07.王女と騎士
翌朝。
窓辺に滑り込む太陽の光に気づき、リーザは目を覚ました。
ずいぶんと深く眠ったような気がする。
王都に帰還することが決まってから、人知れず眠りの浅い日々が続いていたのが嘘のようだ。
ベッドから抜け出して、カーテンを開ける。
バルコニーへ続く窓を開けると、涼しい朝の風が身体を通り過ぎていく。
そうして、うんと伸びをして――と、リーザはつま先立ちをした身体が、そして気分が、何ひとつ損なわれていないことに気づいて、静かな驚きに捕われた。
扉がノックされる音がした。
「リーザ、おはよう。入りますよ?」
兄の声だ。
リーザははいと返事をしながら、カーディガンをさっと羽織った。
「おはよう、リーザ。気分はいかがですか」
略服に身を包んだアデルは、穏やかな笑みに心配そうな色をにじませて言った。
「ええ、すっかり良くなりましたわ、お兄さま。ご心配をおかけして、申し訳ありませんでした」
「どれ……確かに、熱もないようですね。昨夜はよく眠れましたか。あんなことのあとでは、なかなか眠れていないのではないかと、マルグレートも心配していたのですよ」
「……ええ、大丈夫。ちゃんと眠れましたわ。ありがとうございます。あとで、お姉さまにもお礼を言います」
不自然ではない間だったと信じたい。
そうしてちゃんと、微笑むことができていたと思いたい。
ちゃんと眠れたのは本当だ。その点について嘘は言っていない。ただ……黙っていただけで。
確かにマルグレートの危惧したとおり、あんなことのあとでちゃんと眠れたことなどほとんどない。
身体中の痛みと、脳裏に映る映像に苛まれたまま、うつうつと浅い眠りと目覚めを繰り返すか、もしくは、泥沼に身体を埋めたような重苦しい眠りに就くしかなかった。
だが、昨夜は違った。
違ったが……夜中に勝手に部屋を抜け出したこと、それに、夕食を前に倒れてしまったのにお腹がすいて眠れなかったことを兄に説明するのは、ひどく後ろめたく、言えたものではない。
もちろん、兄に対してだけではなく、昨夜の夕食をつくってくれた厨房の方に対しても礼を失した振る舞いだという自覚は、口をつぐむほどある。
だからこそ、笑っていなければ。
せめて、自分の苦しげな表情で、誰かをそれ以上傷つけることがないように。
自分にできることと言えば、それくらいしかないのだ、今のところは。
それに。
リーザはあのきれいな目を思い出した。
……あのきれいな目をした人との出逢いのことも、言えばきっと彼に迷惑をかける。
見知らぬ人から食べ物を恵んでもらって、その食べ物には何の痛みも苦しみも感じていないだなんて。
そのことを恐れたリーザは、彼にもらった紙袋は小さく千切って、ゴミ箱の奥深くに捨てていた。
「ところでリーザ。朝食を頂く前に、あなたに紹介しておきたい人がいるのです。会ってもらえますね」
「はい、お兄さま。もちろん、喜んで」
それから、リーザの支度を待つ間にマルグレートもやって来て、結局三人がそろって朝食の席についた。
昨夜と同じテーブルの同じ席に着いているが、あのとき感じた重みはない。
「もうすぐ来ると思いますから、少し、待ってくださいね」
「ええ、お兄さま。それは構いませんけれど、いったいどんな方なんですか? 私に紹介したい方なんて――」
「リーザ王女殿下」
すべてを言い終わる前に、朝食を載せたワゴンが引かれるかちゃかちゃという音に混じって、年のいった男の声が聞こえた。
振り返ると、そこにはよく見知った男が立っていた。
「まあ、ホラント……!」
「ご無沙汰しております、王女殿下。ようこそお戻りくださいました……ああ、どうぞ、お座りになって」
「え、ああ、ごめんなさい、はしたない真似を」
驚きのあまり椅子から派手に立ち上がったリーザをたしなめるように、ホラントは近づいてリーザの両肩に手を置き、椅子に座らせた。
「アデル様、マルグレート様、おはようございます。……しかし王女殿下、お元気そうなら良かった」
「……ええ、ありがとうございます、ホラント」
ホラントはおそらく昨夜のことを既に聞き及んでいるのだろう。
俯きそうになるのを押さえて、リーザは笑った。
ホラントは安心したように一礼すると、いたずらっ子のような笑顔に表情を変えて言った。
「早速ですが王女殿下、自分と王女殿下の仲に免じて、ひとつ、朝っぱらから無礼な質問をお許しくださいますか」
ずいぶんとやんちゃだったと聞く昔の名残を垣間見せるようなぞんざいな口調を織り交ぜながら、『リーザさま』ではなく『王女殿下』と呼ぶホラントに、リーザは応えた。
「ええ、もちろんよ、ホラント」
「王女殿下は、昨日お戻りになったとき、侍女をお連れではありませんでしたか?」
「いいえ……修道院からゲオルギーテ先生が着いて来てくださいましたけれど、そのままお帰りになりました」
「そうですか。いや、失礼しました、王女殿下」
ホラントは追求もせずにあっさりと引き下がった。
「ホラント、どうしたのですか。朝食の数が合いませんか」
「いいえ、アデル様。それは大丈夫です。万事つつがなく。ただ、ラードルフが侍女がどうのと奇妙なことを言っていたものですから」
「ラードルフが? ああ、そうそう、私たちはラードルフを待っているのです。朝食が始まる前には来ると言っていたのですが、ご存知ありませんか」
「ああ、さっき、第一騎士団の奴らに捕まっているのを見ましたよ。あいつが王女殿下のご挨拶に同行するあいだの訓練の用意について、相談していたんでしょう。もうすぐ来るかと」
「ありがとう。それならば良いのですが」
ホラントとアデルのあいだで飛び交っている会話の言葉に、リーザは耳を傾けていた。
ラードルフ?
……ラードルフ、という人が言っていたという、侍女の話?
リーザの頭に昨夜のことがよみがえる。
肌をかすめていく涼しい風、フクロウの鳴き声。
紙袋から伝わるあたたかさ。
そして、きれいな目と優しい声音。
「もしかして、王女殿下にラードルフを紹介されるのですか?」
「ええ。これから、お世話になることですし、皆に紹介するよりも早いほうが良いかと思いましてね。それにしても侍女がどうの、ですか。妙なことを気にしているのですね、ラードルフは」
侍女、という単語を聞き捨てておけないリーザは、隣に座るマルグレートに問いかけた。
「あの……ラードルフさんという方は、もしかして、料理人の方なのですか?」
その言葉に、アデルもホラントもリーザの方を向いた。
「いいえ、リーザ。ラードルフは――」
リーザの疑問に答えかけたマルグレートの声にかぶさるように、扉の開く音とはっきりとした男の声が響いた。
「失礼致します。ラードルフ・ルーベンシュタット、アデル国王陛下のお呼びで参りました!」
ああ、その人だ。
顔を見ずとも、わかってしまった。
ホラントの肩越し、こちらに向けられている彼のきれいな目が、やがて驚きを隠し得ない色に染め上がっていく様子を、リーザはざわつくこころを押さえつけながら見つめた。
***
なぜ彼女がここに?
ラードルフは一礼した頭をもとに戻してすぐ、アデルのそばにいる少女に目を吸い寄せられた。
そこに見知らぬ少女がいるであろうことは、当然、予想がついていた。
そして、その方が、自分のお仕えするべきリーザ王女殿下その人なのだろう、と。
しかし、そこにいたのは見知らぬこともない、昨夜王家の庭で会った、あの不思議な少女だった。
王女付きの侍女であればこの場にいてもおかしくないが、しかし彼女の服装はどうだ。昨夜の質素な格好とはまるで違う。
波打つ栗色の髪はそのままに、しかし着込んでいるのは、侍女が着ることになっているえんじ色のワンピースではない。
袖口に王家の紋章をあしらった、水色のシンプルなドレスだった。
あれは……あの方が、リーザ王女殿下?
昨夜の少女の落ち着き、穏やかさ、控えめさ。
それらは全部、王家の血筋に連なる者としてのものだったのか?
ラードルフは近くへと呼び寄せるアデルの声に従って歩み寄りながら、リーザの様子を観察した――いや、冷静に観察できていると思いたいだけで、ほとんどただ見つめているに等しいことを、ラードルフは頭のどこかで自覚していた。
自分の目が驚きと戸惑いに満ちていることを察してか、リーザはそっと目を伏せた。
その姿に、自分が感じているのと同じ戸惑いと、それ以上の後ろめたさの色合いを読み取り、ラードルフも居心地の悪さを感じた。
「ラードルフ。朝からお呼び立てして申し訳ありません」
「いいえ、陛下のお呼びとあらば」
「リーザ、紹介しましょう。こちらが、王立騎士団に属する第一騎士団の団長、ラードルフ・ルーベンシュタットです。これから、あなたの生活を手助けしてくださいます。彼は頼りになる男ですが、あまり迷惑をおかけしないよう、自分を律して生活するように。ラードルフ、私の妹のリーザ・エミーリエ・フォン・レーベンシアです。どうぞ、よろしくお願いします」
アデルをあいだに挟んで、ラードルフとリーザは向かい合った。
リーザは目を伏せがちに頭を丁寧に下げ、ラードルフも何も言わないまま頭を下げた。
端から見れば、慎ましい王女殿下と王家への忠誠心ある騎士のおだやかな挨拶と見えるだろうが、内実は半分あたりで半分はずれだった。未だ、お互いの目にある戸惑いが消えていない。
何も言わない王女を気遣ってか、ホラントが親しみをたっぷりと込めた口調で言った。
「王女殿下。こちらが、先ほどの話題にあがっていたラードルフです。どうです、料理人のように見えますか?」
リーザが曖昧に首を傾げてみせる。
それを見てから、ラードルフが怪訝そうな口ぶりで言った。
「私の話題?」
「ああ、そうだ。なあ、ラードルフ。王女殿下は侍女はひとりもお連れでなかったよ。おれの言う通りだっただろう? やっぱり、お前さんの見間違いか、勘違いじゃないのか?」
「それは……」
見知らぬ女だったことは間違いない。
ただ、侍女じゃなかっただけで。
なおも戸惑いが消えず、王女と目を合わせられないでいることに耐えきれず、ラードルフはさっと右ひざを床につき、左ひざを折って頭を垂れた。騎士がする最上の敬意の表し方だ。
その姿勢をとったラードルフを驚きの目でまわりの人々が見つめた。
「リーザ王女殿下、私、ラードルフ・ルーベンシュタットは、昨晩の大変失礼な振る舞いを、衷心よりお詫び申し上げます。どうぞ、処罰を何なりとお申し付けください」
騎士団をまとめあげる団長にふさわしい、己を律した声があたりに響いた。
「い、いえ、そんな、処罰だなんて」
リーザがラードルフに頭を上げるよう頼むと、ラードルフはゆっくりと身体を起こした。
「いったいこれはどういうことなのですか? リーザ、昨夜のこととはいったい……」
「ははーん、そうか、そういうことか」
戸惑うアデルの隣で、リーザでもラードルフでもなく、ホラントが納得したような声をあげた。
「つまり、ラードルフが昨夜お手製の『貧乏な騎士』を渡したのが他ならぬ王女殿下その人だった、ということだな。それで、その人を侍女と勘違いして、王女殿下はラードルフのことを料理人だと思い込んだ……ラードルフがあの黒のエプロンをしていたから」
「ホラント、余計なことを――」
「いいじゃないか。どうせ、お前さんはそういう出来事を心の中におさめておけるような性分じゃないだろ? 王女殿下、あなたもそうでしょう? 後ろ暗いことがあればアデル様に黙っていられるような方じゃないはずです。それなら、すっぱり正直になった方が、お互いのためではありませんか? 別に、王女殿下が気に病んでいらっしゃるほど、悪い出来事ではないのですから」
「そう、でしょうか……?」
ホラントの大胆さと気遣いが入り交じった言葉に、リーザはか細い声で答えた。
「とにかく、詳しい話を聞かせてください。そして、できることならば、朝食を食べながら。ホラント、椅子をひとつと同じ朝食をひとつ、テーブルに準備してくださいますか。もちろん、ラードルフの分です」
アデルは明るくそう言って、皆をテーブルへとうながした。




