開かれた眼
古びた神社跡。
そこは、地図から消えた場所だった。
昔は小さな社があったらしい。
しかし何十年も前に人が離れ、今では壊れた鳥居と、苔に覆われた石段だけが残っている。
「……本当に来る場所じゃないな」
俺は周囲を見渡しながら呟いた。
「だからこそよ」
隣の杏奈は、いつものように目を輝かせている。
「人が忘れた場所。誰も気にしなくなった場所。そういうところに怪異は残るの」
「本当にそういうところだけ詳しいよな」
「褒め言葉?」
「違う」
そんな会話をしていると。
先を歩いていた黒猫が足を止めた。
「ここまでか」
低い声。
今度は聞き間違いではなかった。
黒猫は俺達へ振り返る。
「人の子が二人。珍しいな」
「……喋った」
俺が呟くと、杏奈は小さく息を飲んだ。
「あなた……何者?」
杏奈が問いかける。
黒猫はしばらく彼女を見つめた。
そして。
「我を知らぬか」
「……?」
「まあ、人の世では忘れ去られて久しいか」
黒猫の体から、黒い霧のようなものが溢れ出す。
風が吹いた。
木々が揺れる。
そして。
次の瞬間。
そこにいたのは。
猫ではなかった。
黒い髪。
白い肌。
人の姿をした、一人の青年。
ただし。
瞳だけが違った。
縦に細い瞳孔。
猫のような目。
「猫又……」
杏奈が震える声で言った。
「正解だ」
青年は笑う。
「我は長き時を生きた猫の妖だ」
「本当に……」
杏奈は呆然としていた。
ずっと追い続けたもの。
証明できなかったもの。
それが。
今、目の前に存在している。
「お前」
猫又は杏奈を見る。
「随分と面白い人間だな」
「え?」
「我らの存在を疑わず、探し続けている」
猫又は俺を見る。
「そして、お前は」
「俺?」
「疑いながらも、彼女を守るためについてきた」
「……」
「珍しい組み合わせだ」
杏奈が一歩前へ出る。
「あなたは……何が目的なの?」
猫又は少し考えるように目を細めた。
「試している」
「試す?」
「ああ」
猫又は夜空を見る。
「今の人間は、見えぬものを否定する」
「……」
「だが、見えないから存在しないとは限らぬ」
その言葉が妙に胸に残った。
「なら」
俺は聞いた。
「俺達に何をさせたい」
猫又は答えなかった。
代わりに。
突然。
杏奈へ向かって手を伸ばした。
「っ!」
俺が反応するより早かった。
黒い爪。
杏奈の顔へ。
「杏奈!」
俺は咄嗟に間へ入った。
次の瞬間。
右目に。
焼けるような痛みが走った。
「――っ!!」
視界が白く染まる。
何かが。
頭の奥へ流れ込んでくる。
知らない景色。
知らない声。
知らない存在。
人間が見てはいけないもの。
世界の裏側。
「悟!!」
杏奈の声が遠い。
俺は地面に膝をついた。
右目を押さえる。
熱い。
痛い。
まるで眼球そのものが作り替えられているようだった。
「何をしたの!?」
杏奈が猫又へ叫ぶ。
猫又は静かに答える。
「与えた」
「何を……」
「眼を」
その言葉と同時に。
俺の右目から痛みが消えた。
恐る恐る目を開ける。
世界が変わっていた。
木。
石。
空気。
全てが違って見える。
今まで何もなかった場所に。
黒い影が浮かんでいる。
「あ……」
俺は息を止めた。
そこにいた。
誰もいないはずの場所。
木の陰。
地面の下。
空中。
無数の何かが存在していた。
「見えるか」
猫又が言う。
「それが魔眼だ」
「魔眼……」
「人間には見えぬ怪異を見る眼」
俺は震える。
見えてしまった。
今まで存在しないと思っていたものが。
当たり前のように、そこにいた。
「返せ」
俺は睨む。
「こんなの……頼んでない」
猫又は少し笑った。
「だから面白い」
「なに?」
「人間は皆、知らぬものを見たいと言う」
猫又は杏奈を見る。
「だが、本当に見えてしまえば……ほとんどの者は後悔する」
その言葉の意味を。
俺は数秒後に理解した。
遠く。
公園の方から。
何かがこちらを見ていた。
人の形。
しかし。
人ではない。
俺の魔眼だけが。
それを捉えていた。
「……杏奈」
「なに?」
「帰るぞ」
俺は初めて。
心の底からそう思った。
だが。
猫又は言った。
「もう遅い」
「……」
「一度開いた眼は、閉じることはできぬ」
風が吹く。
神社跡に、猫又の声だけが響いた。
「お前達はもう」
「こちら側を知ってしまったのだから」
その日から。
俺の日常は終わった。
ここまで読んでいただきありがとうございます。ストックは数話ありますが、仕事の都合上不定期更新になるかと思います。それでも良ければ末永く宜しくお願いいたします。




