第三章 「幼年学校」
遅い出勤であった。朝、先月に結婚したばかりの妻に見送られて、前日に予定した通りに官舎から帝都の防空司令部に直行。書類の形で連絡事項を受領し、その際司令部勤務の同期と少し世間話をした。本当に、他愛のない世間話であった。新婚特有の「惚気話」も求められたが、それは毅然として拒否した。「相変わらずだな」と、同僚は苦笑した。辞去する彼を、正面玄関まで同行して見送ったものだ。
関央総軍幼年学校機導神科 機導神教育班長 機導神軍少佐 条坊 好真が、通勤用のタマガワ350軽量自動車を校内駐車場に滑り込ませたときには、時間にして10時を回っていた。彼の車を見出すや、助教の中尉が慌ただしく駆け寄ってきた。一兵卒から前線勤務を重ねて士官に累進した中年の中尉、人格的にも好感が持てる男であった。銃弾飛び交う北州戦線に在っても泰然としていたであろう彼の顔が、困惑に彩られているのがガラス窓越しにも分かった。
問題か?――駐車の瞬間までの、緩んだ若者の顔が謹直に引き締まる。書類鞄を手にした条坊少佐が運転席から降りるのを不動で見届け、中尉は敬礼した。答礼と同時に、条坊は切り出した。
「何かあったのか?」
「とにかく……付いて来ていただきたく願います」
「……?」
助け舟を目の当たりにしても、中尉から困惑の色は退く様子を見せてはいなかった。軽く頷き、先導を条坊少佐は命じた。車に鍵を掛け、少し歩き出したところで中尉は不意に顧みた。
「班長、軍刀は?」
「あっ……!」
軽く叫び、条坊は足早に車に戻る。神和軍人の魂と言うべき軍刀。しかし任官以来、こういう風に軍刀の所在を忘れるのが彼の常であった。中尉はと言えば、苦笑とともに車の鍵を開ける上官を見守るのみだ。「ああ……またか」と。
幼年学校機導神科 第一期生――それだけで、機導神操縦者としての条坊 好真の、苛烈なまでの履歴を説明することが可能である。
遡ること15年前の「第三次蕃神侵寇」において、新設の機導神科に入校したばかりの生徒たちは、防衛戦を担う機導神部隊の「予備兵力」として、凶悪な蕃神との対峙を強いられた。機導神の操縦教育が始まったばかりの、直線飛翔すら覚束ないような少年少女たち――正規戦力の仮借なきまでの消耗が、彼らをして死地に追いやるのに長い時間は要さなかった。
「練神」こと練習用機導神を駆り邀撃戦に参加した一期生の数と名前全てを、条坊少佐は未だに記憶している。決して忘れるわけにはいかなかった。邀撃戦の開始から侵寇の終息まで、条坊を含めて生き残った同期生は半分に満たなかったのだから――
夏は過ぎた筈だが、外は未だ煩わしい程の暑さが残っていた。それでも裏口から屋内に入れば、多少は涼を取ることができる。コンクリート造りの校舎、その屋内は存外ひんやりとした空気が流れている。
中尉に先導されるがまま、幼年学校一階の廊下を歩く。教務や校内事務を担う部屋が並ぶ区画であった。歩くうち、ふと込み上げてきた違和感が、やがて条坊少佐をして普段顧みることのない過去を自然、想起させた。
「――今日からわたしの列機だ」
邀撃戦の中でも、強烈な記憶の一幕――当時の自分より頭一つ高い背丈の女性が、そう言って少年機導神兵たる条坊の頭を撫でた。偶然の成り行きから飛翔と戦闘を共にした伝説の機導神爾麒と、その乗り手の記憶だ。結婚はしていない筈だが、軍神を前に緊張しきったあの頃の条坊生徒を見下ろす朝霧 圭乃の眼差しは、母が子を愛でるそれを条坊少年に想起させた。それを何故感じたのかは未だにわからない。しかし、以後15年近くの機導神操縦士人生の間、多くの栄典と賞詞を得たが、未だに朝霧軍神のこの言葉に勝る栄誉を、彼は経験していない。
「――こちらです」
沈思する身にとって、中尉の言葉は唐突に聞こえ、半ばギョッとして条坊はつんのめる様に立ち止まった。気が付けば、狐に摘ままれた様な顔をして、中尉が彼の上官を見詰めていた。目的地たる部屋に欠けられた表札を見遣る。「聴取室」――問題を起こした生徒から事情を聴く……否、取調べる部屋だ。
「誰が問題を起こした?」
「本日付で着校予定の編入生であります」
内心で、驚愕する。「早速か。何をやらかした?」
「それが……彼は何もしておりません」
「なに?」
中尉の困惑の度合いが、増している様に見えた。「宣誓書への署名を拒否しているのであります」
「……?」困惑が、中尉から条坊に感染する。本科ならばともかく、機導神科でそのようなことは経験したことが無い。
「ここで待て」中尉に言うが早いが、条坊は引き戸に近付いた。「入るぞ」軽くノックをし、引き戸に手が触れる。教室の半分近くに広い「取調室」、日当たりの悪いその部屋で一人、机を前にポツンと座る人影を見出し、条坊は暫し佇んだ。
「……?」
奇妙な少年であった。細身だが、羽根の様な筋肉を宿しているのは体格で判った。武道で作った肉体では無いと察した。世に称揚されるところの「神和男子」らしさがまるでない。
同時に――背中に頭巾の付いた上着、所々の破れたズボン以上に、顔立ちと身体つきが坊条の興味を惹いた。それ以上に、これまで一度として会ったことなど無い筈なのに、既視感のある顔……それも同年はおろか年上の女性も惹かれる類の顔だと思えた。こんな少年が生徒隊の隊列に交じれば、否が応にも目立つだろう。
何処から来た?――疑念と興味を半々にして抱いたまま、条坊は歩を進めた。硬い軍靴が、何もない、薄暗い空間に虚しく響く。
……それでも、条坊の入室に気付かないかのように、その少年は机の前に在って俯いていた。あるいはあえて無視しているのかもしれない。机の上には当然の様に、白紙状態の入校宣誓書が置かれたままだ……一度署名すれば卒業――あるいは中途退校――まで三年間、生徒一個人の命運を縛ることになる入校宣誓書。晴れて入校を果たした少年少女の多くが、その文面の重大さを知らずに、一刻も早く栄えある幼年学校生徒になろうと、軽い気持ちで署名する宣誓書だ。
ふと、開けたままの引き戸を、条坊は見遣った。室外から様子を伺っていた中尉と目が合う。神妙な表情もそのままに、中尉は頭を振った。それだけで条坊には理解った――彼は宣誓書に署名する様少年を説得はしたが、恫喝はしていない。彼はそういう男だ。むしろ困り果てている。
机を挟んで少年と正対するのに、意を決する必要があった。
「座るぞ」言うが早いが、少年の対面に座る。それでも、少年は無反応であった。ペンが、白紙の宣誓書からだいぶ離れて転がっていた。前日に伝わっていた情報を思い返す限りでは、確かこの少年の名は――
「――夏秋 遥生徒だったかな?」
「……」
名前を呼ばれ、少年は頷いた。目も合わせない。相変わらずの無言であった。無礼さを覚えるより先、その態度の頑なさに少し苛立つ。
「答えて欲しい。君は、本校への入校を拒否するのか?」
「……はい、拒否します」
はっきりと、条坊は少年の声をそう聞いた。自然とため息が出た。
「……毎年多くの少年少女、それも万を超える神和中の少年少女がこの学校を目指して試験を受け、適性検査に挑む。そしてその中の一握りが入校を許されて此処の正門を潜る。君はその一握りの中の、幸運な一人だ。軽々しく拒否などと言って欲しくないものだな」
「……」喋らない。
「聞くが、入校は君の希望か?」とうに判ってはいることだが、聞いてみる。
「違います。強制されました」
「強制? 誰に?」
「朝霧 朱乃ってやつ」
思わず、条坊は噴出した。「軍神の妹君」の評判は、当の機導神乗りとその関係者の間では決して良くはない。「悪人ではないが、下々の感情を解さない」という声が彼女に関し、部内からよく聞こえる。そもそも「軍神の妹」という言い方こそが、当の朝霧 朱乃に対する侮蔑の意を大いに孕んでいるのだろう……少年に軽々しく同調するよりも、彼の軽口を窘める積りで条坊は言った。
「朝霧総監はいやしくも我ら機導神部隊の最上位者だ。やつ呼ばわりは頂けないな」
「わかった……やつ呼ばわりは取消す。その総監って人だよ」
「わかってくれれば……いい」
頷き、条坊は微笑った。内心では、素直なのだなと驚く。
「入校しないとして、君はどうするのか?」
「家に帰ります」
初めて、少年は顔を上げた。目が合った瞬間、条坊は再び困惑した――既視感。吸い込まれるような瞳の光だ。あの女と初めて会った時の様な――
「君とは……前に会ったかな?」
「……?」
少年の顔が困惑に曇るのを、条坊は見た。変な話を振られたと思ったのかもしれない。再度話題を変える必要があった。
「君宛ての入校許可は、命令書の形式だった。皇主陛下の赤子である以上、命令であるからには拒否はできない。君がこうして、五体満足であるのならば尚更だ」
「じゃあどうしろと?」
少し沈黙の後、条坊が切り出すのには勇気が要った。
「国軍省に、問い合わせる」
「……」
不意に腹が鳴り、少年は再び俯いた。張り詰めた気概の弦が、失神して机に臥す少年の姿を借りて切れる。
彼は空腹だったのである。
「こっちだ」
条坊という名の少佐の早足に追従するのに、朝食を抜いた夏秋 遥の身体では難儀を覚えた。というより実のところ、出奔途上で捕縛され、此処に叩き込まれるまでまる一昼夜、遥は水すら口にしていない。
尤も、護送の途上で食事も貰えなければ、それを与える素振りすら護送の憲兵隊は見せてくれなかった。恐らくは憲兵隊の上層に在って、彼らを操る「あいつ」の意思なのだと、遥は「あいつ」に対し募る怒りとともに考えた――おそらくその予想は、正しかった。一方で憲兵隊としても、いつ逃げるかわからぬ相手を、その任務完了まで完全に掌中に収め続けるのに、気を抜けようはずもなかったのだ……「あいつ」に対する恐怖の、それは為せる業だったのだろうか?
歩く脚に、力が入り辛い。兎に角出奔の際に碌に食事を取らず、僅かな乾パンと携帯口糧を齧りながらバタバタを走らせたものだから、その無茶の蓄積が最悪のタイミングで来た。そこに幼年学校に来てからの署名拒否――そんな遥の「労苦」を察したのか、少佐は中尉を退がらせ、遥に部屋を出るよう促した。
「まるで懲罰房から出てきたようなやつれ方だな」と、条坊少佐は言った。呆れてはいるが、馬鹿にしている様には聞こえない。
部屋から出、不意に明るく映えた廊下の真ん中で、遥は眩しそうに目を瞬いた。最初にこの部屋に通された早朝から、日はだいぶ昇っていた。疲労のせいか、網膜の調節が明るさに追いつくのに難渋している。というか今まで籠っていた部屋が暗過ぎることに、今更の様に気付く。
さり気無く目にした腕時計の盤面が、あと一時間で正午に入ることを遥に教えていた。「ついて来い」と不意に声が掛かる。顔を上げた遥の先で、条坊少佐は既に歩き出していた。いつの間にか背後に周っていた中尉が、遥の背を軽く叩き、歩くよう促した。
前を行く少佐、その腰に繋いだ軍刀が、歩く度に所在無げに揺れている。それがやけに遥の印象に残った。
途上で、条坊少佐は売店でアンパンと牛乳を買って遥に与えた。
「……」
戸惑う遥に「私の奢りだ」と条坊は微笑った。遥に一息つかせたところで、少佐は遥に見せたい場所があると言った。ご馳走になった以上、拒否はできなかったし、幼年学校そのものに対する興味もまた生じ始めていた。
導かれるがまま歩を進めるにつれ、少佐と遥、ふたりの周囲で校舎の装いが替わる。言い換えれば教室にふたりは差し掛かる。廊下からガラス越しに見えるのは、判で押したように行儀よく席に収まった生徒が、背広姿の教員による授業を受ける風景だ。時折、本物の軍人と思しき軍服姿の教員も見える。それを除けば幼年学校の風景は日本の学校のそれと、何ら変わる処が無いように遥には見えた。
「ここは本科、一学年生徒だ。機導神科ではないが、いわば君の一年後輩になる」条坊少佐が言った。
「授業……難しそうですね」
「そう悲観したものでもない。自習時間は十分にあるからな」
「……」
ああ「自由時間」が無いのだな、と遥は解釈した。正直、この学校に足を踏み入れてから、既視感の様なものを遥は抱き始めていた。それが何か、眼前を歩く坊条少佐と、彼と同じく軍人の様な出で立ちの生徒の姿が、一気に解決してくれたような気がした。
そうだ――これは……爺ちゃんが言ってた航空自衛隊 航空学生だ。
遥の祖父――当然、遥の父 樹の父である――夏秋 大は、現在こそ悠々自適な自営業だが、その前職は航空自衛隊のパイロットであった。航空学生から入隊し、当初は12年、F‐4EJファントム戦闘機の操縦士と飛行教官を務めた後、さらに8年間UH‐60J救難ヘリコプターの操縦士を務めて二等空佐で退官した。特に救難飛行隊時代には、歴史の教科書に載るような、日本に影を落とした大規模自然災害の幾つかにも出動した経験がある。
この祖父が親族の集まりで酒が入る度に、必ずするのが航空学生時代の苦労話であった。それも遥の様な孫たちを驚かせるように大げさに話す。今回の様に、宣誓書に署名して提出した途端、今まで優しかった教官や上級生の態度が一変したこと。「地上準備課程」と称される期間中の過酷なしごきのこと。飛行訓練中にへまをしたら、パラシュートを担いで飛行場の周囲を一周させられたこと。戦闘機操縦専攻が決まり、本当はF‐15Jイーグルに搭乗る筈だったのが、同期の操縦学生に与党有力議員の姻戚がいて、半ば押し出される様に「型落ち」のファントムの操縦訓練を受ける羽目になったこと。そのファントムという戦闘機の、死ぬかと思えるほどの乗り心地の悪さ……そして最後は膝の上に乗せた幼い遥の頭を撫でてこう言う。
「――だから遥も航空学生に行け。イーグルに乗れ」
「――……絶対いやだ」
話のあまりの凄まじさに、どん引きして頭を振る幼い遥に、酔った祖父は大笑いするのが常であった。要は怖がる孫をからかって愉しんでいたのである。そこを妻である祖母に窘められるのもお約束であった。ただし、それ以外は孫に甘過ぎる程に優しい祖父、今なおハーレーダビッドソンとR34GTRを乗り回す程元気な祖父であったのだが……
とんでもないところに来た――今更ながらに、遥は焦り始める。そして自分をこのような場所に追いやった朝霧 朱乃に対する怒りもまた募る。
「あのクソババア……!」呻く様な遥の言葉は、条坊少佐にも聞こえた。
「ん……?」
「ああいや……!」声を聴かれ、慌てて取り繕う。それを見、条坊少佐は微かに笑った。「おかしなやつ」と思われたかもしれない、という悪い予感は、恐らく当たっていた。
気が付けば、正午まで一時間を切っていた。
校舎を抜けて外――まるで学校の武道館を思わせる平屋の一棟。その前で少佐の足が止まった。学校の防火扉を思わせる、大きな両開きのドアの上に貼られた表札に、遥は目を丸くした。
「仮象操縦訓練棟……?」
表札の部屋名を読んだ遥を顧み、条坊少佐はニコリと笑った。ドアの傍らに貼られた予定表を指でなぞる。
「ちょうど良かった。今日の午前中は、使う班が無い」
部屋に入るよう、少佐は遥かに勧めた。部屋に踏み入って、思わず。立ち止まる。
部屋は広い。その室内で灰色の巨大な繭の様な物体が、番号を付けられて等間隔に並んでいる。太い配線で相互に繋がれたそれらが、遥にはネットカフェの個室を連想させた。入室と同時に少佐が明かりを点けなければ、遥の連想は一層補強されていただろう。
「これが帝国機導神軍の誇る仮象訓練器だ」と、条坊少佐は言った。
胸を張る、という風ではない。淡々と話しているのが、この教官が心から学校の設備を誇っていることを遥に強く印象付けた。
「機導神乗りを目指す者は、先ずはこれで操縦操作を学び、感覚を掴む。それから外の練神操縦課程に進む」
言った端から、爆音と同時に天井が微かに揺れた。機導神が飛び去る気配を天井越しに感じた。音は高速で振動する「ペラ」こと「導翅」――機導神の翅――が生む爆音だと、遥にはすぐにわかった。天井を震わす程だから、飛行高度はそれ程高くはない。
「あれは三年生だな……だいぶ手の内に入ったのか調子に乗っている」遥と同じく天井を見上げ、少佐は言った。
「あのオレンジ色の機導神?」過日、バタバタで通った幼年学校の飛行場に並んでいた機導神の姿を思い浮かべながら、遥は言った。
「そうだ。軍では九〇式練習機導神、略して九〇練神という。口の悪い者は『トンボ』と言っているが……」
そこまで言い、少佐は首を傾げた。「君は、何も知らないのだな。今時、子供でも知っている知識なのに」
「……すみません」思わず、謝る……と同時に、先刻よりも大きな衝撃と爆音が校舎を震わせた。今度は複数の機導神が、恐らくは編隊を組んで校舎上空を過ったのだと遥は察した。
「調子に乗っていられるのも今のうちだ。飛行作業が終わったら、助教にたっぷり絞られるだろう」呆れた様に頭を振りながら、条坊少佐は言った。
「先生……あ、いや教官も機導神、搭乗られるんですか?」
「勿論だ。何なら蕃神との交戦経験もあるぞ?」
「蕃神と……戦った?」
数週間前、爾麒を駆り蕃神を迎え撃った記憶が遥には思い出された。
「十五年前、私が君と同じ幼年学校生徒だったときのことだ。年齢も君と大して変わらない頃の話だよ」
語る条坊の目が、此処に無い遠い地平を眺めている。
「第三次蕃神侵寇……機導神乗りではなくとも、この国で軍人を志す者ならば誰もがそれを学ぶ。そしてこの侵寇で最大の英雄が誰であるのかも――」
「朝霧……圭乃」名前を呟く。不意に胸が震えるのを自覚する。
「なんだ、知っているじゃないか……」
言いかけたところで、少佐は表情を硬くしたように遥には見えた。興味の混じり始めた眼差しが、光を帯び始めて遥に向かうのを、彼は察した。少佐と暫く互いの顔を見詰め、やがて遥は目を逸らした。気後れ――自分がその「英雄」の子であることが、いまは途轍もなく分不相応であるように遥には感じられた。首を傾げ、少佐は再び繭の杜を歩き出す。困惑して後を追う遥の前で、少佐は一基の繭を指差した。「搭乗ってみるか?」
「いや、おれは生徒じゃないので……」
「そんなことわかってる。私の厚意だ。無下にするものではない」
ハンドルを回し、条坊少佐は繭のハッチを開いた。全容を見せた内装が、爾麒のそれに酷似していることに遥は内心で驚いた。日本で言う、VRシミュレーターではないかと遥は直観した。この国では、何が存在していてももう驚かない。
「内装は練神のそれを完全に再現している。訓練環境の設定は私が外部より行う」
『乗ってみろ』と、少佐は目で勧めた。外から覗く限りでは、計器類の配置とレバーの数が、爾麒のそれよりもずっと簡素であるようにも見える。勧められるがまま、繭の中に身を乗り入れながら、遥は思い当たる――そういえば、おれは子供の頃から、爾麒にしか乗って来なかった。VRMMOの世界ではそれが許されていた。やり始めの頃、中々乗り慣れず、腫物でも触る様にソロリソロリと爾麒を操っていても事故を起こして死ぬことも無ければ、拙い操縦に目くじらを立てる教官もいない。
当初は何もない空間で無心に爾麒を飛ばし、次第に複雑な地形や障害物を増やして特殊飛行を愉しみ、やがてはそこに「蕃神」という「敵キャラ」を設置して――8歳の頃から玩具の様に動かしていた爾麒は、それで遊び始めて二年が経つ頃には、「ミツルギ戦記」の世界の中では、ほぼ無敵の魔導兵器と化していた。その間も父 樹の手に成るグラや環境の改善が続き、爾麒の可動域と映像効果もまた、実物同然に改善されていく……遥もまた、仮想世界における「分身」としての爾麒に、その精神の深奥まで慣れ親しんでいったものだ。
「――受話器と送話器を付けろ」
「……あっ、はい!」
座席の、丁度ヘッドレスト部分に掛けられたイヤホンとマイクを条坊少佐は指差し、それが遥から沈思する暇を奪った。雑念に没入する自身の迂闊さを呪い、言われるがままにイヤホンを耳に被り、首にマイクを嵌める。爾麒に搭乗ったときと同じ装備だということに、何故か安堵を覚えた。座席の造りは、爾麒のそれよりもずっと簡素である様に思えた。
「ベルトを締めろ。腰も肩もだ」さらに指示が飛んだ。同じく遥が準備を終えたところを見届け、条坊少佐は満足したように頷いた。
「時折、周囲が見えにくいからと肩ベルトを外す生徒がいる。素人には危険だからやめた方がいい」
「はい!」返事をするのと同時に、先手を取られた様な気分になる。自分のやり方を見透かされた様な――その少佐が遥から離れ、ハンドルを回す。風防宜しく蓋がスライドして閉まり、やがて遥は完全に外界と隔絶された。
密閉されるや、すぐにオイルの臭いが鼻に障り始めるのに気付く。狭い操縦席で充満する気化オイルと軽合金、そして配線ケーブルの織りなす、機導神独特の匂いだ。すでに機内灯の点いていた繭の中で、遥は計器盤に向き直る。爾麒のそれよりも狭く、簡素な正方形の計器盤。計器もまた、機導神を動かすのに必要最小限しかないことに遥は気付く。生徒を操縦操作に専念させ、それ以外の、なるべく煩雑な操作をさせないという意味では、これはやはり「練習機」なのだろう。
『――夏秋 遥、感明どうか? 応答せよ』
「夏秋 遥、感明良好。よく聞こえます」「ミツルギ戦記」の発進シークエンスの様に、応答する。むしろ父がここまでをゲーム中で再現していることに、遥は驚愕した。ふと見れば繭の一点、ランプが光っているのに気付く。「身体感応度」と表記された下に「良―可―不可」と並ぶ三つのランプ、その中で「良」が緑色に灯っているのが見える。遥が疑問を発するより早く、少佐の言葉がイヤホンに入ってきた。
『―― 一応は導核に感応している様だな。正直、君が機導神科への入校適性を満たしているかどうか心配だった』
「……すいません」と答えて気付く……そういえば、初めて爾麒に搭乗ったときも、適合度などと言って関原たちにこうやって何かを測定されていたのを思い出す。
『――謝ることは無い。おかしなやつだ』と、回線の向こうで笑われる。その間も、遥の目は計器類を探っていた。
「点火器……どこにあるのかな……」と、遥は独り言ちる。
『――おいおい、始動から始める気か?』
「え?……違うんですか?」
再び、回線の向こうで条坊少佐の笑う声を聞いた。
『――始動からやっていては昼飯に間に合わんよ。今回君には飛行状態を体感してもらう。基本は本官が操縦する。本官がいいというまで操縦桿とフッドペダルには触れるな。夏秋 遥、復唱しろ』
「少佐がいいというまで操縦桿とフッドペダルには触りません」
『――よし、これより飛行状態、高度四千に状況を設定。復唱しろ。それにしてもお前、面白いやつだな」
「これより飛行状態、高度四千」飛行状態から「ミツルギ戦記」を始める手順にも、少佐の指示は似ていた。今の遥は斬新さに驚くよりも、既視感に驚いている。
『――状況開始まで10、9……3、2、1……状況いま!』
「……!」
一瞬落下している体感が、直後に浮遊感に変わるのを遥は体感した。繭内の上半分がスクリーンと化して、眼下の田園を遥の眼前に運んできた。これも「ミツルギ戦記」の通り、さらに言えば実機の爾麒の操縦席配置と同じであった。ただし一昔前のポリゴン感むき出しの外界、周りに浮かぶ雲ですら薄っぺらく姿形も一様だ。描画能力と言おうか、画質の旧さを遥に思わせた。神和の技術力では、未だ課題の多い分野なのかもしれない。
『――仮象訓練装置は、その内蔵した神幹に電気信号化した呪詞を送信し、地図を読み込ませることで仮初の操縦環境を生成している。今君が見ている地形は、神幹と操縦者の感応力が作り出した地形だ』
「はい!」
神幹――それは機導神の中核であり、帝国の特定地に映える霊木を加工して造られるという。
身体の各部位に模った神幹を組み上げれば、巨大な翅を生やした人型の実体になる。要は機導神とは、その神幹に操縦席を設けて装甲を被せ、馬力と飛翔力の発生源たる高熱を供給する発動機を取り付けて完成した兵器のことだ……その「ミツルギ戦記」における機導神の設定が、現実のものとして受け容れられている世界に、いま遥はいる。
感応力とはつまり、その神幹と意思を通じ合わせることのできる能力のことだ。古来、神和帝國を国号とするより遥かな昔、神和国においては「応神之術」と称されるその感応力を生来より有し、修行により洗練させた者が「依代」として神幹を操り、その歴史上に好悪様々な事跡を遺してきた。時の皇主に仕えた者、または皇主に反逆した者、一国を獲った者、一国を滅ぼした者、数多の民を救った者、或いは数多の民を――神和滞在の間に培った機導神に関する技術的背景と史実を、訓練装置の中に在って遥は噛み締める。
訓練器の景色は、幼年学校の飛行場を中心にした帝都周辺の平原と野山、人工物を再現しているのだと察せられた。作りこそ粗いが、それも高々度まで上昇して俯瞰してみれば関係が無くなる。満天の晴空、飛行日和の中、軽い爆音を響かせて練神は単機仮象の空を飛ぶ。
「教官、あれは?」と、遥が言ったのは、田園の真中に巨大な岩山が鎮座しているのに対する違和感の為せる業であった。平坦な田園の中に、それは不自然過ぎるまでにいきなり聳えている様に見える。現実の地形にも、あんなものは存在しなかった筈――
『――あれは操縦訓練用の渓谷だ。我々は『不知抜』と呼んでいる。教程が進めばあの中を潜って技量を磨く。難しいぞ。教官もたまに迷う』
「……」
なるほど、目を凝らしてよく見れば、岩山の中に、谷や川がまるで迷路の様に縦横無尽に亀裂の様に走っている――「ミツルギ戦記」でも、同じような景色を生成して遊んでいたのを遥は思い出した。タイムアタックをやっていたものだ。
『――これより特殊飛行を実施する。きついと思ったら正直に申告する様に。誰もがすぐに馴れるわけではない。意地を張るなよ』
「はい!」
不意に、景色と座席が揺れて動く。
遥を搭乗せたまま、仮象空間の練習機導神は自在に空を舞う。景色に加え座席もまた練神の姿勢に反応して動く。これは予想外であった。仮象訓練器であっても、ベルトの着用が必要になる筈だ。実機と同じ感覚を、地上に在って培うための機械――厳密には、いま練神の操縦桿を握っているのは外にいる条坊少佐だ。だからこの機導神には実質遥と少佐の二名が「搭乗」していることになる。航空自衛隊の複座練習機の様なものだ。実機を使わない分だけ、事故を起こす心配も燃料の心配もしなくて済む。合理的なやり方だと遥には思える。
旋回と上昇下降、横転を繰り返す度に、席の操縦桿とフットバーが動く。条坊少佐の操縦――外の光景よりもそれに見とれる遥の耳に、当の少佐の声が入ってきた。
『――操縦桿とペダルに触ってみろ。ただし触れるだけだ。自分で動かそうと思うな』
「はい!」
卵を掴む、或いは雲でも踏む思いでそれら操作系に触れ、少佐の操縦をオーバーライドしようと試みる。時を置かずして、握った操縦桿、踏んだフットバーが何かが取り付いたように動く――速度の維持、旋回のタイミング、加速から上昇に至る円滑さ――それらいずれも、条坊少佐の操縦は巧いと思えた。伊達に歴戦の勇士たるを自称してはいない。
エンジン回転計の数字を見る限りでは、エンジン出力は爾麒のほぼ半分、過給機の類は付いていない。気を抜くか急激な操作をすれば忽ち高度が落ちると察せられた。少佐の操縦は機体性能の限界を踏まえた上での、先手先手を取る形の操縦だ。
かつて「ミツルギ戦記」でも、爾麒のエンジン出力を半分まで使わない想定でプレイをすることにハマっていた記憶がある。それを習得すれば、燃料消費を抑える術、加速を生かした飛行法を身に着けることにも繋がるからだ。何しろ「ミツルギ戦記」の敵には――余裕ゆえの過去の回想が、不意に前進を止めて中空停止状態になった機内と、条坊少佐の言葉で現実に引き戻される。発動機出力の低さ故、空中で静止しつつも、徐々に高度が落ちゆくのを体感する。
『――夏秋 遥、操縦を許す。準備ができたら報告しろ。本官が補助する』
「夏秋 遥、準備よし。操縦交替願います」
『――条坊、操縦交替する。何時でもいいぞ。夏秋 遥……墜落すなよ』
「……」
悪戯心が、微笑となって遥の外に溢れ出る。
「――ッ!?」
教官専用仮象訓練器の中で、条坊の天地が逆転した。落雷にも似た一瞬で、練神は落下する様に加速する。
「なに!?」
十秒も数えぬうちに、速度計の針が振り切れた。繭の中が激しく振動する。加速限界を超えた機体が分解する予兆を再現した振動だ。もっとも、この様に「乱暴に」練神を扱う操縦者を、この仮象訓練器は想像していない。機体の性能限界が、あっという間に暴露かれる。
「……!」
操縦に介入しようとして、踏み止まる。編入生の操縦する練神が降下加速から一転して上昇する。同じ練神かと思えるほどの上昇――その頂点で、両手両足を拡げた練神が、そのまま再度降下し加速に転じる。導翅が拡がったまま止まり、それは重力の威勢も借りて滑空機の様に練神を加速させている。実機では「禁制」の滑空急降下!?
オーバーライドした操縦桿の動き、フットバーの動きが尋常では無く速く加減も精緻、全く捉えどころがない。まるでピアノでも弾いているような本能と直感の産物。
飛び降りるように降下する練神――否、こいつは大地に向かい、文字通り飛び降りている。そのまま自転が始まった。三半規管が破滅への警鐘を鳴らし始める。操縦で鍛えた強靭な平衡感覚と士官としての矜持で、条坊はそれに耐えることに決めた。この少年の行く先を、もう少し見届けたいとも思った。
自転が止まった。
大地は既に目と鼻の先、拡げていた両手両足を畳んだ練神が、水辺に飛び込む様に地上に突き刺さる。介入する隙も見えない加速、条坊が思わず声を上げかけた瞬間、鳴りを潜めていた導翅が唸る。浮力を取り戻した練神は水平姿勢に転じ、地上を舐めるように空を奔る。高度計の針も振り切れる。何時地上に足を引っ掛けて、派手に叩き付けられてもおかしくない程の低空飛行だ。実機の訓練でも、実施部隊の訓練でもこのようなことはやらない。
「おい! 何処へ――」
言いかけて、条坊少佐は言葉を失った。壁の様に聳える「不知抜」、その真黒い岩肌を目の当たりにして――止めるべきか――再度躊躇うより早く、練神は岩山の裂け目に突き入る。オーバーライドしている操縦桿が、スロットル全開であることを示していた。
前後左右上下――眼前に飛び込む断崖や岩肌が、快刀乱麻を切る様に回避され、巧みに往なされていく。眼が付いていくのもやっとであった……これはもう、練習生がすることの範疇を超えている。実施部隊の操縦士も、ここまでの「蛮行」はやらないだろう。
初めて操縦を交替せた練習生の多くは、前進はおろか機体の姿勢を維持するのもやっとである。
前進出来たとしても、制御が未熟で直進すら覚束ない。発動機出力を持て余し、おっかなびっくりな飛行に終始する練習生も多い。
教官や助教がそれらを背後から補助し、練習生はその進捗の差こそあれ、時間をかけてやがては練神をものにしていく。
だが……この少年はどうだ?
今はただ愕然として、突破されゆく渓谷を条坊は睨む。
気が付けば、水平儀と方位計がまるで独楽の様に目まぐるしく回転している。スロットル全開を維持しながらも、寸でのところで絶妙に加減される速度――それが、経路に応じて絶妙に練神の体を「捻る」ことにより生み出された空気抵抗の効果であることを察し、条坊は内心で戦慄すら覚えた。
一般の操縦士が、実機の操縦資格を得て何年もかけて修練し身に着けるようなことを、幼年学校入校前の少年、練神の「れ」の字も知らないような少年が平然とこなしている。時には断崖を蹴り、岩場に手を掛け、練神は野山で遊ぶ猿の様に断崖の迷路を突破していく――唖然とする内に前方に光が見え、練神は全速で「不知抜」を抜けた。
「うそ……だろ?」
上昇――加速を付けた練神が、突破した「不知抜」を睥睨する高度まで上昇る。上昇するうちに、やはり速度が落ちる。それも早い落ち方だ……速度計の針を、遥は不機嫌気味に見詰めた。
練神……スカスカだな。
パワーが足りない。それも圧倒的に、発動機出力が小さい故だ。だから適度な高度で降下加速し、上昇する――こいつで「戦う」にはそれを繰り返し、位置エネルギーを十分に活用する必要がある。
操舵は軽い。あまりに軽い。むしろ爾麒のそれと比べて手応えが無さ過ぎて、遥は操縦を交替した瞬間に困惑した。機体の軽さは、恐らくは発動機出力の低さを補うための、設計上の工夫なのかもしれない。「ミツルギ戦記」の設定集にも、神和軍の機導神にそのような記述があった様に記憶している。機体が軽いから気流の影響を受け易い。飛行時の姿勢維持が難しくなる……その点、実機の「難解さ」が遥には十分に想像できた。飛行機というより凧の様な機導神だ。
「少佐、操縦……交替って頂けますか?」遥は、呼び掛けてみた。
『――おう、それにしても君……』条坊少佐の声が、呆れている様に聞こえた。
『――……筋がいいな』
「どうも」為せた悪戯に、ニンマリとする。
『――いいな。良すぎる。入校を拒否するのが勿体ないぞ』
「……」
『――君、ひょっとして搭乗ったことあるんじゃないのか?」
「……ありません!」態と声を上げて、否定をする。
『――本当か?」
「……」暴れて心証を悪くしようとしたのに――目論見が外れたことに、少し慌てる。
『――まあいい、その筋の良さに免じて、君にこれから素晴らしいものを見せよう』
「素晴らしい……もの?」
「待っていろ。操縦はそのまま」と条坊少佐は言った。
旋回待機を維持したまま、遥は周辺の景色に目を凝らす。停まっていれば高度が落ちる。爾麒の様な馬力の「余裕」が、この練神には無い。飛んでいれば自然と高度が上がる。ただし高度を上げたら上げたで吸気量の限界に突き当たる。つまりは過給機の無いエンジンは薄くなる空気を取り込めず、規定高度以上の上昇と高度維持ができなくなる……その練神でも、上層雲までは時間を掛ければ上昇れた。爾麒に比べれば余りにも長く、もどかしい時間であったが。
やがて――
中空に浮かぶように生成された丸い的を前に、遥もまた目を丸くした。それらは練神の前で無軌道な列を作って並び、さながら空に浮かんだ一群のアスレチックコースとなる。
『――射撃訓練用の仮設標的だ。練習生の間では「的中て」と呼ぶ者もいる』
「……」
『――左操縦桿、スロットルの根本だ。機銃安全装置の解除レバーがある。上に引いてみろ』
「機銃安全装置……解除よし!」解除と同時に、スクリーンの前方、丸い照準環が灯り、前方に浮かび上がった。固定式の機関銃であるように思われた。
『――確認した。あとは……わかるな?』
「まさか……」
唖然として、的の列を見遣る。つまりは仮設標的の列をなぞって飛びながらに、弾丸を当てろということになる。
『――ここまでが仮象訓練器で可能な限界だ。それ以上は飛行場、実機訓練にて行う』
「それ以上?」
『――対蕃神の格闘戦闘訓練だ。午後から君に実機を見せる。上級生に顔を憶えてもらうといい』
「……」仮象訓練器と実機との違いに、興味が生まれていた。
『――さあ撃ってみろ。何時でもいいぞ』
「……」
困惑し、浮かぶ的を見詰めた。
何時の間にか、誘導されている様に思える。
その一方で、この仮象訓練器を、「遊び倒して」みたいという欲求にも駆られる。
それはまた、年少さからくる「逸る心」の導く処であった。
正面から、それも近くで互いの目を見合わせた時、敬愛する軍神の面影と傍の少年の面影が不意に重なる――それに直面した時、条坊 好真は強いてその感触を否定した。
その否定は、仮象訓練器に入って三十分も経たぬうちに崩壊した。
君は誰だ?――今はただ、それのみが条坊から眼前の少年に向けられている。
同じくいまはただ、この少年があの朝霧家の係累である、ということしか条坊には判らない。
そう言われてみれば確かに、彼の風貌はあの冷厳な朝霧総監に雰囲気が似ている。
素性を探るな、とは数週間も前、彼の入校が決まってから、機導神科を統べる校長の厳命であった。
彼は少年に関し「何か」を知っている風であったが、信頼する教官たちにそれを口にしない辺り、余程に重大な素性なのだろう。
それを自分なりに突き詰めたくて、いまの条坊 好真は少年を志操している。
昼食――午前の学科より解放された生徒が群を成して生徒食堂へ移動する間の、僅かな時間であった。誰もいない廊下。荒蒔 沙都杷の制服姿がつかつかと磨き上げられた廊下を歩く。
業者による消毒清掃が入る予定であった。生徒はもとより教官もまた立ち入れない。荒蒔財閥の息が掛かった業者であったから、いち生徒である筈の彼女がすんなり侵入するのに造作も無かった。「そのため」の消毒清掃だ。
自分の部屋の前で、沙都杷は足を止めた。個室は機導神科の特典だが、一方で入学金を積めば本科の生徒でも個室を得ることができる。特に有力な華族や財閥に属する生徒は、身辺を守るという名目で個室を得る者が多い。帝國成立以前、神和連邦を形成する各地に置かれた諸藩国の士官学校、幼年学校からの名残であった。当然、統合が成った今となっては帝國の階層固定の象徴であるとして、批判的な意見も軍内外に多い。
ドアに挿さった表札に目が行く。所属期と氏名が明快に標されたのみの表札――周囲を見渡し、一人として人影がいないことを沙都杷は把握した。
表札の裏、巧妙に挟み込まれた封筒を手に、急いで部屋に入る。鍵を掛けるのは当然の成り行きであった。ペーパーナイフで封筒を切り開き、封されていた電報を、沙都杷は一読し、凝視した――三桁数字が脈絡なく、無数に並ぶだけの文面。
それからは引き出しから出した聖書のページを捲り、数字の指示すページ毎に、標を刻んだ仮名を一心不乱に数字の上に書き込んでいく……少女からすればそれはもはや、入校してから幾度も繰り返した、手慣れた「作業」であった。
『シキユウデン アサギリ ヨシノ ノ ムスコ カシユウ ハルカ ニ セツキンセヨ』
「……」
一読で、やや吊り上がり気味の、しかし形のいい瞳が見開く。
そして凝視の次には、溜息が同じく形のいい口から漏れた。