66:僕の気持ちなんて自分が一番わかりません4
「兄でしたら左翼棟だと思います。今もまだいるかはわかりませんが。見てまいりましょうか?」
隣室から現れたアイナは、シグヴァルドが抱えているベルトルドを見て目を瞠る。だが余計なことは口にせず、訊ねられたことにだけ簡潔に答える。
「いい。自分で行ってくる方が早い。顔色が悪い。本人がルドがいいと言っているから、ルドに家まで送らせる」
「わかりました。少々お待ちくださいませ」
言ってアイナは部屋に戻り、すぐに戻ってくるとベルトルドの肩にストールを掛けた。
「お手数をおかけして申し訳ありません、シグヴァルドさま」
「いい、玄関に馬車の手配を頼む」
「かしこまりました」
ウィッグを預かると言ったアイナと別れ、渡り廊下から中央棟を経て左翼棟へと向かう。すれ違う人たちにじろじろと無遠慮の視線を投げられていたが、誰かからご注進が入ったのか、いくらも行かずルードヴィクがあわてて飛んできた。
「閣下! ベル!?」
「騒ぐな。顔色がよくなかったから、大事を取らせてるだけだ」
「大丈夫かベル?」
「ごめんなさい、兄さま」
「確かに顔が青いな。貧血か?」
手を伸ばしてきたルードヴィクに、ベルトルドは素直に抱きつく。
「殿下……穴が開きます」
「穴が開くくらいがなんだ。ルド、おまえ、もちろんわかってるよな? もうそろそろ俺に従うのか、イングにするのか、はっきりしろ」
ベルトルドを挟み、二人は顔をつきあわせる。睨まれたルードヴィクが嫌そうに顔を背け、返すシグヴァルドの声がとても冷ややかだ。
「やっぱり猫被ってたんですか」
「気を遣ってやったんだ」
うんざりした調子で返したルードヴィクに、シグヴァルドは鼻で笑って離れていく。
「――すみません、閣下のお手を煩わせて」
「いい。寝不足もあるかもしれん。元はといえば俺が、魔方陣に詳しいと聞いて、ベルトルドに相談に乗ってもらっていただけだ。ベルトルドを怒ってやるなよ」
「魔方陣ですか?」
「詳しいことはあとで話す。アイナに馬車を準備させてる、送ってやれ」
「わかりました」
「帰りに第三連隊と警邏隊に行ってこい。明日は片っ端から拘束させろ。文句が出たら俺の指示だと言うように伝えておけ。予定通り明日で終わらせるぞ」
ルードヴィクが頷くと、シグヴァルドはベルトルドの目をのぞき込む。
「ベルトルド、なにも考えずにゆっくり寝ろ。心配するようなことはなにもない」
「ご迷惑おかけしてすみません」
くしゃりと頭を人なでして、シグヴァルドの大きな手が離れていく。自分で帰りたいと言ったのに、離れていく姿が寂しい。
離れていくシグヴァルドを目で追っていると、じゃあ送っていくかと、ルードヴィクが揺すり上げるようにしてベルトルドを抱えなおした。
「ルド兄さま、僕、歩けるよ」
「いいから、つかまっとけ。――子どもの頃を思い出すな」
「いつも二人で兄さまに抱っこされてたもんね」
「アーシャは逃げないように捕まえてただけだったんだがな。アーシャを抱っこしてたら、僕もっておまえが泣きだして」
「そうだったっけ?」
「アーシャのやつ、遊びに行くなら一人で行けばいいのに、いつもおまえを連れて行くから、探しだしても連れて帰るのが一苦労で。アーシャをおんぶして、おまえを抱っこして……。おまえらの子守で鍛えられてたから、兵役の基礎訓練の方が楽だったくらいだ。それで、兵役から戻ったら双子がすっかりでかくなってて」
廊下を歩きながら昔話を始めたルードヴィクに、ベルトルドは小首を傾げた。
「兄さま、殿下の兵役にも付きあったから、結局三年半こっちにいたんだっけ? 兄さまがたまにしか会いに来てくれなって、悲しかったな……」
「おやつが食べられなくなったからだろ」
「ぅええ、違うもん」
口を尖らせたベルトルドに、ルードヴィクが明るい声で笑う。
「大きくなったもんだ。いつまでも子どもだと思ってたんだがなあ」
「ふふ、兄さま、おじさんっぽい」
「そりゃあなぁ、同僚にも子持ちが増えてきたしな、もうおっさんだろ」
「兄さまも結婚するの?」
「そりゃいつかはな」
ぎゅうっとルードヴィクの首にしがみつく。
「どうした?」
「結婚しちゃったらもう、僕たちに構ってくれなくなりそう」
「そりゃこっちのセリフだろ」
意味がわからなくて目をあわせると、ルードヴィクが苦笑した。
「なんだ、自覚なしか」
「……兄さま?」
ベルトルドが小首を傾げてもそれには答えず、それで? とルードヴィクは話を変えた。
「どうして具合が悪かったんだ? 寝不足ごときで具合が悪くなるようなタイプじゃないだろ?」
「……お祖父さまがもう少ししたら、トゥーラに到着するって」
今考えれば、シグヴァルドから婚約の申し入れがあり、祖父は気づいたのだろう。話を聞けば、双子が入れ替わってパーティに出かけたのはわかったはずだ。
領地に帰ってきた祖父は今までになく怒っていた。怒られてベルトルドは泣きながら屋根裏部屋に逃げ込んだ。いつもならそういうとき、探しに来たルードヴィクが抱きあげて、頭をなでて甘いお菓子をくれた。そして従兄に手を引かれて祖父に謝りに行くのが恒例だった。でもあの時期、ルードヴィクは兵役に行っていて傍にいなかったのだ。
ためらいがちに口にしたベルトルドに、あーとルードヴィクが唸った。
「あの時のオヤジさまの怒りはすさまじかったって、家人からは聞いてたが……」
ルードヴィクがいなかったからベルトルドは謝るタイミングを逸したし、祖父は許すタイミングを逸したのかもしれない。いつもは短期間でいなくなる祖父が、あのときは長く逗留していて、ベルトルドはその間ずっと屋根裏で過ごしていた。アストリッドも一日二日は一緒にいてくれた覚えがあるが、すぐに飽きて遊びに行ってしまった。
それでなくても怖い祖父が怒っていて、ベルトルドはずっとビクビクして暮らしていて、その中でシグヴァルドとの出会いはいけないことだと思い、忘れていったのだと思う。
「悪かったな、一緒にいてやれなくて」
「ううん、兄さま兵役だったし」
「でも、オヤジさまはおまえたちのこと心配してたんだよ。それだけはわかってやってくれ」
「……うん」
明らかにわかっていなさそうな従弟の背を、ルードヴィクはあやすように叩く。
「今回は俺も一緒に怒られてやるから、心配するな」
「殿下も一緒に文句言ってくれるって」
それは……と絶句して、それからルードヴィクは苦笑した。
「オヤジさまの心臓が止まりそうだな」




