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終章 「星ノ生徒 後篇」


 日が昇る前に幼年学校を離陸して西へ。

 其処から南に転針して飛鳥山を越える。南風洗(はえあらい)の港から日奉湾(ひまつりわん)。そこから更に先――大南洋の水平線から昇る旭日を正面から受け、爾麒(ミツルギ)の流麗な白は黄金色(きんいろ)に染め上がる。


 高度4000の領域を、その導翅は悠々と越えた。 瓦斯槓桿(スロットル)はまだ半分も開けていない。

 狭い機上に溢れんばかりの陽光は、夏秋 遥の色素の薄い瞳にはあまりに烈しく映えた。爾麒専属班の主任技術者たる玉川 小夜子がプレゼントしてくれた遮光眼鏡(グラス)が無ければ、操縦に与える支障はより大きなものとなっていたかもしれぬ。プレゼントの理由を、野営訓練の「12里行軍」を完遂した記念だと小夜子は言った。そしてこうも――


「――シャア‐アズナブルみたいだね」

「――……っ!?」

 発動機換装の成った爾麒、その初飛行に臨む間際に掛けられた言葉を、遥は思い返す。こうして飛行を続ける間も、思い返す度に思歯痒(おもはがゆ)くなる。


「おれにシャアになれってのかな……」

『――遥さん?』

 イヤホンに誰何の声が入るのを聞く。爾麒より距離を置き後方、不測の事態に備えて同航する九五式機導神改 四宮 雪子の機導神だ。呼びかけられるのと同時、発動機出力に任せて列機を置き去りに飛び続けたことに気付き、遥は内心で赤面した。


「御免っ、先行き過ぎた」

 言い、嫌味が飛ぶのを内心で警戒した。

『――いいんです。私も見惚れていたので』

「……見惚れた?」

『――遥さんの爾麒、すごく神々しい……』

「……」


 操縦を褒められたわけではないことは理解(わか)る。それでも褒められた様な、あるいは煽てられた様な感触に、遥の胸は騒いだ。


「減速する。距離を詰めよう」

『――了解』 

 南風洗の港から臨む丸い水平線を見下ろしつつ、二機は編隊を組んだ。朝日を反射し黄金に染まり始めた海原の各所に、赤い灯が小さく、点々と拡がるのが見えた。漁火(いさりび)――目の覚める様な眺望であった。願わくば無心に蒼茫の営みを臨みつつ、心ゆくまでこの蒼穹(そら)浮遊(ただよ)っていたい――


『――遥さん、漁船に見られます。高度を上げましょう』

「あ、うん……!」

 雪子の指摘に、爾麒の操縦士という自覚が戻った。周囲を見回し、雪子以外の機影が見えないことを確認し、遥はスロットルを開けることに決めた。スロットルが開く。全開ではない。しかし爾麒は万有引力の法則から自由であるかのように速やかに上昇し、その速度は雪子の九五式を軽々と引き離す。


『――遥さん!』

「いけね……!」

 叱る様に雪子に名を呼ばれるのと、スロットル開度が大き過ぎるのを自覚するのと同時。爾麒と九五式、同じ発動機を積んでいても、導幹から生える導翅の形状と機体の空力特性の相乗効果で、二機の挙動は明快なまでに違った。爾麒の操縦に馴れていないわけではない。ただ性能の違う他機と飛翔()ぶのには、未だに馴れない。


 高度6000を越えた。

 スロットルの開度を緩め、雪子が接近するのを待った。此方から雪子に近付くべく積極的に出力を落とせば高度が下がる。そこに気流の気紛れも加わり、下手をすれば衝突か、両者の距離が再た開く――野営訓練に先駆けた完熟飛行の経験から、遥はそのことを学んでいた。「ミツルギ戦記」の仮想世界では学べなかった「編隊飛行」を、遥は実地で、それも真剣に体験することとなったわけだ……そこで遥は気付く――戦闘は得意でも、それ以外の、兵器としての機導神を操縦(あやつ)るに必要な多くを、自分は未だ体得できないでいる。


 雪子が先に出た。主導権(イニチアシブ)を奪られた。ミスを重ねた結果だ。雪子の九五式を追う形で爾麒の距離を詰める。編隊の組み方は、雪子の方がずっと巧かった。

『――遥さん、間もなく第三返針点。針路2‐3‐5』

「2‐3‐5!」

 大南洋上まで南まで進み、再度北上――関京湾を越えて帝都上空に進入する針路を執るのは、離陸前の取り決め通りだ。

 先導する黒い九五式への適正な距離を維持しつつ、爾麒の姿勢もまた安定し始める。上層雲すら僅かに越え、結果的に二機の機影は関京湾――帝都の海の玄関口に進入(はい)った。下層雲の隙間から伺う航跡は、高高度に在っても存外に多いと判る。大小の船が行き交う様は、爾麒の導翅(つばさ)の下に、守るべき平和が確かに在ることを機上の少年に実感させた。


「雪ちゃん、二時下方、船影見ゆ」

『――左旋回。高度そのまま』

 言うが早いが、雪子の九五式が針路を変えた。上層雲の下、見つけた飛行船の船影が遠ざかる。軍機保持という意図。民間の飛行船からはなるべく距離を置くのも離陸前の取り決めだ。

 見られていないだろうか?――不安が、今更の様に想起する。いつしか視界表示被膜(スクリーン)の及ぶ全周囲を見回し、まるで追手から逃げる様な真剣さで船影を探しているのを自覚する。



「――っ!」

 雲海を背景に人型がふたつ、黒く映えて浮かび上がる。距離がある。しかし徐々に近付いて来る。

『――七時後方。二機。機導神と思われる。近付く』

 遥が声を上げるより早く、雪子の報告が飛んだ。恐らくはこれも取り決め通りだ……陵府基地から出迎えの機導神だ。


 関京湾上空で友軍機と合流し、帝都近傍の基地に移動する。「出迎え」――当初はその様な煩わしいことをせず、すんなりとふたりで陵府に行かせればいいじゃないかと遥は思ったが、陵府の部隊からすれば電探を使った邀撃訓練をも兼ねていることを伝えられると、その認識は改まった。


 あの野営訓練の場となった海辻(みつじ)の周辺に配された電探アンテナの群、恐らくはそれらから発振された電波に自分たちは捉えられ、陵府の機導神は地上より誘導されて此方に接近してくる。パイロットだった祖父が教えてくれた空自戦闘機の要撃管制に、それは似ている。「ミツルギ戦記」でもまた、地上からの管制に従って爾麒は蕃神を邀撃する――ゲームの仮想世界に、異世界の現実が追い付こうとしている。


「――方位が判別(わか)っても、高度が判別らないのでは電探何て意味が無いのではありませんか?」

 離陸前の打ち合わせ――遥に言わせれば「ブリーフィング」――の場で、雪子が言った。

「――それは雪ちゃん……地上からすれば、遠くから蕃神が接近してくるってだけで先んじて色々できるでしょ。迎撃の準備をするとか、あと逃げるとか……」

「――司令部付きの同期が言っていたが、電探の配置及び性能と、防空情報は軍機だそうだ。状況によっては、防空情報が地上に通告されない場合もあり得る」

「――え……?」


 情報官たる教官の言葉。思わず、遥は彼を見返した。平然と言ってのけたが、教官の表情には余裕が無い。


「――機導神部隊の作戦に支障あり……或いは、わが帝國総軍の電探性能が外部勢力に察知され得ると判断された場合、蕃神の襲来情報を通告しないということだ」

「――そんな……」

 言い掛けて、外出の時に又聞きした客車上の会話を思い出す。電探が無い時代に起きた悲劇だと、遥は内心でそれを片付けたかったが、そうもいかなくなる……



 最初は飛行機雲がふたつ。次には人型の機影がふたつ眼前に迫る。

 程なくしてそれは、雪子の駆るのと同じ九五式機導神の姿となって、機上の遥の目には映った。


『――爾麒、先頭へ』

「……爾麒、先導する」

 雪子に促され、九五式を追い抜く形で前に出る。陵府の九五式も心得たもので、右後方に替わった雪子の反対、左後方に二機揃って付いた。爾麒を中心にした四機編隊が速やかに生まれ、四条の飛行機雲が蒼穹の高みを真白く彩った。


『――遥さん……!』

「……っ!」

 雪子に強い口調で囁かれ、遥は気付く。「ブリーフィング」で強いて禁止された事項が脳裏を過る――「宮城上空は飛ぶな。面倒なことになる」――ニーパッドに張付けた地図を見る。そして遥の目は外へ――「至尊ニシテ侵スベカラザル」宮城が、爾麒の脚下に迫るのに気付く。


「左旋回!……針路2‐7-0!」

『――2‐7-0』

 急旋回!――針路指示が遅れたことを自覚した。反射的に瓦斯槓桿(スロットル)が開く。

 慌てて左の二機を、そして右の雪子に目を配る。三機が挙動を乱さずに追尾て来ていることに、遥は内心で驚愕した。


「――っ!」

 加速が右から圧し掛かり、思わず歯を食い縛る。機体が軋む音もまた聞こえる。急旋回を続けるうちに高度が落ちていくのが高度計の動きから把握(わか)る。過給機を作動させるべきであった。

「……?」

 左旋回の途上、下層雲の切れ間から覗く街区、それが見覚えのあるものであるのに気付く。

忘ノ塚(わすれのつか)」――シスターは? 薫子(かおるこ)さんは息災だろうか? 街区の何処かにある聖堂とその住人を思いつつ、遥は姿勢に水平を取り戻す。


 地図を見遣り離陸前に定めておいた目印(ランドマーク)の山川を探す。典型的な地文航法(ちもんこうほう)だ。より困難な夜間や海上を飛ぶ方法は機導神科では学ばない。普通の機導神操縦学生にとってそれらを学ぶ機会はより操縦訓練を重ねた先、より上級の機導神学校を出て、実施部隊に配属されてから廻って来る。「ミツルギ戦記」では地図ウインドウの他、発進と戦闘終了後に指標(シンボル)が浮かび出て基地への帰還を誘導してくれるが、異世界(ここ)では離陸から着陸――あるいは着艦――までの一部始終を自分の頭で思考し、計算しなければならない。そして――やり直しも効かない。


 躊躇いつつ、一句々々を確かめる様に指示を出す。

「……全機へ、このまま陵府に直進する。左方向に注意」

『――了!』

 直線飛行を続ければ、編隊は陵府基地の北に過る進路(コース)に重なる。従って編隊は左側に基地滑走路を見出すことになる。


 ただしそれは遥個人の発案ではない。



 帝都の東。陵府飛行場の広さに、その上空から驚く間もなく無線で着陸指示が入る。これもまた離陸前の取り決め通りであった。

 飛行場が見えたら無線の周波数を基地使用のそれに切替え、基地と交信しその誘導を受けつつ着陸する――そこに幼年学校の飛行場の様な自由はない。実施部隊は離陸から要撃、そして帰還と着陸まで機導神は地上の管制下に置かれる。現場の現実、その一端に機上の少年は直面することとなる。


 着陸進路から浮航状態に移行――地上スレスレでの浮航(ホバリング)状態と前進操作の均衡を執るのは、発動機よりもむしろ操縦桿の制御にその過半を負う。

 遥には造作もないことで、むしろアスファルト舗装の為された陵府飛行場の滑走路の方に気を取られたくらいであった。そして爾麒は予定通り、整備工場の在る格納庫へ――ではなく、幼年学校のそれよりも整理の行き届いた誘導路から駐機場を経、導かれた先は掩体壕。


 とっくに風防を開けて肉眼で誘導に応じていた遥は、まるでひとつの小山を思わせる重厚な造りのそれに、内心で驚愕した。前後の口が開けられた掩体壕に爾麒は滑る様に進入(はい)り、そこで「停止」の手信号が目に入る。先行した玉川 小夜子が、その一部始終を見守っていることに遥は気付く。発動機を停め、ヘルメットを脱いで初めて、壕内の冷たい空気に気付く。


「遥君、ご苦労様。この後すぐに換装に入るから、当面は爾麒には搭乗れないわよ」

「またですか……大変ですね」

 爾麒を降りた遥に話す小夜子の背後で、梱包を解かれた予備発動機が黒光りする巨体を見せている。遥が幼年学校に入校る前、爾麒に初めて搭乗した時に搭載()っていたのと同じ型式(かたしき)――つまりは「替えが効かない」日本製の発動機(エンジン)だ。爾麒の素性も、また変貌(かわ)ることになる――否、元に戻ると言うべきか。



 遥は、聞いてみた。

「時間……掛かりますか?」

「神和の発動機(エンジン)みたいにはいかないからね。搭載せた後にまた調整が要るかもしれない」

「……正直、玉川製の発動機の方がいいんですけどね。しっくり来るんです」

「嬉しいこと言ってくれるじゃない」と、小夜子は微笑った。

「わたしも、『ハ‐17』を改造して載せてみたいと思ってた。方法、幾つか考えてるんだけどね……」

「プログラム……じゃなかった。機導言語、あれから発動機制御でも色々考えてみたんです」

「え……」


 丸眼鏡の奥で、小夜子の瞳が見開いた。興味の促す反応であった。

「導核だけじゃなくて、発動機の制御も機導言語でできないかって……」

「なるほど……」

 眼光に真剣さを宿し、小夜子は頷いた。膝を畳んだ爾麒の足元で、整備員が要具入れに繋がる蓋を開け始めていた。実施部隊ではそこに基地間の連絡文を載せることもあるそうだが、今のところ、爾麒の要具入れに収まっているのは遥個人の荷物が入った行李ひとつである。壕内に走り込んだ四輪自動貨車(トラック)に、その取り出された行李が載せられた。


「換装は軍命だからね……ホラ、迎えの車が出るわよ」

 「乗った乗った」と、手振りで小夜子は搭乗を促した。軍の操縦士である以上、指揮所に出頭しての報告は避けられない。「発動機制御の話、また教えて」と、遥を送り出す段になって小夜子は言った。荷台に腰を下ろした遥が頷くのと同時に、車はゆっくりと走り出す。


 自動貨車(トラック)が壕を出た。

 そして荷台に揺られて遥は思い返す――今日から三日間、対蕃神の「練成訓練」を終えた機導神科には、休暇外出が許可されていることに。



「何かあったら、容赦なく陵府(ここ)に呼び付けるからな」

 指揮所で到着報告を受けた基地司令の大佐は、遥を解放する間際にそう言った。

 おそらくは父 樹と同年代と思われる壮年の幹部。友好的な態度ではない。だが最初からそのようなものを、遥もまた期待してはいない。


 それ以前から、更に言えば四宮 雪子に伴われて指揮所に踏み入った瞬間から、実施部隊の生む緊迫した空気の存在は遥の内心を自ずと身構えさせていた。特に、指揮所に在って遥の敬礼と報告を見守る――というより、基地に来た爾麒の操縦者を遠巻きに観察する――機導神隊の幹部たちの眼光の険しさが、少年の肌を操縦服越しに泡立たせていた。かと言って、彼らの視線には全く覚えが無いというわけでもなかった。過日、幼年学校の戦技場で太刀合った辰天 アズミの視線に、それらはよく似ていた。蕃神ではなく、機導神(てき)撃破(たお)してきた機導神乗りの目だ。



「貴様が爾麒か?」

「……?」

 雪子を連れて指揮所を出る間際、併設された待機所で無作法にも安楽椅子に深く腰掛けていた操縦服姿が、遥に声を掛けた。遥が反射的に向き直り、姿勢を正したのは幼年学校で身に付いた「癖」だ。ジャケットの毛皮襟に埋もれた精悍な顔が、目深に被った略帽の鍔の下、鋭い眼光を伴って少年を見上げている――敬礼。


「はい」遥は頷いた。

太刀谷機導神学校(たちがや)浅賀(あさが)大尉が、貴様の事を褒めていたぞ。ヒヨッコにしては妙に落ち着いていると」

「有難うございますっ!」

「ばか、俺は褒めてない」

「すいません。こういうとき何と回答(かえ)せばいいか自分にはわからないんです」


 低い苦笑が、空気に乗って聞こえた。冷笑であったのかもしれない。

「貴様、神和海上で総監と交戦(たたか)っただろう?」

「……!?」

 思わず、声を掛けた別の操縦士を見遣る。彼は若い。最初の操縦士とは違う、好奇の籠った眼差しが遥の困惑を受け止める。


「どうだった?」

「……」

 黙る遥を、雪子が見遣った。少女の顔もまた、硬くなる。

「おれ達はあの時、総監に随行して現地に飛翔()んだんだ」

「……」

 それでか――険しくなりかけた双眸が緩むのを、遥は自覚した。「……で、どうだった?」

「もう一回交戦()れば勝てると思いました!」

 僅かに胸を逸らし、遥は答えた。大き目に声を出した――負けん気が、少年をして意地を張らせる。


「馬鹿者! 戦場に『もう一度』があるか!」

 怒声――同時に笑い声が周囲に生まれた。

「爾麒と貴様が勝てないのなら、『救国機』の称号は返上した方がいい」

「……!」

 逃げ場がない程に、それは響いた。

「爾麒は、無敵でなければならん。今次の蕃神来寇に関し、貴様の操縦()る爾麒が期待できぬことは判った」

「……」

「まあ期待するまでも無い。総監も御出でになるまでも無い。帝都の防備は充実している。過去二度の様な蹂躙は、もはや有り得ぬということだ」

「はい……!」

 表情を消し、応じた遥を見る目には、嘲弄もまた混じり始めている。

 それはまた、神州は自分たちの手で守ると言う自信の顕現(あらわれ)にも遥には聞こえた。

「貴様も、練神なり実戦機なりに搭乗()り換えた方がいいのではないか? 一機だけ違えば他機とは連携も取れまい」

「編隊の組み方も、拙い様だしな」誰かが言う――上空進入から着陸に至る一部始終を、やはり見ていたのだと悟ったのは、雪子であった。

「熟慮します。ご指摘感謝します」

 背を糺し、遥は敬礼した。雪子も続いた。安楽椅子の士官が手振りで指揮所から出る様促した。

 二人同時、表情を消して踵を返し、秋空の下に出る。



 汚れたガラス窓の枠内で、指揮所を辞して遠ざかる少年と少女、ともに輪郭の異なる飛行服姿が営庭に遠ざかる。その様を幹部のある者は見送り、またある者は目を逸らしつつ語り合う。


「辰天アズミを倒したと言うのか……あの技量で」

「もう一機倒して、二人共病院送りにしておる」

決斗(デユエル)を制して増長しているかと思ったが、そうでもない様だな」


「しかし、あれでは困る」

 口々に語る幹部たちを、先任幹部が制する様に言った。

「防備が揃い始めているとはいえ、駒は幾ら揃えたとて足りぬということもある。技量拙きは爾麒の乗り手と雖も、戦の駒として盤上に無いも同じだ。精進を期待したいところだな」

「間に合わぬのではないですか?」

「どうかな……実戦(いくさ)になったら存外、化ける為人(ひととなり)であるのかもしれぬが……」

 先任の語尾に不安が滲むのを、聞いた者は少なくはない。

「それで先任は、喝を入れたと?」

「この程度で怖気づく様では、今後も思い遣られる。帝國のためにも本人のためにも爾麒を降りた方がよいのだ」



 そのまま暫くを、ふたりは黙って歩いた。

「遥さん?」と、半歩遅れて雪子が言う。

「ん?」

「怒らなかったのですね」

「ホントのことだろ?」

「言い返す位は……為されてもいいのに」

 少女の口調には、もどかしさが聞こえた。

「遥さん、拳が震えておられました」

「……」

 遥の歩みが、停まった。

「雪ちゃん」

「……」

 深く吐息し、掌を凝視する遥を雪子は見た。

「剣の技量が、おれは良くないから……」

「わたしも、良くはありません」

「雪ちゃん……」

「だから、研鑽を続けましょう。胸を張って爾麒に搭乗れる位に」

「そうだね……」

 自分を納得させるように、遥は頷いた。


 そこで雪子は気付く。

 爾麒の操縦士(のりて)として如何に在るべきか――それただ一つに囚われる遥を見たくない自分自身に、雪子は気付く。


 その瞬間――自分の思いもしない言葉を、雪子は口走る。


「遥さん、今日から休暇ですよ。外出しましょう」

「……?」

 普段の雪子の言うべき言葉ではない――そう言いたげに背後を顧みた遥を、促すような少女の微笑が待っていた。

「行くんでしょ? 条坊教官のお見舞いに。時間が無くなります」

「あ……」

 遥の愁眉が開く。

 いま自分のやるべきことは多いが、その全てが決して困難なそれではない。

 容易な課題の解決を、少女は促していた。




 営門の哨所に向かった時も、朝の余韻は未だ灰色の空と冷たい空気となって制服に着替えた身には纏わりつく。

 予定では二時間の行程であった。休暇外出を申告して営門を出、あとは汽車を乗り継いで西へ――車上で揺られつつ。見舞いの品を買おうと言い出したのは、遥だ。雪子も、それを止めなかった。


八洋子(はちようじ)」という駅に差し掛かることを外の標識が告げた時、雪子は遥に降車(おり)る様促した。「ここから先、買い物ができる様な大きな町はない」というのが雪子の言い分であったし、遥も野営訓練でそのことを知っている。


「確か……幼年学校の誰かの実家があると聞いていますが」とも雪子は言う。

「ふうん……」

 駅を降りてすぐ、「八洋子銀天街」の銘板が掛かるアーケード街の入口で、暫しふたりは佇んだ。

 商店街宜しく、昼食を前にした喧噪が生まれ始めているのを肌で感じる。帝都中央の華やかさを、そのこじんまりとした規模に可能な限り写し取ったかのような明るさ。そこに八洋子という土地自体が、歴史として蓄積してきた(ふる)めかしさが同居した風景……それらは、帝都の空気よりも少年の身体には馴染むが故に、遥は街に踏み入るのを躊躇(ためら)わなかった。



 割烹着姿の婦人が買物袋を提げて歩く。仕事を中座した職人や勤め人が、食堂を求めて談笑しながら歩く。その中でも配達や小間使いに走る自転車が人混みを縫っていく――それらと行き交い、あるいは並んで歩きつつ、遥の目は知らず、物珍し気に商店街の喧噪を追っていた。それとは逆、軍服姿の少年少女を見返す通行人、立ち止まって見上げる幼児もいる。それら全てが、遥には新鮮に視える。


「珍しいですか?」

「あ……うん」

 雪子が聞き、遥は気まずく頷いた。「軍人らしく、周囲からは超然として歩いた方がよい」と、少女の問いは陰に語っていた。それはすぐに理解(わか)った。

「果物屋を探してただけだよ」と、遥は答えた。誤魔化す素振りの赴くまま、目を泳がせた遥は言葉を失い、また立ち尽くす。


「遥さん?」

「……」

 見かねた雪子に袖を引かれてもなお、遥は動かない。

 他の店子とは雰囲気の異なる、間口が広いが旧さもまた目立つ店であった。年季の入ったその店先に立ち、御用聞きと思しき男と話をする着物姿の婦人には見覚えがあった。遥が店の看板を確かめるより早く、話を切り上げた婦人が顔を上げる――


「――っ!」

「……」

 目が合うより早く、遥は背を糺して敬礼する。ここまで来れば、本能的な反射と言ってもよかった。釣られて敬礼した四宮 雪子ですらひと呼吸遅れたほどだ。野営訓練最終日の「十二里行軍」の最中、声を掛けてくれた婦人ではないかという予感が、その瞬間に遥の内心で確信に替わる。


 驚愕に見開いた婦人の目が、一瞬の後には柔和な微笑に染まった。そこで遥には、軒先に掲げられた銘板に目を遣る余裕が生まれる――


「薬種 簗吹商店  創業衛治(なな)年」

「――!」

 決して大きな銘板ではない。だが使い込まれた年季の長さと書体の見事さに息を呑んだのは、四宮 雪子の方であった。




「――ノアちゃん? ノアちゃん!」

「――……?」

 夢は、簗吹 騎亜が彼の胸に飛び込んだところで、意識を(うつつ)に引き戻す。

 折角の休暇なのに――無情だと思えた。少女にとって、異変を察し即座に目を覚ますことの重要性は、「軍学校」幼年学校の生活で嫌という程学んだ積りであった……であるにしても、場面を考えて欲しかった。


 お母さんの声だ――うつ伏せのまま顔を上げた先、読みかけの「少女の友」が風に煽られて知らず(ページ)を重ねていた。連載小説は何処まで読んだだろう?――その様なことを漠然と考えつつも、階下から母 (たま)の娘を呼ぶ声は続いていた。妙だな……幼年学校入学以来、休暇で帰宅したときは好きなだけ寝かせてくれるのに――


「――お友達が来てますよ!」

「……!」

 覚醒――畳敷きの床から、兵式体操の要領で立ち上がる。一瞬であった。

 友達? 中学の同級生かな? 先日幼年学校から帰省を果たし夜から、自分から訪ねて行こうかと思っていたのに……それにしても、どうやって自分の帰宅を知ったのだろう?――考えつつも身繕いは終えていた。ただ単に寝涎(ねよだれ)を拭い、中学時代からお決まりの普段着――着古しの清涼着(アッパッパ)――の乱れを直した程度ではあるが。


「いま行くから!」大声で応え、騎亜は部屋を出て階段に向かった。清涼着のスカートを行儀悪く持上げ、真白い素足が階段を駆け下りる。


 その階下――


「……!?」

「やあ」

 夢に見た夏秋 遥の制服姿が、無心に微笑んで手を上げていた。

 驚愕と同時に足が(もつ)れる。

 階段を踏み外しそうになるのを寸でのところで手摺を掴み、踏み止まる。

「……!」

 嘘!――白皙の頬から頭頂迄が熱く赤く染まる。

 最も見られたくない(なり)を見られたという羞恥が、狭い胸元に込み上げる。

 回れ右――その後は怒涛の如き足音で、少女は元来た階段を躓きつつ駆け上る。



 きっかり五分――それが、幼年学校制服を折り目正しく着込み、頭髪まで整えた簗吹 騎亜が階段を降りるまでに要した時間であった。ただし階段を駆け上る際に強かに打った脛を庇いながらの挙動までは、隠し通すことが出来なかった。


「脚、大丈夫?」

 階段を降り切った騎亜に、遥が聞いた。その傍らで、四宮 雪子が(いぶか)し気に眼を険しくしている。外出時には制服着用という幼年学校の校則を、その実こっそりと破っていることを彼女に看破されているのではないかという不安すら、騎亜の胸には湧き始めている。


「あ、ダイジョウブダイジョウブ……」

 作り笑いを二人に交互に向け、騎亜は答えた。靴を履こうと(かまち)に腰掛けた騎亜に、遥が腰を屈めて近付きズボンの裾を上げた。脛の打ち身に血が滲んでいるのに顔を曇らせる遥を、騎亜は知らず、瞳を熱くして凝視する……その二人を神妙に見詰める母の視線に、ふたりは気付かない。


「本当に大丈夫? 無理しなくてもいいけど……」

 遥の上目遣いが憂いていると、騎亜にはそう見えた。慌てて頭を振り、共に行く旨を言い張る様に答えた。

「簗吹さん家には帰りに寄ることにして、ふたりで行きますか?」と遥に聞いたのは雪子だ。

「行く? 何処に!?」

 「ふたり」の一言が、少女の琴線に触れた。

「条坊教官の御見舞いに、横天戸まで」

「行く行く!」外歩きに付き合う積りが、騎亜の脳裏で「ちょっとした外出」に切り替わる。思わず驚き、瞳を輝かせる。


 そこに母が言った。

「ノアちゃん、絆創膏張りましょう」

「あっそうだね」

 騎亜が口を開くより先、外で待ってもらう旨を母 珠はふたりに告げた。丁寧に母に敬礼し、男女の生徒が店の外に出るのを母娘は見送った。母に手伝われるまでも無く、手早く手当てを済ませた娘を送り出す間際、母は騎亜に囁いた。


「……ノアちゃん」

「ん?」

「綺麗な男の子ね」

「あ……う、うん」

「しっかりね」

「へ……!?」

「行ってらっしゃい」

 困惑する間もなく、軽く、だが押し出すように背中を叩かれた。



 八洋子から横天戸の軍港(みなと)までは、指呼の間であった。

 関京駅の佇まいを半分程切り詰めて縮小した観のある横天戸駅の洋風構造物を出たところで、三人は私鉄に乗り換えた。乗り換えを主導したのは騎亜で、彼女が横天戸の道に詳しかったのは僥倖(ぎょうこう)と言えた。


「わたし、ここの中学(がっこう)に通ってたからさ」

 鉄路に揺れる車窓から流れる横天戸の街並を眺めつつ、騎亜は言ったものだ。遥もまた、入校前に玉川邸に居候していた頃、二輪自動車を走らせている内に道に迷い、県境を越えて横天戸まで出てしまった経験がある。そういう意味では、久し振りに足を踏み入れる形となったこの港町が懐かしくも思えた。


「あそこのそば屋、美味しいんだよね」

 と、遥が指差した先で、「唐支そば」という看板が立っている。遥からすれば「ツーリング」の途上で立ち寄った店であり、事実を言った積りであった。醤油ベースの(スープ)がよく絡む手打麺、そこに薄切りのチャーシューと筍乾(メンマ)、湯葉と下茹でした法蓮草(ホウレンソウ)と葱が載る――日本の町中華で出されるラーメンに似た、飽きが来ない味であったのを思い出す。


「遥、お金持ちなんだね。わたし……買い食いなんてお菓子位でしかしたことないから……」

「あ、御免……」

 騎亜の横顔が困惑に染まり、遥も続いた。先週、同年の本科生徒と野営訓練を共にしたときにこの話題を振っても、反応は芳しくなかったのを思い出す。神和人の感覚では外食は家族で、それも「晴れの日」に行くものという感覚が強いのだと遥は気付く。漠然とではあるが、この時そう察し始めている。ただしもうひとり、雪子の反応は違った。


「遥さん、あの様なものを食べるのですか?」

「え? 駄目なの?」

「唐支そばなぞ、貴人の食べるものではありません」

「おれ貴族じゃねえし」

「あれは労働者と異民の食べ物です。遥さんには、朝霧家の一員たる自覚を持って頂かないと」

「美味しいのに。あれ食わないなんて人生損してるよ」


 「朝霧家」の名を持ち出され、カチンとくる。

「あと……先刻の店の裏通りにある豚まんも美味いぞ。騎亜、帰りに買って行こうか?」

「ブタマン? 美味しいのそれ?」名前こそ学生時代に聞いたことがあるが、騎亜にはそれが何かは判らない。

「遥さん! 同期を誘わないで!」

「雪ちゃんには言ってないだろ!」

「そういう話ではありません。校則で禁止なの!」

「……」

 言い合いを始めるふたりを、騎亜は夫婦喧嘩を始めた父母を見る子供の様に、首を竦めて見守るしかない。

 



 案内された病室のドアを開けた瞬間、その隙間、林檎を皮剥きしていた婦人の姿が最初に目に入る。「奥さんだ……」と騎亜が囁いた。

 小袖姿が若く似合う。少女の面影すらその美貌には重なる。その婦人が、果物ナイフを動かす手を止めて、ドアを開けた遥たちに椅子から腰を浮かし掛ける。寝台の上、雑誌に目を通していた教官 条坊 好真の目が、来客を察し雑誌から離れるのと、三人が一斉に敬礼するのと同時であった。一目で、教官の回復は著しく、生徒隊への復帰も近いと判る。それだけでも嬉しさが胸中に込み上げた。


「『行軍完遂章』を貰ったのか?」

 四人で再会を喜び、近況を報告したとき、条坊教官は遥に言った。遥の制服の胸を、幼年学校生徒徽章、機導神科徽章のふたつと並んで三重に飾るもうひとつの徽章――「十二里行軍」を完遂した生徒に与えられる「行軍完遂章」を指差して微笑(わら)い、雪子と騎亜の武功章を慈しむ様に見詰め、二人の勇戦を激賞する教官の顔には、肉付きの良さと血色がだいぶ戻っている。


「夏秋が野営に参加したと聞いて、おれも吃驚(びっくり)したぞ」

 言われ、遥は思歯痒く顔を俯かせた。同時に自分たちの他、同僚をはじめ学校の幹部の来訪もまた少なくは無い事を、遥はこのとき悟った。

「おれも昔同期と参加したんだ」

 言いつつ、条坊が私物入れから出してきた完遂章に、三人は思わず目を見張った。「今でもお守り代わりに持ってるんだ。さすがに軍服には付けられないがなあ」鍍金の輝きが鈍くなった徽章を触る条坊の目が、過去を見るように和らぐのを三人は見た。


「そうだ……」

 何かを思い出したように遥がポケットを弄り、取り出したものに最初に目を見張ったのは騎亜であった。

聖架(ロザリオ)……?」

 鍍金の褪せた鎖を握る手が、銀色の聖架をぶら下げる。それに接し目を険しくした条坊に、遥は言った。

「『(えやみ)』の懐に飛び込んだときに、『疫』の躰に引っ掛かっていたんです」

「……見せてみろ」

 遥が渡した聖架を、条坊はまじまじと見詰めた。観察――そう呼ぶには短い凝視のうち、条坊の愁眉が徐々に開いていくのを遥たちは見た。


「『疫』にされた操縦士に、関係あるのかなって……」

「これは、おれの士官学校の同期の持ち物だ」

「……!」

 遥は絶句し、雪子と騎亜が顔を見合わせる。

「間違いありませんか?」

「ああ、特徴があったからな。実直な男だった。天主教だったのも事実(ほんとう)だ」

「どうしますか?」


 暫く考え、条坊は言った。

「……夏秋、これは俺に与らせてくれないか? おれの手で遺族に渡したい」

 遥に異存は無い。

 その一方で、条坊の表情が釈然としない何かで染まり始めているのを、雪子のみが察している。


 その雪子が聞いた。

「少佐は退院後の予定について、何か内示はございましたか?」

「転属は無いよ。条坊は依然、生徒隊の戦闘隊長だ。校長には指揮がし易いから実戦機に乗れと言われたが、自分は練神に搭乗る。でなければ……」

「……?」

 条坊の目付きが変わり、機導神乗りの気迫が瞳の奥に宿るのを三人は見た。と同時に、条坊教官が生徒隊から転属(はな)れないことに、安堵もまた覚えた。


「……蕃神襲来の際、練神に乗って困難な任務に向かうであろう多くの生徒に申し訳が立たない」

「自分も、出来得れば練神に乗りたい……」遥は言った。本心からの言葉だ。

「駄目だ……!」

 大きくはないが、強い制止の意思が遥を圧した。切った林檎を小皿に盛っていた条坊の妻が、驚いて寝台の夫と生徒を見比べた。

「……しかし、練神では不公平です」

「夏秋、爾麒はお前の権利ではない。義務だ。それも、皆の生命を守るために天がお前に課した責務だ。それ位理解(わか)れ」

「教官……」

「辛い責務だが、全うせよ」

 気圧された遥の背に、騎亜の手が延びて触れた。

「はい!……教官の命令ならば、異存はありません」

 義務だの宿命だの言われるよりも、敬愛する教官の命令と割り切ることに、少年は決めた。遥の内心を察したのか、寂しげな苦笑が病床の教官の目には浮かぶのが見えた。


「あの総監がどう思おうが、お前は神和の民で、そして神和の軍人であり、おれ達生徒隊の一員だ。いいな」


「……」

 神和の民?

 神和の軍人?

 神和人として当然とも聞こえる言葉が、遥の背に手を充てたままの騎亜の胸中に、扱い慣れぬ疑念となって生まれる。

 教官がそれらを強調されて仰るのには、何か意味があるのだろうか?

 それも自分の想像が及ばない程の、重大な意味が――



 病室を辞去する三人の教え子を、条坊は妻と一緒に病院の一階まで送った。

 自分の足で病院の廊下を歩き、そして階段を降りる条坊教官、それだけに彼の回復ぶりが教え子三人には明快なまでに伝わったものであった。市井のお見舞いそのものの和やかな別れ――その終盤に一抹の影が射したのは、看護婦に推された車椅子の男と、四人が行き会う形になった時のことであった。

 遠方から近付くそれに気付くや、三人の先頭に在った条坊が立ち止まり、三人を庇うように手を上げる。その距離が遠過ぎると思ったのは三人同時。四人と二人が擦れ違うその間、車椅子が通り過ぎるまでに全ては時が停まった様な沈黙に終始する――


「……?」

 壁際に寄り、車椅子を凝視する遥に、疑念は募った。

 真深く被った中折帽に分厚い長半纏、それらで隠さなくとも、車椅子に座る男の全身が頭から足先に至るまで包帯で覆われているのは誰の目にも判る。重篤な患者だと、一目で判別る姿。しかしそれ故に、「本物の」患者なのかという疑念も遥の内心にまた生まれ、そして募っていく――


 車椅子が軋みを立てて四人に迫る。

 車椅子と擦れ違い、自分に最も接近する間際までを、何時しか待ち構える様に遥は車椅子を凝視し続けた。


「……っ!」

 全くの不意打ちであった。持ち上がった中折帽の頭が上がり、遥と目が合った。異様な姿に内心で身構える内、目が開いている可能性すら何時しか遥は失念していた。不覚であった。包帯に開けられた目がふたつ、その奥から眼光が向かって遥はそれを受け止める。


「……」

 若い人?――遥にはそう思えた。

 包帯越しの印象を持て余す間も無く、車椅子が遠ざかる。

 廊下の角に二人が消えるのと同時、それを見届けた教官が抑揚のない声で言った。

「……すまんが急用を思い出した」

 病室に戻る旨を、教官は三人に告げた。端正な顔から血色が引いたように見えたのは、抑制された照明の所作(せい)だろうか?……と遥は困惑する。


「では……!」

 遥が疑念を差し挟む間もなく、雪子の主導で三人は敬礼する。潮時であった。答礼し、作り笑いとともに条坊教官は見送りの言葉を掛けるのだった。

「みな皇主陛下にご奉公する身だ。それまで事故を付けぬよう、万事慎重にせよ」

「飛行場でお待ちしております!」



 三人の最後尾、重大な何かを見逃したのにも似た焦燥感を持て余しつつ、遥はそのまま病院の玄関を抜けた。緑溢れる敷地を、正門まで歩く。消毒薬の臭い漂う病室の空気から完全に脱し、中天を越えた秋空の清涼さに肺を洗われるより早く、それまで車椅子について雪子と話をしていた騎亜が遥を顧みる。


「遥、すごい患者だったね」

「ああ……そうだね」

「戦傷かな……それとも疫病?」

「感染症なら、ああやって外を歩けません」と、雪子が口を挟んだ。「うん……」生返事で雪子に応じつつ、困惑に泳がせた遥の目が、病院の焼却場に近い一角で停まる。

「あ……流民」雪子が言った。


 襤褸を着、真深く帽子を被った小柄な人影が三人、驢馬車に塵袋(ごみぶくろ)を載せている。

 それは遥の脳裏にもいつかの光景、流民を助けて袋叩きにされた過去を想起させるのに十分な風景であった。歩みを止めて自然、塵収集を見守っていた遥に、流民の少年ひとりが気付く。


「……」

 同じく遥を見守っていた騎亜が小さく声を上げ、遥の袖を引こうと手を伸ばし掛けた。

 昔、街中で遥と同じように珍し気に流民を見ていた子供が、「見世物じゃないぞ!」と怒鳴られたのを思い出してのことであった。

 三人の前、流民の少年が恭しく帽子を脱ぎ、獣人特有の獣耳が逆立って白日の下に晒される――


「え……?」

 深々とした少年の一礼――遥と雪子は黙礼し、そして騎亜は両者を唖然として見詰めた。敷地を進み、そのまま病院の正門を出たところで、最初に口を開いたのは遥であった。


「雪ちゃん、騎亜……今日は有難う。ここで別れよう」

「遥さん?」

「おれにはあと一件、一人で片付けたいことがあるからさ」




 妻 美都子(みつこ)には、暫く病室に入るなと言い含めておいた。

 遥たちは、「彼」を意識しなかっただろうか? 言い換えれば、先刻行き会った「彼」のことを、病院を出てすぐに忘れてくれるだろうか?――思案する内、条坊 好真は見送りから戻った病室のドアの前に立って、ゆっくりとドアノブに手を伸ばした。ドアノブを掴むまでも無く、薄いドアの向こうには、当然の様に誰かの気配が察せられた。


 ドアを開ける――個室の狭さ故か、後ろ手にドアを閉めた条坊は、車椅子の男と容易に正対する。


「やあ、元気そうだな」と、包帯に包まれた口が動くのを聞いた。

「……来るのは夜と聞いていたが」

 観念した様に、条坊は椅子に座った。付添の看護婦が帽子を取り、男の包帯を解くのを黙って見守る。厳密に言えば、彼女が本職の看護婦であるのかさえこの場では怪しかった。あの「第三次蕃神侵寇」を機に、共に生還と栄達を誓ったふたりの人生は大きく変転し分岐した。今や軍籍を離れ、地下に潜る身となった彼の配下は、帝都の様々な場所にその(なり)を替えつつ潜んでいる。恐らくは、彼らを取り締まるべき警察機関の中に於いても――解かれた包帯の下で、精悍な男の(かお)が顕われるのを、条坊は無表情を保って見守った。


「……」気迫に気圧され、押し黙る。

 好感を抱かせる顔立ちであるのは条坊のそれと同じ、ただし頬から顎にかけての()がれた様な輪郭と、険しさの宿る眼光が、好感の(ほか)、関わるのを躊躇う程の雰囲気すら醸し出す……そういう男の貌であった。十六年前、共に練習用機導神を駆って幼年学校の学舎を発ち、蕃神掃滅の壮途に赴いたあの頃から、その気迫には一片の陰りも条坊は見出すことはできなかった。


 車椅子から腰を上げ、男は条坊の寝台に腰掛ける。自然、身長差も加わって寝台から椅子の条坊を見下ろす形となった。この病室に至る車椅子での移動が、さぞや窮屈なものであったのに違いなかった。

「その夜に野暮用ができてね……急な来訪で済まない」

「この時勢だ。日を改めてもらってもよかったのに」

「親友の見舞いをしたかった。蕃神との交戦の様子も聞きたかった。それと……」

「それと?」


「まずは、君の生徒に礼を言いたくてね」

「なに?」

 思わず、条坊は椅子から半身を乗り出した。

「先月、帝都の日葵町(ひまりちょう)で暴戻なる神和人にうちの『伝令係』が因縁を付けられてね」

「……」


 日葵?……夏秋 遥が入院した総軍病院のある辺りか――内心で思考を巡らせる。

幼年学校(きみのところ)の生徒が、身を挺して助けてくれたそうだ」

「ああ、夏秋のことか」

 やはり――と内心で愁眉が開く。

「カシュウ?……夏秋というのか?」

「……?」

 男が条坊を見返すようにした。その精悍な貌に、陰りが宿るのを条坊は見逃せなかった。幼年学校以来の盟友の心の動きは、常人よりも理解(わか)る積りであった。それでも「夏秋」という名字に対する内心の動揺(ゆらぎ)が、尋常ではない様にも見えた。

 衝撃を和らげる必要を条坊は感じ、自分でも饒舌と思えるくらい、近況と蕃神との遭遇戦の話に時間を費やした。ただし、今の彼に爾麒の話は絶対に出来ない――その間、異常なまでに病室の外から聞こえるべき往来の足音も気配もまた、聞こえない。まるでこの病院全体が、この男がいる間ずっと彼の「支配下」にある様な――


 話を聞いていた男が、不意に言った。

「条坊、あとひとつ、よいか」

「……」沈黙に転じ、発言を促すようにした。夏秋 遥についてもこれまで散々話したが、今はこの同期の関心から、教え子をなるべく遠ざけた方がいいのかもしれないと、条坊は内心で懸念し始めている。

「フィルムカメラを通してだが、爾麒が飛んでいるところを見た」

「見られていたか……」

 愕然とした。それでも懸念していたことであった。万全とは言い難かったが、国民の動揺を懸念し、「救国機」を衆目の目に触れない様に配慮を重ねた積りであった。それでもこの男と彼の一党のように、積極的な「探索」の意思を持った者たちの行動を止めることは難しかったのだろう――「爾麒」の名を出され、表情が固まったかつての盟友。その反応をゆっくりと観察する様に見、男は聞いた。


「爾麒……復活したのか?」

「それに関しては、おれは何も言えない」

「十六年前に破壊された筈ではないのか? あの朝霧 朱乃(いもうと)に」

 盟友(とも)の焦燥が聞こえ、条坊もまた困惑する。

「伍代、こればかりは駄目だ。軍機なのだ。これ以上は詮索するな」

「関原 信雄か? あれを修復したのは」

「させたのは……な」押し切られる様に、答えた。

「あいつ……!」

 憤怒とも憎悪とも付かぬ表情の顕現が、端正な無表情となって条坊を睨んだ。この場に居ない誰かを睨む、眼光の烈しさが増していた。


「搭乗者は誰だ? 操縦()る人間はもういない筈だろう? 圭姉(よしねえ)の血でも引いていない限り――」

「伍代……」

 条坊は、内心で観念した。

 少年の時分、条坊 好真にとって「軍神」朝霧 圭乃は畏敬の対象であったが、この男、伍代 清英にとっては愛の対象だ。それも盲目的なまでの思慕の対象であり、忠誠の対象なのだ。あれから十六年が経ち、互いに青年と呼ばれる時分となっても尚、彼が亡き軍神のことを「圭姉」と呼び慕っていることからもそれが判る……判るからこそ、胸が痛む。


「いるのか? 圭姉の血を引いた人間が……!」伍代の問いには、情念にも似た怒気すら籠り始めていた。

「恐らく再度の蕃神侵寇があれば、彼が爾麒を駆り出撃する」

「圭姉の弟か? まさか子供か?」

「息子だ……夏秋 遥という」

 伍代の反応を把握しつつ、条坊は続けた。

「貴様の小間使いを助けたのも、南西の空で単機能く『(えやみ)』を討伐したのも……彼だ。夏秋こそ、復活成った爾麒を駆るに相応しい。断言してもよい」


「会いたい。会わせろ」伍代は即座に言った。年甲斐も無く、駄々を捏ねて居ると条坊には思えた。その点も、幼年学校で机を並べた時分の彼から全く変わっていない。

「先刻会っただろう」

「あの少年か……!」

 尋常ならざる察知の(はや)さもまた、幼年学校から変わらなかった。同時に見開いた眼が激しく揺らぐ。その後には放心が、男の覇気に取って代わったかの様に条坊には見えた。


「そうか……幼年学校の生徒なのか……」

 呟く様に言い、寝台に投げた中折帽を、また目深に被る。辞去の意思であった。

 それを止める意思を、今の条坊は持っていない。言いたいことだけを言い、聞きたいことだけを聞きに来る――伍代 清秀はそういう男だが、条坊とは不思議と精神の琴線が触れ合っていた。「あの事件」さえなければ、伍代は今頃順当に士官学校を出、軍人としても機導神操縦者としても特筆すべき栄達を果たしていたことだろう……来訪時とは違い、自分の足で、看護婦の形をした配下を連れて病室を退出し掛けた伍代を、条坊は呼び止めた。


「伍代」

「ん?」

「ここまで胸襟を開いて話したのだ。おれの生徒に妙な真似は……同期であっても許さないぞ」

「……」

 足が停まった。ドア越し、微笑が無言で、かつての親友を見下ろす。

 凝視する内に伍代が視界から消え、廊下に出た気配もまた、どこか別の時空に吸い込まれる様に消えた。




 その駅の名前は「(みなと)」とあった。

 横天戸駅の手前で、遥は列車を降りた。

「辰天 アズミは、湊にいます」と教えてくれたのは黒蘭(ヘイラン)であった。

 野営訓練から戻った後、駄目元で一度会ってみたい旨を伝えた翌日、どうやって調べたのかすぐに教えてくれたのだ。ただし、それを教わる段になって、目を険しくして言われた。「……でも、湊に行くのはお勧めしませんよ?」

 

 ――それでも、辰天 アズミに会う必要を感じ、遥は湊駅に降りる。その一部では帝都より垢抜けた、建物の所々に西方文化と大陸文化の意匠が目立つ観のあった大都市横天戸の手前でありながら、周囲は畑と野山が目立つ。その様な光景に相応しい位にこじんまりとした駅であった。


 駅に降り立ち、最初に遥が奇異を覚えたのは、自分と同じく途中下車する客の多くが、男ばかりであったことだ。

 自分より年長者が多いのは当然として、皆が嬉々として語り合い、連れ合って客車を降り改札まで向かっていく。その笑顔もどことなく下卑じみている。


 言い換えれば、イヤらしい。


 勧めない――改札を出た途端、駅前の光景を前にして、黒蘭の言葉の真意はすぐに判った。

「湊 遊 里」電飾に彩られた朱塗りの門に、これまた仰々しく掲げられた扁額に刻まれた三文字を、遥は唖然として、あるいは苦笑に引き攣った顔をそのままに暫く凝視した。


「ああー……遊郭かあ」

 思わず呟く。日本で言えば風俗街だ。未だ踏み入ってはいないが、門の向こうから微かに華やかな歌舞音曲が聞こえるのに気付く。と同時に、艶めかしい色香すら、鼻腔を擽っている様にも感じられた。

 創られた非日常が営まれる、決して広くはない箱庭の様な世界――その入口に少年は正対し、そして侵入を躊躇する。躊躇する間に、門前を行き交う者、門を出入りする人影が、絶えず遥の周囲を過り、或いは好奇の視線を投げかけていく――


「謹慎中って聞いたけど……」

 口走るのと同時に困惑が込み上げる。こんなところで……謹慎? 絶対に噓だろう。それでも一週間以上前の「デユエル」の結果、アズミが機導神乗りとしての自信を喪失し引き籠る様になったという噂は、決して虚報ではない様に今の遥には感じられた。


「ゴホン……」

「……?」

 背後からの咳払いは、前進へと覚悟を決めた遥の精神の均衡を少なからず崩した。

 慌てて顧みる。騎亜を伴った雪子が、蔑む様な眼で自分を見ているのに気付く。傍らに立つ騎亜の眼も、決して柔和なものでは無かった。先刻、病院を出てから別れた筈なのに――


「何処へ行かれるんですか? 遥さん」余所余所しい口調で、雪子が聞いた。

「女を買いに行くとでも思ったか?」言い返す口が乾いている。言葉が上擦るのを自覚する。

「遥! 見損なったよ!」騎亜が声を上げた。正直雪子よりも、それは遥の心に刺さる。

「じゃあついて来る?」

 言うが早いが遥は歩き出した。答えなど期待してはいない。だが距離を置いて二人も続いた。当然先刻の様な会話は三人の間には無くなった。

 この場に留まってあれこれ釈明するよりも、実地で真意が判る様に連れて行った方が賢明なのかもしれない――少年少女が三人、互いに距離を置き朱塗りの門を潜って侵入る。冷やかしの客、呼び込みの老婆、御用聞きの商売人……そして春を(ひさ)遊女(おんな)たち――本通りを占める多様な大人たちの往来から超然として、三人は色町の深奥まで歩を進めていく……その間も雪子と騎亜、女子ふたりの口さがない会話と冷たい視線は、矢の様に容赦なく遥の背中に突き刺さった。


 この神和(せかい)でも、女はこういうものなのか?――女を買う店は既に疎らになり、広い通りが狭い路地に替わる。見渡すばかりの左右に並ぶ店の扁額に、少女二人が目を丸くした。

「この辺りだったかな……」

双形人廓(フタビトクルワ)? 冗談でしょ?」

「遥さん、その様な嗜好が御有りなのですか? (おぞ)ましや!」

「いいからついて来いって!」

 あーもう滅茶苦茶だ!――女ふたりに好き放題に言われつつ、それを無視して探し歩くのにも正直限界が来ていた。その限界が来たところで一件の店を見出し、遥は安堵と共に立ち止まる。決して広くはない軒先、桜色の小袖を纏った少女が独り、打ち水をしているのを遥は見た。


「眼帯……?」と、軽く驚いたのは騎亜であった。

 面を上げた少女の片目が、眼帯に覆われている。その少女の前に立ち、遥は敬礼した。

「失礼します! わたくし! 関央総軍幼年学校二年生徒の夏秋と申します!」

「幼年学校……」と、言い淀む声に遥は耳を疑った。美声だが、少女(おんな)にしては、声変わりした少年の様に声が太い。


双形人(フタビト)だ……」と、雪子もまた軽く叫んだ。恐らくは聞こえていた筈だが、少女ふたりの驚愕からは超然とし、女形の双形人は遥に向き直る。その素振りが見る者に粋と(みやび)さすら感じさせ、小袖の着こなしとあどけなさすら覗く美貌に、遥ならずとも性別を量る目が眩んだ。


 かわいい――脳裏に出かけた感慨を、慌てて何処かへ押し込もうと煩悶する。その方法を、今の遥はひとつしか知らない。


 慌てて頭を振る。姿勢を正し、遥は言った。

「辰天 アズミ中尉殿は此方にご逗留であられますか?」

「アズミ姐様(あねさま)に、どのような要件が御有りですか?」双形の少女の言葉に、動揺は聞こえなかった。

「一目会って、自分の話を聞いて頂きたく伺いました!」

「お願いします!」と、遥は深々と頭を下げた。制帽はとっくに脱ぎ捨てていた。

姐様(あねさま)はお会いにならないと思いますよ? 誰にも」言い終わるや、少女は打ち水に戻る。それが冷たく、突き放す様に聞こえたのは、遥だけではなかった。


「……じゃあ、会えるまで此処で待ちます」

「……!」

 その場に、正座で座り込む。留まって待とうとする遥に対しても、少女は冷淡であった。不意に翻った手首から、柄杓の水が遥の頭に掛かる。

「姐様だけではない! 私の人生にまで傷を付けたのはあなた方!……何の(かんばせ)かあって傷心の姐様に(まみ)えようとするお積りですか!」


「貴様か!? 中隊長に恥を掻かせた学生風情は!」

 蛮声にも聞こえる怒声――それらが下士官の軍服を纏い、速やかに路地から駆け寄るや荒々しく遥を取り囲んだ。


「先刻の気配はこれか……!」

「機導神隊だ……!」

 雪子が眉を険しくし、騎亜が息を呑む。女生徒ふたりを他所に、節くれだった太い手が遥の襟を乱暴に掴み上げた。雪子が声を上げる間もなく、振り下ろされた拳が遥の鼻っ柱を強かに打ち、昏倒した少年の躰に蹴りが雨となって加わる。


「――!」

 遥を助けようとして進めた雪子の足が、停まった。伸ばした手が、遥に駆け寄ろうとした騎亜を掴み、引き戻す。

「雪さん!?……」

 騎亜が顧みた先で、雪子が黙って頭を振った。


 蹴倒されても、正座に戻る――制服を汚しても、切れた口から血を流しても、鼻血を垂れ流したままでも、ただ遥の両目はぎらついて、廓の玄関を睨む。

 正座のまま動かない――狂気すら思わせる気迫を前に、周りの男たちから暴力の衝動が、何時しか醒めて消えていく。それ以上に、自分たちがこの少年ひとりに相手にされていないことが、アズミの部下たる彼らをして、却って怖気を振わせたのかもしれなかった。


「あの御曹司と結託して姐様から全てを奪ったくせにまだ言うか!」小袖を翻し、少女が叫んだ。可憐な少女の外面が、怒りを前に剥がれ掛けていた。

「中尉を姐様なんて呼ぶな!」

「……?」

「おれは男として、辰天中尉と一対一でデユエルを戦った。そして今また、中尉と男同士の話をしたいから此処に来たんだ! だから、おれの前で中尉を(あね)なんて呼ぶな。おれにとって辰天中尉は、幼年学校の飛行場で、命を懸けて対決した一人の強い(おとこ)だ」

「……」

 少女の佇まいから、動きが消えた。

 雪子にも騎亜にもそれが一目で判った。遥を見下ろす少女の瞳から、そして眼帯から涙が粒となって零れる。そのとき二階の障子窓が破れ、影が質量となって正座する遥の眼前で割れた。飛んだ破片が、遥の頬を僅かに切った。

「酒瓶?」砕けた破片を見、目を凍らせたのは騎亜であった。見上げた遥に、破れた障子窓から怒声が響く。長酒に濁った、(くら)い怒声であった。


「うるせえ!! 喧嘩するなら大通りに行け!」

「……?」

 アズミの声だ――見上げたまま、遥の愁眉が僅かに開く。

「もう貴方しか……いないのかもしれない」

 声を詰まらせ、少女は遥に言った。


 

 その外見に比して、内は異次元かと思える程に広く、深いとすら思わせる空間であった。

 急な階段を昇った先、二階の座敷の横、廊下を進んだ奥で先導する少女の足が停まった。

「姐様は、退院以来ずっとこの座敷の奥で臥せっておられます」と、少女が遥に囁いた。頷くや、自らの手で障子を開けた。

「夏秋生徒 入ります」

 階段を昇る音が不意に迫った。何事かと目を見張ったふたりの眼前で、雪子と騎亜、制服を着た少女ふたりの姿が小走りに寄ってきた。


「外で待ってろって言ったろ」と遥。

「遥さん、何をするお積りですか?」聞く雪子の顔から、感情が消えていた。明らかに責める口調だと聞こえた。

「中尉と話すだけだ」


「傍流とはいえ、朝霧家の一員がするべきことではありません」

「いや、やらせてあげようよ」と騎亜が言った。「あの()も困ってるみたいだし……」

「騎亜さん、そういう問題では」小声だが、雪子が声を荒くするのが判った。小声――二階に踏み入った人間に、それを自然と強いる程の張り詰めた空気が、この空間には満ちている。時がたつにつれ、微かにだが、酒の臭いすら漂って来ている様にも三人の鼻腔には察せられた。


 ふたりを他所に、遥はすでに座敷に入っている。小袖の少女が廊下に座って遥を待つようにし、制服の少女二人もまた、自然と彼女に倣った。

 薄暗い座敷の隣、固く締められた両開きの襖を前にして、遥は再度正座した。あの薄い襖の向こうに察した気配が、遥をして自然とそうさせた。外界に通じる障子戸が固く閉じられていることに、今更ながらに気付く。


『――……』

 息遣いが聞こえる。それも、他人の接触を許さない、頑なな息遣いだ。それがアズミと正対した遥にすら、緊張を誘った。


『――勝っただけじゃ飽き足らねえか小僧! ここまでオレを嘲笑(わら)いに来たのか!!』

 怒声に向かい、頭を下げる――再び土下座。

「……!」

 堪えきれず、止めようとした雪子を、今度は騎亜が袖を掴んで止めた。

「騎亜さん?」

「雪子ちゃん、駄目だよ。いまは駄目」


 伏したまま、遥は言った。

「あなたを(おとこ)と見込んで、お願いに上がりました!」

『――……?』


 伏したまま、息を継ぐ。

「おれに!……この夏秋 遥に剣の稽古を付けてください! お願いします!」

『――うるせえ!……筋違いだ。稽古なら他を当たれ』襖を挟んだ少年の声が、もうひとりの少年を突き放す。突き放されても、言葉を止めるわけにはいかなかった。


「おれには、絶対に勝ちたい相手がいる。越えたい人間がいます」

『――……?』

「今の自分では、ただ単に爾麒に搭乗ったままでは、何時まで経ってもおれはそいつを越えられない。だから……そいつに最後まで競り合ったという貴方の力を、おれに貸してください!」

『――おまえ……自分が何を言っているのかわかっているのか?』襖の向こうの声が、震えた。

「そいつと互角に戦った貴方の力と経験を、おれに貸してください!」

『――嫌だと言ったら?』

「……?」

『――嫌だと言ったらどうするんだ小僧!』苛立ちが少年の声となって、遥に跳ね返る。

「そんときゃおれもあんたも一生負け犬です。おれはこのまま帰って腹を切ります! あんたも首括って死ねばいい!」


「……!」

「遥……!」

 雪子が表情を凍らせ、騎亜が表情を綻ばせた。

 驚く雪子の傍らで、やがて騎亜には自然に微笑が漏れ始める。

「……それでこそ、遥だよ」


 言い切ったあとの静寂――ただし不穏さすら感じさせる、それは静謐であった。


「――――ッ!」

 ピシャリと、突風の如く襖が開く。唐突であった。

 突き破った障子窓から差込む陽光を背景に、乱れた着流し姿が、面を上げた遥を見下ろす。

 呆然として遥はそれを見上げた。頬の扱けた無精髭の双形人が、目を爛々と輝かせて少年の目を覗いている。開けられた襖の向こう、()えた布団と酒、そして肌の臭いが洪水の様に遥の正座(すわ)る座敷にまで押し寄せた。退廃と逼塞に満ちた全て――それらは見られたものでは無く、座敷に居られたものでもなかった。


「……オイ、ギンバイだ」

「姐様……っ!」

 遥を睨みつつ、辰天 アズミはポツリと言った。廊下の少女が脱兎の如く立ち上がって階段を駆け下りる。その足取りが喜色に富むのを三人の少年少女は聞いた。

 ただし遥だけは黙って、そして内心で困惑して眼前のアズミを見上げる。


 そのアズミが、次には縁を跨いで遥の前に踏み入った。遥が驚くよりも早く、振り下ろされた拳骨が遥の脳天を強かに打った。

「痛てっ!」

「ガキの癖に!……死ぬ死ねなんぞ気安く口走るんじゃねえ!!」




「ホラ飲め」

「……」

 この一変ぶりは、どういうことだろう――促されるがまま、小袖の少女の手で注がれた茶碗の水面――湯呑茶碗一杯に満たされた神和酒を見つつ、夏秋 遥は困惑した。

 困惑の更に促すがまま動かした視線の先たつ対面、顔を洗い無精髭を剃った辰天 アズミの少年の様な美貌が、やはり少年の様に涼しい眼差しで、夏秋 遥の挙動を観察する様に湯呑茶碗を傾けている。中学時代、友人付き合いの延長で、浮付いた先輩や年長者に酒を飲まされた経験が無いわけではなかった。だが今の状況(シチュエーション)は、その様な浮付いた雰囲気とは明らかに趣が異なる。同じ軍人にして、機導神操縦者としての付き合い、その一環たる飲酒なのだ。


「飲める年齢(とし)じゃないって思ってるのか?」

「……」

 話し掛けられ、言葉を択ぼうとして迷い、結局は黙って頷いて応じる。「阿呆」言い捨て、そこに説教じみたアズミの言葉が続く。

「軍人ちゅうのは大人も子供(ガキ)も戦場に出て、最前線で生命を掛けるもんだ。みんな均しく銃を執り、均しく戦場で敵や蕃神と斬り死にする様になっとる。態々(わざわざ)区別なぞできるか。そんなことしたら死んだ(モン)に失礼ってもんだ。戦場に立つんなら――」


 遥の眼前で湯呑の酒が干され、少女がお代りを注ぐ。

「小僧であっても酒を飲め、煙草をやれ、博打を打て、女を買え。一度(ひとたび)戦場に出た以上、どんな生まれの誰であろうと平等に弾丸に当たるし蕃神に喰われて死ぬ。だから全部愉しんでいいんだ」

「はあ……」

「だが、遊びも度が過ぎては取り返しが付かんこともある」

 アズミの言葉に、小袖の少女が顔を曇らせて俯いた。少女の癌帯に、過去に又聞きした閑清院 允且かんせいいんまさかつの一件が脳裏を過る。まさか――


「この彩星(あやせ)は、幼い頃から粋筋(いきすじ)の逸材と期待されたが、大金に目の眩んだ楼主のせいで、人を人とも思わぬ客に付けられてこの通りだ。何時元に戻るか判らねえ」

「――っ」

 意を決して湯呑の酒を一気に吞む――謝罪の意思表示であった。彩星があっと声を上げる。朱に染まり始めた顔と空の湯呑を彩星に向け、遥は言った「頂きます!」

「ガハハ! いい呑みっぷりじゃねえか! いいぞ!」


 その三人の傍らでは、騎亜と雪子が牛鍋を突いて顔を綻ばせている。

 日本のそれと同じすき焼きだ。無限に近い食欲に任せ、少女二人が煮えた牛肉を頬張っている。食い気十分な軍学校生徒としては当然の反応であった。牛鍋の存在は自然、遥とアズミ、少女二人との間を別つ効果を生んでいた。それでも、雪子が時折二人に視線を注ぐのが遥には察せられた。


「……それで、総監閣下の話をしてたよな」

 遥は頷いた。酒はむしろ、遥をして話に没入する切欠を与えていた。

「いいこと教えてやる。オレが戦ったときの神和號はな、調整中だったんだよ」

「調整……中?」耳を疑う言葉を前に、酒が入っていようと頭が冴えた。

「半分だったそうだ……今の全力の半分しか出ない神和號で、あの総監はオレと戦っていたんだ」

「……」


 「半分」という言葉が、遥の胸中で反響し強調される。それ故に応える言葉尻が震えた。

「でも……中尉の愛機も未完成状態だった筈でしょ?」

「オレの改修は御前試合の「戦訓」を汲んでの結果だ。それで向上(あが)ったのは精々耐久力と持続時間ぐらいなものだ。正直言っていまの神和號に追いつけるとは到底思えねえ」

「でも中尉には戦技があります。戦場で鍛えた戦技が……」

「爾麒の……オマエ、『実戦』を知らないんだったな?」

 遥は頷いた。アズミの言う「実戦」が、唐支大陸を舞台にした対人の戦闘であることぐらい、今の遥には容易に察せられた。

「総監はオレよりも多くの機導神を撃破()ってるぞ?」

「……」

 遥は鼻白み、そして雪子もまた、鍋から顔を上げて遥を見ている。湯呑の酒を飲干し、アズミは遥を験す様に凝視した。

「それで爾麒の、オマエは何処まで昇りたい?」







「――それで、夏秋 遥は何と答えたのだ?」

 朝霧 朱乃が問い、四宮 雪子は白皙の表情をやや凍らせた。

 国軍省の窓から、明るさは見違えるほどに退いていた。秋の日はそれが天に在るのを意識する間もなく傾いて西方地平の彼方へと来ている。その後は冷たく、静かな夜の帳に帝都は覆われる。

 帝都関京の深奥にして中枢、「研矛台」と通称される国軍省もまた、その例外に漏れなかった。照明を抑えた総監室で、席上の朝霧 朱乃に対する雪子の報告はすでに一時間に亘り続いていた。少女が国軍省の正面玄関を潜ったときには、未だ日が昇っていたのに――


 雪子が押し黙った。饒舌な報告から一転、無表情で首を傾げ、朱乃は更に回答を促した。

「申し上げます……朝霧 圭乃の、そのまた上まで。夏秋 遥は……そう答えました」

 伏し目がちに、雪子は答えた。正直、報告した後の総監の貌を、少女は見たくなかった。


「……」

「……?」

 意を決して眼差しを(もた)げ、雪子は我が目を疑った。

 微笑(わら)っている――笑顔も含め、日頃他者に感情を発露したことの無い朝霧 朱乃が微笑んで此方を見ている。


圭乃(よしの)と、あの少年は言ったのか?」

「はっ」

 雪子は背を糺した。糺す必要など無かった筈なのに、微笑う朱乃の瞳の深奥で炎の様に揺らぐ何かが、自分の心胆に怖気を招来した様に少女には自覚された。


「その圭乃に勝った、私ではないのか?」

「……」

 雪子は、内心で気圧され、そして言葉を失った。朱乃を無視したかのような夏秋 遥の発言について、どう答えればいいのか、今の少女には判らない。だがその気迫の中に普段の総監らしくない、焦燥したかの様な「何か」が、少女には新鮮な感慨となって胸中に満ちた。


「しかし閣下は……夏秋 遥にも、その遥が縋った辰天 アズミにも勝利()っておられます」

「そうだな……お互い度量を見せたとは聞こえがいいが、所詮は負け犬同士の傷の舐め合いであるな」

「はっ……」

 朱乃に応じつつ、「そうとも言えない」と雪子は内心で反問する。

 これだけは言える――廓の件で、夏秋 遥は辰天 アズミとその妹分(ソロル)を救った。どんなにどん底に墜ちた人間でも、目前に取り組むべき課題を与えれば何時かは立ち直る。遥の剣技練成に付き合うこととなった辰天 アズミにとっては、それだけでも当面を生きる途が啓かれたと言うべきではないか? あの南西の空、実習部隊が蕃神に襲撃された際も彼は率先して白刃を振い部隊の苦境をも救った。それらだけに留まらず、彼は何時か、自分の周囲にいて苦境に置かれた他の誰かのことも、助けることになるのだろうか?


「閣下」

「……?」

 雪子が呼び掛け、朱乃が首を傾げた。

「夏秋 遥のことが御目障りであると思召しましたのなら、爾麒の操縦から外し、速やかに遠ざけるのも一考かと愚考いたします」

 雪子は意を決した。これを進言()うのには、多少の勇気が要った。

「ん……?」

「差し出がましいことを申しました。お忘れ頂きます様……」雪子は低頭した――結局は勇気が及ばず、弁明が声を詰まらせる。

「雪子、それは私のために言っているのか? それともあの少年()のために言っているのか?」

「……無論、総監閣下のためです」

 自分は、嘘を言っている――言うのと同時に、雪子は自覚する。最も恐ろしい事には、自分の嘘に、眼前の総監は付き合ってくれているのだ。


「嘘をつくな」

「……」

 宣告の様な言葉に、雪子は面を上げた。その無表情が、少女の告白を沈黙の内に発現(しめ)していた。

「爾麒の試験飛行に付き合う旨を志願した時もそうだ。お前が夏秋 遥のことを語るとき、その言葉が躍っている」

「……!」

 指摘されて、初めて気付く。そこに心を動かされた風を、少女の上官からは認めることはできなかった。

「あの少年()に情が移ったのを私は咎める積りは無い。だが……」

「はい……!」思わず意思を籠め、返事をした。

「あの少年を生かすも殺すも、この私の匙加減に拠ることを忘れるな」

「はっ!」

 背を(ただ)し、一礼した雪子に、朱乃の新たな問いが向けられた。


「……それで、夏秋 遥(あのこ)はいま何処にいるのか?」








 物置のひとつとして使われていた四畳間で、その不意の客は安らかに寝息を立てていた。


「――しっかりねとは言ったけど、ここまでやれとは言ってないわよノアちゃん?」

「――はあ!?」

 何を言っているの? と言わんばかりに簗吹 騎亜は母 (たま)を見遣った。八洋子まで肩を貸した夏秋 遥の意識が(つたな)いのが、今の騎亜には一番の気掛かりであった。飲み過ぎ――年齢も立場も考えず、辰天 アズミと意気投合した勢いを駆った結果であった。難渋しつつ遥を連れて来る道程、酒の臭いの外、化粧の匂いと吐瀉物の臭いすら遥の汚れた制服には漂って騎亜の制服にも伝染(うつ)る。酒臭さを嫌う母が家に入れてくれるかは、騎亜にとっては一種の賭けであった。


「こんな子だったとは、会った時には思わなかったんだけどねえ……」

「上官に飲まされたんだよ」

 驚き、ぼやきつつも、母は遥を休ませる部屋を用意してくれた。四畳間まで遥を連れて行く間、耳元で遥が呻くように言うのを騎亜は聞いた。


「……騎亜、ここ何処?」

「いいからさ……こっちこっち」


 半死半生って感じだ――居間から小走りの音が廊下に響き、次には小さな気配となって騎亜の元に近付いてきた。小袖姿の幼児、それも姉妹が近寄って、彼女たちの叔母を傍から見上げた。姉夫婦の子供たる(けい)(ふみ)、幼い姪たちの無垢な興味そのものの視線を、騎亜は作り笑いを向けてやり過ごそうとする……


「ノアお姉ちゃん、その人だあれ?」

「お姉ちゃんの友達だよ。トモダチ」

「でも、男の人だよ?」

 姉の慶が言い、妹の文と顔を見合わせた。「おかしいね」「ねー」年齢(とし)を弁えない、姪たちの含み笑いに心胆が寒くなる。道を急ぐ必要を騎亜は感じた。結局は家の奥、狭い四畳間に遥を寝かせ、洗濯のため汚れた上衣を脱がせるまで、姉妹は付いて来たものだ。


 簗吹家揃っての夕食の際にも、夏秋 遥の話は当然出た。

 それよりも夕食に先駆けて帰宅してきた姉たちが、母や姪たちから遥の話を聞くや、「騎亜の彼氏」を見ようとまるで珍獣でも見る様な感覚で四畳間を覗きに行く。騎亜からすれば溜まったものでは無いが、たとえ嘘でも、「遥の彼女」という呼び方は、今の騎亜にとっては決して不快な響きではない。


「いや、そういうのじゃないから」

 それでも姉たちに聞かれる度に頭を振り、山盛りの飯を頬張る。話を逸らそうとする余り、何に付け腹が減る幼年学校の癖が、実家の食卓でも顕わになっているのだが、当の騎亜はそれには気付いていなかった。

「いい男じゃない。私にも紹介しなさいよ」

 と言ったのは帝都の新聞社勤めの次姉 (さき)であった。仕事柄都会の風物に触れる機会が一番多いからか、装いも言動もこの家では一番派手に見えた。それが却って、幾度か持ち込まれた見合いを不首尾に終わらせているのではないかと、他の簗吹家の女たちは思っている。


「……私たちの分まで呑まされたからああなっただけだよ」

「ほんとにい?……世間じゃ怖い女がいてね、男を酔い潰して――」

「咲ちゃん、ここでそんな話は駄目よ」

 (たま)(たしな)め、咲がかっかと笑った。そこで思い出した様に騎亜は席を立つ。


「騎亜? 何処行くの?」

 三姉 (りょう)が騎亜を呼び止めた。都内の医学専門校の生徒。お下げ髪に丸眼鏡が、咲姉に比して地味な印象、言い換えれば堅実な印象を与えた。

「ご飯食べるか遥に聞いて来る」

「それだけ?」丸眼鏡越しに観察する様な態度を崩さず、涼は尚も聞く。派手な咲とは別のベクトルで男を寄せ付けない性分だから、妹に男の影が射したのが気になるのかもしれない


「それだけに決まってるじゃん!」

 思わず声を荒げた騎亜を見、長姉の(あおい)が傍らの娘たちを顧みた。この葵と母 珠の手で、今の簗吹商店の全ては切り盛りされていると言っても過言ではない――珠以前の祖母の代、あるいは更に前、衛治年間の創業からずっと、簗吹家はその様な家庭(いえ)であった。


 その葵が言った。

「慶ちゃん」

「はあい」

「騎亜お姉ちゃんについていきなさい」

「あいあいさー」

「だから違うって!」

 妹の怒りを受け流すかのような、諭すような口調が騎亜の熱い耳朶を打った。

「ノア、簗吹家(うち)そういうの(・・・・・)は駄目だからね? お姉ちゃん許しませんよ?」

「……!」

 思わず舌を出して居間を出た廊下で、慶が付いて来る。そこに、食卓からの姉たちの笑い声が騎亜の背を押した。怒っては見せても、この場にいない遥が簗吹家の話題の中心になっているのが、今の騎亜には微笑ましくも思えている。



 騎亜に手を引かれつつ、慶が聞いた。

「お姉ちゃん、『そういうの』って、なあに?」

「慶ちゃんにはまだ早い」


 点けた裸電球の下で、夏秋 遥は尚も夢を見ているかのように見える。

「……じっちゃん御免……イタタタタ」

 寝言を聞き、慶が遥の顔に手を伸ばした。頬と鼻を抓る度に、遥の寝言の内容が変わる。それが面白くて、更に慶の手が動く。

「慶ちゃん駄目だよ。寝かせてあげて」


「寝息が深い……この子、すごく疲れてたのね」

「……」

 背後から語りかけられ、騎亜は遥に寄り添ったまま顧みた。いつの間にか付いて来ていたのか、開けたままの古障子に手を掛けた珠が、遥に実の息子に対するような微笑を投げ掛けていた。


「そうだね……」

 騎亜は言った。思い当たる処は無数にあった。野営訓練に爾麒の試験飛行と辰天 アズミとの一件――それらだけではない様にも、今更ながら思える。数か月前、抗えない力で幼年学校に放り込まれて以来、夏秋 遥を取り巻くすべてが激動の内に、目まぐるしく過ぎた。そこからの疲弊の蓄積故の、深い眠りである様に騎亜には思えた。


 そう思えば、自分の家で遥を休ませたのは正解であったのかもしれない――キョトンとして叔母を見遣る慶の頭を微笑で撫で、騎亜は退出を促した。

「御飯、今のうちに用意しておくわね」

 珠が、言った。



 遥が珠の用意した夕食を食べることは、最後までなかった。

 更ける夜の中で、恐らくは家人皆が寝静まるであろう時間までを、騎亜は布団に包まって過ごした。眠ろうにも、階下の遥のことを思えばどうしても目が冴えた。


 静寂の中に動くものの気配が消えるのを察し、騎亜は寝床から起き出した。軋む廊下を歩くのにも、同じく軋む階段を歩くのにも勇気が要る。それでも、南西の空で龍蝗の群と対峙した時に比べれば――自己を奮い立たせる。たかが夏秋 遥の顔を見に行くのに、それが本当に必要なのかどうかまでは、今の騎亜は考えてはいなかった。


 煌々と、だが儚げに灯る裸電球の灯りが、目指す場所の証――まるで盗賊だなと自嘲する程の抜き足差し足で、遥の部屋に近付く。

「遥、開けるよ」――障子戸に手を掛けるのと、小声で反応を験すのと同時であった。



「……」

 目指すものは、尚も静かな寝息を立て、深い眠りに落ちていた。

 遮る者の無い、狭い世界で遥を見下ろした瞬間、滲む唾を、音を立てて呑み込んだ。

 そして微笑――遥の腕を枕に、浴衣を纏ったその躰をゆっくりと寄り伏せる。


 今はただ、遥の寝顔が、唇を触れんばかりに近くなる。

 それが、いまの騎亜には嬉しい。


 眠りから覚め、休暇も終われば始まるであろう再度の練成と邀撃戦を思い、覚悟もまた決まる。

 今はただ、このまま遥と一緒に居たい――その一念の内に、少女の意識もまた、眠神(ヒュプノス)の委ねる処となっていく。

 


「飛騰編」 終

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