後編
14.
薬をこっそり飲まなくなって、五日ほどが経った。
昼ご飯を食べ終わった後の、午後二時。細く開けられた窓から入る風が、白いカーテンを揺らす。私は自分の病室のベッドに座って、文庫本を開いていた。
「…………」
文字を目で追う。けれど、内容が頭に入ってこない。
「ああ……」
私は小さく呻いた。
数日前から、妙な、そして経験したことのないほど強い焦燥感が、心を支配していた。飲んで体が馴染み始めていた薬を急に止めた離脱症状だろうか。こうしていてはいけないような。何もかもが悪くなっていくような。そんな気がしてじっとしているのが辛いのだが、何をすればいいか分からない。日が暮れてからは若干気持ちは落ち着くのだが、この昼の時間は、どうにも駄目だった。
どうしたらいいのだろう。どうしてこんな場所にいるのだろう。私はどうしてしまったのだろう。何にも集中できないのに、何かをしなければならないようで、心が破裂しそうだった。
「辛そうだね」
ふいに、隣のベッドの患者が声をかけてきた。
「ええ……ちょっと。すいません、外から見えるくらい鬱々としちゃって」
「謝らないでいいよう。大変だよね」
「……どうも」
小さく頭を下げる。こういうちょっとした優しさにも、どう振る舞えばいいかも私にはよく分からない。 窓から豊富に降り注ぐ日光が不安を増すように感じられて、布団を体に巻きつけた。いっそベッドの下にでも潜り込みたいほどだったが、ギリギリの理性でそれを抑える。
そして、光を受け止める白い床に、フコーがいる。
「やっぱどうしようもないなお前」
床に胡坐をかいたフコーが毒づく。
「何で普通の事ができないのかね。『どうも』? なんだそりゃ。ありがとうございますの一言と笑顔でも見せろよ。それぐらい分かってんだろ。分かってんのにやろうとしないんだから救えねーな」
(……そんな言い方、しなくたって)
薬を止めてから、思った通りフコーは日ごとに活発になった。けれど、思った以上に活発になりすぎた。
「どんな言い方したって一緒だろ。どうせお前は改善するつもりなんかないんだ」
以前のように、私に助言をしてくれるフコーでいたのは、一日程度だった。その日を過ぎると、ギラギラとした視線で、私をとにかく責めるようになった。
四六時中、フコーの声が頭の中に響く。耳元で、部屋の隅で、目の前で、私をなじる。私の精一杯の反論も意味をなさない。
「ここでのうのうと何をしてるんだ? ここにいるだけで入院費がかかってるんだぞ」
(……知ってるよ)
「治療もまともに受けない。人に心を開こうともしない。学校を休んでる分の勉強もしない。ただどうでもいいような本を読んでるだけで。お前、何でここにいるんだ?」
(分かってるって!)
布団に顔をうずめ、心の中で叫んだ。
何で、こんなことになってしまったのだろうか。どこからずれてしまったのだろうか。何が狂ってしまったのだろうか。
面会に来る両親の前では、できる限り普通に振る舞っているつもりでいた。しかしそれでも、どこかおかしいことが伝わってしまったのだろう。父にも母にも、大丈夫か、と何度も聞かれた。
娯楽室にあるカラオケを使っているらしい、誰かの下手な歌が聞こえてくる。耳障りだった。
「他の患者が気遣って声をかけてくれても、お前からは近づいていこうとしない。だから、ああいう遊びにも誘われない。他の奴らに好印象を持ってもらいたがりながら、あいつらをみんな頭のおかしい奴らと蔑んで一線をひこうと思ってる」
(……主治医も、看護師さんも、他の患者さんと仲良くなり過ぎない方がいいって言ってたもの)
「それが見下す理由か、大したもんだな。母親が他の患者を差別的に見てるのにイラだった癖に、自分はどうなんだ」
(…………)
フコーが私を責める勢いは、日に日に強くなっていた。言葉の一つ一つが、私の心をえぐる。
私にはフコーが必要だと思って、薬を飲むのを止めた。フコーが私の一部なのだから、私がしっかりしていればフコーはおかしくならないと思っていた。けれど、もう。
「お前みたいに人生に適応できない奴は誰にとってもお荷物だ。死んじまえよ。楽になるだろ。そうしたいんだろ」
その言葉に、私は決断を下さなければならないと思った。
午後九時を過ぎ、病室の明かりが消された。暗くなった部屋で、私はベッドの上に体を起こしていた。昼間よりは気持ちが落ち着いている。薬は、今日も飲んでいなかった。
「ふたえちゃん、おやすみ」
隣の患者が、ベッドの間を仕切るカーテンを閉めた。
「おやすみなさい」
私も、できる限りの好意を込めて挨拶を返す。
「挨拶一つでいちいち気張りやがって、人慣れしてねえのが見え見えだな」
床頭台の上に座ったフコーが、私に吐き捨てた。
(……そうだね。いちいち緊張してたら、気持ち悪がられるよね)
「しかもここをちょっと居心地いいとか思い始めてんだろ。みんな遠慮しあってるから学校みてーに他人との関係で疲れねえし。たまにいきなり叫び出す奴はいても、医者が処置するし。親は腫れ物に触るみてーに優しくしてくれるし。メシは出るし何をさせられるわけでもないし」
(うん。楽しい場所じゃないけど、辛くない場所だと思ってる)
私は内心で頷く。
「あーあ。どうすんだお前。一生ここで過ごそうとでも思ってんのか? できるわけねーよなあ」
(…………)
「だからって普通の生活に戻る勇気もないしな」
(…………)
「やっぱ死ねよ。さっさとマトモになった振りしてここ出てさっくり死ねよ」
(……ねえ、フコー)
私はフコーから目を逸らして、心で話しかける。
「今まで生きてたっていいことなかったろ。人生で一番気楽で幸せな時期が惨たらしかったお前にこの先何があると思ってんだ? もう諦めろよ」
フコーは私の言葉を聞かずにまくしたてる。心が痛くなることばかりを、消えてしまいたくなるようなことばかりを言われる。それでも構わない。
(フコーはさ。きっと本当に、私のために現れたんだと思う。私の心の、ずっと重さがかかってて、押し潰されて壊れそうになってた部分から出てきたんだと思う)
「お前さあ、実はちょっと、ここに入れられたことを嬉しく思ってんだろ? 自分が、他の大勢の、今までお前を馬鹿にしてきた平凡な奴らとは違うって証明された気になって」
(九島さんと喧嘩しちゃった時が、私はギリギリだったんだろうね。ギリギリ、アウトだった。だからフコーが生まれた。フコーが、私を助けるために出てきたってのは、正しかったんだ。数日だったけど、フコーは足りないところだらけの私を補ってくれた)
「逆だからな? お前の頭のデキが、ああだこうだとレッテルはられて分類されるような精神病に合致してるんだよ。お前は類型的なんだ。特別でも何でもない」
(でも、姫宮たちに責められた時に、フコーを生み出してた心の場所が、壊れてしまったのかな。だから、フコーも……いや、私が、おかしくなってしまった。私の一番おかしくなった所を、フコーが担当してくれただけで)
「感受性が鋭いとも勘違いしてるな。単にみんなと一緒が嫌なだけだろ。だから元々の感覚を捻じ曲げてでも、人が好まない方向を好きだと思いこもうとして。協調性がないだけだ」
(フコーは、私を助けてくれた。助けてくれ続けた)
「親のことも、尊敬しているとか言いながら、本当はネチネチ恨んでるだろ。小学校の頃学校でからかわれてたお前に何もしなかったとか。部活を辞めた理由を詳しく聞こうとしなかったとか。お前から助けを求めなかったのに、助けてもらえなかったことを本当は恨んでやがる。それを自覚したくないから、尊敬してるが付き合い方が分からない、なんて振りをして。まったくろくでもねえ」
(でも、私は、フコーのことも、間違って受け止めてた)
「こっちを見ろ。こっちを見ろ!」
フコーが叫んだ。私は、ゆっくりとフコーを見た。
「死ねよ。クズ。今すぐだ!」
フコーは私の目の前、数cmの距離にいた。右目の眼帯を外して、宙に浮かんでいる。ギラギラとした、魔物のような赤い瞳で私の目をのぞきこんでいた。私の視界はフコーの緑の肌と赤い瞳だけで覆い尽くされる。
怖かった。とても怖かった。フコーと呼んでいたこの存在が、私を食らい尽くすのではないかと恐怖を感じた。
フコーとのことを思い返す。九島さんを怒らせてしまって困っていた私の前に現れ、グズグズと迷う私を押しだしてくれたこと。テストで往生している時に、私の忘れきった勉強の記憶を掘り起こして教えてくれたこと。姫宮の視線に脅えていた時に、私の足を動かしてくれたこと。女の人が倒れている時に、応急処置をどうしたらいいのか教えてくれて命を救ったこと。私が九島さんを好きなのだと指摘したこと。
ここまでは楽しかった。フコーは私のために神様が使わしたのかも、なんてことまで考えた。けれどその後のことも、忘れたふりはできない。
九島さんが車に飛び込んだと聞いて動揺する私に、死んで責任を取れと言ったこと。四六時中、私を責め立てたこと。服薬を続けていたら、次第に姿が見えなくなっていったこと。私はそれが嫌で、薬を断ったこと。そして、今、ギラギラと光る目で私を飲みこもうとしていること。
フコーに責められるのは辛かった。けれど、憎むことはできなかった。
フコーは私だ。誰が何と言おうと、私の一部だ。漆口ふたえを構成する大事な部分だ。たとえ、それが他人から見れば病の症状だとしても。類型化されてレッテルを貼られカルテに書きこまれる、有り触れた反応だとしても。フコーは確かに存在する。
また薬を飲み始めれば、一週間も経てばフコーの姿は薄らぐだろう。私は責められることはなくなる。医師は私の治療が前進していると認める。両親もそんな私を見て安心する。みんなが喜ぶ世界になる。
でも。でも、しかし、けれども。その世界は、欠落している。フコーだった私の部分が、いないことにされている。
私が一週間後に死ぬとしたら、きっと身近な人には悲劇だと受け取ってもらえるだろう。けれど、一週間後にフコーが消えるのは、誰にも悲しんでもらえない。それはきっと、私にすら。薬で精神を強制的に安定させられた未来の私は、うじうじと悩まなくなっているだろう。フコーという、一時の支えであっても、やがて攻撃してくるようになった存在が消えて、せいせいしているだろう。誰にも悲しまれず、むしろ喜ばれる消失。そんな悲しいことが、他にこの世にあるだろうか? 死んだことにすらされない消失は、最も完全で残酷な死だ。そんなものが許されるのか? 私はそれを許すのか?
フコーとなら、生きていけると思った。駄目なところばかりの私でも、人並みになれると思った。それができなくなるというなら、私は、もう。
フコーの赤い瞳が、私の網膜を突き抜けて脳まで達する。意識が赤に浸食される。フコーのことしか考えられなくなる。
「死ね。シーツをねじって首を絞めろ」
シーツを手に取る。ひも状に伸ばす。
「いいぞ。そうだ。そのまま絞めろ」
それから、首に回すようにして。
「さよなら、フコー」
そして私は、
いくつか、思い出すことがあった。
小さい頃、私の誕生日。私の家では、誕生日の人に何が欲しいか直接聞いたりせず、贈る人が考えてプレゼントを送りあっていた。当日まで何がもらえるか分からないサプライズプレゼントだ。ケーキを前に、両親から渡される箱。しかしサプライズであるが故に、全く好みではない物が贈られ、がっかりすることもあった。
小学校の頃、プールの授業があった。私は背泳ぎができなかった。水の中で仰向けになることが怖くて仕方なかった。簡単そうに背泳ぎをする他の子供たちと私では、何が違うんだろうと思っていた。
また別の子供の頃、時々喧嘩をした。けれど何となく、次の日には仲直りしていた。いつからだろうか、喧嘩をしても簡単には仲直りできなくなったのは。互いの歯車がずれ始めたら、もう私には修復できる気がしなかった。人間関係だけでなく、あらゆる失敗が致命傷である気がして、失敗をひどく恐れるようになった。
私はシーツをよじって作った紐を首に巻き付けて。
目の前で、赤い瞳を光らせているフコーに呟く。
「さよなら……フコー」
そして私は。
首に巻きつけたシーツから、手を離す。
「……しないよ」
「あぁ?」
フコーが恫喝するように呻く。私は怯えを抑えて、もう一度心で言う。
(自殺は、しないんだ)
死んでしまえば楽になると思う。死ぬことを決めてしまうだけでも、楽になる。あの月曜日、フコーに言われて死ぬことを決めてからしばらくの間、悩みなんて何もなかった。苦しいはずのこともどうでもよかった。死のうと思っている最中は、心のヒューズが焼き切れたように、ひどく安らかな気持ちだった。
けれど、今の私は、色んなことを辛いと思ってる。自分の弱さが辛い。フコーの弾劾が辛い。親とのすれ違いが辛い。九島さんのことを思うのも辛い。医師に嘘をつくのも辛い。学校に戻るのも辛い。
でも、辛いことを辛いと感じるのは、そこから逃げないでいるからだ。逃げたいとは思う。けれど、まだ逃げようとしていない。苦しいと思うのはそのためだ。逃げずに立ち止まっているから苦しいんだ。私は、死に逃げようとはしていない。どうしてなのかは、分からないけれど。
(フコーは、間違ってる)
フコーは絶対的に正しくなんかない。完璧な導き手だなんていうのは、私の押し付けた認識だ。誤解だ。フコーは、私の忘れていることを引き出すことはできるかもしれない。でも、私の知らないことまでは知らない。フコーは神でもなんでもない。それに、私についてですら、今のフコーは完璧には理解していない、或いは無視していることがある。私が、生きたがっているということについて。
(フコー。私は幸せになりたい)
「だったら死ね。絞めるのを続けろ。それしかない」
フコーは軋むような声で言う。
(違うよ、フコー)
私は首を振る。
(死んだら、それ以上不幸じゃなくなるってだけ)
「お前が生きても惨めな目に遭い続けるだけだ。死んだ方が不幸にならない」
(そうかな。そうかもしれない。でも、フコーは予言者じゃない。その言葉は絶対じゃない)
私はフコーの言葉を否定する。
生きていく中には辛いことが沢山ある。不安と恐怖ではち切れそうだ。
けれど、思い出すことがあった。
私の前には、まだ何かの入ったプレゼントの箱が並んでいる。ろくでもない物ばかりに思えるけれど、本当に何が入っているかは、開けてみないと分からない。幼い頃は、中に何が入っているか分からなくても、そのドキドキが喜びにつながっていたはずだ。
できない背泳ぎに、私は何か大事な物が欠けているようだと思っていた。でも、ある年の授業で、何故かふと、背泳ぎができるようになっていた。練習もしていないのに、自然と。できないはずのこと、絶対に無理だと思ってることが、できるようになることもある。
昔のことだから、いい記憶ばかり蘇ってくるのだろうか。今と昔では状況が違うのだろうか。
いや、違う。この回想は、今にも繋がる。喧嘩をしたら、取り返しのつかない断絶が生まれると思うようになっていた。失敗は取り返しがつかないと思っていた。でも、九島さんとはまた友達に戻れた。首に包丁を突きたてようとしても、まだここにこうして生き残っている。戻ろうと思えば、今までの生活に戻れる。これほどの失敗でも、取り返しが、つく。
「錯覚だ。都合のいい妄想だ。思い出せ。お前が今までどんな嫌な目にあったか思い出せ。目を背けるな」
フコーが食い下がる。私に思い出させようとする。音楽の時間にクラス中が私を笑ったことを。漆口ウィルスなんて呼ばれて、クラスメイトがキャーキャー言って私から逃げたことを。姫宮が他の部員を連れて私にしたことを。
消えない嫌な思い出。ふとしたことで蘇り、胸の中に真空が発生したように痛む。
でも。
(それを抱えていても、まだ立っていられる)
生きることが辛いと思うなら。辛いと思える場所にでも立ち続けていられるなら。希望なんてないように思えても、自分の心が焼き切れずにいられるなら。心の一部が壊れても、そこを犠牲に息をしていられるなら。私が私でなくなっても、私が続いていくなら。
(ごめん、フコー)
私だって、幸せになりたい。生きて、幸せになりたい。本当は、生きていたい。生きたいんだ。理由もなく、そう思う。
この思いはもしかしたら、これからの悩みと不安から隔離され保護されたこの閉鎖病棟だから持てるものなのかもしれない。私より重い病状の人たちを見下して、私はまだマシだなんて醜い考えから生まれた物かもしれない。でも、未来からも過去からも切断された今の私がそう思っていることを、否定しなくたっていいはずだ。
幸せになる為に、フコーに一緒にいてほしかった。フコーは絶対に必要だと思っていた。でも、フコーが私を生かさないって言うなら。
「……本当に、ごめん、フコー」
フコーを殺して、私一人で、幸せを目指すよ。
私は、枕元のティッシュの上に吐き出しておいた薬をつまんで、飲み込んだ。
15.
「漆口さん、面会の方が来られました。食堂で待ってらっしゃいますから」
「あ、はーい」
看護師(未だに看護婦と言ってしまいそうになる)に返事をして、私はベッドから立ち上がった。
今日面会に来てくれると分かっていたので、病院着ではなく私服を着て準備していた。部屋に備え付けの鏡で、ちらっと自分の姿を確認する。二つ隣の病室では、暴れた患者が叩き割って鏡がなくなったらしい。しかし私が二週間前に移されたこの病室はナースセンターから遠い病棟の端にあり、暴れるような病状の患者が入れられないため、鏡は無事に残っている。そこに映った私は、髪がちょっとベタッとしていたのが気になった。一昨日、昨日とお風呂に入れなかったからだ。女子の入浴は火・木・土なので、火曜日の今日は二日間お風呂に入っていないことになる。ちょっと無理をしてでも、狭い手洗い場で髪を洗えばよかったかなと思ったが、もう遅い。諦めて、紙コップを持ってそのまま病室を出る。
廊下を歩く。楽しみな気持ちと、心配な気持ちが一緒くたになって、足元がフワフワする。でも、嫌な感じではなかった。
食堂の前についた。一度、足を止める。深呼吸をして、中に、入る。
堂内を見回す。大きな窓から入ってくる陽光が刺さり、私は目を細める。面会人は、入口に背を向けて、陽の当たる席に座っていた。
そっと近寄る。あと数歩のところで、面会人は気配を感じたのか振り向いた。
私から、声をかける。
「……来てくれて、ありがとう」
私を見上げて、小柄な彼女は言った。
「久しぶり、ウル」
二ヶ月ぶりに見る九島さんは、私を見上げて笑いかけた。
「本当久しぶり、九島さん」
私は笑みを作った。
「そうだね。ウル、元気だった? って、入院してる人に聞くのも変かな」
「いいんじゃない? まあ、元気だよ、うん」
「…………」
「…………」
ぎこちない沈黙が落ちた。
私はとりあえず、九島さんと向かい合う席へ向かう。紙コップを自分と九島さんの前においた。
「ええと……」
「あ、ちょっと待って、今飲み物持ってくるから」
私はそそくさと、食堂で共用されている冷蔵庫に行く。飲み物を用意しておいた。扉を開け、漆口とマジックで書かれた緑茶のペットボトルを探す。冷蔵庫に入れる物にはちゃんと名前を書いておかないと、他人の物を勝手に飲み食いしてしまう人もいるのだ。……見つけた。キャップを確認して、誰かに開封されていないことを確かめる。大丈夫。九島さんの待つ席へと戻った。
「お待たせ」
「悪いね、お見舞いされる側にそんな気を使わせちゃって」
「そんな。九島さんこそ、その足でわざわざ来てくれて」
紙コップにお茶を注ぎながら、私は九島さんの右足を見る。太ももから先が、白いギブスに包まれていた。隣の椅子には、松葉杖が立てかけられている。
「いやいや。自業自得って言うか、なんて言うか。……ただの不注意の事故じゃないってのは、聞いてる、かな?」
「……うん、姫宮たちに」
「そっか」
「……今は、大丈夫、なの?」
「んー、まあ、多少の不便はあるけど、痛くないような動き方も覚えたし。洗えなくて痒いのと臭いのが一番困るかな」
「そっちじゃ、なくて」
心の、方は。
「……ああ。うん、まあ。大丈夫」
そう答える九島さんの顔に、影が落ちた気がした。それに気づいてしまって、私は何も言えなくなる。
「…………」
「…………」
また、二人とも黙る。互いに、どこか強張った微笑のまま、居心地悪げに座っている。
九島さんが、おさげをいじりながら、紙コップのお茶に口をつける。
と、
「……ふふ」
突然、九島さんが笑った。
「え、どうしたの? 私何か変なことした?」
「ふふふ、あ、いや違うの、ウルがおかしいんじゃなくってさ。このお茶」
「? どうかした?」
私は九島さんの笑いの意味が分からなくて戸惑う。
「だってさ、病院で、白い紙コップで、薄黄色っぽい液体って……くくっ」
「…………!」
ようやく、私も意味が分かる。
「どう見たって、ふふ、微妙に泡立ってるし、け、検尿じゃない、っぷあはははははは!」
「あっはははは、やだ、九島さんなんてこと言ってんのさ、もう飲めないじゃんっ」
「だってそれ以外見えないって、ウルがジュースでも用意してればよかったのに、よりによってお茶なんだもん、あはは、病院だからって飲尿健康法はレベル高くないですかぁー? っははは」
私たちはしばらくの間それで笑いあっていた。
笑い疲れた頃、また私たちは互いの顔を見つめあった。さっきまでの緊張は、笑いによって薄れていた。
「あー、笑った笑った」
「なんてひどい笑いだったんだろう……」
「あー。でもちょっと安心したよ。もしかしたらウルが笑ってくれないんじゃないかって思ってた」
「…………」
「ウルのこと、ほとんど聞いてなかったからさ。学校では体調崩して入院ってしか言われてないし。ウルのお母さんに直接聞いて、ここにいるって教えてもらったんだ」
「そう、なんだ」
九島さんが母に私について聞いてきた、というのは母から教えられていた。この病棟に入っていることを九島さんに教えていいかと確認されたのだ。私は、いいよ、と答えた。
「……もしかして、来て迷惑じゃなかったかな」
「そ、そんなわけないじゃない!」
私はすぐに否定するが、九島さんは、少し俯いた。
「だってさ。考えすぎかもしれないけど。……私が、変なことしたから、ウルは苦しくなって……ここに入るようなことに、なったんじゃないかなって」
私は息を詰まらせた。
私が自殺をしかけたのが、九島さんのせいとは思っていない。けれど、九島さんの事故がきっかけ、それを姫宮たちが増幅させた、ということは間違いない。九島さんのせいではないと言った方が、九島さんは楽になるはずだ。でも、どうなんだろう。ここで誤魔化して、私はちゃんと九島さんの顔を見られるだろうか。
私は、迷って、
「……九島さんのこと、心配は、したよ。でも、九島さんのせいで、ここに入ったんじゃないから。誰のせいでもない……って言ったら、クサいかな。でも、そう思ってる。だから、九島さんのこと、迷惑だなんてちっとも考えるわけないよ」
そう答えた。
「……そっか。それなら、よかった」
九島さんは、私の言葉を信じてくれたのだろうか。分からないが、微笑んだ。
「九島さん、まだ、合唱部にいるの?」
「うん。足が折れてても声は出せるからね」
「姫宮たち、も?」
「うん」
「……嫌なこと、されない?」
「今のところ、大丈夫みたい」
「……あのさ。もしも九島さんが望むなら、なんだけどさ」
私はポケットから、携帯電話を出した。
「九島さんが事故にあった後、姫宮たちが、私を囲んだ時の声。これに録ってあるんだ」
姫宮たちに音楽室に連れ込まれた時、ポケットに手を入れ、携帯の録音機能を作動させていた。部活を辞めてからも悔しさが消えなかった頃、何とか報復の手段がないかと考え、思いついた作戦だった。
「姫宮が、九島さんにどんなこと言ったかも、あいつが自分で言ってる。もちろん私に言ったことも入ってる。もし九島さんがそうしたいなら、これを学校に提出したり、ネットに流したりしたら、姫宮は多分、ろくなことにならないと思う」
九島さんは、私の言葉に数秒目を丸くしていた。
「ウル、本気?」
「いや、うーん、本気って言うか……」
私の歯切れの悪い言葉に、九島さんは少し考えた後、にやりとして答えた。
「いや、今回は使わないでおこう。でも、保存しておいてよ。パソコンとかにも移せるなら、コピーも。もし何かされたら、その時はこれがあるって脅してやる。これで次は、言われ放題で一人で車に飛び込まなくて済むね」
「そう、分かった」
私は少しほっとしていた。姫宮たちに恨みがないとは言わない。けれど、報復をしてやりたいかというと、そうでもなかった。そんなドロドロした関係にこれから飛び込んでいくには、ちょっと疲れていた。それにやっぱり、自分が虐げられている内容を公開するのは恥ずかしくもあった。
「姫宮たちって言えばさ」
九島さんが話を継ぐ。
「数人、ウルに謝りたいって子たちもいるんだけど、どうする?」
「え」
今度は私が目を丸くする番だった。
「いや、姫宮は全然そんな気ないみたいだけど。そういうタマじゃないし。でも、その取り巻きの子のうち何人か、責任感じたみたいで、私に謝りにきたのよ。で、漆口さんにも謝れませんかー、って」
「…………」
私は迷った。あの時周りにいた奴らを、許す度量が自分にあるか不安だった。謝られて、素直に受け取れるか分からなかった。でも。
「……九島さんが、一緒に来てくれるなら」
「それはもちろん。よかった、あの子らもほっとすると思うよ」
九島さんは喜んだ様子で言った。それが不思議だった。私は、うねうねと手を組んで考えて、聞く。
「九島さん。九島さんは、結局……自殺、しかけたんだよね」
「おっと、切りこんできたねウル。うん、しかけたっていうか、実際したんだよね。何本か骨が折れた程度で済んだのはラッキーってことらしい」
「……そんなに追い詰められたのに、追い詰めた人たちのこと、許してるの?」
「…………」
九島さんは、返事に少し悩むそぶりを見せた。
「それは、ね。まあ、私も、入院中にあれこれ考えたわけよ」
「うん」
「私の場合、姫宮に言われたことって大体事実だから。ウル、姫宮から聴いたかな? 姫宮の友達の彼氏を奪ったって。最初はもう恋人がいるって知らなかったけど、知った後も別れないでつき合ってたって。それを責めてきた人たちを恨もうとすると、巡り巡って自分の馬鹿さとか弱さとかだらしなさに辿りついちゃうわけよ。それでも恨み続けるのって、大変だなって思って。疲れるし。だから、まあ、もうどうでもいいかなって」
どうでもいい、なんて妥協したような言い方は、少し九島さんらしくない気もした。それは私の勝手なイメージだったのか、それとも九島さんも変わったのかもしれない。
「……九島さん、許せるなんて凄いね」
「いやー、ちょっとかっこよすぎること言っちゃったかな? まあこういうのって、考えたことの結果だけ言えば無駄にかっこよくなるよね。考えてる最中は凄くかっこ悪いんだけど。あはは」
「ふふ」
九島さんはお茶に口をつけた。しょっぱくはないね、なんて言うのでまた笑ってしまった。
一息ついて、もう一つ聞きたかったことを口にする。
「九島さんさ。大丈夫って、言ってたけど。じゃあもう今は、死にたいとか思わない?」
「え? いや思うけど?」
「思うのかよ!」
あまりに平然と言われてしまった。
「あはは。そりゃ思うよ。っていうか別に、前々からちょくちょく思ってたし」
「そうなの?」
「そりゃそうだって。私たち、大人から見りゃ子供なんだろうけど、子供なりに色々あるからさあ。死にたいって一回も思ったことのない子の方が少ないんじゃない? ウルが私のことどう思ってたのか知らないけど、私って割と考えること暗い方だから」
「そう、なんだ」
「ウルも、まだ時々、死にたいって思わない?」
「……思う。しょっちゅう、死にたいって思う」
私は正直に答えた。
フコーに別れを告げた、あの時。私は生を選んだはずだった。けれど、それですぐに生きることにばかり向くほど、人の心はデジタル的にはできていない。今までのこと、これからのこと、何か考えるたびに、死んじゃおうかな、という思考が頭をよぎった。
九島さんが、なぜか少しだけ嬉しそうな表情をした気がした。
私は付け加える。
「それでも、生きたいって思う方が、ギリギリ強いけど」
九島さんは一瞬眉をひそめた。そして、何度か頷く。
「なるほどねー。生きる意味とか考えちゃうでしょ」
「うん」
「多分ね、生きる意味とかレゾンデートルとか考えてるのが、もうちょっと袋小路にはまってる気がするんだよ。おまけに私たち、一回死のうとしちゃったから、死にたい癖ついてると思うんだ。全部放り投げちゃうことの気楽さを知ったから、何か嫌なことがあったらすぐ死ぬことを考えちゃう。多分、一生これには付きあってかなきゃいけない」
「……うん、そうだね」
「だからさあ」
九島さんは一息溜めて、言った。
「今度どっちかがマジで死にたい時は、死にたがり同士一緒に死のう」
「え? ええ?」
九島さんは真顔だった。
「嫌?」
「え、嫌っていうか、その」
私は慌てた。まさか九島さんがそんなことを言うなんて。真面目に、そんな約束をしようというのだろうか。私を心中相手にするだなんて。本当に?
どぎまぎする私をしばらくじっと見た後、九島さんは笑いだした。
「くく、大丈夫大丈夫マジじゃないから、デスギャグだよデスギャグ」
「で、デスギャグ?」
「そ、お年寄りとメンヘラが得意技なデスギャグ」
「……笑えないよ、それ」
「笑えない所が笑い所なの」
「…………」
若干九島さんについていけず、私は半笑いで沈黙した。
九島さんは続ける。
「まあ、ウルがどうしようもなく死にたくなったり、悩んだりしたら、気が向いたら私に話してよ」
「そんなことしたら……」
また、九島さんが、私の負うべき重さまで、抱えてしまう。
「……迷惑でしょ」
「大丈夫大丈夫。今回のことで、自分の限界を知ったから。無理に解決しようと盛り上がったりしないよ。適当に聞き流すだけ。それでも、誰にも言わないよりマシでしょ」
九島さんはそう言う。聞き流すなんて、簡単にできることでもないだろうに。
「……分かった、その時は、話すよ。その代りにさ、九島さんも、私に言ってよ。私は本当に、ただ聞くだけだけど」
「うんうん、ウルならそう言ってくれるって信じてたよ。お互いに相談し合う、いいギブアンドテイクだね」
九島さんは嬉しそうにうなずいた。本当に私なんかに話してくれるのか分からないけれど、どうか本当であってほしい、と思った。
「ところで。ウルはさ、どうしてた?」
漠然とした質問をされる。
「どういう意味?」
「ウルも、きっと色々考えたと思うんだ。それが、どういう方向にいってるのかなって。大丈夫、かなって」
九島さんは、私の目をのぞきこむ。それが切なくて、私は少し視線を逸らした。すると、九島さんはニコリとして言った。
「ああいや、別にそんな難しいことを無理に聞きたいわけじゃないから。ぼんやりできてるなら、それでいいんだ」
「それは……」
私はまた言葉に詰まった。今日は言葉に詰まってばかりな気がした。いや、いつものことだろうか。
「…………」
九島さんは黙ったまま、静かに私を見ている。
考えていたこと。決めたこと。私が見ていたもののことは主治医に話していたが、勝手に断薬したこと、そこで考えたことは、誰にも話していなかった。
どこかに吐きだしたい、という気持ちはあった。ついさっき、悩んでいることがあれば話をしあおう、とも言った。その反面、九島さんにまた荷物を投げ出すのか、という躊躇いもあった。
でも。あの子のことを私だけの内に秘めていたら、きっと変化して、風化して、消えてしまう。それは嫌だった。九島さんに話したところであまり変わらないかもしれないが、それでも、話したいと思った。
「……うん。九島さん、ちょっと、聞いてほしい。長くなるかもしれないけど」
「いいよ」
「私、妖精みたいなものが見えたんだ――」
そして私は九島さんに、話を始めた。フコーについての話を。
薬を飲んだからといって、すぐにフコーが消えるわけではなかった。まず一日のうちに現れる時間が減り、やがて数日に一度しか現れなくなり、ゆっくりとその存在が薄れていった。その間私は、本当にフコーを消してしまっていいのか、という疑念にさいなまれ続けた。薬を初めてトイレに吐きだしたあの時の私を、あのフコーに戻ってきてほしいという真摯だったはずの祈りを、裏切っているのではないかとも思った。不安だった。一人になるのは、フコーに責められているのとは違う意味で怖かった。だが、それでも、私は、フコーと共に死ぬつもりにはならなかった。
今はもうフコーの姿は見えない。まだフコーがいたことを忘れてはいない。しかし、いつまで覚えていられるだろう。もう既に、フコーの声の印象は薄らいできている。あの時の嵐のような気持ちも、既に薄い膜越しのように感じられ始めていた。
九島さんは私の話を、時々頷きながら聞いてくれた。九島さんからすれば、頭のおかしくなった人の妄想語りだったろうに、嫌な顔は全く見せなかった。
フコーが見えてからの入院するまでの生活のことは、かいつまんで説明した。たとえば九島さんとの喧嘩がきっかけで見えるようにした、というのはボカしたし、みみずく書店でのやり取りなど言えるわけがなかった。
入院してからフコーと別れるまでに考えたことについては、大体、全て伝えた。伝えたかった。少しでも、世界にフコーのいたことを残したかった。
「――だから。私は、多分、九島さんの知ってる私とは、違ってしまってると思う。心の一部を、フコーが出てきた部分を、殺したから。そうなっても、まだ、私は生きてる。……今まで知り合った人たちとは、同じようには付きあえないだろうけど」
「…………」
「そんな風な感じのことを、考えて、過ごしてたよ」
「ん。ウル、大変だったね。よく頑張ったね」
九島さんは優しい目で私を見た。
「やだな、そんな言い方されたら恥ずかしいよ」
「ごめんごめん。……えっとさ。ウルが考えたことは、ウルにとって正しいんだろうけど、私は話を聞いて二つくらい思った」
「何と何?」
私は、少し居住まいを正して九島さんの言葉を聞く。
「一個目は、凄い常識的な話なんだけど。ウルが病気だったとしたら、薬を飲むのは当たり前だと思うんだ。それをあんまり重く受け取る必要はないと思う。たとえば、高血圧の人だったら、血圧を下げる薬を飲むでしょ。で、高い血圧の時と、薬を飲んで標準的な血圧の時、どっちがその人の体にとって『普通』のことかって言ったら、標準血圧の時だと思うんだ。だから、フコー君が見えてる時の方が『違った』ウルで、今のウルの方が、元々のウルに近いんじゃないかな」
「それは……」
九島さんのいうことは、分かる。九島さんらしい、正しそうな意見だ。でも、素直には頷けなかった。フコーの存在を間違いだったと思うことも嫌だったし、もしそれを認めたとしても、薬を飲んで以来、思考が以前よりもぐるぐると渦を巻かなくなった自分には違和感を感じていたからだ。自己暗示でそう感じるのかもしれないが、それを確かめる手段はなかった。
わたしのその迷いを見てとったのか、九島さんは話を継ぐ。
「でも、ウルが変わったって思ってるんなら、変わったのかもしれない」
「……うん。やっぱり、私は、欠けたと思う」
「だとしても」
九島さんは、力強い口調で言った。
「少なくとも私は、ウルが変わっても嫌ったりしないよ。これが二個目に思ったこと」
そう言ってくれるのは、嬉しかった。しかし、私の頭に詰まった不安はそれだけでは拭われなかった。
「九島さん……分からないよ……そんなの。だって、恋人だって、どんなに好きだって言いあってても、簡単に別れるじゃない。だから……」
「そうか、そうだね。じゃあ、言い換えるよ。未来のことだし、ウルも、私も、これからどう変わるか分からないから、絶対に嫌わないっては言えない。でも」
九島さんの言葉の強さは変わらない。
「変わるってことを、それだけで悪いことだとは思わない。だってそうじゃない? ウルは、この二ヶ月で変わったかもしれない。けれど、変わらない人なんていないよ。相手に変わらないことを望む人もたまにいるけど、私はそうじゃない。ほとんどの人もそうじゃない。私は、っていうか人間は、相手が変わっていっても、付き合い続けることもできるくらいの柔軟さを持ってるはず。ウルと親しくなる人は、ウルが思うよりちょっぴりマジメで、ちょっぴり適当だよ」
「…………」
その言葉を信じたくなっている自分に気付いた。なのに、頭に巣食う恐れの虫が、追い払えない。
だって私は、大きく変わってもいないのに、仲間だと思っていた部活のメンバーから迫害されたのだ。それなら、私が変わってしまうとしたら、一体どれだけの人が私から私に背を向けるのだろう。それを考えると、とても怖い。元より私は孤独のそばで暮らしていた。けれど、本当に一人になってしまうのではという想像は、心を凍りつかせた。
九島さんに気を使わせないようにしたかったのにこんなに励まされている自分が嫌だったし、励まされてなお前向きに考えられない自分がもっと嫌だった。
「……ウル」
不意に、九島さんが、テーブル越しに身を乗り出した。小さな手を伸ばし、テーブルの上に投げ出していた私の手を掴む。熱い。九島さんの発散しているエネルギーが、そのまま熱として私の手に伝わってくるような気がした。
「私は、たとえどこかが欠けたとしても、今のウルのことが、好きだよ」
心臓が跳ねた。
九島さんはやや伏した目で語りかけてくる。九島さんのシャンプーの匂いがする。
「ウルに謝りたいって言う部活の子も、きっと今のウルのことも好きになる。それに、ウルのお父さんお母さんも、ウルのことを好きでいる。……ウル、親のこと、苦手だって言ったよね。でも、ウルのことを好きな人がいるっていう事実を、否定しようとしないで。好かれるウルを否定しないで。ウルを好きでいてくれる人を、否定しないで。ウルが変わっても、それは変わらない」
「…………」
私は、両親に好かれているのだろうか。きっと、好かれているだろう。なのに、私は両親がどこか苦手だった。優しいことを言われるほどに、何かが私を絡め取っていくような気がして、もがきたくなった。それが何故なのか、自分でも分からなかった。
けれど、九島さんの言葉で何となく分かった気がした。私は、自分が両親に好かれるに足る人間ではないと思っていた。両親が私へ好意を受けるたび、私は何か不正をしているような気になった。いつからそうだったのかは、はっきりしない。小学校に入学する頃には既にそうだった気もする。両親からだけでなく、親戚から優しいことを言われても、なんだか落ち着かなかった。それは、私が彼らにほめられるような存在とは思えなかったからだ。だから、優しくされるたびに居心地が悪く感じられる。九島さんの言葉を借りれば、好かれる自分を否定しているから。その自分に対する否定が元になり、反動で、私を好いてくれる人を苦手に思う。そんな不当な扱いを私にしないで、と。もっとはっきり言えば、嫌ってしまう。
でも。私だって好かれたい。当たり前だ。嫌われるのは悲しい。憎まれるのは辛い。それなら……私は、私が他人に好かれることを、何とか肯定しなければならない。
「……がんばってみる」
九島さんに包まれた手に視線を落としながら、私は小さく答えた。
九島さんはもう一度、キュッと手を握って、乗り出していた体を椅子に戻した。
「うん。少しずつでもいいからさ」
「ありがとう」
私はそう答えながら、九島さんについてあることを考えていた。
それから、しばらく他愛もない話をした。私は入院の暇な時間に読んだ本のことなんかを話したし、九島さんは学校で起きたことを話した。
お互いに話が一段落し、何となく言葉の途切れる瞬間があった。私は飲み干していたお茶を紙コップに注ぎ直した。
「お菓子も用意すればよかったな」
「あ! そうだそうだ、忘れるところだった」
言って、九島さんが傍らのバッグに手を突っ込む。その中から、ドーナツ屋の紙袋が出てきた。
「ドーナツ屋で我々は再び会うべきなのだ……ってね。健康的な食事ばっかりだろうから、たまには不健康な甘味もいいでしょ」
「おお……さすが入院した九島さん、入院してる人の好みが分かる」
「嬉しいんだか嬉しくないんだか、微妙な評価だなあ」
開けられた袋の中には、四つほどドーナツが入っていた。めいめい好みのドーナツを取り出して食べ始める。私はフレンチクルーラーを取った。
ドーナツの甘さに浸りながら、私は話を始める。
「フコーが消えた頃から、疑ってるんだ。私、本当に生きたいから薬を飲んでるのかなって」
クリームと砂糖と油で口中を甘くしながら、私は話す。
「また薬を飲みなおした夜は、生きようとしたつもりだった。でも、それは本気だったのかなって。ただ、あの離脱症状の焦燥感と、フコーに責められる辛さから、場当たり的に逃げ出したかった、ただそれだけなんじゃないかって、疑ってる。生きて幸せになろうと思う、なんて、薬を飲んで苦痛から逃げだすために、場当たりで考えた言い訳なんじゃないかなって。だから、またすぐに、ちょっと嫌なことがあったら死にたくなるんじゃないかなって」
人の心は楽をするためなら何でもする。特に、私の心は。だから、自分の意思すら信用できない。
九島さんは、オールドファッションをもぐもぐしながら少し考え、にっこり笑って口を開いた。
「それでもいいじゃない。そうなったら、さっき言った通り、私に聞かせてみてよ。その時考えよう。二人ならいい方法が見つかるよ」
遊びの相談をしてるかのような、明るい言い方だった。
「……そうだね」
私は素直に頷いた。
今日九島さんと会って話したことを思い返していた。
九島さんは、私の話に、前向きな言葉を返してくれた。学校で毎日会っていた九島さんのまま、いやあの時よりもさらに力強くなっているように感じられる。初めに私が感じた、一瞬の影は見間違いだったのかと思わされる。
けれど、私はあの表情を忘れられなかった。
だから、声をかける。
「九島さん」
「何かな?」
「九島さん……自分のこと、好き?」
「え」
一瞬、九島さんが言葉に詰まった。私のように、言葉に詰まった。そして、若干早口で言葉を継ぐ。
「……えっと。まあ、好きか嫌いかで言ったら、好きかなあ」
「九島さんは」
九島さんの言葉を受け、私は話す。
「色々考えたんだと思う。今までの人生で。車に飛び込むまでに。入院している間に。だから、私の話に、次々に元気づけてくれるようなことを言ってくれる。でもさ」
続きを口にすることを躊躇した。今頭に浮かんでることを言葉にしていいのかどうか、分からない。とんでもない勘違いをしているのかもしれない。そうだとしたら、九島さんをまた怒らせてしまうかもしれない。でも、もし私の考えが当たっているのなら、言わないではいられなかった。私は勇気を出して口を開いた。
「でも、九島さん、まだ、死にたいんじゃない?」
「…………。言ったじゃない、普通に死にたいって思うって」
九島さんは、言葉は軽さを保ったままで答える。でも私は、その軽さを信じられない。
「そういう、たしなむ程度の自殺願望じゃなくて、もっと切迫した意味でだよ」
「……何で、そう思うの?」
「証拠は、ないんだけれど」
私はまた躊躇った。これが、話を曖昧にできる最後のチャンスだった。けれど私は、踏み出した。
「九島さん、姫宮たちのこと、もうどうでもいいって言った。私が、色んなことをどうでもいいって思ったのは、入院した直後の、近い内に死のうと決めてる時だった」
九島さんの顔をまっすぐ見られないでいた。テーブルの上に目を泳がせ、止まりそうな言葉をなんとか絞り出す。
「死にたいと思うかって私が聞いた時に、九島さんは思うって答えた。真剣じゃない意味で死にたいって思う、みたいな口調だったけど……真面目にそう思うんじゃない? 一生死にたい気持ちにつき合わなきゃいけない、なんて軽く言ってたけど、その軽さは、一生を、近い内に終わらせるつもりとかだからなんじゃないかな。それに、私と一緒に死のうって言った。……本気に聞こえたよ。ギャグなんかには、聞こえなかった。あそこで私が頷いたら、本当に、死ぬ約束をしようとしたんじゃない? だから、私が今も死にたがってるって言った時、少し嬉しそうにした」
九島さんは何も言わない。 私の推測が的外れで、呆れているのだろうか。それとも。
九島さんが一緒に死ぬ相手として私に目星をつけていたとしたら、私はそれをどう感じればいいのだろう。嬉しいでもない、悲しいでもない。そして、その心中相手になることを暗に断ったことは、どう言う意味を持つのか。分からないまま、私は話し続けていた。
「九島さんは、私が好かれる自分を認めていないから、私を好いてくれる両親を苦手にしているって言った。なんでそんなこと分かったの? 九島さんは頭がいいから、私や他の人を観察していれば分かるのかもしれない。でも、もしかして、九島さんも、私と一緒だったり、しない? 誰に対してかは分からないけれど、自分が嫌いで、好かれる反動から好いてくれる人への苦手意識を持っていて、それに気付いたんじゃない……かな。だから私に、あんなことを言えた」
話すのが苦しかった。こんな、言葉の端をとらえて、大切な友達である九島さんの心を分析気取りするようなことはしたくなかった。今日九島さんが口にした言葉達の輝くような前向きさを、わざとらしい程だったと考えるひねくれた自分が嫌だった。でも、もしも本当に九島さんが死にたがっていたら、今言わないと手遅れになるような気がした。本当にそれを明らかにするのがいいことかどうか、私には分からない。こんなに急いで話を進めず、ゆっくり探っていくべきなのかもしれない。でも、言わずにはいられなかった。
「そして、私が本当に自分は生きたいのか分からないって言った時は。軽く流して、私に自信を持たせるようなことは、言わなかった。死にたい時が来たら九島さんに話して、って言った。……私が、死にたくなるのを、待って、いないかな」
これで、私の問いかけは、最後。
「私の勝手な想像だったら、ごめん。でも、九島さんは……私と一緒に、今すぐにでも死にたいって、本当に思って、ない?」
私の語尾は震えていた。その震えの余韻が消えても、二人とも何もしゃべらなかった。今日会った最初の時よりも、居心地の悪い沈黙が続いた。
私は黙って待った。言いたいことは吐きだした。あとは九島さんがどう返してくれるかだった。
「……だとしたら」
ぽつり、と九島さんが言った。
私は九島さんを見た。怖いほどに無表情だった。
その無表情が、音を立てたように破れる。
「だとしたら……どうなの。ウルは!」
食堂中に聞こえるくらいの声で、九島さんは私の名を呼んだ。その声の大きさに、九島さん自身も驚いたように、言葉を途切らせた。
また数秒、二人とも何も言わない時間が流れる。そして九島さんは、言った。
「……ウルは、一緒に死んでくれるの?」
すがるような声だった。九島さんのそんな声は、初めて聞いた気がした。小さな九島さんの体が、一層小さく見えた。
「……九島さん」
私は、泥のついた傷に触れる心地で、言葉を紡ぐ。
「私も、少し考えたんだよ。フコーが消えてから。私は、自分が他人から好意を向けられるほどの人間とは、思えてなかった。そう思えていないことにも、気付いてなかった。これは、さっき九島さんが教えてくれたこと。でも、その代わりに、私から九島さんに言えることがあるかもしれない」
ろくに人づきあいもできない、空気も読めない、会話能力のない私だけど、今は言葉しか使えるものがなかった。この、泣きだしたくなるほど無力な言葉しか。
「九島さんが、どうしてそんなに死んでしまいたいと思うのか、私は知らない。私から見たら九島さんは何でもできる人だけど、きっと九島さんには私よりもっと辛いことがあったんだと思う。私が助けられることなら、助けたい。でも、助けられないことの方が多いはず。私は、九島さんを直接助けられない」
話しながら、内心で、もし私が手を貸せる悩みがあったとしても、やはり九島さんはそれを言ってはくれないだろう、と思っていた。
姫宮は、九島さんが、私と仲良くすることで自尊心を満たしていると言った。あいつの言ったことをそのまま受け取るつもりはない。九島さんは、私に対し素直な友情も持ってくれている、とは信じている。けれど、九島さんのような優等生が、私みたいな隅っこにいるような人間と仲良くするという行為には、どうしたって特別な意味がつきまとうことは否定できない。それが、九島さんの心で小さくない位置を占めていたと思うのは、自意識過剰だろうか。そして、私が入院して接触のない間に、九島さんはその部分を満たすことができず、心の平安を取り戻せずにいたとしたら。そのまま心が傷んでしまっていたとしたら。私が九島さんを危ぶんだのは、この想像のせいもあった。
九島さんが私に手を差し伸べる、という構図が九島さんにとって必要なのであれば、九島さんが私を頼ろうとするとは、考えにくい。少し残念だが、それを私は責めようと思わないし、悪いとも思わない。私が九島さんを完璧な人間として見ていたことと表裏一体だからだ。ただ、今、この時だけは。その構図を、逆転させたいと思った。私から九島さんに手を伸ばしたいと思った。
「生きていく先には、悲しいことが沢山ある。無駄にしか思えない遠回りもある。傷は無限に増えていく。どうしようもなく大きい欠落もある。それら全てが宝物に転じるなんて、都合のいいことはない。私たちは無力で、どんどん何かが零れ落ちていく。人の視線は怖くて、必要とされる物は持ってなくて、信じたり信じられたりすることは失敗して、未来の希望なんて分からない。生きるってことそのものが、どこか不自然で、辛さの海の中を泳ぐってことなんだと思う。楽しいこともあるけど、それは辛さの中に埋もれてる」
九島さんは思いつめたような、そして悲しそうな目で、唇を引き結び私を見ていた。
私も、自分の考えを口にしていて悲しくなる。本当に、そんなに人生は辛いものなのだろうか。素敵なことだって、フコーと別れた夜に見つけたはずだ。何が入っているか分からないプレゼントや、いつの間にかできた背泳ぎや、仲直りできる友達のような。それらは確かに存在する。だが、それに手が届くまでに、幾重もの痛みの雨を浴びていかなければならない。だから、やはり、人生は辛いものだと思う。私があの夜見つけた生は、辛さを感じてなお立っていることとイコールだった。人によっては、喜びの方が大きく感じられて、雨なんて跳ね返せるという人もいるのかもしれない。しかし、そういう風にできない人間もいる。電話のベルにすら怯えるような臆病な私にとっては、世界は恐怖で満ちている。
「自分が他人にとって価値を持つって、信じられない。自分の人生が世界にとって意味を持つ気がしない。何をするのも、怖い。私はそう。九島さんも、そうかもしれない。だけど、考えたんだ」
そう、考えたのだ、私は。
フコーが去って、薬を飲んでどこか腑抜けたような頭で、考えたのだ。
「自分が他人にとって、どんなに無価値でも。振り返れば自分なんて欠損だらけでも。……それでも」
フコーのことを思い出す。希望を見せて、けれど恐怖に変わって、そして失われたフコーのことを。心が痛い。希望だと思ったものが、歪みから生じたものだということが。恐怖してしまったことが。そして、私がそれを葬ったことが。何か、大きな過ちをしたような悲しさを生む。
でも、フコーは、間違いなく、私の一部だった。
「自分を愛することは、できるはずだよ。自分の全てを、愛するべきだよ。だって、自分なんだから」
フコーがもたらした、喜びを、苦しみを、喪失感を。私だけが体験したそれらを。私の他に、誰が愛せるというのだろう。
フコーがいたことを愛そうと思う。フコーがいないことを愛そうと思う。それが、私が見つけた、もう一人の私であるフコーに報いる方法、生きていく方法だった。
「自分は、無条件に、自分のためにいてくれる。他の何よりも、確実に。いい所も、悪い所も、成功も、失敗も、愛せる。生きることを肯定してくれる。それなら、生きていける」
私は九島さんの瞳に向けて言った。九島さんの瞳は揺らいでいた。
誰が私を嫌おうと、私が誰を嫌おうと、世界が私に敵しようと、私が世界に敵しようと。私は、自分のことを愛する。自分の変化を愛する。自分の涙を愛する。フコーの存在と消失を愛する。今までとこれからの痛みと苦しみと徒労を愛する。自分の理由のない生と死を愛する。
自分を愛することは、ただ自分を甘やかすことと近くて違う。愛する存在にはより素敵な存在になってほしいと思う。幸せに近づかせようとする。けれど、それに失敗しても失望しない。永遠の愛とは、そういうものだろう。
「私は九島さんに生きてほしい。でも、私が生かせるのは私しかいない。九島さんを生かすのは、九島さんにしてもらうしかない。だから、九島さん……」
「…………」
九島さんは、何も言わなかった。唇を閉ざして、私を見ていた。テーブルの上においた拳が握られ、全身に力が入っていることが推測できた。
私は、自分の言葉の頼りなさに、涙ぐみそうになっていた。だが泣いてしまったら、病院の人に何かと思われ、九島さんともう会えなくなるかもしれない。それは嫌だ。だから無理やり涙をこらえる。病院の人に気付かれなくても、こんな話をしてしまって、九島さんに鬱陶しがられてもう会ってくれなくなるんじゃないか、という不安もあった。それが更に私を泣かせようとする。でも、泣いている場合ではない。
大きな窓から入ってくる陽の光に、九島さんの髪がキラキラと輝いていた。つけっぱなしになっている食堂のテレビでは、クイズ番組の再放送をしていて、問題が出るたびにいちいち声をあげて答えている患者がいた。私たちの緊張なんて、世界に何の意味も持っていないようだった。
九島さんが、す、と席を立った。
「……帰る」
言って、机の上に広がったドーナツの包みを片付け始める。
「待って!」
私も反射的に立ち上がり、九島さんの手首を掴む。
九島さんは、くすんだ目で私を見た。その視線に、私は少し怯えてしまった。
「離して」
重い鉛の錠前のような声でそう言われる。手がすくんだ。その瞬間に九島さんが手を抜きとる。そして紙くずをドーナツ屋の袋に入れる。それをバッグの中にしまったら、もう九島さんは帰ってしまう。
私は焦った。このまま九島さんを帰してはいけない。私は宙に浮いた自分の手を引きもどす。へその前で両手を固く組み、お腹に力を入れた。声を押し出す。
「九島さん、お願いだよ。自分を捨てないで、認めてあげてよ。九島さんの命に、嬉しかったこととかと辛かったこととかそのほか全部に意味を持たせるために、愛してあげてよ!」
テーブル越しに、懇願するように私は訴えた。自分が気持ち悪かったけれど、止められなかった。九島さんに言葉を届けたかった。気持ちを伝えたかった。立ち去らないでほしかった。死なないでほしかった。
しかし九島さんは、聞きたくないというように激しくかぶりを振った。私を睨みつける。
「なんで? なんでウルは、そんなこと言うの? そんな……! 愛するなんて、口当たりのいい言葉で誤魔化して。私のこと知らないくせに。どんなに怖いか、悲しいか知らないくせに。自分を愛せなんて、ありふれたお題目で! どうしてウルはそんなこと言えるの!?」
抑えた声で、しかし叩きつけるように問われる。
私は九島さんのことをどれだけ知っているだろう。好きな作家は知っている。好きな音楽家も知っている。考え事をする時におさげをいじる癖を知っている。座る時の背筋のよさを知っている。でも、何を苦しいと思うのか、何を悲しいと思うのか――ほとんど、知らない。九島さんは、そういうことを言わない人だった。せいぜい、八重歯をちょっと恥ずかしがっていることくらいしか聞いたことがない。私は、九島さんの陰を知らない。
私は九島さんをどう思っているだろう。大切な友人と思っていることは間違いない。だが、それ以上の感情はどうだろう。例えば、親友、であるとか。親友。そう呼べるのなら呼びたい。けれど、九島さんの苦しみの正体も知らないのに、私たちの関係にその言葉を当てはめていいのか分からない。
九島さんは私のことをどう思っているのかも分からなかった。そこには好意があるだろうか。友情は? 信頼は? 分からない。分かるわけがない。九島さんが今まで自分の暗い面を見せないで私と付き合ってきたのは、意図的なものだったらしい。ということは、九島さんは私に心を開いていなかったのか? 私にとっては九島さんが大切な存在でも、九島さんからは距離を取られていたのかもしれない。だとしたら、私の言葉を九島さんに届けることなんてできそうにない。
私はうつむいた。自分と九島さんの関係が理解できなくなっていた。フコーがいれば、私の内面を読みとって的確なことを言ってくれたはずだ。けれど、私は今は一人なのだ。一人で考えなければならない。
なぜ私は九島さんに死んでほしくないのか。九島さんの辛さも知らずに、死なないでなんて言うのは無責任じゃないのか。考えれば考えるほど、私に九島さんの死を止めようとする権利なんかないように思えた。
うなだれてしまった私を、九島さんはしばらく睨みつけていたようだった。荒い呼吸が聞こえた。
「じゃあね」
九島さんが、ドーナツ屋の袋をバッグに入れて松葉杖を手に取った。時間切れ。私は九島さんに何も言えなかった。私と九島さんとの関係も、この話も、これで終わる。
終わる? そんなわけにいくか。そんな終わりがあるか。そんなことにはしたくない!
九島さんは、もう私に背を向けて、食堂の出口に歩き始めている。
九島さんはただ死にたいとだけ考えているのだろうか。私の言葉なんて何も聞きたくないのだろうか。
いや、そうではないはずだ。九島さんは私に前向きな言葉をかけてくれた。それは、秘めた自殺願望を隠すための取りつくろいだったのかもしれない。でも、九島さんの心はそれらの言葉を生みだしたのだ。思ってもいないことを言う、なんて表現があるが、本当に思ってもいないことだったら言えない。私を心中相手として見るだけでなく、ちゃんと励まそうとしてくれた。それに、私の言葉を待っていてくれた。愚かな私は九島さんが背を向けるまでにまともなことを言えなかったけれど、九島さんは、私を待っていた。
私は信じる。九島さんが私をはげました言葉の何割かは、本当にそう思っていたのだと。私が九島さんと出会ってから一緒にいて楽しかった、その何分の一かは、九島さんだって楽しいと感じてくれていたと。九島さんは迷っていると。そう信じる。
信じて、そして、私は、どうしたらいいのか。
思いつくより先に、私は走って九島さんの前に回り込んでいた。
九島さんは足を止めて、私を見た。
「もういいでしょ、ウル」
疲れた声でそう言われる。
「ウルは生きてけばいいよ。私は無理だ。迷惑はかけないから安心して」
「……そんなこと言わないで、九島さん」
「ウルこそそんなこと言わないで。無責任だよ」
さっきとほぼ同じやりとり。リテイクしてもやっぱり、私が九島さんの命に責任を持てる論理は、考えつきそうになかった。
けれど、私は黙らない。
「責任とか、理由とか。そんなの……どうだっていいじゃない」
「どうだっていい?」
九島さんは顔をしかめた。
私は九島さんの瞳に焦点を合わせて、一歩距離を詰める。
「責任や理由が先にあって命が生まれるんじゃない。命が先にあってそれから責任や理由が生ずるんだ。九島さんが、生きる意味を考えはじめたら袋小路だって言ったじゃない。その通りだよ。生きる理由なんてなくても、生きていけるのが命なんだと思う。何か意味を探そうとしちゃうから、かえって見つからないことに気づいて、虚無感に襲われる。でも、いいんだよ。何もなくたって、生きていいんだ。責任を感じずに、命を生かしていいんだ」
理由なんてないけれど、生きて幸せになりたい。それはフコーとの別れを決めた夜にも思ったことだった。
九島さんは、迷うように唇を動かして、淀む声で言った。
「……私は、それでも、そもそも、もう生きたいと思わない。もう、嫌なの。自分にうんざりしたんだ。私がいたって意味なんかない」
「私は九島さんに生きていてほしい」
「そんなのウルの勝手じゃない」
九島さんはにべもなく言う。だが私は続ける。
「私は、九島さんの辛さを知らない。だから、今の私が生きてほしいなんて言っても、勝手な話に聞こえると思う」
「分かってるなら、もう」
「でも」
私は九島さんの言葉を遮った。そんなことは初めてだった。
「でも、これから、色々話そうよ。辛いことも話してよ。私だって、ちょっとくらい九島さんを支えたいよ」
九島さんは私に弱音を吐きそうにない、とは思った。さっきはそこで思考を止めた。でも、それを仕方ないとしちゃいけない気がした。九島さんを助けたいなら、話をしてもらえるように努力するべきだ。安心して話してもらえるような存在にならなくてはいけない。なりたい。
特に仲のよくないクラスメイトと緊張して話をした後、背後でその子が誰かと笑いあっていると、私のことを笑ってるんじゃないかと怯えた。九島さんみたいに誰とでも気軽に話ができれば、いちいちこんな気持ちにならなくて済むんだろうなと思っていた。しかし本当はどうなんだろう。九島さんは一日の内に私より沢山の人と話す。それならば、私より悲しく思うきっかけが多いのかもしれない。そういうことを、私は今まで考えなかった。でも、これからは、九島さんのことを気にしていきたかった。一人にしたくなかった。
「九島さんの悩みを聞いたからって、私は九島さんを馬鹿にしたりしない。尊敬が消えたりもしない。だから、愚痴ったり相談したりしてもらいたい」
バッグを持つ九島さんの手が、閉じたり開いたりしていた。
「なんで、そこまで言うの? ウルはなんでそうなの? 私にこんなことまで言われてるのに、なんでそういうことを言えるの!?」
今日何度目かの、なんで、という問い。それを繰り返す九島さんは、ガラスで出来ているように見えた。硬く、しかし極端に脆い。
私はそっと答える。
「……愛してるから」
「……それは聞いたよ。ウルは自分を愛せばいい。私は私を愛せない」
「違う。私は――」
理屈も責任も何もかも捨てて、私が九島さんに言いたいこと。私が九島さんにこだわる理由。
「――九島さんを、愛してるから」
散々回り道をして辿りついた答えは、ありふれているくらいにシンプルだった。
私は九島さんを愛している。色んな躊躇いを取り去った後に、この気持ちが残っていた。
空気が、冬の夜明け前のようにシンとして感じられた。私と九島さんは、まるで呼吸すら止まったようだった。
その静寂を破って、私はゆっくり口を開く。
「私は、私のことも愛してる。でも同じくらい、九島さんのことも愛してる。九島さんの一部しか知らなくっても、それを全部愛してるし、まだ知らない所も愛したいと思う。世界は絶望的だけど、私がやっと見つけた愛せる物を、失いたくない。だから、九島さんは自分を愛するに足る人だって気付いてほしい」
私を励ますために、九島さんは私を好きと言ってくれた。それなら、九島さんだって好意を向けられたいはずだ。そんなことにもなかなか気付かなかった。
九島さんは、瞬きもせずに私を見つめていた。
「生きることは辛いけど、愛せるものもある。愛されることもある。それは武器にも鎧にもなると思う」
この気持ちが、みみずく書店でフコーが指摘したような、恋愛感情なのかどうかは分からない。ただ、九島さんのことがとても大切に感じられた。だから私はこの言葉を使う。何度でも。
「九島さんは私を好きって言ってくれたよね。私は九島さんを愛してる。九島さんの好きな私が九島さんを愛してる。それが、九島さんが九島さんを愛する理由に、九島さんが生きる意味になってくれないかな」
九島さんはうつむいた。
私は必死だった。何とか九島さんの心を私に振り向かせたかった。
大事な人が死にたがっている時は、こんなに心を絞られるような気持ちになるのかと思った。自分が死にたいと思っている時と、どちらが辛いとも言い切れなかった。一見自分が死にたい方が辛そうだけれど、自分の場合は死ねば楽になるという解決法がある。けれど誰かが死んでしまおうとしている時は、簡単な解決法はない。だから、どちらも辛い。私の両親も、私についてこんな風に心を痛めたのだろうか。それが申し訳なくもあり、わずらわしくもあった。……そう、わずらわしさも、感じている。そんな自分に驚いた。けれどそれは正直な気持ちだった。九島さんに言われたように、私は他人に愛されることに慣れておらず、強い気持ちを向けられることを鬱陶しく思ってしまう。だとすれば、九島さんも、私と同じように愛される自分を認めていなくて、同じように私をわずらわしく感じてしまうだろうか? それはとても怖い。でも、このままにはしておけない。
私は、九島さんが私の好意を、愛を、受け止めてくれることを願った。その願いが叶うと思えるのは、私が九島さんに好かれているという根拠に基づく。好きな人に愛されていたら嬉しいだろう、ということだ。それを自覚すると、ナルシスティックで複雑な気分になる。でも、九島さんは私を好きだと言ってくれた。その事実にすがって、他の様々な悪い可能性には目をつぶり、話し続けた。
「自分を愛していれば辛くっても生きられるって私は言ったけど、でもやっぱり、自分で自分を愛するだけじゃ辛い。一人ぼっちは怖い。自分が他人より劣っているように感じていても、それでもそばに誰かが欲しい。だから人間は繋がりを求める。繋がりがあればもっと耐えられるから。私は九島さんのそばにい続けたいし、いてほしい」
さっきまで独りになることを恐れ、永遠の関係などないと嘆いていた私が、ずっとそばにいたいなんて言うのはおかしいだろうか。しかし、私が他人が離れていくのを恐れていたのは、誰かといたいことの裏返しだったのだと、歩き去ろうとする九島さんを見て気付いた。そして、将来本当にずっといるかだけでなく、今、ずっと一緒にいたいと思えること、その瞬間的な想いも大切なのだと思った。虚構のようであっても、信じられればそこに価値はある。
「だからさ。一人になろうとしないで。二人で死のうとしないで。二人ならやってけるよ」
自分の言葉が、どれだけ説得力があるのか分からなかった。もっと感動的な言葉で九島さんの心を動かしたかった。しかし、私にそんな才能はない。ただ、思っていることをぶつけるしかなかった。
私は九島さんが何かを言ってくれるのを待った。
視界の隅で他の患者が私たちを見ていたが、気にしなかった。
心臓が首筋にあるかのように、どくどくという音がした。
「…………」
不意に、九島さんの目尻から頬に、一筋の水が流れた。
その跡を、更に何滴もの涙が通る。
「……っひ。ウル……、わた、私は……」
しゃくりあげはじめた九島さんに、私はどうしたらいいのか困惑した。
躊躇った挙句、九島さんに近づいて、その小さな体を抱きしめた。ちょうど、学校の裏庭で九島さんが私にそうしてくれたように。松葉杖が少し邪魔だったが、もろともに腕をかけた。九島さんははじめ抵抗するように少し身をよじったけれど、私が抱きしめ続けていたら、やがて私の胸に頭を預けてきた。
人の体が、こんなに温かくて、重いものだと今まで知らなかった。
九島さんは体を震わせながら、涙声で呟いていた。
「私、もう、嘘ばっかりついて、だ、誰もいなくて、どうしようもなくて、嫌で、でも、死ぬの、怖くて、」
溢れる九島さんの言葉はうまく要領を得ない。でも、焦ることはないだろう。私たちには、きっとこれからの時間がある。人生はこれからだ、なんて言葉は大嫌いで憂鬱になるばかりだったけれど、今は、先があることが嬉しかった。
「九島さん、きっと、もう怖がらなくていいよ、怖くっても私がいるから」
フコーの存在で、誰かと一緒にいることの心強さを覚えた。フコーが消えたことで、一人の悲しさと、それでも生きたいと思う自分に気付いた。
だから。
「一緒に生きよう」
この一言が言えるようになるために、フコーは現れたのかもしれないと思った。それなら、私が生きていくことが、フコーのいた証明になる。
「……うん」
九島さんは小さく答えた。
これで、こんどこそ、この話は終わる。
物語みたいに、最後にフコーの声が蘇ったりしないかなと思ったけど、そんなことはなかった。でも、聞こえなくっても、生きていける気がした。愛せるものがあって、おまけに、少なくとも今この時は、私は一人ではないのだから。
【END】
お読みいただきありがとうございました。歪んでいて、誰しもが間違ってると言って、でも自分にとっては大切な自分の一部で、しかし前に進むにはそれを切り捨てなければならない物、というのがあると思うのです。この話ではこんな感じにしましたが、そういう物をどうするのが一番いいのか、私にはまだ分かりません。




