香
此処は夜の病院の駐車場。
5月に入り、春の季節を終え、桜が葉を纏い始め、夏が近付く合図を知らせる。車を出ると、夜風が顔に当たる。魅花と生活を始め、早くも1カ月半。 コレほどまで人を愛した事が無かった自分にとって、魅花の存在は特別な存在…いや、特別というモノより上の存在だ。そのお陰か、付き合い始めて時間が早く感じる。そして、あと赤ちゃんが産まれるのが6ヵ月半後。
「短く感じるんだろうな……」
ひとり駐車場で呟く。
隣の車に人乗っていた人と目があった。運転席にて窓を開けていた女性の方。恐らく仕事終わりの看護士さんだろうか。自分はそそくさと病院の受付へ向かった。途中、病院の入口辺りで、携帯の着信音が鳴った。画面を見ると知らない番号。出てみる。
「あの……広栄さん?」
聞き覚えのある深い声。昼に病室に居た、あの先生からだった。しかし、やけに暗い声。どうしました? と事情を聞く。
「あの……唐突で申し訳ないのですが……病院の方に、来ていただいても宜しいでしょうか……?」
何か不安な感情が自分の脳裏を過ぎる。
「今、魅花の様子を見ようと、病院の方まで来ているのですが……」
それなら一度、待合所の方まで来て下さい。と、先生。言われるがまま入口の扉を開け、待合所まで来てみると、そこには約束通り、白衣の先生がカルテを片手に立っていた。
「こんばんは、先生。すいません、先に魅花に会わして頂いても宜しいでしょうか?」
そう言うと先生の表情が曇った。自分もその顔に心が曇る。まさか……まさかだが、魅花の身に何かあったのか……と。
「あの後検査した所、佐田上さんには異常は見つかりませんでした」
何だ、それなら……と肩を下ろそうとしたその瞬間、先生が口を開いた。
「………すいません、此処で立ち話も何ですね。場所を変えましょう」
まだ話があるのか? そう思いつつ、先生の後を付いて行くと、小さな部屋に入った。小さな机とイスが二つある小さい部屋だ。
「で、話と云うのは……」
そう言った瞬間、先生が目を逸らした。表情も一段と暗い。カルテを机の上に置いた。
「富士園さん……残念な報告なのですが……佐田上さんのお腹に居た赤ちゃんの事なんですが……」
生唾を飲み込む。何を言うのかは想像出来なかったが、場の雰囲気的には予想は出来ていた。赤ちゃんについて。
「赤ちゃんが病気だ……何て言わないで下さいよ?」
先生が横に首を振る。病気ではありません…と先生が言う。
じゃあ何なんですか……と言う前に、先生は口を開いた。
「……産……」
聞きたく無かったからか、はたまた聞こえていたのか。先生が放った初めの声が聞こえなかった。
「産……って何ですか先生……」
「流産です。佐田上さんのお腹の中にいた赤ちゃんですが……」
頬がムズムズした。両足の力が無くなった。自然と自分はイスから崩れ落ち、先生の膝にしがみつく。
「先生……流産って……どういう事ですか? まさか、赤ちゃんが死んだなんて、言わないですよね……?」
床に這う様にして崩れていく自分。頬のムズムズが唇の辺りまで来た。しょっぱい。両手を顔を覆う様にして塞ぎ込む。
「あなただけが辛いのでは無いのです。佐田上さんは……今は部屋で泣き寝入り状態です。その前までは酷い物でした。【香】……と云う名前を叫ぶ度に鳴いて叫んでいました。あなた達二人だけ辛いのでは無いのです。流産の経験をした方々は多く居られます。実際私も多くの人を見てきました。どうか、落ち着いて……」
「黙れぇぇぇ!!!!!」
小さな部屋には怒声だけが響く。部屋の外に居た看護士さんが慌てて入って来た。
「やっと家族が、家族の夢が叶う希望の赤ちゃんだったんだぞ!? 赤ちゃんが死んだだって? ふざけるんじゃねぇぞ!!! 魅花の夢をぶち壊す気か!? 聴ぃてんのかよ、お前は!!!」
駆け付けた看護士さんが自分の肩や腕を押さえ込む。自分はその手を振り払い、先生の胸倉を掴む。
「何か答えろ!! コッチは夢が壊されてんだぞ!?」
「少し頭を冷やしなさい。話なら幾らでも後で聞いてあげます。今、あなたに必要なのは、佐田上さんでしょう」
「クソッ……ッグ……ッ……」
嗚咽を漏らす自分に、先生は自分の肩を優しく叩く。
その後、部屋で落ち着きを取り戻し、先生に魅花の病室へ誘導された。
そこに居たのは寝ている魅花。しかし、いつもの魅花では無い……確実に。
「魅花……大丈夫か……?」
ベッドにうつ伏せになり、周りにある花やティッシュ箱が散らかっている。ベッドのシーツは滅茶苦茶だった。
最も自分が衝撃を受けたのは、魅花と自分とで折った折り鶴だった。ある物は千切れ、ある物はグチャグチャに丸められ、今までの努力を踏みにじる程の悲しさは目の前にあった。
どれほどまでに魅花は衝撃を受けたのだろうか。
一つ分かるのは先程の自分が錯乱していた事より、断然魅花の方が悲しんだ……と云う事だ。
【家族の夢】が崩れた。
その想いは魅花の心に重くのし掛かる。
魅花はどれだけ泣き叫んだのだろうか……長い黒髪はバサバサに荒れている。魅花に近付いてみると、小さな鼾を立てている。偶に鼾に混じり、ヒクッ……ヒクッ……と、嗚咽を漏らす。
そんな魅花の頬に、自然と自分の頬を合わせ、頬擦りする。案の定、頬は暖かく、サラサラな肌だった。
一児の母という夢を断たれ、心を引き裂かれた魅花。
しかし、まだ終わった訳では無い。
「また、もう一度やり直そう」
小さい声で魅花の耳に囁く。
「ごめんね……パパ……弱いママで……」
魅花は起きていた。
顔は見えないが、確かに魅花は起きていた。
「私、赤ちゃんの名前決めてたんだ………香。富士園 香。可愛い名前でしょう? 花の香りは良い匂い。それに優しい香り、落ち着く香り、綺麗な香り……色々な香りはあるけど、この子もそんな優しくて、いつでも落ち着いていて、綺麗な子だったらなって、思って……名前を決めたの」
魅花の顔は見えないが、泣いているのは声で分かった。
「でも、守れなかったね。私が、弱いから……弱いママだから、この子一人の小さな命を守れなかった………どうやったら、許してくれるかな……?」
ギュッと魅花の手を握る。
告白をしたあの日のように。
「魅花が泣いてるだけで、あの子は辛いと思うよ。魅花がいつも、自分にしてくれる魔法を使えば、きっとあの子も許してくれる筈だよ」
魅花の顔に掛かっていた髪を、ゆっくりと自分の手でかき分ける。
涙が流れていたその目は、ニッコリと笑っていた。
自然と二人して笑った。
こんな光景を見れば、きっとあの世で、あの子……いや、香も笑ってくれているだろう。