第24話:陽光に揺れる羊皮紙と、約束の居場所
傷だらけの拳を握りしめて勝ち取ったのは、ただの平和ではなく、あなたと笑い合える明日だった。
あのおぞましい惨劇から数日。
王立グランヴェル魔術学園は、崩壊した大闘技場や校舎の復旧作業に追われていた。石造りの外壁にはまだうっすらと焦げ跡が残り、職人たちの打ち鳴らす金槌の音が秋の澄んだ空に響き渡っている。
けれど、敷地内を包む空気は、以前のような暗い重苦しさに覆われてはいなかった。
すれ違う生徒たちが、私たちを見つけると嬉しそうに足を止め、深々と頭を下げる。かつて私を「凡才」と蔑み、リリィを「不気味な野犬」と遠巻きにしていた彼らの瞳に宿っていたのは、紛れもない敬意と、命を救われたことへの深い感謝だった。
「サクラ様、リリィ様! お怪我の具合はいかがですか?」
「ええ、もうすっかり大丈夫よ。気にかけてくれてありがとう」
私が微笑んで答えると、生徒たちは心底安心したように顔をほころばせ、次の講義へと向かっていった。
私たちが命を賭して守り抜いた学園の景色。
その光景の温もりに胸を撫でおろしながら、私は隣を歩くリリィの可憐な横顔を見つめた。
彼女の銀髪には、あの日私が贈った青いリボンが誇らしげに結ばれている。
制服の袖口から覗く華奢な腕に、もう震えは存在しなかった。私の隣で、彼女はまっすぐに前を向いて歩いている。
私たちの活躍は、単なる学園内の手柄にとどまらなかった。
過激な禁術を用いて学園を襲撃した錬金術師ヴァルターの陰謀を看破し、被害を最小限に食い止めた「学園を救った英雄」として、その名は王宮の騎士団長や大臣たちの耳にまで届くこととなったのだ。
そして――何よりも大きな変化は、私の実家であるフィズ伯爵家の動きだった。
父であるレイモンド・フォン・フィズ伯爵は、事件の報告を受けるや否や、即座に王立貴族院へ正式な書状を提出した。
『リリィ・キャロルを、フィズ伯爵家の正当な庇護下に置く。彼女に対するいかなる不当な干渉、侵害も、我が伯爵家に対する宣戦とみなす』
名門貴族としての権威を全面に押し出した、絶対的な庇護の宣言。
これにより、ヴァルターの背景に蠢いていたであろう裏社会の組織や狂った錬金術師たちの残党は、迂闊にリリィへ手を出すことが完全に不可能となったのだ。
「……お父様も、現金なものね」
自室の窓辺で、伯爵家から届いた公式の書面を眺めながら、私は小さく苦笑した。
かつて私が「凡才」だった頃は、存在すら無視しようとしていた父。けれど、結果を出し、王宮にまで名が届いた途端、手のひらを返したように「我が家の誇り」として全面的なバックアップを申し出てきた。
権力者の身勝手な都合。
けれど、今の私にとって、その都合はリリィの安全を確保するための最高の盾だった。
「サクラ、表情に皮肉な感情波形が観測されます。不快ですか?」
お茶の準備をしていたリリィが、不思議そうに首を傾げながらカップを卓上へ置いた。
「ううん、全然不快じゃないわ。使えるものは何でも使うのが、賢いやり方でしょう? これで、もう誰もあなたを恐ろしい過去へ連れ戻すことはできない。……本当によかった」
私が優しく微笑むと、リリィの藍色の瞳が温かく揺れた。
「はい。サクラの提示した庇護構造により、私の生存確率は極大値を維持しています。……感謝します、サクラ」
「感謝するのは私のほうよ」
私はカップを包み込み、湯気の向こうで穏やかに佇む彼女を見つめた。
あの惨劇の夜、私の胸の中で幼子のように泣きじゃくり、「怖かった」と感情を露わにしたリリィ。
あの日を境に、彼女の言葉や仕草には、どこか柔らかい人間らしさが確実に根付き始めていた。相変わらず無表情で淡々とした口調ではあるけれど、その瞳の奥には、確かな命の灯火が暖かく宿っている。
その時だった。
トントン、と部屋の扉がノックされた。
「サクラ様、リリィ様。郵便局からの配達物です」
寮の管理人の声とともに、隙間から一通の小包が差し入れられた。
差出人の名を見た瞬間、リリィの身体が微かに強張った。
粗末な無地の羊皮紙。
不器用で、けれど一文字一文字が力強く殴り書かれたような、無骨な筆跡。
そこには、こう記されていた。
――『傭兵団元頭目、バドより』
「団長……さん?」
私が呟くと、リリィは吸い寄せられるように歩み寄り、両手でその手紙を受け取った。
かつて、燃え盛る研究所の瓦礫の中から彼女を抱き上げ、外の世界へと連れ出してくれた男性。
文字の読み書きも、食事の味も、人の温もりも知らなかった「兵器」の少女に、泥臭くも優しい人間としての生き方を教えてくれた、命の恩人。
リリィの指先が、わずかに震えていた。
彼女は慎重に封を切り、中に収められていた一枚の便箋を広げた。
部屋の中に、静寂が満ちていく。
私は少し離れた場所から、息を呑んで彼女の様子を見守った。
手紙に書かれていた文字数は、決して多くはなかった。
学問のない無骨な男が、不器用な手つきでインクを走らせたことが目に見えるような、飾りのない言葉たち。
『リリィへ。
風の便りで聞いた。学園でどでかい事件があったそうだな。
お前が友達を作り、その大事な学校と仲間を一人で……いや、大切な相棒と一緒に守り抜いたと聞いて、酒場の親父と一杯引っ掛けたところだ。
お前にまともな生き方を教えられたかどうか、俺はずっと不安だった。
兵器として作られたお前に、戦い以外の道を歩ませることが、本当に正しいのかとな。
だが、もう安心した。
お前はもう、ただの命なき刃じゃない。
自分の意思で誰かを守り、誰かと笑い合える、立派な一人の人間だ。
俺の教えなんて、とうに超えていったな。
お前が自分の足で立ち、友達と出会えたことを、俺は心から誇りに思う。
無理はするな。飯はちゃんと食え。
そして、その相棒を大切にしろよ。
バドより』
静かな室内。
リリィは手紙を見つめたまま、微動だにしなかった。
ただ、その小さな手の中に握られた羊皮紙が、彼女の体温を吸い上げてゆっくりと温まっていく。
「……リリィ?」
私がそっと声をかけると、彼女はゆっくりと手紙を胸元へと引き寄せた。
ぎゅっと、宝物を抱きしめるように。
かつて冷たい鉄と薬品の匂いしか知らなかった少女が、自分を人間として認めてくれた恩人の言葉を、胸の奥深くに染み込ませるように。
「……団長が」
掠れた、小さな声が漏れた。
「団長が……私のことを、『誇りに思う』と……言ってくれました」
彼女の顔が、ゆっくりとこちらへ向けられた。
無表情な頬に、一筋の美しい透明な雫が伝い落ちていた。
けれど、それはあの日大闘技場で流した絶望や恐怖の涙ではなかった。
誇らしさと、溢れ出す喜び。
温かい愛情を受け取った者が流す、世界で一番優しい涙。
「サクラ……私、友達ができました。守りたい場所ができました。……私は、生きていてよかったです」
リリィの唇の端が、すうっと自然な弧を描いた。
それは、これまで見せてくれたどんな表情よりも深く、柔らかく、温かい――心からの微笑みだった。
胸の奥が熱くなり、私の視界も一気に滲んでいった。
私は駆け寄り、彼女の華奢な身体を手紙ごと強く抱きしめた。
「当たり前じゃない……! あなたが生きていてくれて、私の隣にいてくれて……本当に良かったわ……っ!」
「サクラ……ありがとう」
リリィもまた、空いた片手を私の背中に回し、優しく抱き返してくれた。
窓から差し込む秋の陽光が、私たちの部屋を柔らかく包み込んでいく。
冷たい過去の鎖は、もうどこにも存在しない。
誰かに作られた製品番号ではなく、ただ一人の少女として。
私たちはこれからも、この温かな場所で、二人でどこまでも歩んでいくのだから。




