09.ホラントの秘策
真っ暗闇の中だった。
目を開けるたびに、そこは何もない暗闇の中だった。
いつ終わるとも知れぬ暗闇は、何度目かもうわからないくらいの目覚めで、ふいに終わった。
天井を映し出しているのは、枕元のランプと窓からの月明かり。
リーザはすぐに事態を把握した。
――王城に戻って二日で二回。
最近ではこんなハイペースで倒れたことはない。
まだ小さかった頃……そう、父王アントンが生きていた頃には、何日も立て続けに寝込んだことはあったけれど。
ベッドの中で寝返りを打とうと身体を動かすと、あちこちがすこし痛むことに気づく。まるで熱が出たときのような痛みだ。久しぶりに倒れるようなことが続いて、身体に負担がかかっているのだろうか。
わからない……自分のことだというのに。
布団にくるまれたまま、リーザは天井をじっと見上げて、倒れる前のことを思い出そうとした。
そう、テオが部屋を出てから、アデルに声をかけられるまで頭を下げ続けていて……のろのろと椅子に座るリーザに、ホラントが「ありがとうございます、王女殿下」と言って退出したのだった。
いったい何が、ありがとう、なのだろう?
恨まれこそすれ、感謝されるようなことは何一つしていないのに。
それからのことは、よく思い出せない。
ただ思い出せるのは、白い皿の上にのせられたきゅうりとレタスのシンプルなサンドウィッチを一口食べたことだけだ。
食べたとたん、周りの壁が自分に向かって迫って来て、囲い込まれるような息苦しさを感じて……そのまますとんと真っ暗闇へと、落ちた。
アデルは何か言っていただろうか?
ホラントも、もしかしたら大きな音に驚いて部屋へと戻って来たかもしれない。
それに……あの人は?
ラードルフは、どう思っただろう?
王城内をアデルとともに回るとき、ラードルフは王女を護衛する任務を仰せつかった第一騎士団代表として同行した。
仕える方が恐縮してしまうぐらいに丁寧な挨拶を繰り返すリーザを、歓迎の意を持って応える者がほとんどとはいえ、中には「これが例のわがまま王女」という視線を投げ掛ける者もいたのは確かだ。
そんなふうにして迎えられた王女を、付き従った騎士はどのように感じただろう?
ましてや、噂になっているらしい、王女の『わがまま』っぷりを実際に目撃した、今となっては。
扉を押し開け、どうぞと中へ促すラードルフの姿を思い出す。
大きく、ごつごつとしたその手は、昨日の夜にあの紙袋を渡してくれたときの手とは違っていた。
触らずともわかる、固く押し黙った手のひらだった。
嫌われたくない。
誰にも、嫌われたくない。
お父さまに嫌われたようには、もう二度となりたくない。
リーザは寝返りをうち、くるまる布団の奥へそっと沈んだ。
***
リーザが眠りに落ちる頃、王の間では王女の身を案じる男三人が顔を揃えていた。
王の椅子に腰掛けるアデルのそばで、ホラントが手早くお茶の準備をしている。
「アデル様、そう気を落とさないでください。お茶を淹れてきましたから」
「ホラント、ありがとうございます……」
「様子を見に行って参りましょうか、陛下」
「それには及びません。マルグレートが行っていますから。しかし、ラードルフ。驚いたでしょう? あなたにはまた迷惑をおかけしましたね」
「どうぞ、お気になさらないでください」
ラードルフは傍らに控えたままそう言った。
「ありがとう。……いつも、ああなのです。なんの前触れもない。それまで笑って食事をしていたのに突然ふらっと倒れてしまう……。食事は座ってするものでしょう? だからとても大きな音がするのです。床に身体を椅子ごと打ちつけて……。発熱や湿疹が出ると薬湯では、もうどうにもならないのです」
「何が王女殿下に影響を及ぼしているのか、まったくわからないのですか?」
ラードルフの問いに、アデルは力なく首を振った。
「わからないのです。食べられないものがあるのではないか、それともその土地でつくったものがだめなのではないか、もしくは作り手に問題があるのか、などと至極失礼なことを考えたこともありました。ですが、昨日だめなものが今日食べられて、しかし明日になればどうなるかわからない……対策のしようがないのです」
ホラントが付け加えるように言った。
「ラードルフ、おれの皿だって食べて頂けるときもあるんだ。料理指導に行ったときにも食べて頂いているし、それ以外にも、アデル様のご依頼で菓子を届けたりしてる。そのときは、普通に召し上がって頂けたと聞いている。だが、逆に体調を崩してしまわれて、おれのせいだと反省したときもあった……。思い返してみてもそれらにはなんの共通点もない。それは確かだ。だが……」
「だが?」
「……あんなふうに昏倒してしまう王女殿下は、初めて見た」
「つまり……より良くない状態ということか?」
ラードルフはそう言ってしまってから、後悔した。
アデルが再び口を開いた。
「そんなふうに倒れてしまっても、しばらくすれば身体は元通りになっているようなのです。まるで何事もなかったかのように。だから、現状をよく知らない方が、妹のことを舌の肥えた美食家だとか、あるいは食べず嫌いのわがままだと思っても、無理はないのかもしれない……」
「陛下……」
「とにかく、病という可能性はあれ、あの子がわがままを言っているわけではないと、あなたにはわかってほしいのです、ラードルフ」
「陛下のお気持ちは、十分に存じております」
答えながら、ラードルフは口には出さず考えをめぐらせた。
どんな名医にも治せない病に冒されているだの、魔女の呪いがかかっているだの、稀代のわがままな美食家だの、様々な噂は知っている。
国王夫妻にこのまま子供がおらず、アデルに不測の事態があれば王位を継がなければならない王女殿下がそんなふうであることを、案じたり揶揄する者もいる。
……今日のことが王城の皆に知れたら王家に対してどのような反応が返ってくるか、それをどう押さえるか、それを考えておいた方がいいだろう。
ラードルフは今後のことを考えながら、一方で王女のことを考えていた。
細い身体だった。
倒れ込んでしまったリーザを抱き起こして王女の自室まで運んだ。
だらりと落ちた腕は思ったよりもずっと細い。
気を失っているというよりは、死んでしまっているのではないかと不安になるくらいに、息づかいが感じられない。
しかし、実際に目の前でリーザが倒れたとき、驚きとともにラードルフが感じたのは、哀れみの気持ちではなく、苛立ちだった。
ちりちりと、こころの縁が焦げ付いているかのような。
しかし、なぜ苛立ちを感じているのか、その理由はわからない。
ラードルフはそこまで考えて、意識を目の前のアデルとホラントに戻した。
「妹を帰還させるにあたって、王家ではホラントに力添えをお願いして、いろいろな対策を練ってきました。ホラントが王城の敷地内で畑を耕し、鶏を飼うなど始めてくださったのも、食料をできる限りコントロールすることを目的としています。それが、リーザの病を少しでもやわらげることにつながると思ったからです。……ホラント、テオはどうしていますか?」
「夕食の準備は、いつもどおりでした。ですが、いつ王城での務めを辞めたいと言い出すか……はっきり言って不安です。あいつは性根はまだまだ坊やですが、腕に見込みはあります。だからこそ、今回のことも奴に任せたんですから」
ホラントの報告にアデルは頷いただけで、思い悩むように黙った。
ホラントは続けて言った。
「しかし、アデル様。もしこのまま王女殿下が何も召し上がれないようでは、王女殿下のお身体にも響きます。かと言って、おれの皿ですら王女殿下のお身体に触るようになってしまっては、やすやすと食事をお出しすることもできません。他の料理人たちにも影響が出るでしょう。王城の厨房を束ねる者として、今までとは違う、他の方法を考えなくてはならないと考えます」
「ホラント、そこまで言うからには、あんたのことだ、何か策があるんだろう?」
ホラントの話し方にどこかしらの自信を感じ取り、ラードルフはそう訊いた。
問われたホラントはよくぞ訊いてくれた、とばかりににやりと笑う。
「あたりめえだ。お前さんとは生きてきた年数がちげえんだよ」
「ホラント。聞かせてください。あなたの策とはいったいなんなのです?」
身を乗り出すアデルを制しながら、ホラントは言った。
「アデル様、もちろんお話しします。ですが、そのために取り急ぎ準備しなくてはならないことが……」




