1 いらっしゃいませ
これは名無しの男の物語です。記録をお願いします。
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目に映るのは雑居ビルの踊り場。
薄暗い床の上には訳の分からないゴミが散らばる。
自分が何かを考える。男。くたびれ果てた中年の、名もなき男。
男は深々と溜息をつくと、覚悟を決めて狭苦しい廊下を抜けた。見るからに健全でない店が並ぶ中を通り抜け、突き当たりの店の前に立つ。
床に置かれたポリカーボネート製の看板には、
『何でも屋! 何でもやります!』
消えかけた文字で記されていた。
男は扉を開けると、身をかがめて中に入った。
中では若い青年と少女がケーブルを繋いでゲームボーイをやっていたが、客が入ってきたことに驚いた様子で固まった。
「か……開店しているのかね?」
客の男は心配になって尋ねる。
「扉は開いているでしょう? あなた様を歓迎しているのです。何でも屋にようこそ」
青年は溢れんばかりの笑みを顔面に貼り付ける。
客は居心地悪そうに店内を見回す。パソコンやプリンターがあるのは通常のオフィスと変わりない。だが、狭い。非常に狭い。機器の上に機器が乗せられ、絶妙なバランスをとっている。さらにその上にファイルキャビネットが積まれていて、天井まで届いている。いつ何時、崩れてくるとも分からない、潜在的な脅威であった。
「地震が来たら危なくないのかね?」
「問題ありません! わたくしは天動説支持者です。水星の存在を除外すれば、あれは実に合理的な考えなのです。ささ、入って入って」
店主らしき青年は手招きをして、客をキャスター付きの椅子に座らせた。
「ようこそ、何でも屋へ。わたくしは店主。彼女は助手です」
店主は若い痩身の青年で、欧米の起業家を気取ってか、ファッショナブルな服装をしている。冬物の高級カジュアル・ジャケットをアルマーニ風のシャツの上に羽織っている。それは一見ブランドものだが、偽物だ。本物の隣に立てば容易にばれてしまう。そして、店主はそれを知っていながら着ている。虚構さえも、ファッションの一部なのだ。
その傍ら、近場の女子中学の制服を着た少女が、店主のデスクに礼儀正しく腰掛けている。在り来たりな顔つきの、どこにでもいる少女。それが、お洒落な店主との対比で、彼女をより一層、目立たなくしている。さながら、社会的な迷彩を施されているようなもので、そこにいても、いることを忘れてしまう。
「ここは、何でも屋なのだね? つまり……何でもやると?」
客は椅子の上でもじもじと尻を動かしながら尋ねた。
「はい、そうです。何でもやります。それこそ、たまごっちの餌やりから、バイアグラの密輸入まで。どんなつまらないことでも、価値のないことでも、全身全霊でさせていただきます。今日はどういったご用件で?」
客は軽薄そうな店主と、口が軽そうな助手を交互に見やり、言いにくそうに口を開いた。
「できるだけ内密にお願いしたいのだが……」
「ご安心ください! 当方のセキュリティは万全です! わたくし、ありとあらゆる既存の盗撮、盗聴、情報泥棒、漏洩、すっぱ抜きを考慮しております。果てしない先読みの結果、行き着いたのは何もしないことでした! 当方は完全に無防備です。それがゆえ、最高に安全なのです」
異常に自信に満ちた態度に気圧され、客は言い返すことが出来ない。
「ささ、つっこみは結構です。国家権力の目はこんな所にまで届きません。ゴシップ好きのレディの耳も、今どけます」
店主は言うと、助手の肩に手を置き、
「よければ、お茶を淹れてくれないか。ティー・キャディーにアッサムがあるはずだ」
助手の少女はうなずき、体をねじるように店主の脇を通ると、奥にあるらしい給湯室に消えた。
助手がいなくなると、客の中年男は上体を折って、店主に顔を近づけた。
「依頼が百パーセント成功するという噂を聞いた。……本当なのか?」
「それは、幾らお支払い頂けるのかによりますね。こちらもビジネスなので。頂ける物が、ポン引きの手慰み程度の物でしたら、こちらも手を抜かせていただきます」
店主はあっさりと言ってのける。客の顔がこわばった。
「……しかし、さっきはどんなつまらないことでも全身全霊でやると言ったじゃないか」
「それは、政治家の公約のようなものです。信じちゃいけません」
「では、そちらの言い値を払うとしたら、どうなるんだ?」
客の問いに対して、店主の顔から軽薄な笑みが点滅し、そして消えた。代わりに、一瞬見える表情。それは、仕事を達成するために手段を選ばない、冷たく硬い色だった。
「お客様の望みが叶います。お客様が心の中で、本当に望んでいるものが手に入るのです」
客の男は、ぐっと唾を飲んだ。
「それに関しては、偽りございません。全てはあなた様次第。何を払って、何を得るのか」
「しかし……こちらの心の中の望みを叶えたと立証するのは、困難なのではないかね?」
「おっ、鋭い」
店主は指を鳴らし、元のようににやけた笑いを浮かべた。
「やる~」
給湯室から助手の声が聞こえてくる。全てを聞いているらしい。
「お客様は用心という物を知っていらっしゃる。素晴らしいことです! 今も、わたくしがお世辞でもって取引を有利に持って行こうとしていることを悟っていらっしゃるに違いない! 肚の探り合い! こういうスリルが商業の才覚を研ぎ澄ますのです!」
店主は妙に熱っぽい口調で語り、客の目を覗き込んだ。
「しかし、ご安心ください。こちらを信用してくださり、払うものを払っていただければ、必ずやお客様の望むものを差し上げましょう。で、どうなされました? 熟年離婚の裁判の旗色がよろしくない? それとも、退職際に、嫌いな上司をぎゃふんと言わせたい?」
「違う!」
客は掠れた声で叫ぶ。
「わしには名前がないのだ!」
「名前が……ない?」
「これをどうにかしてほしい」
店主は微笑みながらも、かすかに顔をしかめる。
「それは、暗喩、言い回し、その他何かの言葉のトリックでござ――」
「違う! 違うのだ! わしには名前がない! 生まれたときからだ! 文字通り、名無しなのだ!」
男は立ち上がり、握りしめた拳を振るわせて叫ぶ。
激高しているのではない。顔は苦しみに歪んでいる。これは苦痛の叫びなのだ。
「長年耐えてきたが、もう限界だ。苦しくて仕方がない……わしは名前が欲しいのだ」
「名前がない……ねえ」
店主は足を組み替え、椅子の背もたれに上体を預けた。
普通、人は何らかの名前を持っているはずだ。本名かどうかにかかわらず。
人間に名前がない際の不利益に関して考えてみる。
「わたくし、依頼を受ける際には依頼人の立場に立って解決策を練ることにしております」
「おお、わしの苦しみが分かるだろう!?」
「いえ。名前がなくったって、困るほどのことがあるとは思えませんね。むしろ、記名の時に『× 』を書けば終わりで、楽じゃないですか。うらやましいですよ。わたくしの名前なんて漢字で十九文字ですよ。歌舞伎俳優より長い名前でどれほど苦労したか――」
「苦しいんだ! 名前のない人間にしか分からない苦しみがあるのだ!」
客がテーブルを叩く。オフィス内に積まれた機器類がきしんだ。
埃が舞う中、室内の人間は沈黙して睨み合う。
「そんなもんなんですかね……分かりかねますが」
店主がゆっくりと述べる。
「どうやらわたくしどもの手には余る件でございますね。あなた様の顔を見て、ぱっと素敵な名前を思い浮かべる能も、わたくしにはございません。他所を当たって頂くのがよろしいでしょう」
「な、何でもやると言ったじゃないか!」
客は愕然とした表情で叫んだ。
店主は深々と溜息をつき、この人分かってないね、という顔で首を振った。
「それは、プロポーズのときの旦那の口約束のようなものでしてね。信じちゃいけない。ご存じ、こういう零細店はチェーン店みたいに規則に縛られていないのですよ。フリーダムなんです。だから、気紛れで店を閉めたり、依頼を断るなんてことはよくあるわけです」
店主は客にウィンクしてみせ、
「景気がよければ、わたくしも大胆になって妙な依頼を受ける気になるかもしれませんが……昨今は税務署の締め付けも厳しいですし、時勢をわきまえ大人しくするべきでしょう。うちみたいな店は、お役人に嫌われるんですよ。分かりますか?」
店主に問われて、客の男は首を振った。
「大手の店と違って、うちらはカタにはまりませんからね。こっちの仕事のアラを見つけて、行政指導で、操業停止……そんなシナリオ描く、熱意にあふれた若手の公務員やらが多いんですよ。彼らは燃えているんですよ……わたくしのような商人を社会から排除しようとね。困りますよね。どうして、そんな恨みを向けられないといけないのか。こっちもよき社会の一員として生きようとしているのに」
店主は胃が重そうな顔でぼやく。
「でも、こうやって話を聞いてもらえて、気が楽になりました。いつの日か、公務員の方々もうちのよさが分かってくれるかもしれません。ありがとうございます。すっきりしました」
店主は客の手を握り、深々と頭を下げる。
「話を聞いてもらいたいのは、こっちだ!」
客は手を振り払って、悲痛な声を上げた。
「はあ……駄々をこねられても困りますね。わたくし、この件には気が乗りません。わたくしは、仕事を好みで選ぶ悪癖がございましてね。名前をつけることに、いまいち気を引かれないわけです。それに、素敵な名前を差し上げても、後で難癖つけられちゃ堪りません」
「難癖なんかつけん! 勝手な予想をするな!」
「名前なんて物は、周りがあなた様をどう呼ぶかの記号に過ぎないのですよ? 自分で買い求める物ではありますまい。そのうち素晴らしい名前との出会いもありますよ」
「わしを見捨てるのだな!?」
「明日は明日の風が吹くと申しているのです」
「わしはずっと苦しんできた! 明日があるにしても、苦しい明日でしかない! 頼む! もう、ここしか頼れる所が――」
店主は会話を終わらせようと、強い口調で遮る。
「格好いい名前はデザイナーが作ってくれるでしょう。縁起のいい名前は占い師がつけてくれるでしょう。そして、うちはどちらでもありません」
客の中年男はわなわなと身を震わせ、血走った眼で店主を睨んでいた。だが、男の身に、殴りかかってくるほどの力はなかった。
男は、がくりと糸が切れたように椅子に体を落として、荒い息をついた。
お盆に湯呑みを乗せた助手が戻ってくる。
「お茶を飲んだらお引き取り願いましょう」
店主は言う。が、客の男はもう、虚空を力なく見つめるだけで反応を返さなかった。
助手が緑茶の入った湯呑みを置く。二つの湯呑みのうち、一つは店主の前、一つは自分でとって、眼を細めてそれを啜った。客の前に湯呑みを置こうとする素振りは見せない。それ以前に、客の方を見ようとすらしなかった。まるで、彼女の知覚器には映らないと言いたげに、完全な無視を決め込んでいる。
店主は客に向けて肩をすくめてみせる。今時の若者はどうしようもないですね、という顔で苦笑する。
それからしかめ面を作って、少女を睨んだ。
「ちょっと、お客様のお茶は?」
「お客様とは誰でしょう」
「彼だよ!」
「彼と言われても、世の中には三十億の男性がいまして」
「この人だ! 俺の指さしている人!」
店主は客を指さしながら、声を大にする。助手は影響を受けなかった。
「店主の指している人と、私の見ている人が同一人物なのか確信が持てません。誰のことを言っているのか、名前で教えてください」
店主は助手の少女をひとしきり睨んだ後、客の方を向いた。
「すいませんね……お茶も出せないバカ助手で。あの……お客様、失礼ですがお名前を教えてください」
「だから、名前を持っていないんだよ」
客がうわごとのような口調で言った。
「……不便ですね」
店主は眼をぱちくりさせながら認めた。いまや彼は事実を理解してしまった。くだらない依頼を暇な男が持ってきたと思っていたが、その仮説はひっくり返された。
店主の顔に、驚き、共感、様々な感情がよぎる。客に何かフォローの言葉を口にしようとする。だが、気の利いた言葉が口から流れ出すこともない。どんな慰めの言葉も、男には意味がないことを理解してしまったためだ。
名無しの男は苦しんでいるのだ。彼の言葉には嘘も偽りもない。
店主は、客の抱える問題にひるみ、逃げ腰になる。
「さ、作戦タイムです……! 少々お待ちください」
眼を泳がせながら店主は言うと、立ち上がった。
「何かあったら、ボタンを押してお呼びください」
ファミレスにあるような店員呼び出しボタンを客に握らせると、助手の肩を掴んだ。二人で奥の給湯室に引っ込んでいく。




