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2 お客様の望んでいるもの

 給湯室も非常に狭苦しく、客から距離にして二メートルも離れていない。だが、オフィスと給湯室の間の玉すだれでフィールドは区切られている。こうやって別のフィールドに身を置くことで、プライバシーは確保されるし、依頼内容は客観的に見えてくる。

 一方で、ほんの二メートルしか移動していない自分がそんな気分になることは、人間が粗雑な感覚器の奴隷だと言うことの証明ではないか、と嫌な気分になることもある。

 何事にもメリット、デメリットはあるものだ。

 狭苦しい給湯室で、店主と助手はそれぞれの居場所を探した。

「今のは何だ? ツンデレか?」

 店主は流し台の縁に腰掛けると、ひそひそ声で少女を責める。

「いいえ。懐疑的な独我論ですね」

「おまえのせいで、場の流れが変わっちまった! とびきり厄介な依頼を受ける破目になりそうだぞ!」

「店主、依頼人を選べる身分じゃないでしょう?」

 助手は冷たい口調で、店主に現状を思い出させた。

 客を追い払っているような店屋は、すぐに潰れてしまうもの。マーケティング用語で、それを自滅的機会喪失と呼ぶ。お客様は神様並みに大切なのだ。

 ただでさえ、何でも屋の資金繰りは苦しかった。御上に睨まれて、何でも屋から客足が遠のいているのだ。

 店主は舌打ちすると、やむを得ずこの件に本腰を入れる決心をした。名無しの男の抱える問題を直視する。

「それにしても……名前のない人間とは。世界は広いな」

 人は目に付く物に名をつける生き物である。人気アイテムには複数の名前が付いて、争われることがしばしば。商標登録しかり、領有権の曖昧な島しかり。

 対して、高い価値を持ちながら、名を持たない可算名詞を思い浮かべようとしても、そんなもの浮かんでこない。

 人間は名をつけることで存在を解釈可能なレベルへと持っていく。

 言うなれば、現代の世は記名時代ノーメンクレーチャー・エイジだ。名無しであるということは、この社会に参加できていないということになる。

 考えれば考えるほど、恐ろしくなってくる。

 名無しは、名を持たないがゆえに、存在として不在なのだ。

「……もしかして、あの男の戸籍謄本の情報を改竄する程度ではダメなわけ?」

「お役所側に、名前のない人間がいるだなんて概念があるはずもないので、無理だと思いますよ。ゼロを変更することは出来ません。どんなに掛けても割ってもゼロのままです」

「うげえ……」

 助手の冷静な助言に、店主は呻いた。

 名無しの男は、名無しであるため、この社会に記述される手がないのだ。言うなれば、メタ名無しと呼ぶべき状態にあった。

 人類社会が静止した面であるなら、情報をいじるだけで事足りる。だが、残念なことに人類社会は無数の自我が、ここの欲望に従い、好き勝手に動いているカオスだ。

 そのそれぞれの個体に、新たな概念として名無しの男の名を挿入しなければ、根本的な解決とはなり得ない。

 つまり、依頼内容は『名前』が欲しいのであって、『偽名』が欲しいのではないのだ。記録上に新しいパーソナリティを作り上げ、時系列的にあり得ない名前を出現させても、周囲と同調していなければ意味がない。

 皮膚移植のようなものだ。あからさまな偽物は拒否され、腐り落ちてしまう。

 名無しの男の名前が出現すると同時に、社会へその存在を印象づけ、彼がそこにいることを認めさせる。その名を聞いたとき、社会という群集有機体が男のことを思い浮かべる。

 名前とは、それだけの力を持たなければならないのだ。

「一体、どれだけの手間がかかるのか分からないな」

「ネットは使えませんか?」

 助手が言う。

 店主は、手近な倍力機構、インターネットに関して、思考を巡らせた。一個人が、理論的には世界中の人間に情報を送ることが出来る。インターネットで反響を起こして、価値観そのものを変更できるだろうか。

「ちょいとよくできたトロイの木馬型ウイルスがあれば、増殖しながら世界へ広まってくれるでしょう。支出の方も安上がりです。すぐに世界中の人間の注目と恨みを集めることができますよ」

 少女は、可愛らしくも破滅型の笑みを浮かべて言った。

「前例はありますよね」

「ああ……でも危険だよ。ネットの世論がどう動くか予測が付かない。人類は未だにネットの社会力学を解明していないんだ。ことわざにもあるだろ、孤独を大声で叫んではならないって。気軽にネットという怪物にエサをやって、変な風に成長されると怖い」

 ネットでは、文無しの若者が一夜にして世界的富豪と化す一方で、その全く逆の現象も起こりえる、極めて不安定な世界である。

「スパコンでもあればシミュレートできるかもしれないが……あれの使用料は半端ないからな。客にそれだけの金はあるのかね」

 店主は言いながら玉すだれをくぐって、客の前に腰掛けた。助手も続く。

「この依頼、多少は興味が惹かれましたが、まだ十分に気が乗りませんね~」

 店主はデスクから電卓を取り出した。

「どのくらいの見返りを頂けるのか教えて頂ければ、もうちょっとぐらい、やる気も出るかもしれません。ご予算に関してお話ししましょう。まずは依頼料と、人件費、交通費用をベースとしまして、加えて『何でも屋消費者依頼基本法』に基づき、依頼料の12.2%をいただき――」

 店主は、架空請求詐欺をやっていた時代に鍛えたトークで、客から可能な限りの金を吸い上げる作業に入る。

 名無しの男は懐に手を突っ込むと、通帳と札入れをデスクの上に投じた。

「これはわしの全財産だ」

 機先を制された店主は固まり、目を丸く見開いた。

 なんと。いきなり全財産を広げてくるとは。そこまで覚悟を決めているのか。

「どれどれ」

 店主と助手は同時に手を伸ばす。

 名無しの男はそれなりの年齢だ。退職金など、まとまった財産を持っていておかしくない。

 店主は預金通帳を、助手は札入れをそれぞれ手に取り、中を改めた。そして、

「少なっ!」

 異口同音に言った。

「名前のない人間を誰が雇うというのだ?」

 名無しの男の、自分の胸元に視線を落としたままの呟き。それは氷の針のように店主の耳へ届く。

 それはそうだ。名前のない人間は、まともな職業に就くことができるはずがない。保険をかけることも生活保護も受けることもできまい。名前のない人間を世間が相手にするはずがないのだ。

 それどころか、住む所さえ確保できないだろう。ちゃちなマンションでさえ、借りるには身分が要る。

 一体、どれほどの苦しみに彩られた人生であったことだろう。眼前のくたびれた男を見ながら店主は思う。

 名前という、コミュニケーションの根底にあるものが欠けているばかりに。

 いや、そんな物は名無しの男の人生から欠落した物の、ほんの一側面に過ぎない。

 この社会は、名のない人間を経済活動はおろか、人間的な活動に参加させるつもりなど、毛頭ないのだ。

 マジョリティは要件を満たしていない存在に酷だ。弱者はマジョリティを基底とした社会の異端であり、マジョリティにとって、いつかは自分がそうなってしまうのではないかという潜在的な恐怖である。

 そんなものを手近に置いて見ていたいマジョリティはいない。弱者は迫害され、隅に追いやられる。

「名無しだなんて……」

 店主は思わず漏らした。何でも屋をやるうちに、いろいろ汚いもの、胸のむかつくものを見てきたが、これは酷い。店主の心は鉛のように沈んだ。

 名称的なハンディキャップ……。おかしな名を親につけられ悩む者は多い。

 だが、名前がないことは世の名称的な障害者の中でも、最も深刻な部類に入る。他者に名前を呼ばれることはないのだ。

 周囲とインタラクとできずに、生きた今までの人生。余人には想像すら難しい。

「お願いする……懇願する……わしを救ってくれ」

 名無しの男は顔を伏せたまま、ぶつぶつと言っていた。とても見ていられないものを感じて、店主は目を逸らす。

「あなた様を必ずや救いましょう! ……なんて安請け合いするのは危ないですね」

 店主は客の所持金を見て、自分でできることを考えた。

「軍資金がないというのは、困りましたね……。わたくし、もっと潤沢な活動資金がある依頼に慣れておりまして。今日お持ちいただいたお金を紹介料という形でお支払い頂けましたら、より割安で小回りのきく同業者など紹介いたしますよ。どうです?」

 小狡い笑みを浮かべて、店主は逃げを打とうとする。

「全財産を払ってしまったら、次の何でも屋と取引することが出来ないじゃないか……。わしはこの店を信じているんだ」

 名無しの男は動かなかった。店主の、労せずして金を巻き上げようという意図が見え見えで、引っかかってくれない。

 いや、むしろ、そんな軽いトリックに腹を立て、帰ってくれればどれほど楽だろう。警察や裁判沙汰になることさえ、今のこの状況よりマシだ。

 少し痛い目に遭った後でまた、もっと、この小さな何でも屋に合った、くだらない依頼を待つことが出来る。

 だが、名無しの男に向き合い、何でも屋として何も出来ずにいることは辛すぎる。

 今まで、店主の感情が、彼のビジネスの意思決定に携わることはなかった。だが、今は社会への不信そのものが膨らませられている。

 店主は顎の痛みを感じた。いつの間にか歯を食いしばっていた。

 名前がないなんて問題をどうして、自分のような人間が解決できるのだろう。他者に名付けるなんて言うのは、街の名士や神様といった存在が行うことであるべきなのだ。何でも屋には、不相応である。今までずっと、嫌がらせや迷惑行為で小銭を稼ぐ、鶏鳴狗盗を旨としてきたのに。

 こんな依頼を持ち込んできた人間に、凶暴な怒りさえ感じる。だが、それも弱々しい名無しの男を前に、維持することはできない。

 もちろん、店主も人間である。人間の心情として、当然、この名無しの人間を救ってやりたい。

 だが、何でも屋は商人として、元を取れない行動をすることは出来ない。活動資金も十分でなく、報酬も期待できずにヤバい橋を渡ろうというのは、商人ではない。単なるアブない人である。

 この原理を無視することは、商人としての自己否定に繋がった。

 だとすれば、出来ることは一つしかない。

 負けを認める。自分を頼ってきた客に、なんら為しえることなく帰っていただく。

「わたくし……所詮はちっぽけな店の一店主……それも、何でも屋なんていう胡散臭い店の……です」

 店主はぼんやりと呟きながら、社会と正義、倫理と背徳、さんざん自分に蔑みの視線を向けてきた『よき市民』と、自分を信用して、雀の涙ほどの全財産を持ってきた名無しについて考えた。

 自分は無力だ。強烈な自覚に店主は襲われる。

 顔を上げてみる。積み重なるオフィス機器が自分を押し潰そうと迫ってくるようだ。広くて澄み切った空など、どこにもない。常にこちらを潰そうとする圧力に囲まれている。そして、自分には圧力に抗する力などない。

 茶を飲んで態勢を立て直そうとするが、助手がその前に湯呑みを下げてしまう。

 店主の手は空しく宙をひっかいた。

 しばらく空っぽの手を見つめていたが、店主は口を開いた。

「助手にもなめられ、誰とも知らない公務員に目の敵にされる……。いいえ、それすら大したことではありません……。結局の所、自分もこの社会の一部となれていない。時には法の眼をかいくぐるようにして、細々と依頼を受ける。そんな日がいつまでも続くはずがない。遠からず、自分もおしまい……。よき社会は私を排除する……。わたくし、あなた様に自分の未来を見ます」

 名無しの男はのろのろと頭を起こす。

「あなた様は誰にも名を呼ばれぬまま死んでいき……わたくしは自分の無力さを身に刻み込まれます。もう二度と元気に営業することは出来ないでしょう。わたくし達は、両方とも負けたのです」

「わしのせいで……この店にも迷惑がかかるのだな」

 ビジネスの本質とは、商品の交換による相互の利益に尽きる。

 だが、何でも屋では、客も店主も失うばかり。こんなことなら出会わねばよかった! 二人の男の思いが一つになる。


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