最終話「運命改変(デバッグ)は終わらない」
新宿の地獄から生還して、一週間。
3日間の昏睡と、その後の精密検査を終えてようやく退院許可が下りた俺は、久しぶりに九十九学園の門を潜っていた。
見上げる空は抜けるように青く、校舎を揺らす風は初夏の匂いを孕んでいる。代わり映えのしない、どこまでも平穏な学校の景色。
だが、俺を見る周囲の目は、あの日以前とは劇的に変わっていた。
「……おい、あれ。炭崎だろ?」
「新宿の試験で、"致命級"と遭遇して生き残ったっていう……」
「監督役の四回生がやられた中で、アイツがトドメを刺したって噂だぜ」
「バカ言え、そんなわけないだろ。あんな万年落ちこぼれが」
ヒソヒソと交わされる耳障りなノイズ。新宿での一件は、学園理事会によって厳重な箝口令が敷かれている。だが、生徒たちの情報網を完全に封じることなど不可能だ。
"炭崎湊が致命級を倒した"という真実は、"混乱の最中に偶然強力な遺物を拾って、運良く致命的な隙を突いた"という歪んだ噂に形を変え、学園中を駆け巡っていた。
(まあ、それでも流石に、目立つのは避けられないか。やりづれえ……)
周囲の視線を適当に流しながら歩いていると、校門付近でこちらを忌々しそうに睨みつける人影が目に入った。
三回生の柘榴坂凱だ。彼もまた、中野での"事故"以来入院していたため、つい最近復帰したばかりらしい。当然、俺が新宿で何をやらかしたのか、その詳細までは耳に入っていないはずだ。
「よう、先輩。もう学校出てきていいのかよ? まだ顔色が悪いみたいだけどな」
俺が軽い調子で声をかけると、柘榴坂は顔を真っ赤にして目を剥いた。
「テ、テメェ……! まだそんな減り口を叩けるのか。劣等生の分際で、この俺に気安く話しかけるんじゃねえよ。中野の時は運良く生き残ったようだが、次はそうはいかねえぞ」
相変わらずの小物臭い悪態。だが、俺が黙って自分のパブリック・ステータスを可視化した瞬間、奴の威勢は霧散した。
空中に出現したホログラムのステータスウィンドウ。
そこには、俺の名と共に、鮮やかな青色で刻まれた数字があった。
【九十九学園・個人ステータス】
『Name: Minato Sumizaki』
『Rank: Steel(鉄)』
『Level: 32』
「……は、はぁ!? 32……!? 何だ、その数字は……!」
柘榴坂の声が、徐々に小さくなっていく。
Level 32。それは五回生への進級条件を既に満たし、鋼級ハッカーとしての足掛かりを得た者にしか与えられない領域だ。
つい先日まで Level 2だった男が、一足飛びに自分を遥か後方に置き去りにした。その事実を前に、彼は言葉を失い、ただ口をパクパクと動かすことしかできなかった。
「ん〜? 何か言いましたかぁ、先輩。ってか、先輩って Level いくつでしたっけ? まあ、せいぜい頑張って追い越してみてくださいよ。……後輩として、期待してますから」
「テ、テメェ……ッ!」
そんな風に柘榴坂をからかっていると、不意に後ろからパコン、と頭を叩かれた。
「もう、何やってるのよ湊。早くしないと遅刻しちゃうわよ」
呆れ顔で立っていたのは、結衣だった。
俺は柘榴坂におどけた調子で、「んじゃ、可愛い可愛い迎えが来たんで、劣等生は失礼しますね〜」と言い放ち、足早に彼女の横に並んだ。
「ちょっと、あんたねぇ……」
結衣は歩き出しながら、複雑そうな表情で俺の横顔を伺ってくる。
「それにしても、まさか Level 30以上に認定されるとはね。学園設立以来、こんな短期間で Levelを上げた人、いないんじゃないの? 翡翠先生、かなり渋い顔してたわよ」
「あっはっは、まあ、世の中がようやく、俺の良さに気付いたってことだよ。俺のポテンシャルを今まで見抜けなかった学園が節穴だったんだ」
「誤魔化さないで。……あの強さの理由も、最後にあの裂け目から取り出したギアのことも、まだ聞かせてもらってないんだからね!」
目を三角にする結衣を、「まあまあ、そのうち話すよ」と適当にあしらいながら、俺たちは校舎への廊下を進む。
周囲からは相変わらず羨望と嫉妬の混じった視線が刺さるが、結衣の隣を歩いている時だけは、不思議とそれらが遠い世界の出来事のように感じられた。
「……ねえ、湊」
教室が見えてきた頃、結衣が不意に声を潜めて問いかけてきた。
「そんなにいい成績取ったんだし、鋼級のライセンスも認定されたんでしょ。……しばらくは気楽にしてられるんじゃない? それに、そんだけ強いなら、きっとハッカーギルドからも引く手あまただよ。もう、あんたが馬鹿にされることもない」
結衣の声には、安堵と、どこか期待が混じっていた。平穏。特待生の彼女と、実力を認められた俺。二人で過ごす、真っ当な学園生活。
だが、俺はそんな結衣の言葉に、曖昧な笑みを返すことしかできなかった。
「……いや、まだ足りないんだ」
俺の視線は、結衣越しに、窓の外の遠い空を見据えていた。
歴史は変わった。
あの日、情報の塵となって消えるはずだった結衣は、今、俺の隣で笑っている。
だが、これで全てが終わったわけではない。
20年後に待ち構えている、未曾有の災厄――"大変動"。
世界中のダンジョンが突如として活性化し、地表を情報の奔流が飲み込んでいく。都市は崩壊し、強力無比な"崩壊級""終焉級"のガイストたちが地獄を闊歩する、あの暗黒時代。
(……あの変動を引き起こした真の原因を見つけ、根本からデバッグしなければ……行き着く先はまた、あの2070年だ)
それに、意識を失う直前に結衣の背後に見た、あの"黒いノイズ"。
未来で俺を殺したのは、本当に結衣だったのか。それとも、彼女の皮を被った"何か"だったのか。
運命という巨大なソースコード。
俺はその第一章を、膨大なエラーを吐き出しながら強引に書き換えたに過ぎない。
「凑? またそんな顔して。本当、入院してから変わっちゃったわね」
結衣が少し寂しげに笑って、教室のドアを開ける。
「……ああ、そうかもな。でも、悪くないだろ?」
「……まあ、そうね。前のあんたより、ずっとマシよ」
彼女の笑顔を守り抜くため。
そして、この世界を"終焉"というバグから救うため。
炭崎湊の、二度目の人生という名の運命改変は、まだ始まったばかりだ。




