第8話 雨の札
六月の雨は、昼を過ぎても弱くならず、潮田花の家の玄関には四本の傘が並んでいた。先から落ちた水が土間に小さな跡を作り、糸崎芽衣は自分の傘を一番端へ寄せる。花の家では、濡れた傘はそこに置く。昔から変わっていない。
村上結が靴を脱ぎながら、玄関の中を見回した。
「なんかさー、花の家って花の家って感じするよね」
「どういう意味なん」
花は靴を揃えないまま、廊下の奥へ進んでいく。
「分からんけど、なんか、強い」
「はぁ? 家に強いとかある?」
「あるじゃろ。玄関からもう、負けん感じする」
「玄関に勝負挑まんで」
望月遥香は、靴をきちんと揃えてから上がった。鞄から小さなタオルを出し、制服の袖についた雨を押さえる。
「お邪魔します」
「誰もおらんけん、そんなちゃんとせんでええよ」
「誰もいなくても、挨拶はします」
「遥香って、玄関にも負けんね」
「結さんの基準が分かりません」
芽衣は二人の後ろから上がった。廊下の板が足の裏で小さく鳴る。雨の日の花の家には、畳と古い木と、台所の方に残った出汁の匂いが混ざっていた。花の祖母が奥にいる日は、ここに煮物の匂いも加わる。今日は、まだ静かだった。
居間には、低い机が一つ出ていた。座布団が四枚、花の手で雑に放られている。
「そこ座って。麦茶でええ?」
「ええよ」
「ありがとうございます」
花は台所へ向かい、結は座布団を一枚引き寄せ、窓の外を見ている。芽衣も庭の方へ目を向けた。
「そういえば、花ちゃん、雨でも海に入ろうとしたことあります」
「あるん?」
「小学生のとき」
「危なっ」
「止められました」
「止められる前に分かって」
台所から花の声が来た。
「聞こえとるよ」
「聞こえるように話しとるんよ」
花が麦茶の入ったコップを四つ持って戻ってきた。机に置くと、コップの底が畳の上で軽く鳴る。花はそのまま居間の隅へ行き、棚の下段を開けた。
赤い箱が出てきた。
角が擦れて、蓋の端に細い傷が何本も入っている。小さい頃から、変わっていない。雨の日、学校が早く終わった日、花が宿題を終わらせたことにして机を片付けた日。そのたびに、この箱が出てきた。
「花札?」
結が机へ身を乗り出した。
「雨の日じゃけ」
「雨の日って花札なん?」
「うちの家はそう」
花は箱を開け、中の札を机の上へ出した。黒い札の束が、畳の色の上で濃く見える。遥香が札へ顔を近づけた。
「実物を見るのは初めてです」
「うちも。名前は知っとる」
結は一枚をつまみ上げた。
「芽衣ー、これ、何月?」
「松は一月です」
松に鶴。昔、花に何度も取られた札だった。
「何月まであるん?」
「十二ヶ月分です、それぞれ四枚ずつあります」
遥香は箱の下に挟まっていた役一覧を見つけ読んだ。紙は古く、点数の横に小さな丸がいくつもついている。小学生のころ花と近所の子で付けた丸だった。どの丸がいつ増えたのか、少しだけ覚えている。
ぱた、ぱた、ぱた。
花が札を切り始めた。昔から、札を切る時だけ少し静かになる。勢いよく話していた口が閉じ、手元だけが迷わず動く。その音を聞くと、雨の日が始まったような気がした。
「四人じゃけ、手札なくなるまで。勝負とか、こいこいとかはなし。最後に一番点高かった人が勝ち」
「急に説明が始まった」
「同じ月が場にあったら取る。なかったら置く。山札めくって、同じ月があったらそれも取る」
「説明が速い」
「やれば分かるけん」
「一番信用ならんやつじゃん」
花は札を配り始めた。
* * *
順番は、結、花、遥香、芽衣。
四人でやる花の家のルールでは、手札がなくなるまで全員で取り、最後に取った札の点を足す。光札は二十点、タネは十点、短冊は五点、カスは一点。役ができれば、そこに五十点が足される。
「点、多くない?」
結が役一覧を見ながら眉を寄せた。
「多い方が分かりやすいじゃろ」
「分かりやすいかな」
「最後に足せばええんよ」
「最後に怖いやつじゃん」
芽衣は手札を扇の形に整えた。場には桜に幕が出ている。手札には、桜に届く札もあった。芽衣が花に視線を向けたその時、花の手札の背に、白く削れた跡が一瞬見えた。小学生の頃、花が机の角にぶつけて、花のおばあちゃんに叱られた札だった。箱へ戻す前に、二人で何度も指でなぞった。
菊に盃。
見ようとして見なくても覚えてしまっている。あの白い傷は、札の絵と同じくらい見慣れていた。芽衣は前かがみになり場札を見つめた。菊に盃があるなら、絶対に月見か花見を作る。場にある桜に幕を結が取ってくれるか、花が桜を持っていなければ、花見は止まる。芽衣の手札でも、桜に幕は取れる。
月見は、まだ分からない。菊に盃と芒に月が花の前に並ばなければ、役にはならない。ただ、止めるだけでは勝てない。
「猪鹿蝶、名前強すぎん?」
結が役一覧の一行を指で叩き、遥香が横から覗く。
「猪、鹿、蝶の三枚ですか」
「字面だけで勝っとるじゃん」
「役名としては、かなり目立ちますね」
花が札を軽くそろえた。
「はい、始めるよ」
結は手札を広げ、場と役一覧を何度も見比べながら眉を寄せた。
「これ、最初は何出したらええん」
「自分で決めるんよ」
「いきなり冷たい」
「勝負じゃけ」
「雨の日の遊びじゃろ」
「雨の日の勝負」
結は手札と場をもう一度見比べ、役一覧へちらりと目を落としてから、一枚を場に出した。
菊のカスだった。
「あっ」
芽衣の声が先に出た。結の手が止まる。
「えっ? 違った?」
「いえ、すみません。合ってます」
花が笑った。
「ええんよ。場に置いたらええ」
「花の笑い方がもう怖いんじゃけど」
「何も怖くないじゃろ」
結は山札に手を伸ばした。めくった札は、梅に鶯だった。場には梅のカスがある。
「これ、取れる?」
「取れる」
結の顔が明るくなる。
「お。じゃあ、うちもできとるじゃん」
「まだ一手目よ」
「一手目から取れたら勝ちっぽいじゃん」
結は梅に鶯と梅のカスを自分の前へ置いた。二枚の向きをそろえていた手が途中で止まり、一枚は横向きのまま残る。
次は花だった。
芽衣は花の手元を追わず、場を見た。結が出した菊のカスが残っている。花は手札から札を出した。
菊に盃。
やっぱり、あの札だった。
「それ、さっきうちが捨てたの」
結が顔を上げる。
「場にあったやつ」
「またその言い方しそう」
「もうしとる」
花は菊に盃と菊のカスを自分の前へ置き、続けて山札をめくった。
牡丹の青短だった。
場には牡丹のカスがあり、花はそれも合わせて取った。芽衣の指が、手札の端を押さえた。
雨の音が、窓の向こうで強くなった。
遥香の番になった。遥香は自分の手札と場札を何度も見比べ、さらに役一覧へ目を落とし、紅葉に鹿を取った。山札からめくった札は合わず、場へ置かれる。
芽衣の番になった。花の顔を見つつ桜の札を一枚出し、桜に幕へ重ねると、花の眉がほんの少しだけ動いた。それ以上の反応はない。山札からめくった札は場の札と合わず、そのまま残った。次の結は一組取ることができ、二枚を自分の前へ置くと、また役一覧を覗き込んだ。
「猪鹿蝶、やっぱ名前がずるい」
「まだ言いよるん」
「だって強いじゃん。猪、鹿、蝶よ」
「名前だけで勝てんよ」
「そこが悔しいんよ」
花は結の言葉を聞きながら、場に一枚置いた。すぐには取れない札だった。けれど、花の前にはもう菊に盃と牡丹の青短がある。置いた札が今すぐ役にならなくても、次に何が残るかで変わる。
遥香は、さっきまでのように役一覧を読み上げなくなっていた。取った札を並べる手も早い。紅葉に鹿があり、猪と蝶はまだない。結の視線も、何度かその札へ落ちていた。
猪鹿蝶。
さっきから結が名前を何度も口にしていた役が、今度は遥香の前で形になりかけている。
芽衣は自分の番で赤い短冊を一枚取り、これで赤短は二枚になった。桜に幕もあるため、まだ役には届かなくても、花を止めるだけでなく自分の点は残せている。
花は、結や遥香が場へ残した札も逃さず取っていった。菊に盃と牡丹の青短がすでに花の前にある以上、芽衣も芒と残りの青短から目を離せない。取れる時には先に取る。それでも山札から何が出るかまでは選べず、一人が札を動かすたびに、見ていた形が少しずつ崩れていった。
その間にも、結の前には松が集まっていた。松に鶴、松に赤短、それに二枚の松のカス。四枚そろっているのに、結の視線はまだ役一覧の猪鹿蝶へ戻っている。
旬ができている。
芽衣は松の四枚を見たが、まだ口には出さなかった。
「花札、性格悪いね」
結が手札を一枚置いた。
「札は悪くない」
花がその札を取る。
「人じゃん!」
「場にあったけん」
「その言い方、今日何回目なん」
「何回でも言える」
遥香の前には、紅葉に鹿と萩に猪が並んでいた。蝶はまだない。場に牡丹が一枚あり、結の手札がそれを隠すようにわずかに動く。けれど次に札を出したのは遥香だった。牡丹を場の札へ合わせると、蝶がそのまま遥香の前へ入り、結の肩が落ちた。
「それ、今の」
遥香は萩に猪、紅葉に鹿、牡丹に蝶の札を並べる。役一覧の上に、同じ三文字がある。
「成立していますか」
「しとる」
花が短く頷いた。
「猪鹿蝶」
結が畳に手をついた。
「名前強いやつ、完成しとるじゃん」
「結さんも狙っていましたか」
「言わんよ。手の内じゃけ」
「失礼しました」
「完成してから聞かれるの、一番悔しい」
芽衣は自分の札を並べ直した。赤い短冊は二枚。あと一枚は、結の前にある松に赤短だった。
「結さん」
「何」
「旬は作れています」
「旬?」
結が顔を上げた。
花の手が止まる。
「あ」
「これです」
芽衣は結の前にある松の札を四枚、そっと寄せた。松に鶴、松に赤短、それに松のカスが二枚。
「同じ月を四枚です」
「旬? これ?」
結が四枚の松を見下ろす。
「うち、なんかできとるん?」
「できています」
結の顔が少し明るくなった。
「え、かっこいい?」
「名前は、猪鹿蝶より普通です」
「そこ大事なんよ」
花が頭をかいた。
「ごめん。旬、言ってなかった」
「花!」
「四人でやる時、たまに出るけん」
「たまに出るやつを説明して!」
「忘れとった」
「負けたと思っとったんじゃけど!」
「まだ負けとらんよ」
結は松の四枚をもう一度並べた。さっきまで何度も見ていた猪鹿蝶の欄には戻らず、今度は自分の松を一枚ずつ見直している。
山札が減っていった。
芒に月が出たのは、花の番だった。花は場の芒と合わせて取った。菊に盃の横へ、芒に月が並ぶ。
月見。
花見は止めた。でも、月見は止められなかった。
花の前では、役の札と点の高い札が重なっていく。遥香は猪鹿蝶の三枚をそろえたまま、その横へ取った札を静かに並べていく。結は松四枚を何度も確認している。
芽衣は、自分の前にある赤い短冊二枚と桜に幕を見た。赤短は届かなかった。けれど、花見は止めた。点も取れている。手札がなくなり、山札も尽きた。
花が菊に盃と芒に月を並べる。
「月見」
遥香が萩に猪、紅葉に鹿、牡丹に蝶を並べる。
「猪鹿蝶です」
結は松を四枚並べた。
「旬。名前は普通」
「そこ気にするんじゃ」
芽衣も自分の札を並べた。赤い短冊二枚と桜に幕、そのほかにも短冊とカスはあるが、役には届いていない。それでも、札そのものの点はそれなりにあった。
点を数え始めると、結は役一覧と自分の札を何度も見比べた。松の四枚の上を指が行ったり来たりする。
「この松に鶴、二十?」
「二十」
「松の短冊、五?」
「五」
「カス、一点ずつ?」
「そう」
「旬は?」
「五十」
「急に強いじゃん!」
花が麦茶を飲んだ。
「じゃけ、言い忘れたって」
「言い忘れで人生変わるやつじゃん」
「花札で人生変えんで」
遥香は自分の点を丁寧に数え、役一覧の端に指を置いた。
「役ボーナスが大きいですね」
「四人じゃと、役作ったらだいたい強い」
「それを先に言ってください」
「言ったつもりじゃった」
「つもりでした」
芽衣は花の札を見た。菊に盃と芒に月。結が最初に菊のカスを出さなければ、花の月見はもう少し遅れていたかもしれない。芽衣が桜に幕を取らなければ、花見もできていたかもしれない。
結が点を数え終えると、四人の札が机の上に残った。誰が一番かより先に、結が花と芽衣の札を交互に見た。
「待って」
「何」
「うちら、点の数え方で騒いどるけど」
結の指が、花の札へ向く。それから芽衣の札へ動いた。
「花と芽衣だけ、途中から別の遊びしとらんかった?」
「同じじゃろ」
花は麦茶を置いた。
「同じ札とは思えんのよ。花はなんか普通に役作るし、芽衣は止めるし、自分の札も取るし」
遥香も札を整えながら頷いた。
「お二人だけ、場の見方が違いました」
花が札を集めようとする。
「昔からやっとるけえ」
「じゃあさ」
結が机に両手をついた。雨の音が、一瞬だけ弱くなる。
「花と芽衣、どっちが強いん?」
結の一言に、花の手が止まった。
集めかけていた札を机へ戻し、芽衣の顔を見る。
「やる?」
「いいですよ」
「即答じゃん」
結が身を乗り出すと、遥香も役一覧を自分たちの側へ引いた。
「今度は二人用のルールですね」
「こいこい。三ヶ月で」
花は札をまとめ、切り直した。
「三回やって、合計点が多い方?」
「そう」
「さっきよりちゃんと勝負っぽい」
「さっきも勝負よ」
花と芽衣の間に札が配られていく。
芽衣は手札をそろえながら、机の向こうを見た。花は役一覧を見ていないし、自分にも必要はない。四人の時と違って見る相手は花だけで、花の前へ入った札も、場へ残した札も、次の自分の一手へそのまま返ってくる。
一ヶ月目の序盤、花の前には早くも菊に盃が入った。芽衣は芒を気にしながら札を進めたものの、こちらにはまだ役らしい形ができないまま、再び花の番が回ってくる。
山札からめくれた札を見て、結が「あ」と声を上げた。
芒に月。
場には芒に雁がある。花は二枚を取り、菊に盃の横へ月を並べた。
「月見で一杯」
結が役一覧を見直す。
「もう?」
遥香は花の取り札と一覧を見比べた。
「五点ですね。こいこいは?」
「せんよ」
花は札を集め始めた。
「五点あるけん」
芽衣も自分の手札を伏せる。
「早すぎん?」
「1ヶ月目なんて、こんな時もあるよ」
花が五本の指を広げた。
5対0。
結がそれを見て、少しだけ花の方へ身体を寄せた。
「もう花じゃない?」
「まだ2ヶ月あります」
芽衣が札を切り直すと、結は元の位置へ戻った。
「芽衣、負けとるのに全然焦らんね」
「まだ1ヶ月ですから」
二ヶ月目は、花が短冊を取れば次の短冊が芽衣へ入り、芽衣の前にタネが増え始めると、今度は花の方へ別のタネが入った。相手の取り札から次に欲しいものは読めても、狙った札までこちらへ来るとは限らない。
どちらにも役ができないまま、山札だけが少しずつ減っていった。
芽衣の前には桜に幕、紅葉に鹿、萩に猪があり、花の前には松に鶴と柳に小野道風、それに菊と紅葉の青短が並んでいる。
結も花の取り札へ目を向け、青い短冊を指で数えた。
「これ、花あと1枚じゃない?」
「何が?」
「青いやつ」
花は答えず、場から札を取った。
「そういうの聞いたら教えてくれんの?」
「勝負中じゃけ」
「4人の時より冷たい」
「2人じゃけね」
遥香が山札の厚さを横から確かめた。
「かなり減りましたね」
山札がかなり薄くなった頃、芽衣の手札には桐に鳳凰と牡丹のカスだけが残っていた。花の残り二枚は分からない。
花は梅に鶯を場へ置き、続けて山札をめくった。
芒に月。
場には芒に雁がある。花が二枚を自分の前へ移すと光札は増えたが、まだ五点役の三光には届かない。
芽衣は残った二枚を見比べた。桐に鳳凰を出せば牡丹は場に残らない。牡丹のカスを出せば、花が牡丹に青短を持っていた時にはそのまま取られる。
それでも自分の前には、紅葉に鹿と萩に猪がある。欲しいのは、あと蝶一枚だった。
牡丹のカスを出して、山札から牡丹に蝶を引く。
それなら猪鹿蝶になる。
「悩んどる」
結が小声で遥香へ顔を寄せた。
「ですね」
「どっち出すんじゃろ」
芽衣が牡丹のカスを場へ置くと、花の指が一度だけ止まった。そのまま山札へ手を伸ばし、牡丹に蝶を願って一枚めくる。
芒のカス。
狙った蝶は来ず、牡丹のカスだけが場に残った。結が「ああ」と声を漏らしたが、芽衣は山札から引いた札をそのまま場へ置いた。
次の花が手札から出したのは、牡丹に青短だった。
場に残った牡丹のカスと重なる。
花は二枚を自分の前へ移し、山札をめくり終えると、取り札から菊、紅葉、牡丹の三枚の青短を抜き出した。
「青短」
結が机を叩いた。
「持っとったんじゃん!」
「持っとったよ」
「芽衣、それ分からんかったん?」
「分かりません」
「そりゃそうか」
花は三枚をそろえた。青短で、さらに五点。
結は今度こそ花の側へ座布団ごと寄った。
「もう決まったじゃろ」
「まだ1ヶ月あります」
芽衣が札を集める。
「でも10点差よ?」
「11点取れば勝てます」
結が役一覧へ目を落とした。
「そんな取れる?」
「取れますよ」
花が札を受け取った。
「取れたらね」
三ヶ月目の札を配り終えると、さっきまでより部屋が静かになった。雨はまだ降っていて、屋根から落ちる水が庭石を叩く音に、花が手札をそろえる音だけが混じっている。
十点差を返すには、五点の役を一つ作っただけでは足りない。かといって大きな役ばかり追えば、その前に花が止める。
まずは、取れる札を取る。
そうして芽衣の前には、松と梅の赤短が二枚並んだ。桜が場へ出るたび、花の視線も一度だけそこへ落ちる。
その間にも芽衣の取り札には萩に猪、紅葉に鹿、菖蒲に八橋、芒に雁が入り、タネは四枚まで増えていた。猪と鹿もすでにそろっている。花の前にも短冊が三枚と菊に盃があるが、まだどちらにも役はできていない。場へ桜のカスが出ると、芽衣は手札から桜に赤短を合わせて二枚を取った。これで松、梅、桜の赤短がそろう。
「赤短」
結がすぐに指を折った。
「花が10で、芽衣が5」
芽衣が花を見ると、向こうからも視線が返ってきた。
「こいこい」
結の身体が前へ出た。
「続けるん?」
「五点じゃ足りませんから」
「そっか。十点取られとるもんね」
花が手札を持ち直す。
「じゃあ、まだ終わらんね」
こいこいの後、牡丹が場へ出るたびに、花の視線が芽衣の取り札へ向くようになった。こちらにはすでに猪と鹿があり、タネも四枚。牡丹に蝶が加われば二つの役が一度に近づく。一方で、花の前にも短冊が増えている。自分の札だけを追えば、その間に花の役が先にできる。
牡丹も止めたいし、花の短冊も放っておけない。
結はもう役一覧をほとんど見ていなかった。視線は花の顔と芽衣の手元を行ったり来たりしている。
「さっきの四人の時と全然違う」
「二人だと、相手が取った札を全部見られますから」
遥香の声も小さかった。
山札と一緒に手札も減り、最後まで芽衣の手に残ったのは牡丹のカスだった。
二ヶ月目にも同じ札を場へ出し、牡丹に蝶を待った。あの時、山札から出たのは芒のカスだった。
花の前に牡丹はなく、残った手札は二枚。こちらには萩に猪、紅葉に鹿、菖蒲に八橋、芒に雁がある。
あと一枚タネが増えれば、それだけで役になる。
牡丹に蝶なら、猪鹿蝶まで同時にできる。
結が芽衣の手札を覗こうとして、遥香に袖を引かれた。
「見たらだめです」
「分かっとるよ。角度だけ」
「角度もだめです」
芽衣が牡丹のカスを場へ置くと、花の目がそこへ落ちた。
「芽衣」
「はい」
「引いたら強いね」
「札、めくります」
芽衣は山札へ手を伸ばし、一枚めくった。
牡丹に蝶。
一瞬止まった指を動かし、芽衣は場の牡丹のカスと合わせて取ると、自分の前にある猪と鹿の横へ蝶を並べた。
「猪鹿蝶、勝負します」
その三枚の横には、菖蒲に八橋と芒に雁もある。
「タネもです」
結が役一覧へ飛びつく。
「赤短5、猪鹿蝶5、タネ1」
指が三本折れる。
「11?」
「11です」
芽衣は札をそろえた。
花が自分の取り札を見て、それから机の端に置いていた点数を指でなぞる。
「10対11」
花の口元が上がった。
「負けた」
「芽衣の勝ちじゃん!」
結が座布団から半分立ち上がる。
「二ヶ月連続で花が勝っとったのに、一ヶ月でひっくり返った!」
「三ヶ月勝負じゃけ」
「でも10対0からじゃろ?」
花は牡丹に蝶を指先で軽く押した。
「これ引かれたら無理じゃね」
「二ヶ月目は引けませんでした」
「知っとる」
「だから今度は引きました」
「それは山札じゃろ」
「引いたのは私です」
「そういうとこ昔から変わらんね」
結が二人の間へ顔を出した。
「じゃあ、芽衣の方が強いん?」
花と芽衣は同時に結を見た。
「今日は芽衣」
「今日は私です」
「そこは二人とも同じなんじゃ」
花はもう一度札を集め始める。
「もう三ヶ月やる?」
「やります?」
「いや待って。まだやるん?」
結が慌てて時計を見る。
雨は、さっきより弱くなっていた。
* * *
花が札を赤い箱へ戻し始めたところで、机の上のスマートフォンが震えた。
「おばあちゃんじゃ」
画面を見た花が、そのまま通話をつなぐ。
「もしもし。うん、まだ家。……え、行く。四人おるよ。うん」
通話を切ると、花は赤い箱の蓋を閉めた。
「駅前でおばあちゃんと合流。鰻食べに行くって」
「鰻!」
さっきまで時計を見ていた結が、すぐに鞄へ手を伸ばす。
「結、雨降りよる?」
「うーん、ほぼやんどるね! 早う駅前いこ駅前」
「切り替え早いね」
「勝負は終わったじゃろ。今は鰻」
「結さん、負けたことはもういいんですか」
「まぁね。旬できたし」
「猪鹿蝶は?」
「遥香、それ今言う?」
花が笑いながら赤い箱を棚へ戻す。芽衣も座布団から立ち上がった。
玄関へ行くと、四本の傘から落ちた水はもう止まっていた。外へ出ても雨粒は細く、傘に当たる音も昼より軽い。
駅へ向かう道へ出ても、結の話はまだ三ヶ月勝負から離れなかった。
「でもさ、あの盃ずるくない?」
「ずるい?」
「ずるいじゃろ、すぐ二枚揃えて『月見で一杯』ってさー」
「それ、うちの真似?」
遥香が傘の下から結を見る。
「でも、見ていて楽しかったですよ。場に月とか桜があるときは、少しひりつきました」
「うちもー、また部活休みの日やろうや」
「ええよ。芽衣にリベンジせんといけんし」
「やっぱ悔しいん?」
「そりゃ悔しいじゃろ」
花は前を向いたまま歩いている。
「じゃけ、次やる」
芽衣は隣で傘を少し持ち直した。
「次も勝ちます」
「もう始まっとるじゃん」
結の声が、濡れた道に響いた。
駅前の商店街へ入る頃には、雨はほとんど上がっていた。濡れた舗道に店の明かりが細長く映り、その先で花の祖母が店先の軒下に立っている。
「おばあちゃん」
花が手を上げると、祖母がこちらを向いた。
「遅かったね。まだやっとったん?」
「うん」
「今日はどっちが勝ったん?」
花は傘を閉じながら、芽衣を指した。
「芽衣ー」
「今日は芽衣ちゃんか」
結の足が止まった。
「今日は?」
祖母が結を見る。
「ん?どうしたの?」
「今、今日は芽衣って」
「ああ」
祖母は店の暖簾をくぐりながら笑った。
「雨の日とか正月は昔からよう三人でやっとったけえね。花が勝つ日もあれば、芽衣ちゃんが勝つ日もあるよ」
「三人?」
「近所の子が他にも来よったんよ」
祖母は振り返りもせずに店の奥へ進んだ。
席へ着いてしばらくすると、蓋のついた重箱が並んだ。蓋を開けた途端、温かい湯気と一緒に甘辛いタレの匂いが上がる。ご飯の上に鰻が並び、表面には照りが残っていた。
「うわ」
結が箸を持ったまま身を乗り出す。
「これ、今日一番強い」
「また強さで測っとる」
花が自分の重箱を手前へ寄せた。
少し遅れて、大きな皿に切り分けられたう巻きも運ばれてくる。黄色い卵の真ん中に、細く鰻が巻き込まれていた。
遥香が一切れを箸で持ち上げる。
「だし巻き玉子の中に鰻が入っているんですね」
「う巻きじゃけ」
「名前は知っています。食べるのは初めてです」
「今日、初めて多いね」
「花札も、でしたから」
結が先にう巻きを口へ入れ、すぐに頷いた。
「これ好き」
「早いんよ」
「食べたら分かるじゃろ」
さっき花が花札で使っていた言葉に、芽衣は箸を止めた。
「またうちの真似しよるじゃん」
「やれば分かる、じゃろ?」
「食べたら分かるになっとるじゃん」
「だいたい一緒じゃん」
花の祖母が二人のやり取りを聞きながら、うな重を食べている。
芽衣も鰻を一口食べた。タレの染みたご飯と一緒に、柔らかい身がほどける。昼からずっと聞いていた雨音はもう遠く、店の外を通る人の足音が時々聞こえるだけだった。
「芽衣」
向かいから花が呼んだ。
「はい」
「次は勝つけん」
「次も勝ちます」
結が箸を止める。
「またやるん?」
花は当然のようにうな重へ箸を戻した。
「やるよ」
芽衣もう巻きを一切れ取る。
「やります」
遥香が二人を交互に見て、祖母は何も言わずに笑っていた。




