騒動の翌日
「おいラナ!! 猫だ!」
早朝、水分補給の為かシャワーを浴びてきたらしいラナを捕まえ、俺が最初にしゃべった言葉がそれだった。カエル娘は最初きょとんとした表情を浮かべていたが、次第に哀れみの色を濃くしていく。
「まだそんな妄想を抱いているのですか? 猫が恩返しに来るなんて事、ありえるわけないでしょう?」
「お前が言うのかそれを!? いやそうじゃなくて、あの時の子猫がいるだろ?」
「まあ、誰かに拾われたりしていなければ、まだ同じ場所にいるでしょうね。それがどうかしたのですか?」
「美咲があの猫を気にしているのは明らかだろ? だからお前が美咲の為に、あの猫の飼い主を探してやればいい。そうすればあいつのお前に対する心のしこりは、ある程度取れるんじゃないか?」
そう、俺が昨日布団の中で思いついたのがこれ。
しかしラナはこの計画にまったく感銘を受けた様子はなかった。
「よりにもよって面倒な事を考えつきましたね、樹さん」
「俺が一晩考えて出したアイディアに対してそれはねえだろ!?」
「これが戦略シミュレーションなら、そんな事を進言してくる配下は僻地に飛ばしてやるところですよ。そして死ぬまで内政に従事させます」
「今日も朝から口が悪いな!? だがお前にだって、あの猫に対する義理はあるはずだぜ?そもそもあの猫があそこにいなかったら、お前だって今ここにはいないだろ?」
俺は指を突き付け、言ってやる。
そう、あの日、あの場所であの猫が哀れを誘う声で鳴いていなければ。
美咲がその声に応えて俺に訴えかけなければ。
俺はきっとあのダンボールの前を素通りしていただろう。たとえ、その時多少の後ろめたさを感じても。次の日になったらそんな事はあっさりと忘却し、いつもと変わらぬ日常を送っていたことだろう。
言うなれば、美咲の優しさが俺とラナを引き合わせたのだ。
俺の指摘に痛いところを突かれたか、ラナも困惑に眉根を寄せる。
「ふむ……確かに樹さんの言う事にも一理ありますね。それに美咲さんに対するアプローチとしても、そんなに悪くないかもしれません」
「だろう?」
「ではセッティングをお願いします、樹さん」
「少しは自分で動こうとしろよ!? 怠惰すぎねえかお前は!?」
「我々の種族は基本的に動かない生物なのですよ」
相変わらずの態度だ。
くそっ、昨日動くネコ耳に心を惑わされてたのが遠い日のように思えるぜ……。
あ、あれ? こいつってカエルなんだよな? じゃあなんであのネコ耳は生き物みたいに動いてたんだ?
「なあ、一つだけ聞いていいか?」
「なんでしょうか。恋愛遍歴なら心配する必要はありませんよ樹さん。貴方が私の初めてで最後です」
「誰もんな事に興味ねーよ! ネコ耳のことだ。何であんなに動いてたんだ? あれも擬態ってやつの一種か?」
「ふふ、遅れてますね。樹さん」
「へ?」
間の抜けた答えを返す俺にラナは続けた。
「最近のネコ耳は脳波で動く仕組みになっているのですよ」
「なんだそりゃ!? 一体どうなってんだよ俺達の世界!?」
ほんとに無駄すぎねーかその技術!? いや、凄い事だとは思うけどさ……。
「しかしネコ耳に興味津々とは、やはりそういったプレイがお好きなのですか。あの格好をしてきた事は大正解だったようですね」
「違うわっ!! ええい、とりあえず俺は茉莉花姉達と話してくるからな! お前もちゃんとあの二人に対する態度を考えておいてくれよ?」
「ええ、分かりました。では後ほど改めてお会いしましょう。準備が済んだら呼んでください」
「頼むぜ本当に。じゃあちょっと行ってくる。座敷でやるつもりだから、呼んだら入って来てくれ」
俺は足取りも重く、その場を後にした。はっきり言って結構な重労働になりそうだ。とはいえやると決めた事だし、しっかりしないとな。茉莉花姉の寝室へと足を向ける。まだうなされてなけりゃあいいんだが……。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
二人の説得は予想通り難航した。あんな話し合いがあった昨日の今日だ、無理も無い。
だが俺はかなり頑張った。どれくらい頑張ったかというと、ガキの頃両親にゲーム機を買ってもらう時、必死でなぜ必要なのかをノートにまとめ、レポート形式で上げた時以来だ。
もっとも、結局その時は買ってもらえず、小遣いを貯めて自腹で買う事になったのだが。しかし昔の経験があったからか、今回は上手くいった。
そして今、美咲と茉莉花姉は俺と同じ空間に腰を下ろしている。とはいえ、決して二人に完全に納得してもらえたわけではない。
美咲は不満そうに座布団の端をいじっているし、いつもならそんな美咲をたしなめるであろう茉莉花姉も怯えた表情を浮かべ、落ち着かないのか冷たい麦茶が入ったコップを何度も口に運んでいる。ちなみに今回お茶の準備をしたのは俺だ。
……何だかセッティングをした俺が悪者のような気がしてきたんだが、別に間違ったことはしてないよな? ラナだってこの二人に謝りたいと思っているはずだし。
やがて板張りの上を踏む規則正しい音が聞こえてきた。もちろん足音の主は一人しかいない。
美咲は口をへの字にして、茉莉花姉は顔を恐怖で引きつらせ、同じ場所を見据えた。やがてラナが入ってくるであろう場所に。俺も上半身を捻り、そちらの方へ振り返った。
やがてふすまがすうっと開かれていく。
ラナは敷居をまたぎながら口を開いた。
「そろそろ頭も冷えましたか? 御二人とも」
「なんで最初にでてくる言葉がそれなんだよ!? 喧嘩を売ってるようにしか取られねーだろうが!!」
ラナが謝りたがっているからと必死に二人を説得し、ようやく集まってもらった俺の努力を一撃で粉みじんにしやがったなコイツは!!
先刻のとんでも発言をしつつ座敷に入ってきたラナは後ろ手にふすまを閉め、俺の隣にちょこんと座った。
対面の茉莉花姉と美咲が冷ややかな視線で俺を睨んでくる。二人の目は俺にこう告げていた。
裏切り者、と。
いや、誤解なんだ。俺は決して騙した訳ではないんだ。
俺は緊張でからからになった口内を麦茶で潤し、朝から考えておいた台本の通りに喋り出した。
もっともコイツのせいで一部修正を余儀なくされたが。
「お、おほん。と、とにかくだな……ラナも口ではこう言ってるが、内心ではちゃんと反省してるんだよ」
たぶん。
きっと。
おそらくは。
さすがに脳裏に浮かんだこれらの副詞を口に出すのは躊躇われた。
だがそんな事をわざわざ言うまでもなく、二人は疑念の眼差しで俺とラナを見るだけだ。正直、俺までがそんな目で見られるのはショックなんだが……。
「御二人とも、樹さんが言っている事は本当なんです。信じてあげてください。この私に免じて」
「頼むからもうお前は黙ってろよ!! 俺を憤死させる気か!?」
涙声で怒鳴る俺。
本当、なんで俺はこんな奴の為に体張ってるんだ?
自分の行動に激しく自問しながら、俺は二人を体の正面に捉え、昨日考えついた作戦を切り出した。
まずは美咲からだ。俺が思いついた作戦、上手くいけばいいんだが。茉莉花姉に対する説得方法はまだ思いついていない。ラナに対する本能的な恐怖は俺にはどうしようもないから、ラナと過ごす事で少しづつ慣れていってもらうしかないだろう。
「えっとな、美咲。お前、あの猫の事が気にならないか? ……この外道娘の事じゃないぞ。あのみかん箱の中にいるだろう本物の子猫の事だ」
やはり心にひっかかっていたのか、不機嫌一色に染まっていた美咲の顔に別の色が浮かんだ。
「むー……そりゃ気になるけど……」
「だよな? 恩返しに来たと思ってた可愛い子猫が実は偽者で、本物はまだダンボールの中にいるかもしれないわけだしな」
「何だかさっきから気になる言い方をしますね、樹さん」
左手から何やら声が上がるが無視して続ける。
「そこでだ。このラナが協力するから、あの猫の飼い主を探してやらないか? お前もあの猫をあのまま放置しておくのは気が咎めるだろう? もちろん俺も手を貸す」
一瞬美咲は嬉しそうに顔を綻ばせたものの、すぐに疑いの目つきに変わってしまう。俺とラナを交互に見つめる事数秒。ようやく美咲は小さな唇を開いた。
「……ホント?」
「ああホントホント。ラナだって、あの猫の事を凄く気にしてるんだぜ。コイツはこんな性格だから面に出さないだけでな」
「別に私はどうでもいいんですが、樹さんがやれと言うので仕方なく。私は貞淑な妻を目指しているので」
「いっぺん貞淑って単語を辞書で調べてこいよ!! お前はどう考えても対極の位置にいるだろーが!? ……っていかんいかん。美咲、コイツはこんな感じで口が悪いんだが、内面はそんなに極悪人って訳じゃない……たぶん……きっと……おそらくは」
「何でそこで言い切ってくれませんかね、樹さん」
「お前のせいだろ!? ……とにかく美咲。コイツもお前と仲直りしたがってる。それだけは分かってやってくれないか?」
改めて美咲の目を見据え、何とか言いたい事を全て言い終える事が出来た。全く、ラナのせいでえらいこじれちまったぜ。もっとも、受け入れてくれるかどうかは美咲次第だけどな……。
「あと茉莉花姉も。コイツが仲良くしたいと思ってる面子の中に、茉莉花姉も入ってるんだよ。生理的に受け付けないのは理解できるし、それを心に留めておいてくれてりゃ今はそれでいいさ」
「……」
茉莉花姉はちらとラナに視線を投げるが、ラナがそれを笑顔で見返すと慌てて顔を逸らす。正直、こっちの方が美咲よりハードルが高いかもしれない。
……あとラナ、いい加減そのニヤリという擬音が似合うような笑い方はやめろ。俺ですら怖いわ。
じっと沈黙していた美咲がついに口を開いた。
「……分かったよ、おにーちゃん。ラナちゃんが本気であの子猫を助けるのに協力してくれるなら……ラナちゃんの事、もう怒らないよ……ちゃんと上手くいったらだけど……」
「そうか……ありがとな、美咲」
謝罪をするのも、謝罪を受け入れるのも、同じくらい勇気がいる。
美咲が、まだ思うところはあるにせよ、ラナの気持ちを受け入れようとしてくれているのが、兄として純粋に嬉しかった。
「美しい兄妹愛ですね。私も早く美咲さんの姉としてその中に加わりたいです」
「っていうかお前もちゃんと自分の口から謝れよぉぉぉぉぉぉぉっ!!」
ついにぶちきれた俺の絶叫が古びた日本家屋を揺らした。