第8話:静寂の解体作業と、紐解かれる戦律
守られる側だと思っていた。だけど私が見ていたのは――私を守るためだけに最適化された、あまりにも残酷で美しすぎる破壊の器だった。
一歩踏み出すごとに、湿り気を含んだ冷気が肌を刺す。
大試練の地下迷宮第一層。
天井の苔が蒼白くぼんやりと光を放つだけの空間は、まるで太古の巨大な怪物の胎内だった。入り口で騒ぎ立てていた他の生徒たちの足音や怒号は、入り組んだ岩壁に吸い込まれ、あっという間に遠ざかっていく。
「空気の流れ、よし。湿度は七二パーセント。有毒ガスの発生はなし……」
私は制服のポケットから取り出した測量用の小符を指先で弾き、周囲の環境を確認した。
「リリィ、前方の湾曲した角の先、岩の割れ目に気配があるわ。サイズは小型、数は三。……たぶん『洞窟影狼』ね」
「了解。索敵情報の提供、感謝します」
私のすぐ隣を歩くリリィが、淡々とした声で応えた。
彼女の歩調には、迷いも踏み込みの音すらもない。まるで濡れた絨毯の上を滑るように、すり足で前進していく。
「あらかじめ作っておいた『可聴域妨害符』を使う? あれを投げ込めば、耳のいい影狼なら数分間は失明状態みたいに混乱させられるけど――」
「不要です」
リリィの短く平坦な拒否。
「消耗品の無駄使いは避けるべきです。サクラの魔力と触媒は、より深い階層での予期せぬ事態のために温存してください」
「え? あ、うん。そうだけど……」
私が言い終える前に、角の向こうから「ガルル……!」と低い威嚇の唸り声が響いた。
闇の中からぬっと現れたのは、大人の胴体ほどもある大きさの漆黒の毛並みを持った獣――洞窟影狼だ。赤く光る目、剃刀のような牙。一頭でも新入生なら数人がかりで対処するレベルの強力な魔獣が、同時に三頭、低い姿勢で飛びかからんとしなやかな筋肉を躍動させた。
ドッ!
前足が岩肌を蹴り、残像を残すほどの速度で最前頭の影狼が躍り出る。狙いは私の喉元。
「サクラ、動かないでください」
静かな声と同時に、リリィの姿が私の視界から消えた。
――チィン。
澄んだ金属音が一つ。
次の瞬間、跳躍していた影狼の体が、空中であり得ない折れ方をした。
首が、飛んでいた。
ポタリ、ポタリと血が落ちるよりも早く、リリィの手元で「それ」が黒い光を照り返した。
彼女が両手に握っていたのは、一般的な剣でも、魔法使いの杖でもない。
両刃の分厚い鉄塊――刃渡り二〇センチメートルほどの、無骨極まりない『二刀の鉈剣』
先ほどまでの制服の袖口から引き抜かれたその小ぶりな鉈は、装飾など一切ない。肉を削ぎ、骨を断つためだけに作られた、武骨で極小の殺戮ツール。
「ガルァッ!?」
仲間の瞬殺に動揺した残り二頭の影狼が、威嚇の隙もなく爪を振り下ろす。
狭い通路、二頭同時の左右からの挟撃。逃げ場のない完全な死角。
だが、リリィは避けない。
防御もしない。
踏み込んだ。真っ直ぐ、愚直なまでに正面から。
冷徹に肉を裂く嫌な音が二回重なる。
リリィの右の鉈剣が、左から襲いかかった影狼の顎下から脳天へと垂直に突き立てられた。刀身が根元まで埋まる。
間髪入れず、左手の一撃。右手を支点にした円運動のまま、反転させた左の鉈剣が右からの影狼の眉間を真横から横断する。
刃渡り二〇センチという極小のリーチだからこそできる、超至近距離での果断なき連撃。
大振りな剣なら壁に激突して隙を晒す狭窄空間で、リリィの刃は完璧な円運動を描き続けていた。
ドサッ、ドサリ。
二頭の巨体が、同時に地面に崩れ落ちる。
血の海の中で、影狼たちが痙攣することすら許されず命を落とした。
戦闘開始から、わずか二秒。
「……え」
私の口から、情けない声が漏れた。
リリィは血濡れた二本の鉈剣をダラリと下げたまま、静かに息を整えていた。
乱れひとつない呼吸。血の匂いが充満する通路で、彼女の銀髪だけが優雅に揺れている。
(なに……今の……?)
私の背筋を、冷たい汗が急速に落ちていった。
すごい、とか、格好いい、とか、そんな生易しい感情じゃない。
「ドン引き」という言葉すら生ぬるい、根源的な恐怖に近い戦慄。
彼女の剣には、いわゆる「剣技の美しさ」というものが存在しなかった。
騎士が誇る華麗なフェンシングの突きの美もなければ、豪傑が振り回す大剣の迫力もない。
ただ、運命で決められたかのように死を刻む。
最も短い軌道で、最も確実に生命活動を停止させる部位へ、一切の躊躇なく刃を叩き込む。
まるで、工場で肉を解体する精密機械。
あるいは、プログラムに従って淡々と害虫を駆除する自動人形。
さっきまで「膝枕をしてほしい」なんて甘えていたあの小さくて可愛い女の子が、いま、三頭の魔獣を「文字通り、パーツごとに解体して」転がしている。
「……リリィ?」
思わず腰が引けそうになるのを、必死で踏みとどまって呼びかける。
リリィがクルリと振り返った。
その顔には、相変わらず感情の欠片も浮かんでいない。藍色の瞳が、血の海の中で静かに私を見つめていた。
「脅威の排除を完了しました。サクラ、怪我はありませんか?」
「あ……うん。怪我は、ないけど……」
引きつった笑いを浮かべながら、私は自分の足元を見る。私の靴には、一滴の血すら飛んできていなかった。
リリィが全ての血飛沫を、自分の体と刃で遮断していたからだ。
「リリィ……その武器、二刀流だったの? それに、そんなに短くて、よく刃が通るわね……」
「肯定。狭窄空間での戦闘においては、長剣は障害物となり運動エネルギーのロスを生みます。刃渡り一八から二二センチメートルの鉈剣による至近距離接合戦闘が、解体効率において極大値を示します」
リリィは短鉈を軽く振って血を払い、慣れた手つきで制服の裏地に隠された専用ホルスターへ納めた。カチリ、と硬質な金属音が響く。
(解体効率……)
ぞくっと、もう一度鳥肌が立った。
やっぱり、この子は異常だ。
私たちが学校で習う「魔術師としての戦い」とも、騎士団が教える「剣士としての戦い」とも、根本的に規格が違う。
けれど――。
(……待って)
私の頭の中で、恐怖とは別の、冷たい思考のギアがカチリと噛み合った。
凡才として生まれ、魔力が少ないからこそ、私はずっと「人間の動き」や「術式の構造」を観察し続けてきたのだ。
恐怖で引きつっていた私の目が、リリィの足元、肩の角度、先ほどの無駄のない軌道を、脳内で勝手に再構成し始めていた。
(ただの力任せじゃない……)
私はゴクリと唾を飲み込み、リリィに歩み寄った。
(一頭目の影狼を斬ったとき。リリィは踏み込んだ右足の親指に全体重を乗せて、地面からの反発力を骨格経由でそのまま右肘に伝えていた。だから、あの小さな刃で巨大な骨を一発で断ち切れたんだ)
(二頭目と三頭目の同時対処。普通なら左右どちらかに意識が偏るはずなのに、彼女の重心は常に骨盤の中心からブレていない。右手の短鉈を刺した衝撃を、左手の横斬りの推進力へと『変換』していた……!)
分析すればするほど、鳥肌が立つ。
あれは狂気による暴力ではない。
極限まで無駄を削ぎ落とした、身体操作の「究極の最適化」だ。
私が魔導符や術式干渉でやろうとしている「最小の出力で、最大の効果を得る」という理論を、リリィは自分の肉体一つで、完全な物理現象として体現している。
「サクラ? 私の顔に何か付着していますか?」
じっと見つめていた私に気づき、リリィが不思議そうに首を傾げた。
「……ううん。ううん、なんでもないわ」
私は深く息を吐き出し、胸の動悸を抑えた。
恐怖は、いつの間にか消えていた。
代わりに湧き上がってきたのは、ぞくぞくするような興奮だ。
(すごい……本当にすごいわ、リリィ)
周りの奴らはリリィのことを「爆発だけの不気味な女」「野蛮人」なんて笑っていた。
だけど、何も分かっちゃいないのだ。
この子の戦闘は、どんな高位の術式よりも繊細で、幾何学的に美しい。
「リリィ、次の角を曲がった先に、少し広い小部屋があるわ」
私は手元の羊皮紙のマップを開き、ペンで素早く赤線を引いた。
「そこには『鉄甲大蜘蛛』の巣があるはずよ。皮膚が強固で、普通の剣じゃ通らない魔物。たぶん、他のチームは苦戦して引き返すか、大火力の魔術で力押しする場所ね」
「了解。私の短鉈剣で外殻の継ぎ目を穿ち、内部器官を解体します」
「ううん、待って」
私はニヤリと、自分でも少し性格が悪いと思うような笑みを浮かべた。
「リリィの二刀流の軌道、さっきので完全に覚えたわ。あの蜘蛛の関節の隙間、角度で言えば四十五度、右斜め上からの刺突が一番通りやすいはず。私が『音波符』で蜘蛛の姿勢を崩して、その関節を露出させる」
私はリリィの藍色の瞳をまっすぐに見つめた。
「リリィは、私が作った一瞬の隙に、そこにその短鉈を叩き込んで。一撃でいけるわ」
リリィの目が、ほんのわずかに丸くなった。
彼女は自分の両手を見つめ、それから私を見た。
自分が「ただの効率的な解体」として行っていた動きを、私が一瞬で見抜き、さらにそれに合わせた作戦を提案してきたのだと理解したのだろう。
ほんの少しだけ。
本当にごくわずかだけ、彼女の唇の端が柔らかく持ち上がった気がした。
「……肯定。サクラの指示に従います。私の刃は、サクラの予測通りに動きます」
「よし! じゃあ行きましょう!」
◇
小部屋に突入してからの戦いは、もはや作業とすら呼べない「芸術」だった。
キーッ!と不快な悲鳴を上げて天井から落下してきた鉄甲大蜘蛛に対し、私はあらかじめ手元で練っていた『微振動符』を足元へ投擲。
超音波の衝撃で蜘蛛が大きく姿勢を崩し、胸部と腹部の間の固い外殻がパカッと開いた。
「そこ!!」
私の叫びと同時に、銀色の旋風が跳んだ。
ズドッ!!
リリィの左の鉈剣が、寸分違わず露出した関節の隙間へ深々と刺さる。
蜘蛛が狂乱して足を振り上げようとした瞬間、リリィは刺した短鉈をテコの原理で捻り上げ、蜘蛛の巨体を強引に傾かせた。
そして、空中で一回転した右手の一撃。
ドガァンッ!
鉈剣が、蜘蛛の最も固い頭蓋を、背後の衝撃排気機構(鞘から伝わる物理爆縮)の威力を乗せて、真っ向から粉砕した。
緑色の体液が飛散するより早く、リリィは着地し、後ろに跳んで私の前に滑り込む。
ボタボタと重い音を立てて絶命する鉄甲大蜘蛛。
作業時間、三秒。
「……サクラ、完璧なタイミングでした」
リリィが短鉈を鞘に収めながら、少しだけ息を弾ませて私を見た。
「ううん、リリィの踏み込みが完璧だったのよ。私の指示よりコンマ二秒早く動いてくれて助かったわ。おかげで蜘蛛の反撃軌道が完全に逸れたもの」
私は羊皮紙に素早くメモを書き足していく。
(リリィの左手の刺突速度は、右手よりわずかに〇・〇五秒遅い。これは左肩の可動域というより、短鉈のグリップの形状によるものね。後で握りの部分を少し削って、私の魔力塗料で滑り止めを補強してあげよう……)
「ふふ、楽しくなってきたわね」
私が独り言のように呟くと、リリィがじっと私の顔を覗き込んできた。
「サクラ。先ほどまで私に対して恐怖、あるいは強い拒絶反応(ドン引き)を示していませんでしたか?」
「ぶっ!?」
思わず吹き出しかけた。
ばれてた。完璧にばれていた。
「あ、いや……最初はちょっとビックリしたというか……あまりにもリリィが容赦なさすぎて、その、引いちゃったんだけど……」
照れくさそうに頭を掻く私に、リリィは静かに歩み寄り、自分の手を私の手重ねた。
「私はサクラの武器です。サクラが望むなら、もっと静かに、もっと美しく解体することも可能です。……サクラに嫌われることだけは、避けたいのですが」
無表情な声の中に、ほんの少しだけ混ざる不安の響き。
そのギャップに、私の胸がキュッと締め付けられた。
さっきまで魔獣を瞬殺していた殺戮の天使が、いまは捨てられた仔犬のような目で私を見ているのだ。
「嫌うわけないでしょ! バカね!」
私は重ねられた彼女の手を、ぎゅっと握り返した。
「最初は驚いたけど、いまはすごく誇らしいわ。リリィのその凄さを、誰よりも理解できるのが私だってことがね。……リリィの動き、もっと私に分析させてね。もっともっと、リリィを強くしてみせるから!」
「……肯定。私の全てを、サクラに捧げます」
リリィの藍色の瞳に、温かな光が灯る。
ふと、小部屋の奥の通路から、慌ただしい足音と悲鳴が聞こえてきた。
「助けてくれぇぇっ! 『大岩ゴーレム』だ!!」
「ダメだ、魔法が効かない! 逃げろ!!」
他のクラスの貴族生徒たちが、悲鳴を上げながら逃げ出してくるのが見えた。
彼らの背後から、ズシン、ズシンと地響きを立てて迫ってくるのは、第一層の主と呼ばれる巨大な岩石の魔物だった。
生徒たちは私たちの姿を見ると、顔を蒼白にして叫んだ。
「おい、フィズ家の凡才! 逃げろ! お前たちじゃ一瞬で踏み潰されるぞ!!」
勝ち誇っていた貴族たちが、無様に逃げ惑う姿。
私はリリィと顔を見合わせ、クスッと笑った。
「リリィ、あの岩の魔物……核の位置、もう分かっちゃったんだけど」
「了解。サクラの指し示す通りに――解体します」
二本の短鉈剣が、闇の中で静かに抜かれた。
嘲笑っていた天才たちを置き去りにして、凡才の頭脳と無慈悲な二羽の刃が、地下迷宮の更なる暗闇へと躍り出た。




