夫の反撃
馬車に揺られて3時間ほどが経ち、ウィンダミアに着いた。
「あれが海ですか」
ウィンダミアまでの道中、ずっと手元の論文に目を通していたディランさまにそう話しかけると、彼は目だけを窓の外に向けたあと頷いた。
海に面したこの街には、ディランさまが力を入れて投資している造船会社や海洋研究所があって、今回訪れたのはその視察のためらしい。
そしてこの街にディランさまのお母さまの生家、ブルック伯爵家があって、今日はそこに泊まるようだ。
「海を見たのは初めてです。想像していたよりも広いのですね」
「…………」
本や報告書で読んだときの想像より、2割ほど大きい。
やっぱり実物を見ること以上に大切なことはない、今度もしも海上で仕事を命じられた時は、事前にその海の様子や船をチェックしよう……と考えていると、視線を感じた。
見れば黒い宝石のような瞳が、何かを観察するかのようにわたしをじっと見つめている。
「なにか?」
「……一つ、聞きたいことがある」
目を細めてこちらを見据えるディランさまは、妙に静かな表情をしていた。
「フィデリス公爵家の者は利己的で残忍と名高い。先ほどの使用人への振る舞いは噂からは少々かけ離れているが、それはなぜだ」
「なぜ、ですか?」
思いもよらない質問に、目を瞬かせる。
あごに指先を当てながら、慎重に口を開いた。
「うーん、そうですね……。自分のお世話をしてくれる人間に悪印象を持たれて、損はあれど得することが一つもない、というのが一番の理由ですが」
グラディウス公爵家でのディランさまの様子を思い出す。丁寧に見送りに出た家令や使用人に対し、彼は確かに一言も声をかけてはいなかった。
一瞬考えて、今回ばかりは正直に答えようと口を開く。
「会話や挨拶を通して使用人たちの、顔や特徴や癖を学ぶことは危機管理の一環です。彼らが何を考えているのか、どういった感情の変化があったのか、知らない者が混じっていないか。普段から見ていると、すぐに察することができるでしょう?」
それにわたしの場合は、変装が必要になることも多い。いろんな人物の振る舞いや癖を知っておくのは変装のバリエーションを増やすのにとても役立つのだった。
「それに何より私は国中から悪女と呼ばれていますので、人当たりくらいは良くしておきませんと。少々悪いことをしたい時に相手をしてくださる方がいなくなってしまいますから」
悪いことばかりをしている人が子猫を拾っただけで印象が変わるように、わたしは悪女という噂に反してふだんは人当たりよく、親切に振る舞っている。
そうはいっても怯えられていることには変わりがないので、大した悪人ではない標的にエレノアとして接するときは、念入りな下準備が必要になるのだけれど。
「よくわかった」
わたしの答えに納得したのか、ディランさまが数秒わたしを眺めて頷いた、その瞬間。
「っ、!」
ディランさまが、わたしの手首を掴んで引き寄せた。
驚きについ手首を捻って彼の手を振り解いたその一瞬、大きな手が頬を包む。
顔が近い。そう思った瞬間には、目を覗き込まれていた。
息を呑む。
獰猛な鷹のような、すべてを奪いつくす捕食者の目がそこにあった。
「……見事な黄昏色だな。人を惑わす、魔性の瞳だ」
息を止めるわたしをただ観察しつつ、ディランさまがそう呟く。
「なるほどな、この美しさに加えて悪女という噂とお前の振る舞いが、人を惑わせるのか。その上でお前が本気を出せば、確かに大抵の人間が騙されそうだ」
納得した様子のディランさまが淡々とそう言って、ぱっと手を離す。
「女王がお前と結婚するよう命じる理由がわかった。体術といい暗器を隠す見事さといい、一石で三鳥を落とすあの女が好みそうな人間らしい」
「…………ディランさまに体術を褒められましても……」
動揺がまだ残る体で、ぽつりと口を開く。
油断をしていたわけではなかったのに、ほぼ反応ができなかった。
「一度でも俺の腕をとり、更に一度でも俺の手が振り払えれば充分だ」
鼻で笑った彼が、手元の論文を鞄にしまう。
「ある程度自分の身を守れるならば問題ない。俺のそばにいる理由があるのだろう? それが何かはどうでもいいが、せいぜいその目標を達成するまでは生きることだな」
「……? それはどういう、」
「さあな。……ついたぞ」
ディランさまがそう言うと同時に、馬車が止まる。
扉が開かれて外を眺めると、そこには丁寧に手入れをされた、美しい屋敷が見えた。




