第1話:過労死の果てに、私は「何もしない」を選ぶ
視界が白む直前まで見ていたのは、無慈悲に羅列されたエクセルの緑色のグリッドだった。
深夜三時、静まり返ったオフィスで、私は冷え切ったコーヒーで強烈なエナジードリンクを流し込んでいた。
納期、修正、クライアントからの理不尽な差し戻し。
キーボードを叩く指はとうの昔に感覚を失い、耳鳴りだけが心臓の鼓動に代わってリズムを刻んでいる。
ふと、胸の奥で何かが弾けるような、致命的な破裂音がした気がした。
あ、やばい。
そう思った瞬間にはもう、私の意識は急激な暗転の中へと落ちていった。
それが、佐藤凛という二十代の平凡な社畜の、あっけない最期だった。
次に目を開けたとき、私は雲の上のような、ひどく清潔で、それでいて無機質な白い空間に立っていた。
「お疲れ様。佐藤凛さん。死因は過労……というか、心不全だね。若いうちに無理しちゃって」
目の前には、パイプ椅子に深々と腰掛け、薄型ノートパソコンを叩く男がいた。
ポロシャツにチノパンという、休日出勤のシステムエンジニアのような風貌だが、その背後からは物理的に網膜を焼くほど眩しい後光が差している。
どう見ても神様、あるいはそれに類する超常の存在だ。
「……死んだ、んですか。私」
「うん。残念ながらね。君の労働環境、天界の基準で見ても一発アウトのブラックだよ。でも安心して。君の現世での過酷な労働と忍耐は、十分な『徳』として換算されているから」
神様と名乗る男は、胡散臭い笑顔を浮かべて空中で指を弾いた。
「というわけで、君には異世界転生の権利と、初期持ち点として『1000ポイント』を差し上げます。このポイントを使って、好きな職業、スキル、アイテムを選んで、第二の人生を謳歌してよ」
私の目の前に、半透明の巨大なホログラムパネルが出現した。
そこには無数の項目がリストアップされている。
「聖騎士」「大賢者」「万能農具」「不老不死」……ファンタジー小説で見たことのあるような、景気のいい文字が並んでいた。
だが、私の心は重かった。
生まれ変わっても、また「働く」のか。
私は真剣な眼差しで、リストの項目を一つ一つ吟味し始めた。
なるべくマシな、いや、限りなくホワイトな環境で生きられる職業を見つけ出さなければならない。
――「聖騎士」?
だめだ。いかにも体育会系の絶対服従組織の匂いがする。
毎朝の過酷な鍛錬、上層部の理不尽な命令、終わりのない魔物討伐という名のサービス残業。間違いなくブラックだ。
――「大賢者」?
一見よさそうだが、研究職特有の「成果が出るまで帰れない」パターンだ。
徹夜で魔法陣を描き続け、魔力切れで倒れる未来しか見えない。これも却下。
――「農民(スローライフ適性)」?
騙されてはいけない。
農業は立派な肉体労働だ。朝は日の出と共に起き、天候に怯え、腰を痛めながら土を耕す。
スローライフという言葉の響きに隠された、過酷な第一次産業の現実がそこにある。
どれもこれも、結局は「労働」ではないか。
現世で命をすり減らして死んだというのに、来世でもまた汗水垂らして働けというのか。
「あの、神様。この中で、一番『働かなくていい職業』はどれですか?」
私の切実な問いに、神様はパソコンを叩く手を止め、少し面白そうな顔をした。
「働かなくていい、ねぇ。君、せっかくの異世界転生なのに随分と後ろ向きだね」
「私はもう、一歩も歩きたくないんです。朝起きてから寝るまで、誰かに全部やってもらって、私はただふかふかのベッドで泥のように眠り続けたいんです。それが私の、魂からの願いです」
過労死のトラウマは伊達ではない。
私の眼差しのあまりの真剣さに、神様は「やれやれ」と肩をすくめた。
「そういうことなら……君の希望に一番近いのは、これかな」
神様がパネルを操作すると、ひとつの職業がハイライトされた。
【ダンジョンマスター】
「これ、基本的には迷宮の奥の玉座に座ってるだけでいいんだよ。実働は配下のモンスターに任せればいい。まさに経営者層、不労所得の極みだね」
「……座っているだけでいいんですか?」
「うん。君は指示を出すか、ただふんぞり返っていればいい。究極のホワイト環境と言えるんじゃないかな」
神様の言葉に、私の心は激しく踊った。
部下に全てを丸投げして、自分は安全な奥地で眠り続ける。
これだ。私が求めていたのは、まさにこれだ。
「それにします! 職業はダンジョンマスターで!」
「オッケー。じゃあ残りの1000ポイントで、初期の手駒や設備を買おうか。通常はゴブリンの群れとか、罠のセットを買うんだけど」
私はパネルの「防衛ユニット」の欄を開いた。
【Cランク:ゴブリンの群れ(10pt)】
安いが、詳細スペックには「食事必須、衛生管理必須、定期的な反乱リスクあり」と書かれている。
【Bランク:オーク小隊(50pt)】
こちらも「食費高騰の恐れあり、指揮官が必要」という不穏な注意書きがある。
「だめです。こんなの、私がご飯を用意したり喧嘩の仲裁をしたりする羽目になるじゃないですか。究極の労働ですよ」
「えー、でも防衛力がないと後で困るよ?」
「いいえ。有象無象の群れより、全てを完璧にこなせる絶対的な実務担当者が一人いればいいんです」
リストをスクロールし、私はひとつの高額項目をタップした。
【SSR万能執事・影山(500pt)】
500ポイントという法外な価格設定だが、そのスペック表は輝かしかった。
『完全自律行動可能。食事・睡眠不要。家事・戦闘・事務作業を最高ランクで完遂。主への忠誠度MAX』。
これしかない。
しかも名前が「影山」だ。前世の知識が告げている。執事といえば影山、有能でないはずがない。
「思い切るねぇ。持ち点の半分を執事一人に突っ込むのかい?」
神様はなぜか、ニヤニヤと意地悪な笑みを浮かべていた。
「はい。そして残りの500ポイントで、これをお願いします」
私が指差したのは、アイテム欄の最深部にあった最高額の寝具だ。
【UR:至高の安眠セット(500pt)】
「……本当にそれでいいの? 君のダンジョン、入り口から玉座の間まで完全にノーガードの空き家になるよ?」
「構いません。有能な執事がなんとかしてくれますから。私はとにかく、極上の睡眠環境を整えることに全力を注ぎます」
神様は少しだけ同情するような、しかし大半は面白がるような視線を私に向けた。
「いいよ。君がそこまで言うなら、受理しよう」
私が転生ボタンを強打すると、パネルが光の粒子となって砕け散り、足元から眩い光が立ち昇った。
「それじゃあ、良い第二の人生を。あ、そうそう、言い忘れてたけど」
光に包まれて意識が遠のく中、神様のとびきり邪悪な声が響いた。
「ダンジョンマスターって、定期的に冒険者に命を狙われるからね! それと君の買った枕、身の危険を感じると主を乗せて時速100キロで自走する『強制脱出機能』付きだから! ジェットコースターより酔うよ! じゃあねー!」
「……は?」
神様の最悪な後出し説明は、転移の轟音にかき消された。
――次に目覚めたとき。
私は、石造りの冷え冷えとした薄暗い空間にいた。
おそらくここが、私のダンジョンの最深部、玉座の間なのだろう。
だが、私の視線はただ一点に釘付けになっていた。
冷たい石の床の上、そこだけが異世界のように隔離された完璧な空間。
白く、大きく、暴力的なまでの柔らかさを主張する、巨大なベッドとふかふかの枕が鎮座していた。
「……これよ。これこそが私の、約束の地」
神様の不吉な言葉など一瞬で忘れ去り、私は吸い込まれるようにそのUR枕に顔を埋めた。
羽毛の概念を超越した、包み込むような弾力。
頭を乗せた瞬間に意識のスイッチを強制的に切るような、究極のホールド感。
ああ、死んでよかった。
この安らぎのために、私は今まで限界まで働いてきたのだ。
「お目覚めでしょうか。我が主」
至福の微睡みに落ちかけたまどろみを遮るように、低く、涼やかな声が響いた。
重い瞼を少しだけ開けると、そこには非の打ち所がない漆黒の夜会服を纏った青年が立っていた。
完璧に整えられた黒髪、切れ長の瞳には絶対的な知性と、少しばかりの冷徹さが宿っている。
「影山、ね?」
「御意。以後、お見知りおきを。あなたの不快なもの全てを排除し、永劫なる平穏をお約束する者でございます」
影山は深々と、絵画のように美しい一礼をした。
完璧だ。500ポイント払った価値は十二分にある。
これで私は、有能な執事に全てを任せ、このダンジョンの最深部で一生眠って過ごせる。
そう確信して、再び枕に深く沈み込もうとした、その時だった。
――ピピピピ、ピピピピピ!
耳元で、風情も情緒もへったくれもない、甲高い電子音が鳴り響いた。
「な、なに!? なにこれ!」
飛び起きた私の足元で、枕の側面についた赤いランプが激しく点滅している。
「主様、警戒を。不届き者が、この迷宮の結界を侵犯いたしました」
影山が空中に投影した魔力映像のスクリーンを指差した。
そこには、粗末な革鎧を着て松明を掲げた村の若者数人が映っていた。
『おい、見ろよ! 新しいダンジョンの入り口だ!』
『噂通り、魔物も罠も全くねえ完全な空き家だぜ! 今のうちに奥のコアを砕いちまえば、報奨金丸儲けだ!』
彼らは呑気な声を上げながら、ダンジョンの入り口から意気揚々と侵入してくる。
「嘘でしょ、転生初日によくわからない小悪党の空き巣!? まだ一分も寝てないのに!」
「彼らにとって、防衛設備のない産まれたてのダンジョンは、格好の小遣い稼ぎの場なのです。推定到着時刻、あと三分」
神様の言葉がフラッシュバックする。
『定期的に冒険者に命を狙われるからね!』
パニックに陥る私の耳に、枕からさらなる無機質なアナウンスが響き渡った。
『警告。敵対性存在の接近を検知。主の安全を確保するため、自走式緊急脱出シーケンスを開始します』
「え?」
『点火まで、3、2、1……』
「ちょっと、待って、走るってどういう――」
ドゴォォォォォォン!!
凄まじい爆発音と風圧と共に、私の愛用するURふかふかベッドが「点火」した。
ベッドの底部から謎の青白いロケット炎が噴出し、私を乗せたまま、石造りの玉座の間を時速100キロ近い猛スピードで暴走し始めた。
「いやぁぁぁぁぁぁっ! 酔う! 酔う! 三半規管が死ぬぅぅぅ! 止めて! 影山、なんとかしてぇぇぇ!」
壁に激突しそうになりながら、遠心力で顔を歪ませた私は、必死に執事に助けを求めた。
「かしこまりました。主様の平穏を乱すゴミ共を、一匹残らず『お掃除』すればよろしいのですね?」
猛スピードで円を描くベッドの中心で、影山はその切れ長の瞳をスッと細めて紅く輝かせた。
遠のく意識と猛烈な吐き気の中で、私は叫ぶ。
「とにかくあいつらを部屋に近づかせないで! 音も立てさせないで! 徹底的に、やってぇぇぇ!」
「仰せのままに。全自動防衛システム、これより起動いたします」
影山が白い手袋に包まれた指を、パチンと鳴らした瞬間。
迷宮の長い廊下から、若者たちの絶叫すら一瞬で呑み込むほどの、「無音の衝撃波」が吹き荒れた。




