3 またのご来店をお待ちしております
給湯室で助手が湯呑みを洗う音が響いてくる。
「生きてさえいれば……物事は好転すると思っていた。だが、わしは間違っていた……。ずっと昔に死んでいればよかった……」
「死んでいればよかった……それも選択ですね」
ショックと疲労で麻痺した頭で、店主は相槌を打った。
そして、はっとする。
「今、なんて言いました!?」
「こんなに苦しむのなら、もっと昔に死んでおけばよかったと――」
名無しの男がぼんやりと繰り返す。
店主は立ち上がる。その目に狂気じみた陽気さが蘇る。その頭の中で、あっという間にアイディアが具体化していく。
「いや、むしろ、それはいいアイディアですよ。完璧です!」
笑いがこみ上げてくる。そこで、店主は笑いながら客に語る。
「完全に問題を解決する方法を思いつきました! お客様は名前を手に入れます! そして、世界中の人間があなた様の名を口にします!」
「馬鹿な……ありえん」
「ありえます! 可能です! 命さえかければ! 人間の死の間際には、生きている間に為しえなかった境地へ達せられるのです!」
店主は、名無しの男を祝福するかのように両手を天井へと振り上げる。
給湯室から助手が音もなく出てきて、店主のベルトを引っ張った。店主は手を掲げたポーズのまま後退していく。
「命をかけるって、依頼人を殺すつもりですか?」
助手が鋭く店主に囁きかける。
「名前がないんじゃ、生命保険もかけれないでしょう? 殺っても旨味ないですよ」
「世の中、金が全てだと思っちゃ、お終いだよ」
店主は客を見つめて答える。名無しの男は、がっくりと項垂れていて、店の二人が不穏なことを口にするのにも気付く気配はない。
「いいか、マクロで考えるからややこしいことになるんだ。問題を思い切り縮小すれば、解決は簡単だ」
店主はにこにこしながらオフィスに戻ると、壁際の傾いたファイル・キャビネットへ手を伸ばした。キャビネットから書類や雑多な置物を掴んでは、投げ捨てていく。
「ええと、麻のつく健康薬はどこにしまったかな?」
片端から書類を引きずり出しては放り出す。狭いオフィスは紙片舞い飛び、収集つかないカオスへとなっていく。キャビネットがあらかた空になったところで、店主は求めていたものを見つけた。
ビニール袋を取り出す。中には注射器と、それに装填して使う薬剤カートリッジが詰まっている。
「ありました! これです! これこそが、お客様の問題を解決する魔法の薬です」
魔法の薬。
その正体はLSD(リゼルグ酸ジエチルアミド)。
極めて強力な幻覚剤で、理性による抑制を解除し、多幸感を味合わせる。当然、法律によって麻薬指定されているものだ。
さらに、使用者を暗示にかけられやすくするという面も持っている。
その効力は折り紙付きだ。冷戦時代、防諜機関の人間はこれを自白剤として使い、一昔前には、カルト教団がマインドコントロールに使用していた。
「さらに、この珠をセットで差し上げましょう」
店主はグレープフルーツ大の銀色の珠を取り出し、デスクの上に乗せる。
「薬を打って、この珠を見てさえいれば、あなた様の望みは叶います。見ているだけです。それだけで、あなた様は名を得ます」
店主は、自分自身に暗示を掛けることをほのめかしているのだ。
普通の鏡を用いても、自身に暗示をかけることは可能だが、何でも屋はさらに十分な深度に意識を落として、効果を確実にするため銀色の球体を用いる手法を編みだしていた。
鏡の珠は、見る人物を拡大して写している。LSDを用いた際、使用者の自意識を無限大に拡張する。意識を自動的に願望充足の幻覚へと誘っていく。
魔法の薬は、悪魔の誘いであり、救いであり、そして未知。名前の欠落という問題を解決する圧倒的な力であった。
力尽きていた名無しの男も、この薬の持つ魔力的な雰囲気を察したようだ。
「わしは……注射なんてできんよ」
おどついた口調で言う。
「別に注射の出来は大した問題ではありません。静脈に入ればベスト、入らなくても、じっくりと効果が出るだけのものです。人体に入った全ての物は静脈に流れ込みますので。そしたら、夢の世界へトリップです」
店主はひたすら陽気に喋る。LSD投与の結果は知っているが、考えない。悪いことについて考えても、きりがない。初めから自分のような人間はどろどろと汚らしく、悪臭を放っている。それが論理なんてものを口にしてどうなるというのだろう。
助手が後ろから店主を引っ張った。
もう給湯室に入るのも面倒なのか、店主は首だけを玉すだれの向こうへ突き出す。
「店主、麻薬でお客様にラリっていただいて、お茶を濁す手ですか?」
「依頼を完全に達成するんだよ」
「客が、名前を手に入れ、それを周りから呼ばれているのは、自分の妄想だと気付いて、文句言ってきたらどうするんです?」
「気付かなければ言ってこない。彼の社会に対する信用度を考えてみろ。どうして彼が、わざわざ主観と客観の差を気にするんだ?」
助手の目がスリットのように細まる。
「なるほど。あと、名無しの男はLSD三十単位分の金は持ってませんよ」
「そこは投資だよ。経営の巧みな店は、ときに金銭的な儲けを度外視するんだ。いいから、黙って見てろ」
店主は低い声で助手に言い、視線を客へと戻した。
客は手に持つ注射器と魔法の薬が重すぎるかのように、手をふるわせていた。
「用量用法に関しては、詳しいデータがないのでどうとも言えません。そこで、どれぐらい使うのかはお客様にお任せしましょう」
店主は客の手を支えて、ビニール袋をしっかり握らせる。
「使ってみて、気に入らなかったり、社会のルールに合致しないと感じたならば、やめればいいです。使ってみて、これなしでは決して手に入らない、優しい世界へ足を踏み入れるのがやめられなくなったら、さらに打てばいいのです」
「しかし……わしの経済状況は知っているだろ? これに合う代価をわしは払うことが――」
店主はサービス業人種の浮かべることの出来る最高の笑顔を浮かべて、札入れと通帳を客の懐に戻した。
「お代は結構です。何かのサービス期間中だと思ってください」
この振る舞いに、客はぽかんとする。
「なぜだ?」
「代わりに、メッセージを伝えていただこうと思いましてね」
「メッセージ? 伝言役か? だが、わしは名無しだ……、当然、信用もゼロだ。わしの言葉に耳を貸す物などありはしない」
「だからこそ、伝えることの出来るものもあるのです。よき市民達に私たちのことを、少しでも理解してもらうのです」
ビジネスは終了だ。
店主は玄関先まで客を送る。
「頑張ってください。継続は力です」
店主は笑って続ける。
「まあ、すぐにやめられなくなると思いますが」
客はどのような反応を返すべきか、迷っていた。だが、やがて頭を下げた。
「……ありがとう」
「いえいえ。お客様に喜んで頂ければ、これ以上の幸せはありません」
客は幸せ。店主も幸せ。ウィンウィンシチュエーションだった。
客は去って行く。客が薄暗い廊下の果てに消えるまで、店主は見送っていた。




