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ミュウにとりついた生物、それは

 目を開けた俺の正面に、短い黒髪の少女の顔がドアップで飛び込んできた。


「うぉ!?」


 俺は寝たまま仰け反り、枕に後頭部を深くうずめてしまう。

 反射的に伸ばした両腕でそいつの体を押し止める。

 俺の上に覆いかぶさり、顔を間近まで接近させていた少女は停止を余儀なくされ、何やら不服そうに舌打ちした。


「お、お、お前なにしてやがる!?」

「いえ、あまりに可愛い寝顔だったのでつい」


 悪びれなく答える少女――居候のラナ。


「ついじゃねえよ! さっさと離れろ!」

「仕方ありませんね……というかいつまでも寝ている樹さんが悪いのですよ」


 しぶしぶといった風情で体を俺の上からどかせるラナ。

 慌てて頭を浮かし、周りを見ると、確かに俺以外の布団はすでに片付けられていた。夜中の三時から起きっぱなしであろう二人はともかく、茉莉花姉もすでに起きているとあっては少々きまりが悪い。


 俺は謝罪ともつかないような言葉を口の中でもごもご言いながら立ち上がった。


「あ、おはようおにーちゃん」


 ミュウをトイレに連れていっていたのか、手足の生えた黒い毛玉を抱えた美咲が廊下から姿を見せた。


「おう。その様子だとミュウは大丈夫みたいだな」

「うん! 昨日よりも元気そうだし、もうすぐしたら治っちゃうかも!」

「ははっ! 良かったな」

「えへへ」


 ミュウをダンボールの中に戻し、頭をなでてやる美咲。


「さて、では朝ご飯にしましょうか。皆、樹さんを待っていたのですよ」

「うっ、わ、悪かったよ。でもそれなら起こしてくれてもよかったんだぜ?」

「だから私が先ほど起こそうとしてたじゃないですか……カエル式のやり方で」

「ナチュラルに嘘を付くな! ちゃんとしたやり方で起こせ!」


 俺とラナはやくたいもないやり取りをしながら板の間へと向かった。美咲がその後に続く。


 食卓についた俺達を茉莉花姉作の朝食が出迎えた。


 今朝はベーコンエッグにマカロニサラダ、あとこれはトマトスープかな? 細切れのベーコンと共に数種類の野菜が入っててとても美味しそうだ。もちろんサラダも出来合いのものではなく、茉莉花姉の手作りだ。どうやらあの日にラナから受けた衝撃から立ち直りつつあるらしい。育ち盛りの俺達にとって大変喜ばしいことだ。


 ちなみに茉莉花姉の手料理のおかげか、美咲に好き嫌いは無い。俺だってブロッコリー以外は大好きなのだ。


「いただきます」


 皆で声と手を合わせる。

 なお、ミュウの朝食は俺が夢の中にいた間に食べさせたそうだ。布団の近くでそんな事が行われてたのにぐっすり寝入っていた俺ってひょっとして大物?


「ねえラナちゃん。ミュウどうかな? もう悪くならない?」

「そうですね……油断はしてはいけませんが、そこまでびくびくする必要もないといったところでしょうね」

「うん、わかった! じゃあ、続けてミュウの面倒はあたしがしっかり見るね!」

「もちろん私もお手伝いしますよ、美咲さん」

「ありがとう、ラナちゃん!」


 茉莉花姉は皿に箸を伸ばしながら二人のやりとりを黙って聞いている。でも、やはりどことなく嬉しそうだ。その気持ちは俺も同じだけどな。

 美咲、お前がしっかりミュウの面倒を見てやれば、ひょっとすると飼ってもいいって言ってくれるかもしれないぜ。頑張れよ。

 たっぷり油ののったベーコンを咀嚼しながら、俺は美咲を心の声で応援した。



      ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇



 あれから数日。

 先生からもらった薬と、おそらく美咲達の看護のおかげだろう。ミュウはさしたる異常もなく、元気に毎日を送っているように見えた。

 外は相も変わらずぎらぎらと日光が照りつけ、俺は家のクーラーに感謝しながらお茶の間でのんびりとテレビを見ていた。ラナも俺にならい、ちゃぶ台に頬杖を突きながらせんべい片手に再放送のドラマを観賞している。


 ラナ、せんべいちゃんと残しておいてくれよ?

 そんな穏やかな昼下がり、座敷側のふすまが激しい勢いで開かれた。そこに立っていたのは美咲。猫を連れて帰ってきた日と同じような青い顔をしている。


 なんだ? まさかミュウに何かあったのか?

 美咲はラナのそばに駆け寄った。


「ねえラナちゃん……ミュウの様子がおかしいよ……なんだか体中をいっぱいかきむしったり噛んだりしてるの……」

「む……それは……ちょっと見せてもらっていいでしょうか?」

「うん……お願い、ラナちゃん!」


 ラナは立ち上がり、隣室に向かう。俺も慌てて後についていった。

 最近はベッドの上から降りて我が家を探検する事が多いミュウは、床板の上で美咲の言った通りに体をかきむしっている。見ているこっちが痒くなってきそうだ。


 ……うん? かきむしる? 痒い?


 美咲を制してミュウに一人近づいたラナは、そっと子猫を抱きかかえ、ミュウが爪を立てていた場所に手を添える。


 そして何やら体毛の数をかぞえているかのように、注意深く指を移動していく。そうしていたかと思うと突然ラナの手が空中を薙いだ。


「ノミがいるようですね。とりあえず一匹確保」

「や、やっぱりか!?」

「ノ、ノミ!?」


 俺と美咲が一歩後ずさる。

 美咲もノミという生物が存在することは知識として知っていたようだが、実際に相対する事になるとは思っていなかったのだろう。ミュウを異世界の住人を見るような目で見つめている。今、ミュウを抱いてるやつのほうが、よっぽど異世界の住人なんだけどな。

 俺達の反応が面白かったのかラナがにやりと笑う。


「ふふふ……怖いのですか? 樹さん、美咲さん」

「ち、違う……」


 俺は否定の声をあげたが、内心かなりびびっていただろう。そんな情けない兄貴とは違い、美咲はムッとしたらしく、畳を踏みつけるように前に出た。


 おお、えらいぞ美咲! 負けるな! ここで負けたらミュウを飼う事が出来ないぞ!


 俺の心中のエールが届いたか、美咲は声高々と宣戦布告する。


「こ、怖くなんかないもん! ミュウの為なら平気だもん! ノミなんて!」


 ずしゃあああっ!

 突然降ってわいた妙な音に、俺達三人が揃ってそっちを振り向いた。

 板の間へと通じる廊下の上で、茉莉花姉が腰を抜かしたかのようにへたり込んでいた。どうやら、先ほどの音は彼女が尻餅をついた音だったらしい。


 そしてラナを、いや、ラナの手に抱えられている子猫、そしてラナが空中に突き出している手の間で何度も視線を往復させる。


 その瞳は先ほどの美咲とは比にならない恐怖をたたえていた。

 あの時美咲が異世界の住人を見る目だったのなら、茉莉花姉のそれは異世界の化け物を見る目と言っていいだろう。


「ノ、ノミ……?」


 茉莉花姉がかすれた声で問いかける。誰に問いかけたというわけではなく、自然と漏れたものだろう。


 あー……爬虫類や両性類が苦手で、ノミみたいな寄生虫ならOK! なんて人いるわけねーよな、そういや。

 ラナはそんな茉莉花姉に対し、悪魔的な笑みを浮かべた。


「ええ、ここにいますよぉ……?」

「い、いやああああああああああああ!!」


 ラナが手を差し出したのを見た瞬間、耳をつんざくような声を出し、茉莉花姉は駆け出した。幸い、腰が抜けていたわけではないようだ。


 以前籠もっていたあの部屋に向かっているのか、上への階段をどたどたと上っていく足音が聞こえる。


 ていうかラナ、お前分かっててやってるだろ……。

 まずいな、ミュウを飼う件が振り出しに……下手すりゃマイナスの地点まで戻っちまったかもしれねえ。

 俺はそっとため息をついた。


「やれやれ、また料理の品目が減りそうですね」

「お前の心配事はそっちかよ!?」


 もっと他に心配すべき事があるだろ!?


 自覚があるのかないのか、ラナはすまし顔で続けた。


「とりあえず今出来る限りのノミ駆除を行いましょう。放置していると他の病気にかかる可能性もありますし、茉莉花さんも部屋から出てこれないままでしょうからね。幸い、念のために私が先日買ってきたクシがあります。それでブラッシングを行います。他にも準備がありますので、少々お待ちください」

「う、うん……」


 床の間にミュウを置いてラナは立ち去ってしまう。

 己の体を再びかきむしった後、不思議そうにこちらを見つめてくるミュウに、俺はいったいどんな顔を向けりゃいいんだろうな。


 美咲も戸惑っているのか、いつものようにその手に抱こうとはしない。ミュウの側まで行ったものの、腕を中途半端に伸ばしたまま固まっている。


 俺に言わせると、そこまで近づいただけでも立派だが。

 情けなくも美咲の後ろに隠れている俺はそう思った。


 だけどやがて意を決したのか、恐る恐る手を伸ばした。もうすっかり美咲になついているミュウは撫でてもらえると思ったか、目を閉じる。

 その安心しきったかのような表情が美咲を後押ししたのか、ついにその小さな手のひらが子猫の元に届いた。


「ミュウだってつらいんだもんね……」


 優しく、あごの辺りを愛撫する美咲。ミュウは気持ち良さそうだ。


「そうだよね、あたしがミュウを助けてあげないと……」


 こくんと小さく頷く美咲。俺からは見えないが、その瞳に決意の光を宿らせているに違いない。


「待っててね。ノミなんて、ぜんぶやっつけてあげるから!」


 撫でていただけの右手に加え、空いていた左手も使ってミュウを抱き上げる美咲。もう、その背中には怯えの気配はなかった。


 すごいな美咲……俺、正直まだびびってるんだが……。

 茉莉花姉、あんたにも見せてやりたかったよ。この美咲の姿をさ。


 俺は二階で震えているであろう茉莉花姉に、心の中で呼びかけた。


「お待たせしました……どうやら、心配は杞憂に終わったようですね。大したものです、美咲さん」


 後ろからかけられた声。

 振り向いた先には片手にクシを、もう片方には液体の入った器を持ったラナがいた。両手が塞がっていなかったら、コイツはついでに拍手をしていたかもしれない。


「ああ、美咲はしっかりやってくれるようだぜ。それがさっき言っていた準備するものってやつか?」

「ええ、クシでノミをひっかけて、この洗剤液の中に入れて退治します。シャンプーや薬品を使うという手もあるのですが……この子はまだ体調が万全ではありませんからね。原始的な方法でやりましょう」


 ラナは畳の上に腰を下ろす。

 ミュウを抱えた美咲もそれに倣って正座した。


「ではさっそく開始しましょう。私がまずはやってみせます」

「うん。よろしくねラナちゃん」


 さっそくミュウのノミ退治を開始した少女二人。

 雛に狩りを教える親鳥のように、ラナは美咲の前で丁寧にクシを動かしていき、ときおりひっかかったノミを洗剤につけて始末する。


「こんな感じです。では、美咲さん。お願いします。ノミをつぶさないように気をつけてください」

「う、うん、分かった……ミュウ、ちょっとだけ我慢しててね。すぐに綺麗にしてあげるから」


 ラナからクシを受け取り、恐々とミュウの体毛を梳いていく。

 美咲の眼差しは真剣だ。

 そこにいるはずの、吸血生物を一匹も見逃すまいと。


「そうそう、そんな感じです。なかなか上手ですよ、美咲さん」

「ホント? えへへ、嬉しいな」


 笑顔で語りかけるラナにはにかむ美咲。

 ラナの言葉は御世辞ではないのか、さっきまでしきりに体表をかきむしっていたミュウも、何やら気持ちよさそうにじっとしている。とても微笑ましい光景だ。


 それはいいのだが、俺が手持ち無沙汰になってしまった。


「取り込み中のところ悪いんだが、俺に何かできることはないか?」

「ありません」


 おい!

 ストレートすぎるだろ!


「というのは冗談ですが、そうですね。樹さんには後で掃除機をかけてもらいます。ノミは我々の体にも寄生しますからね。念入りにお願いします」

「お、おう……」


 やっぱりそうなのか。茉莉花姉が逃げ出したのも頷ける。


「あと可能なら畳も日干ししてください。御手数ですが」

「わかった。じゃあそれは引き受ける。後は任せていいんだな? ラナ、美咲」

「うん。ミュウを守ってあげるのは元々あたしの仕事だもん」

「そういう事です。樹さんは茉莉花さんを引きずり出す方法でも考えていてください」

「そっちの方が難易度高そうだな……」


 ノミを全部駆除するまで出てこねえだろうなあ。

 俺は天井を見上げ、多難な前途に呻いた。



      ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇



「そろそろかくれんぼの時間は終わりにし」

「それはもういいっつーの……」


 数日前に行われていた行為をそのままなぞろうとしたラナを、俺は疲労を漂わせながら制止した。


 時刻はあの時と同じ夕方。隣に美咲がいなけりゃ、それこそあの日にタイムスリップをしたかと思うような既視感を覚えるところだ。無事にノミの駆除も終わり、掃除機がけと座敷の全ての畳を干すのに数時間。陽が暮れるのもむべなるかな、というやつだ。


 そして時計の長針が軽く六週以上はしたというのに、いまだに茉莉花姉は隠れ里から出てこない。いつもは頼りになる姉なのだが、時々こういう事になるから困る。過去で言うなら、台所に黒い悪魔が出た時などだ。


 そういったわけで俺達は茉莉花姉に出てきてもらう為に二階へと上がってきた。二人を従えたまま、以前茉莉花姉と美咲が閉じこもった部屋の扉をノックする。

 二階の他の部屋にはいなかった。やっぱり今回もここらしい。


「茉莉花姉……出てきてくれ」


 中からごそごそという音はしたものの、返事はない。

 どうしたもんかと思った俺の横に、美咲が並んだ。


「おねーちゃん……もうノミは全部退治したよ」


 妹の言葉にも、姉はまだ何も返さない。


「ラナちゃんが手伝ってくれたの。二人で一緒にミュウの身体を綺麗にしてあげたんだ。それにね、おにーちゃんも畳をぜんぶはがして外に干してたんだよ。すごかった」


 こうも直球で褒められるとなんか照れくさい。ラナもなにやらあさっての方向を向いている。頬が赤いのも、夕映えのせいだけではないだろう。


「……本当?」


 中から、かぼそい声が聞こえてきた。なんだか姉と妹が入れ替わったみたいで俺は苦笑する。


「ああ、本当だ。俺が保証する。美咲もラナも、大したもんだったよ。だから茉莉花姉、出てきてくれ。もう、ノミは一匹もいないからさ」

「その通りです、茉莉花さん。早く出てきて夕餉の用意をお願いします」

「お前はもうちょっと変化球を使えよ!?」


 ドアの前で口論が始まりそうになったその時、ガチャリとノブが回り、中から不安げな表情をした茉莉花姉が姿を見せた。

 何だか日本神話の一節を思いだすなあ。ずいぶんとスケールは小さいが。


「ほ、本当にもういない?」


 ここは二階だというのに、辺りに視線をさまよわせている茉莉花姉。まだ、外に踏み出す決心がつかないようだ。

 やれやれ、この人もこれだけは欠点だなあ。


「ああ。大丈夫だ。だから、安心してくれ。茉莉花姉」

「……うん……」

 俺の言葉に背中を押され、茉莉花姉はようやく出てきてくれた。

 ああ、これで藤枝家の食卓にも明るい光が降り注ぐであろう。



 部屋から出てきた茉莉花姉は台所に立つと、先ほどまでの様子が嘘のようにきびきびと動いた。

 残念ながら本日の食材は買ってなかったので、前からある物で作る事を余儀なくされたのだが、そこは料理暦十数年の茉莉花姉。

 朝食と同じ材料を使いながらも、それを感じさせない品が食卓に並ぶ。余っていた卵を使ってプレーンオムレツも作ってくれたのだが、これが俺の作ったツナのオムレツよりも美味いのだ。


 くそっ、これが年季の差って奴か。

 などと茉莉花姉が聞いたら激怒しそうな事を考えながら、楽しい夕食の時間は過ぎていった。


 今はテーブルの上で食後のお茶を楽しんでいるところだ。

 談笑しているラナ、美咲、茉莉花姉。

 もう、茉莉花姉もラナに対してそこまでの苦手意識を持っていないように思えた。


「そうそう、茉莉花さんはB級ホラーとか見たりしますか?」

「え? そうね、たまには見るわよ。テレビでやってる時なんかは」


 ラナの突然の質問に、茉莉花姉はにこやかに答える。

 なんだ? 自分の存在がB級ホラーだとでもいいたいのか?


「不穏な事を考えてませんか樹さん」

「べべっべべつに考えてねえぞ!?」


 激しくどもってしまった。

 これでは俺が考えていたことがばればれだ。

 ラナは舌打ちしたものの、それが言いたかった訳ではないのか、先ほどの話の続きをし始めた。よくは分からないが、茉莉花姉がターゲットなのは間違いないらしい。


「それで、ですね。よくあるじゃないですか。敵を全滅させてめでたしめでたしってところで別のシーンに切り替わり、そこでカメラに向かって生き残っていた最後の一匹がキシャーッと咆哮するっていう展開」

「え、ええ……」


 にこにこと話すラナとは対照的に、何やら不安げな表情を浮かべ始める茉莉花姉。

 何だ? 話が見えない。美咲もきょとんとしている。


 そして、いよいよラナの口が吊りあがった。


「樹さんが掃除機で吸い込んだノミ達はですね、まだフィルターの中で元気に蠢いてますよ」

「なんつう事を言うんだお前はああああああああ!?」

「い、いやああああああああああっ!!」


 重なる俺と茉莉花姉の絶叫。

 気の毒な我が家の太陽神は、再びあの岩屋戸へと駆け出していった。



 その日の夜に俺は掃除機のフィルターをさっさと交換し、機械の内部を念入りに掃除した。



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