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赤い晩餐を口にした  作者: 宮山悠


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Ep.7 名のある果実

夜は、ほとんど眠れなかった。


理由ははっきりしているはずなのに、言葉にできなかった。あのコイン。有馬の笑顔が一瞬だけ引っ込んだこと。

そして、「異物」という言葉が、まだ頭のどこかに引っかかっていた。


肉の感触が、まだ口の奥に残っている気がする。


味ではない。もっと曖昧で、形のない違和感。


胃の奥が、静かに波打っている。吐きそうで、吐けない。


何度も目が覚めて、そのたびに水を飲んだ。


それでも何も変わらなかった。


気がつけば、窓の外が白みはじめていた。五時。早すぎる朝だった。


私はベッドから起き上がり、持ってきた服に着替えた。


少し迷ってから、ベルを鳴らす。


こんな時間に呼ぶべきではないと分かっていた。


それでも、部屋に留まり続ける方が、落ち着かなかった。


一分ほどして、控えめなノックの音がした。

「失礼いたします。」


扉が開く。


「おはようございます。何かご用でしょうか。」


南は、いつもと変わらない声で言った。


時間という概念が、この人にはないように思えた。


「あの……こんな朝早く申し訳ないのですが、トマト畑を案内していただけませんか。」


南は、ほんの一拍だけ間を置いた。


「ええ、もちろんでございます。」


屋敷の裏手へ出ると、空気が変わった。


夜の名残が、まだ地面に残っている。


どうやら、夜中に雨が降ったらしい。土は柔らかく、水分を含んでいる。


靴の裏に、ゆっくりとまとわりつく感触。


草の匂いに混じって、どこか甘い匂いがした。腐る直前の果実のような。


案内されたのは、小さな車だった。


屋敷内を移動するためのものらしい。エンジン音は小さく、揺れだけがはっきりと伝わる。


道は整っていなかった。時折、車体が小さく跳ねる。


そのたびに、内臓がわずかに揺れる。気持ち悪さが、また戻ってきた。


ぼんやりしているうちに、視界が開ける。


トマト畑だった。


写真で見た場所と、同じはずだった。


けれど——何かが違った。


広がっているのは、整然と並んだ畝。規則的に配置された支柱。均一に実る赤。


すべてが、整いすぎている。自然のはずなのに、どこか作為的だった。


車を降りる。


足元の土が、わずかに沈む。


私は、畑の奥へと歩き出した。


「少し、散歩してきます。」


「かしこまりました。こちらでお待ちしております。」


南は、それ以上何も言わなかった。


畑の中には、一定の間隔で札が立っていた。


名前が書かれている。


シノン、カイト、シュウタ、サヤ……


どれも、人の名前だった。品種名ではない——そう思った。


風はほとんどない。


それでも葉が擦れる音だけが、かすかに続いている。


しばらく歩く。


そのときだった。


煙の匂いがした。タバコの匂い。


この場所には、あまりにも不自然だった。


私は匂いをたどって進む。


そして——見つけた。


畝の影に、一人の人影。


有馬だった。


地面に座り込んでいる。膝を抱え、身体を小さく丸めていた。


服は濡れている。髪も、肌も。まるで、一晩中ここにいたかのように。


足元には、吸い殻が散らばっていた。何本も。異様な数だった。


右手に持った煙草は、火が消えかけている。その指が、細かく震えていた。


視線は、どこにも合っていない。一点を見ているようで、何も見ていない。


「……おはようございます。」


声をかける。


一瞬、反応が遅れた。


「ああ……」


掠れた声。


「大丈夫ですか。」


少しの沈黙。


それから、笑った。


「全然……大丈夫じゃないわ……」


乾いた笑いだった。


「全然、ダメ……」


煙を吐く。その動作だけが、やけにゆっくりしている。


「……ここ、やばいよ。」


唐突に言った。


私は何も返せなかった。


「知らない方がいい。知らないままでいる方が、絶対にいい。」


有馬は地面を見たまま続ける。その声は、掠れていた。


「……何があったんですか。」


私が聞くと、彼はようやく顔を上げた。


「やめとけ。」


低く言う。


「深入りすんな。」


その目だけが、はっきりしていた。


記者らしい、鋭い目。軽い口調の裏側に、 本物の恐怖が透けている。


「普通にしてろ。普通に食って、普通に帰れ。それが一番いい。」


その言葉は、忠告というより——逃げ方だった。


私は何も言えなかった。


そのときだった。


遠くから、足音が近づいてくる。速い。


「有馬様!」


声が響いた。


数人の従業員が走ってくる。表情は崩れていない。けれど、動きだけが速い。


「ご無事で何よりでございます。」


その声に、安堵の色はなかった。ただ、事実を述べているだけだった。


「昨晩からお姿が見えず、皆で捜しておりました。」


そう言いながら、有馬の腕を取る。立たせようとする。


有馬の足は、力が入っていなかった。わずかに震えている。


「……探してた?」


小さく呟く。


笑っていた。信じていない笑いだった。


そのまま、半ば支えられるようにして、車へと連れて行かれる。


振り返らない。一度も。


私は、その場に残された。


畑の中で、ひとり。


名前の札が、規則的に並んでいる。


風もないのに、葉だけが揺れていた。


——トマトティー。


ふと、その言葉が浮かんだとき、同時に身体の奥が小さく波打った。


“当たり”のご褒美。あのコイン。口の中にあった、異物。


有馬が笑顔を引っ込めた、あの一瞬。


私は、ゆっくりと息を吐いた。


あれは、飲まない方がいい。


理由は説明できない。けれど——身体が、それを知っていた。


その後、畑を一周した。落ち着くためだった。


けれど、歩けば歩くほど、同じ場所に戻ってきているような感覚があった。


やがて、南の声が届く。


「羽瀬川様。そろそろ朝食のお時間でございます。」


振り返る。


彼女は、最初と同じ位置に立っていた。まるで、動いていないかのように。


「……もう、そんな時間ですか。」


「はい。お戻りになさいますか。」


私は、畑をもう一度だけ見た。


赤。整いすぎた配置。名前の札。そして——何も感じないはずの場所に、残る違和感。


「戻ります。」


それだけ言った。


車に乗り込む。


振り返らない。


振り返るべきではない気がした。


——少なくとも、今は。もう二度と、踏み入りたくない場所だった。

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