第36話:脱皮の記憶、最初の女の執念
黄金の領土が、いつもとは違う「熱」を帯びていた。
新しく増築された王宮の地下、そこは冷涼な空気が流れるはずの場所だが、今はどろりとした琥珀色の霧が立ち込め、甘く重いフェロモンの香りが壁を伝ってリビングにまで漏れ出していた。
「……ねえ、アレン様。……覚えていらっしゃいますか? ……あの霧深い森で、震えていた貴方様を、私が初めてこの腕で抱き上げた日のことを」
ミーシャが、アレンを自分の寝室へと連れ込み、重厚な扉を魔力で封鎖した。
彼女の瞳は、普段の慈愛を忘れたかのように、爬虫類特有の縦長の瞳孔を細め、濡れたような光を宿している。彼女の肌は、脱皮を控えて真珠のような光沢を放ちつつも、その内側から溢れ出す「情欲」で、触れれば火傷しそうなほど熱を帯びていた。
『……ミーシャ、体が熱いよ。……大丈夫かい? 脱皮の時期が来たんだろう? 僕が何か手伝えることがあれば……』
アレンがマスコットの姿で、心配そうにミーシャの頬に肉球を寄せる。
その瞬間、ミーシャの長い指先がアレンの小さな体を捕らえ、逃がさないように強く、しかし壊さないように繊細な力で、自分の胸元へと引き寄せた。
「……ふふ。……お手伝い、してくださるのですね? ……ならば、私のこの『古い皮』を、貴方様の魔力で剥ぎ取ってくださいませ。……そして、新しく生まれ変わる私の、最初の『所有者』になってほしいのです」
ミーシャの言葉と共に、彼女の下半身である蛇体が、生き物のようにうねり始めた。
エメラルドの鱗が擦れ合い、キチキチと乾いた音を立てる。彼女はアレンを抱いたまま、自身の脱皮の際に排出される透明な魔力膜――『琥珀の膜』を部屋中に充満させた。
粘り気のある、温かな膜。それがアレンとミーシャの周囲を包み込み、外界の音も、ルナやフェリスの嫉妬の声も届かない、完全な「二人だけの繭」を形成する。
『……ミーシャ、これは……?』
「……【琥珀の密室】。……この中では、時間も、法も、外の女たちの序列も意味をなしません。……あるのは、私と、貴方様だけ……」
膜の中で、アレンの『白金の鎖』が激しく共鳴した。
密閉された空間で高まったミーシャの情念を吸い込み、アレンの肉体が眩い光を放ちながら、急激に膨張を始める。
黄金の光が収まった時、そこにいたのは、全裸の(ミーシャの琥珀の膜を薄く纏った)人間姿のアレンだった。
「……ああ。……お美しい。……やはり、この姿の貴方様を独占できるのは、私だけなのですね」
ミーシャは、古い皮が裂ける音を立てながら、中から現れた真珠のように瑞々しく、滑らかな「新しい肌」でアレンに絡みついた。
下半身の蛇体が、アレンの脚を、腰を、そして胸板を、一寸の隙間もなく幾重にも締め上げる。
「……っ、ミーシャ……! 強い、締め付けが……っ。……肌が、吸い付いて……離れない……」
アレンの苦しげな吐息が、ミーシャの耳元をくすぐる。
脱皮直後の彼女の肌は、極限まで感受性が高まっており、アレンの体温、心臓の鼓動、そして肌が擦れる感触の全てを、雷のような刺激として受け取っていた。
「……いいのです、アレン様。……もっと苦しんで。……もっと私を感じて。……貴方のその熱い肌が、私の冷たい鱗を溶かして、混ざり合っていく。……これが、私たちが『最初』に誓い合った愛の形ではありませんか?」
ミーシャの長い腕がアレンの首に回り、彼を逃がさないように強く、強く固定する。彼女はアレンのうなじにある、自分がかつて刻んだ『琥珀の紋章』に唇を寄せ、熱い吐息を吹きかけた。
「……新入りの狼も、海の女王も、教国の聖女も……。……皆、貴方様の『今』を奪おうとしています。……でも、貴方様の『過去』を、その孤独を知っているのは私だけ。……この締め付けは、貴方を守るための檻。……私の体温以外のものを、忘れてしまえば良いのです……」
ミーシャの尾が、アレンの背中を、まるで慈しむように、しかし骨の軋むような力強さで愛撫する。
アレンは、水の抜けない溺水の中にいるような、逃げ場のない「密着の深淵」に沈んでいった。
古い皮から抜け出したミーシャの新しい肌は、驚くほど吸着力が高く、アレンが少しでも動こうとすれば、真空のように彼の皮膚を吸い込み、密着の度合いを深めていく。
「……はぁ。……アレン様。……貴方の鎖が、私の体内へと溶け出しています。……もう、引き離せませんわ。……死ぬまで、この繭の中で……私と一緒に、溶けてしまいましょう……?」
その時。
ドォォォォォン!!
部屋の外で、巨大な雷鳴が響いた。
「――そこを開けろ、大蛇女!! 主殿をどこへ隠した!!」
フェリスの怒号。
「ミーシャ! アレンをそんな密室に閉じ込めて、何をするつもりよ! 不潔よ、破廉恥よ、今すぐその薄汚い膜を解きなさい!!」
ルナが絶叫し、藍色の雷光で結界を叩く。
だが、ミーシャは微笑みを崩さなかった。
彼女はアレンの耳元を甘噛みし、勝ち誇ったように呟いた。
「……ふふ。……無駄よ。……今の私は、アレン様から授かった魔力を全て、この『愛の盾』に変えている。……あの子たちの声は、私たちを邪魔するただのノイズ。……ねえ、アレン様。……もっと、私をきつく抱いて。……外の女たちの声が、聞こえなくなるまで……」
ミーシャの締め付けが、さらに一段、強くなった。
アレンは、彼女のしなやかで力強い全身の筋肉が、自分の骨格を愛おしそうに包み込み、矯正していくような感覚に襲われた。
それは、暴力ではない。
あまりにも深い、そして暗い、始祖としての「正妻の執念」。
数時間後。
琥珀の膜が霧散し、静まり返った部屋から、脱皮を終えてこれまで以上に艶やかになったミーシャが姿を現した。
その腕の中には、黄金の毛並みに「ミーシャの匂い」をこれ以上ないほど濃厚に染み込ませ、ぐったりと眠るマスコットのアレン。
「……お待たせしました、皆様。……アレン様は、私の献身によって、魔力の不安定を解消されましたわ。……さあ、次は誰の番かしら? ……まあ、私との『絆』を上書きできる自信があるなら、の話ですけれど」
ミーシャが、優雅に、そして冷酷に微笑む。
彼女の新しい鱗は、アレンの『白金の鎖』と同じ色に輝き、彼女がアレンにとって「唯一無二の始祖」であることを雄弁に物語っていた。
「……あ、あの女……。……やりやがったな。……主殿の毛が、あいつの匂いでベタベタじゃねぇか……っ」
フェリスが唇を噛み、ルナが震える手で眼鏡を直す。
アレンは、夢の中でさえも、ミーシャのあの「吸い付くような肌」と「逃げられない締め付け」を思い出し、心地よい絶望の中に沈んでいた。
黄金の王、アレン。
最初の女の執念は、他の誰にも真似できない「密着の記憶」を、彼の魂に刻み込んだのである。




