名もなき感情
——しばらくして。
陸は、ようやく我に返った。
人混みを離れ、ふらふらと歩いた先。
町を囲む川のほとりに辿り着き、石段に腰を下ろす。
そして、ぼんやりとステータス画面を眺めた。
水の流れる音だけが、やけに大きく聞こえた。
夜風が、まだ火照ったままの顔を、ゆっくり冷ましていく。
と、その画面の上部に、見慣れない項目が表示されていることに気づく。
つい先ほど追加されたばかりのものだ。
「……なんだ、これ?」
陸は目を細め、画面を覗き込む。
そこに表示されていたのは——【放置モード】。
その文字に指を伸ばしかけた、まさにその時だった。
ピコン、と軽い電子音が頭の中に響く。
そして——
『オヤジ! 無事!? 母さんも俺も、死ぬほど心配したんだからね!』
耳元で叫ばれたかのような、はっきりとした声だった。
さっきまで途切れていたはずの蓮の声が、頭の中へ直接飛び込んでくる。
陸は、ほっと胸をなでおろした。
「ああ、助かったよ。ありがとうな、蓮。……いつ戻ってきたんだ?」
『さっきだよ! 急にゲームが落ちてさ、今やっと復旧したんだ』
『……で、オヤジ。画面が戻った瞬間なんだけどさ』
蓮の声が、わざとらしく低くなった。
『アリシアさんの顔、めちゃくちゃオヤジに近かったよね』
「……っ」
石段に腰を下ろしたまま、陸は完全に固まった。
『しかも母さん、俺の真後ろに立ってたから』
「な、なんだって……!?」
背筋に、ゾクリと冷たいものが走る。
よりによって、あの一瞬を。よりによって、現実世界の妻に。
『「ねえ蓮。今あの子、あなたのお父さんにキスしようとしてなかった?」って聞かれた』
『笑顔なのに、目がまったく笑ってないんだよ。魔王みたいな顔で』
『マジで冷や汗出たわ』
「……で。お前は、なんて答えたんだ」
恐る恐る、そう訊いた。
『「復旧した直後で画面がカクついてたから、よく見えなかった」って』
川面を見つめたまま、陸は長く息を吐いた。
「……蓮」
『小遣い、倍ね』
「わかった」
即答だった。
『……ま、それはそれとしてさ。落ちてた間のログも、戻ってきたから見たよ』
『あの状況から自力でスキル使ってゴブリン倒すなんて——オヤジ、いいじゃん』
「ああ、あれか。……自分でも、まだ驚いてる」
『……でさ、オヤジ』
蓮の声から、さっきまでの軽さが消えていた。
『ステータス画面の上のほう。【放置モード】って書いてあるの、見える?』
「ああ。ちょうど、それを見てたところだ」
『……それさ。俺、入れてないんだけど』
「え?」
『そんな機能、このゲームには作ってない。設計図にも、無い』
背中を、冷たいものが撫でていった。
言われてみれば——蓮の操作も指示もないのに、自分の身体が意思のままに、するりと動いている。
あの時からだ。
視界が暗転し、蓮との糸がぷつりと切れた、あの瞬間。
どこからともなく響いてきた、あの声。
「……蓮。実はな」
迷った末に、陸は口を開いた。
「お前と繋がらなくなってる間に、知らない声が聞こえたんだ。『力が欲しいか』って」
「……そのすぐあとだ。身体が、勝手に動くようになったのは」
しばらく、返事はなかった。
『……じゃあ、それだ』
やがて返ってきた蓮の声は、ひどく静かだった。
『そいつがオヤジに寄越したのが——【放置モード】ってことじゃん』
『……あのさ。ログ、一部だけ読めないんだよね』
『オヤジがその声を聞いたっていう、たぶんその数分。落ちてた分は全部戻ってきたのに、そこだけ、まるごと消えてる』
「消えてる?」
『誰かが、消したみたいに』
陸は、思わず自分の手のひらを見下ろした。
あの一撃を放った、この手を。
『……オヤジ。そのモード、使うのは構わないよ。俺が寝てる時とか、繋がってない時は、どうせそれしかないし』
『でもさ』
蓮の声が、ほんの少しだけ低くなった。
『それをオンにしてる間、俺は何も見えないし、何も手伝えないから』
「……ああ」
『——気をつけて』
いつもの憎まれ口ではなかった。
だからこそ、その一言は、陸の胸の奥へ静かに沈んでいった。
蓮との会話が一段落した頃、腹の虫が盛大に鳴いて自己主張を始めた。
「……そういえば、ずいぶん時間が経ったな。何も食べてないし……腹減った」
さすがに空腹には勝てず、陸は近くの食堂を探して歩き出した。
やがてたどり着いたのは、現代日本のそれと寸分違わぬ、ラーメン屋の佇まいだった。
暖簾をくぐった瞬間、鼻をくすぐる香ばしい匂いが漂ってくる。
「ああ、この匂い……まるで、元の世界に戻ったみたいだな」
久しぶりに嗅ぐ懐かしい香りに、陸は思わず足を止めた。
「い、いらっしゃいませ……っ!」
カウンターの向こうから陸を迎えたのは、看板娘の少女——ルーシーだった。
エプロン姿の彼女は、暖簾をくぐってきた陸の顔を見た瞬間、手にしていたフキンを落としかける。
(な、何この人……こんな綺麗な顔の人、見たことない……!)
異世界の無骨な浪人たちとは、まるで違う。
日に焼けてもいない。傷だらけでもない。
驚くほど整った、けれど嫌味のない顔立ち。
ルーシーの心臓は一瞬でバクバクと跳ね上がり、耳の裏まで真っ赤に染まってしまった。
「あ、あの! お電話番号を——」
「……番号?」
「ち、違いますっ!! ご、ご注文は、何になさいますか……!?」
上ずった声でルーシーが差し出したメニュー表には、この世界の食材を使った料理が、やけに堂々と並んでいた。
【本日のおすすめ】
・暴走双角獣の背脂どっさりチャーシュー麺
——角は入っておりません。ご了承ください。
・獄炎火蜥蜴の地獄麻辣麺
——完食された方には称号を進呈。※火傷・炎上・自然発火の責任は負いかねます。
・世界樹の恵み塩ラーメン
——世界の理を、じっくり十二時間煮込みました。あっさり。
・迷宮軟体の冷やしぷるぷる中華
——夏季限定。まだ動きます。
替玉一玉、銅貨三枚。
「……なあ。この『まだ動きます』ってのは」
「ふ、深く考えないでくださいっ!」
「じゃあ、この『暴走双角獣のチャーシュー麺』を大盛りで」
「は、はいっ! 喜んでっ!」
陸がいつも通りの穏やかな笑顔で注文すると、ルーシーは胸をときめかせながら厨房へと駆けていった。
数分後、運ばれてきたラーメンは、味も見た目も、日本の本格的な家系ラーメンそのものだった。
「……うまい!」
子供のように無邪気に麺を頬張る陸の横顔を、ルーシーはカウンターの陰から手を合わせ、うっとりと見つめ続けていた。
(豪快に食べてる姿も素敵……。あんなに幸せそうな顔をしてくれるなんて、運んできた甲斐がありすぎるよ……っ!)
厨房の奥では、店主が「うちの看板娘が仕事しねぇ」と小さくぼやいていた。
スープまで綺麗に飲み干した陸は、ふっと満足げな息を吐き、カウンター越しにルーシーと目を合わせる。
そして、いつものあの——少し頼りなくて、でも最高に優しい、温和な笑顔を浮かべた。
「ごちそうさま。今まで食べた中で、一番美味しかったよ」
「っ……!!」
破壊力抜群のその言葉と笑顔に、ルーシーは脳内が真っ白になり、危うくその場で卒倒しかけた。
厨房から「作ったのは俺なんだがな」という店主の声が聞こえた気もしたが、もうルーシーの耳には何も届いていない。
陸が銀貨を一枚置いて店を出るまで、彼女の視線は完全に釘付けのままだった。
ラーメンを平らげたあと、陸は旅館へ向かい、部屋を一つ取った。
その夜は、布団に横たわったまま、しばらく物思いにふけっていた。
窓の外の木が風に揺れるたび、差し込む月光が、見慣れない木造の天井の上で小さく動いた。
窓の外からは、元の世界では聞いたこともない奇妙な虫の音や、夜行性の魔物の遠吠えが、夜風に乗って微かに届いていた。
「……本当に、異世界に来てしまったんだな」
昼間は蓮の操作に振り回され、訳のわからない怪物と戦うのに必死だった。
だが、こうして静まり返った夜の闇に一人取り残されると、急に現実感が波のように押し寄せてくる。
綾乃が作る味噌汁の匂い。
朝、何度起こしに行っても起きない蓮の寝顔。
出たくもなかった、退屈な会議。
何もかもが当たり前すぎて、一度も大事だと思ったことのなかった日々。
それが今は、少しだけ愛おしく——そして、遥か遠くに感じられた。
陸は、自分の胸の上にそっと手を置く。
「……帰れるのかな、俺」
ぽつりとこぼれた呟きは、静寂の部屋の中に虚しく溶けて消えていく。
帰りたい、と思った。
陸は、ゆっくりと目を閉じた。
頼れるのは、頭の片隅で繋がっている蓮の存在だけだ。
明日がどうなるかも分からないまま、陸は深い眠りへと落ちていった。
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【ステータス(能力面板)】
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【名前】リク(神坂 陸)
【LV】2
【種族】人族
【職業】浪人(初心者)
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【基本能力値】
HP(生命力):20 / 20
MP(魔力) :??? / ???
SP(體力) :15 / 15
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【裝備・武器】:羈絆の刃(預設初心者木刀)
【 招式塊スロット】:【 風渦曲陣 】【 熱素時限刃 】【 ロード中 】【 ロード中 】【 ロード中 】
【?】:放置モード




