第12話「別盃」
――この宿の主は、
命というものに、
いつも真摯に向き合っていたのだろう。
鹿だけではない。
虫であろうと、鳥であろうと、
その小さな息遣いに、手を伸ばしてきた人だ。
主との語らいは、実に楽しかった。
酒を酌み交わし、語り合ううち、
時の流れを忘れてしまうほどに。
それは一夜では終わらなかった。
気がつけば、毎晩のように杯を重ねていた。
——掟を、破ってしまったのだ。
帰らねばならぬ夜が来た。
月は高く、
宿の灯りは静かに揺れていた。
主の前に座り、
私は言葉を選ぶように、
ゆっくり口を開いた。
「私は修行の身だ。
同じ場所に留まることは許されない」
杯を置き、続ける。
「今宵で、帰らねばならぬ。
私はもう、地上へ降りることは
出来ないかもしれない」
主は何も言わず、
ただ静かに耳を傾けていた。
その沈黙が、
責めるでもなく、引き留めるでもないことが、
かえって胸に沁みた。
「だが……
私の弟子たちが、
この宿を訪れることがあるだろう」
そこで、私は初めて主の目を見た。
「どうか、
私と同じように迎えてやってはくれぬか」
主は、少し考えるように杯を見つめたあと、
ふっと笑った。
「何を言い出すかと思えば……」
そう言って、酒を注ぎ足す。
「ここは宿屋だ。
迎えるのは、当たり前のことだよ」
主は杯を高く掲げ、
迷いのない仕草で、ぐっと飲み干した。
「もし……許しが出たら、
また来てくれ」
空になった杯を卓に置き、
穏やかに続ける。
「変わらず、
ここで、ずっと待ってるよ」
その言葉に、
私は何も返せなかった。
主は、嘘偽りのない、
真っ直ぐな人だった。
私は主に感謝を告げ、
迎えに来た弟子たちと共に空へ昇った。
振り向くと、
杯を高く掲げ、
和やかに笑っている主の姿が目に入った。
——必ず、またこの地を訪れよう。
私は、そっと我が友に誓った。
それから、何年も、何十年も月日が流れ、
やがて私は大神と呼ばれるようになった。
再びこの地を訪れた時、
この宿の主は、すでにこの世を去っていた。
それでも宿の灯りだけは、
あの夜と同じように、
静かに揺れていた。
胸の奥に、
静かな痛みが残った。
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次回更新は14日を予定しております。
第13話「継心」へ続きます。




