼女が舞台を突然飛び降りて逃げ出せる隙間もない。左右の舞台袖には部下も控えている。
仮に逃げても、明日まで彼女も徒歩以外の移動手段を持たないのは私たちと同様だ。
視界の内にあれば逃がすことはない。
「なぜ私を選んでくださらないの!?」
二日目になると、役者の顔ぶれや演出がやや変化したようである。
また観に来た客などを少しでも飽きさせない工夫なのだろう。しかし、悪役令嬢だけは変わらずラティーシャが熱演していた。
ベアトリスという、あり得ないほど道義知らずの女は、学園でのラティーシャをいちいち彷彿とさせる。役であるとわかっているのに、胸の奥底でずっと燻ぶっている感情が噴き出しそうになる。
舞台上の彼女は、あの日のように颯爽と去りはしない。
懺悔することもなく、ただみっともなく最後まで喚き、舞台から消される。
後には、嵐を乗り越え、安堵する幸福な二人だけが残る。
卒業式の日、殿下や私が想定していた展開がまさしくこの通りだった。
それを悪役本人に劇として、まざまざと見せつけられている。
まるで、こうしたかったのだろうと嘲笑されているようであり、怒りと、羞恥と、後悔の念が堰を切って溢れそうだ。
だが――暗い感情群の底には、喜びもまた生まれていた。
ラティーシャの悪は、やはり演技だった。
彼女は殿下も他の誰のことも慕ってはいなかった。
彼女の本質は初めて出会った日から変わっていない。理性的で心優しい女性。塵界に身を堕としても、生来の気品は損なわれない。
秘密裏に王都へ連れ帰り、殿下のお怒りが鎮まっていることを知れば、彼女も安心して事情を明かすだろう。婚約が決まる前から家出を計画していたと言うのなら、実家の侯爵家でおそらく何かがあったのだ。
今度こそ、私は彼女の役に立てるだろう。
醜態を世間に誤認させたままではおかない。
彼女の名誉を正しく取り戻す。一人彷徨う生活から救い出し、本来の世界に彼女を戻す。
そしていつか――長く時がかかっても良いから、私に彼女の信頼を与えてほしい。
舞台の悪役令嬢は、他の取り巻きどもとまとめて断罪され、舞台袖に消える。
残った二人が互いに愛を囁き、口付けを交わして、エンディングの準備のため一度幕が下りた。
今日は主人公の令息のほうの役者も変わっていたが、ヒロインのほうも少年から女性に変わり、口付けのシーンが足されたようだ。
ラティーシャがヒロイン役でなくて良かったと思う。そうでなければ、令息役を睨むだけでは済まなかった。
ナレーションが繋げたほんのわずかの間の後に、幕が再び上がる。
エンディングの結婚式のシーンをすでに思い浮かべていた私は、しかし幕の後ろに用意されていた別のものに、脳天を殴られた。
暗い岩壁を背景に、汚い布を体に巻いた蓬髪の女が一人。
布の端から覗く、眩いほど白い足首に、錆びた鎖が巻かれていた。
一瞬前の高貴な姿から遥かにかけ離れている、堕ちた姿。
囚人となった、ラティーシャだ。
昨日までこのようなシーンはなかった。
舞台袖に消えた悪役の続きなど描かれず、観客は闇に彼女を葬り去り、幸福の余韻に浸っているだけで良かった。
そこへ突如冷水を差す、あまりに無残な、悪役の成れ果て。
違う、と心が激しく叫んでいた。
これはラティーシャではない。劇中の令嬢だ。
彼女はこんなことにはならない。
ならない、はずだ。
「・・・望みは指の間を零れ落ち、結局何も残らない」
深い水底にあるような、哀しい声が響く。
陰惨な彼女の姿に、観客たちは息を呑んでいた。
「冷たい鎖の戒めと、岩の檻が今の私に与えられたもの。私が求めていたものとは、一体なんだったのでしょう?」
頭上へ掲げた両手は、空を掴んで胸の前に落ちた。
「私はすべてを奪われた? いいえ、はじめから何も持ってはいなかった。生まれると同時にその身分にあり、いつの間にか婚約者があっただけ。私は真にあの方の愛を求めていた? いいえ、それが役割だと思い込んでいただけ。そうよ、はじめから私は牢に繋がれていた」
白い指先が鎖をなぞる。
おそらくは荷締めに使われる頑強なものだ。到底、女の細腕で切れるものではない。
「高価なドレスも宝石も、私を縛る鎖だった。私を立場に執着させ、私を私でなくさせた。貴族の身分がなんだったというのでしょう、愛が何になったというのでしょう。与えられるものなど、いらなかった。真に私に必要だったのは、捨て去ること」
絶対に逃げられない状況で、彼女は再び何かを掴もうとするように、虚空に手を伸ばした。
「――もし、鎖を解かれる日が来たら、旅に出ましょう」
微笑みさえ浮かべている。
哀しい声が、希望に弾んだ。
「持ってゆくのは、身一つ。生きる場所も、死ぬ場所も自由。ドレスも宝石もいらない、誰にも愛されなくて良い。取るに足りない私として、自由に生きるの。そうして初めて、私の人生は光り輝くの!」
叫んだ、直後に彼女は倒れ伏す。
思わず、抱き留めようとしてしまった。観客の後方にいる私の手が、届くわけもなかったが。
彼女が身じろぐと、鎖は重い音を立てる。
自由など与えない。
そう、無慈悲に告げているようだった。
彼女は横たわったまま。
乱れた髪の隙間から、虚ろな眼差しをこちらへ向けていた。
「いつか・・・きっと」
眠るように、目を閉じた。
令嬢は、孤独な牢の中で狂い、衰弱死したのか。
それとも死ぬ前にやっと、本当の望みを見つけられたのか。
明確な答えは示されず、幕が下りる。
今、ラティーシャは本当にベアトリスを演じていたのだろうか。
あるいは彼女は彼女として、あったかもしれない未来の自分を再現していたのではないだろうか。
鳴りやまない拍手の中、先程の彼女の言葉を思い出す。
私に向けて言われていた、言葉を。
――もしかして彼女は、ただ、本当にただ、自由になりたかっただけなのか?
孤独な旅が、安定した生活や家族よりも彼女にとって大切なものだったのか?
自由になりたいという、我がままな願いのためだけに、己の役目を放棄したのか?
頭で捉えたことに心が追い付かない。
信じ難いことだ。
真実そうであるならば、ラティーシャはまったく『理性的な令嬢』ではない。
怒りよりも、強い不安から私は舞台裏へ走った。
今すぐ彼女の顔を見たい。まだそこにいることを確認しなければならない。
自由だけが望みだったのならば――昨夜の不可解な言葉の通り、すでに望みが叶っているのならば、彼女は決して捕まらない。
幌馬車の中にいると聞き、外から彼女の名を叫ぶ。
「ラティーシャっ!!」
途端に、馬車から何人も飛び出して来た。
ラティーシャが身に着けていたようなワンピース、帽子、鞄など、それぞれが似たり寄ったりの格好をして、顔を隠しながら散る。
咄嗟に背格好の似ている者を捕まえると、まったく違う娘が舌を出した。
「残念、はずれ」
部下と協力し、なんとか四人を捕まえたがすべて違う。確か、あともう一人はいたはずだ。
「悪いけど、あの子をごうつくばりのジジイの後妻になんかさせないよっ」
「なんの話だっ!!」
わけのわからぬことを言い出す一座の女に怒鳴りつけた時、通りの反対側に積み上げられていた木箱の上に、華奢な人影が現れた。
「それでは、ごきげんよう!」
大胆不敵にも別れを告げ、木箱の向こうに姿を消した。
町を出るとしても、今は徒歩しかない。馬を調達すれば即時に追いつける。だが、その前に捕まえられる。
ここから一番近い町の出口は知っている。路地を抜けて先回りし、念のため部下には他の出口へ向かわせ――狙い通りに、祭りの派手な入場ゲートの前で捕まえた。
「声まね、うまかったでしょ?」
金髪のかつらをかぶった少年が、得意げに言う。
昨日、ヒロイン役を演じていた者だ。
「これで、あの子がどこに消えたかわかんないね。当たり前だけど俺たちも知らないよ」
飲まされた煮え湯が、腹の中でふつふつと沸き立つ。
最初に飛び出したのは全部偽物で、おそらく本物は私たちが消えてから悠々と馬車を出たのだろう。
明日が終わらなければ町を出られないにせよ、この有象無象が溢れ返る場所から一人を見つけ出すことが、どれだけ無謀なことか。祭り後に、一挙に町を出て行く馬車を隈なく調べることもまた不可能だ。
旅の一座に何を吹き込み、ここまで協力させることができたのか。
少なくとも彼らは、好意をもって彼女を助けたつもりでいるようである。
今になって知ったことでもない。彼女は学園でもそうだったろう。
息するように嘘を吐き、好悪のいずれの情も利用して、意のままに周囲を操る。
「悪女め・・・っ」
怒りを吐き出した次には、どうしようもないやるせなさが胸中を襲った。
取り戻せる名誉など、最初からなかったのかもしれない。
誰が彼女の所業を赦すだろうか?
衆人を欺き、何もかもを犠牲にして、一人自由を手に入れた者を。
王宮へ連れ帰り、真実が明らかとなった後に彼女へ与えられるのは、舞台の悪役令嬢と同じ永劫の鎖であるかもしれない。
私の行いは、またしても彼女を破滅へ導くのか?
わからない。
わからないまま、体だけが性懲りもなく、雑踏の中に彼女の姿を探して彷徨うのだった。