5 閑話休題:鏡の向こう
深夜の研究室に、ガタガタとした不穏な音がいつものように響いていた。
設計図や、シミュレーションのための試算が殴り書きされたメモ用紙。
それらが乱雑に積み上げられた部屋は、明かりを付ける手間さえ惜しむように薄暗い。
時折漏れる笑い声が、異様な空気をより際立たせていた。
その部屋の中心には、開発中の姿見が置かれている。
この研究室の主であるカイルは、微動だにせずそれを覗き込んでいた。
「今日も特に何も映らない……か」
鏡の中には、顎に手を当てて物憂げに呟く、美しい研究者の姿があった。
目元に浮かぶ寝不足気味の疲れさえ、若さでは出せない円熟した色気へと変えてしまう。
徹夜明けのくたびれた身なりさえ整えれば、年齢を重ねた男にしか出せない渋みと艶をまとって、見違えることを知る者は少ない。
美醜に無頓着なこの研究者に、身なりを整えるという概念そのものが希薄なのだから、それも無理はない。
とはいえ、極々まれに思い出したように風呂に入るのは、ひとえに研究費確保のためである。
「これまでの雇い主に比べたら、エレオノーラ様は寛大だからな。たまに風呂に入るくらいは仕方ないが、やはり時間が惜しい……」
風呂上がりの火照った体を持て余しながら、カイルは乱暴に髪を拭いた。
才能と美貌さえあれば、いくらでも機会を与える。
ヴァランシエールの若き女帝は、研究者にとっては実に都合の良い雇い主である。
なにせ、溺愛する妹リリアーヌをあらゆる邪な輩から隔離したいという執念のためなら、金も手段も惜しまない。
その結果、他では到底ありえないような予算が、カイルの研究には注ぎ込まれていた。
「そのうち、全自動洗身装置でも作るか」
ぽつりと呟く。
カプセル型の装置で、入った瞬間に短時間で身を清められる仕組みだ。
完成すれば、大幅な時短が期待できるだろう。
「うん、良い考えだ」
タオルを放り投げ、椅子に深く腰を下ろす。
視線は再び鏡へと向けられた。
どれほど時間が経ったのかは分からない。
体感ほどには、実際の時間は過ぎていなかったのかもしれない。
思考に沈んでいたカイルがふと顔を上げたとき――鏡が、不思議な光を放っていた。
「来たか……!!」
慌てて勢いよく鏡に飛びつく。
映し出されたのは、一人の少女であった。
「……ふむ。またこの少女か」
映像を確認したカイルは、再び思考の海へ沈みこむ。
「エレオノーラ様の命令で、遠隔地同士を繋ぐ通話装置を作ってはみたが……。いったい、これはどこなんだ?」
エレオノーラの命により開発していたのは、本来ならば任意の遠隔地と安全に交信するための魔導具である。
だが現状、この鏡が繋ぐのは「どこか」だけであり、その相手もまた、この少女に限られていた。
「繋がる場所の指定ができないと意味がないな。現状は『どこか』に『何らかの理由』で繋がるだけだ」
この少女の部屋に繋がるのは、これが初めてではない。
というより、今のところ、この少女の部屋にしか繋がったことがない。
しかし、そこがどこなのか。
少女が何者なのか。
それを知る術は、今のカイルにはなかった。
「装置に組み込む魔道数式の見直しと、座標指定用の再設計が必要だな」
そう結論づけ、鏡から目を離そうとしたとき――
鏡の向こうの少女が、こちらを凝視していることに気がついた。
「鏡……なんで???」
読唇術など心得てはいないが、おそらくそのようなことを呟いているのだろう。
「聞こえるか? 聞こえるなら、適当な数式でも書いて見せてくれ」
せめて、こちらの声だけでも届かないか。
そう思って、カイルは試しに鏡へ向かって話しかけてみた。
「ふむ……。お互いの音声を拾うのは無理か」
通信機としては、まだまだ先が長い。
極端に偏った思考の研究者は、他人の感情にひどく無頓着だった。
当然、突然の出来事に少女が抱いているであろう驚きや恐怖には、一切の興味を示さない。
彼の関心はただ一つ。
足りない機能を、どう補完するかだけである。
そんな落ち着いたカイルとは裏腹に、鏡の向こうの少女は、忙しなくあちらこちらと鏡に手をついていた。
しかしやがて、お互いの姿が映し出される以上のことができないと理解したのか、諦めたようにぽすりと鏡の前の椅子へ座りこんだ。
若いわりに、異常事態への耐性が高いようだ。
あるいは、かつてこれ以上の不条理を経験したことがあるのか……。
「見たところ、リリアーヌ様と同じくらいか……十五、六歳ほどだろう」
鏡の向こうで、少女は不思議そうに小首をかしげている。
服装も、部屋の調度も、この国の流行とはどこか噛み合っていない。
なのに、決定的に異国とも言い切れない。
まるで、似ているようで少しずつ何かがずれている世界を覗き込んでいるようだった。
二人の不思議な邂逅は、この後も断続的に続くことになる。
彼女が、かつてこの世界に召喚され、運命に翻弄された隣国ゼノス帝国の聖女サクラであると、カイルが知る術はまだない。
今はお互いに、ただの得体のしれない鏡の住人同士であった。
サクラの話はこちらになります。読んでなくても大丈夫ですが、気になる方はどうぞ~
②聖女とカニさんの悲劇
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