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4 4014 遺体検案報告及び考察

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「……4014、サイコメトリー完了しました」

 遠くから響く自分の声。

 エタノールと中性ホルマリンの匂いに混じる、明確な死んだ人間の匂い。それから視覚が戻ってきて、遺体検案室のタイル張りの床が目に映った。

 他人の記憶から現実へ戻ってくる際に必ず感じる寒気に襲われながら、黒樹有紗は立ち上がろうとした。

 だが、疲労困憊のあまり立てない。やむなく隣のステンレス解剖台にもたれかかった。この身元不明の遺体で今日七人目……いや、八人目か? 遺体の生前の記憶にシンクロしすぎて、時系列を把握できていない。

 新人に、こんなに遺体が回ってくるなんて、この国は病気だ。

 警官と、ここの検察医チーム主任が立ってこっちを見ている。少しして、黒樹は彼らが自分の報告を待っているのに気付いた。

 黒樹は、今まで感じていた情景を想起して、どうにか言葉にする。

「……4014の直接的な死因は、幻覚剤の過剰投与による脳血管障害……頭を開ければ壊死巣なんか見つかるかもしれません」

 黒樹は一瞬言葉を切って、頭の中から死者の感情を押しやり、報告を続ける。

「蛆はなし。一月ですからね。死後硬直は緩解済みで、ガスや末端組織の乾燥具合から死後約一週間と推察します」

 黒樹は遺体の手首を掴む。

「指紋の判別は不可能です。口腔内は上下とも総義歯で、残存歯牙はありません。歯科の治療既往歴からの特定は不可能です。その他、身元が確認できるような特徴的な手術痕等は発見できませんでした。遺伝子を調べれば或いは――」

 主任が手で黒樹を制した。

「いや、君の報告を信じよう。この身元不明遺体4014は名無しの男だ」

 主任が素早く検案書を書き終えた。そして、

「事件性はなしだ。司法解剖の必要性はないと判断する」

 そう言って、場を締めくくった。

「ちょ……!?」

「ポリさんがたも、それで問題ないな?」

 火のないタバコをくわえて、壁際に立っていた警官は興味なさげに頷いて、歩いて出ていった。

 黒樹は解剖台に手を突いて立ち上がる。

「ちょっと、主任! 事件性がないって……何聞いていたんですか?」

 主任はうるさそうにしかめ面をする。

「何でも屋と名無しの話だ」

「じゃあ、なんで事件性なしなんて判断になるんですか! 人が死んだんですよ!」

「人は死ぬものだ」

 黒樹は眉を吊り上げた。

「麻薬をばらまいて、この業者は公衆衛生を汚染したのですよ」

「おまえの報告によると、営利目的ではないらしいな。大した害じゃない」

「でもこの名無しの男を殺したようなものです! 自殺教唆の線で攻められるでしょう!?」

「あのなぁ、名無しの男は、初めから生きていなかったんだ。出生届諸々のアイデンティティが確認できない。生きてない人間は、死なないんだ。おまえは感情移入しているんだ。落ち着けよ」

「サイコメトリーで感情移入するほどの素人じゃありません!」

 黒樹は叫んだ。主任は口をへの字に曲げて、黒樹に歩み寄る。

 そして、遺体の顔を示した。

「仏の顔を見てみろ。幸せそうじゃないか」

 遺体は死後一週間で、皮下に腐敗ガスが蓄積して、生前の人相の判別は難しい。だが、法医学者には遺体が笑いながら死んだのが分かる。

「幻覚剤中毒で亡くなれば、幸せそうな死に顔にもなりますよ」

「いいか黒樹、おまえもプロだ。世の中の仕組みぐらい、見えてきているはずだ。世には死んでも誰も困らない人間というのがいるんだよ」

 黒樹が聞くことを望んでいない台詞を、主任は突きつけてきた。黒樹は蒼白な顔で彼に問う。

「じゃあ、何のために私にサイコメトリーやらしているのです?」

「そりゃ、書類は作らなきゃいけないし、おまえも給料分は働きたいだろ?」

「私はこの何でも屋のような業者を断固として取り締まるべきだと思いますけど!」

「そんな余力も金もない。周りを見てみろ」

 遺体検案室の中には無数の名無しの男と、名無しの女が転がっている。毎日、身元不明遺体がどこからか運び込まれてくる。とても、一人の名無しに構っている余裕はなかった。

「監察医制度のある東京ですら飽和状態なんだ。うちが率先して捜査? ……とてもとても。我々は剖検率1%の県にいるんだぞ」

 主任が吐き捨てた。

「本当に凶悪な事件のみ相手にしなきゃ儲けは出ないんだよ。現場もそれを望んでいる。変な正義感振りかざしてどたばたやっても、敵が増えるだけだ」

「主任の言う正義とは何なのですか? 検視は、国民から託された責務なんですよ」

「いいか、完全福祉保障国家なんていうのは、バブル期の戯言だ。昨今では、小さな政府というのがブームなんだ。誰も得しない正義なんて害でしかない」

 国の財政が破綻直前の今、あらゆる公的機関は縮小に向かっている。警察の部分的な民営化すら議題に上がっている時代だ。

 検案、監察の分野がそれと無縁でいられるはずもなかった。

 とはいえ、これには色々考えなければならない問題があるのではないか。黒樹は思う。

「正義は指針であるべきです。それを曲げてしまっては、人は何を目指して歩めばいいのです? ……主任の正義は間違っています」

「いいだろう。これから『正義』の話をしよう」

 そのとき、五時を知らせるチャイムを時計が鳴らした。

「おっと、閉店時間だ。続きはまた来週だな。お先に失礼させてもらうぞ」

 主任はさっと踵を返した。着ていた白エプロンを床に放り捨てると、外套を肩に引っかける。

「電気はちゃんと消せ。それから、戸締まりをしっかりな。仏さん盗まれちゃ、仕事にならんからな」

 言い残すと、彼は風のように去って行った。


 黒樹は物言わない骸と取り残された。出来ることはなにもなかった。

 誰も正義を遂行しようとしなくても、自分はやらなければ。やろうと努力しなければ。殺された者の無念を晴らさなければ、一体何のためにこの道に進んだのか分からない。

 彼女は唇を噛んで思った。

 しばらくそうした後、身元不明遺体4014にビニールシートをかぶせた。

 名無しの男は、名無しの死体になったところで誰にもその名を呼ばれることはない。誰にも相手されることはない。

 ふと思う。

 果たして、名無しの男は死ぬ前に、その幻覚の中で名前を手に入れることはできたのだろうか? LSD中毒者のノイズだらけの思考から、黒樹が読み取れたものはなかった。

 名前を得ることができたのかもしれない。

 幻覚と妄想の世界でのみ、名無しは名を持ち得るのだから。

 とすると、死体がここにあること自体が、何でも屋の見せた徳なのだろうか?

 何でも屋のメッセージが頭の中で蘇る。

 法には反しているが、道徳的には善き存在であることの叫び。社会の弱者の叫び。

 こうでもしなければ、彼らの叫びは決して届かない。

「ふざけるな……殺人者……」

 黒樹は呟く。

 もう、何が正しいのか分からない。

 それを判断するには、あまりに疲れている。

 帰ろう。

 彼女はよろよろと部屋を出て行った。


 ライトが端から消えていく。やがて、遺体検案室は闇に包まれた。



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