25.救出
どれくらい時間が経ったことだろう。
ラードルフはそっと身体を起こして振り向くと、すぐそばまで土砂が迫っていた。
ぱらぱらと、頭上から細かい埃が落ちて来る。
見上げると、天井が崩れ落ちて空をのぞくように開いた隙間から、教会を覆っていたあの大木が、その幹を大きく裂けるように倒れてきているのがわかる。
幹の半分はぎりぎり根を下ろして立っているようだが、多く実のなった半分が首をもたげて教会の屋根を押しつぶしたのだ。
みしみしという音は、太い幹が裂けていく音だったのか。
ラードルフはそう思いながら周りを見渡した。
幸いなことに、教会の長椅子は土砂にすぐ埋まってしまったらしく、こちらに流されてはなかった。流されていたら長椅子で押しつぶされていたかもしれない。
近くまで迫った土砂の上に、ごろごろと果実が落ちているのが見えた。
自分のいる場所の真上には、かろうじて天井が残っている。そのおかげか、雨が降りかかることは避けられている。
このまま雨が降り続けば、かろうじて残っている自分たちの頭上の天井もいつ崩れるかわからない。
目の前の扉を押してみるが、びくともしない。
おそらく教会全体にかかった衝撃と負荷のせいで、扉の噛み合わせがずれたのだろう。槍があれば入ってきたときのように突破できるかもしれないが、それもこの土砂のどこかに埋まっている。
第一、今ここで無理にこじあけてしまったら、下手をすれば三人そろって土の下だ。
ラードルフはリーザを腕に抱き起こし、そしてテオの息を確認した。
衝撃で気を失っているだけらしい。
出血などがないことを確認すると、ラードルフはほっとして、腕の中のリーザをしっかりと抱きかかえ直した。
テオと同じように気を失っているリーザの青白い顔に、頭上から降り注いだ土砂がこびりついている。
指でそっと頰の土砂をぬぐうと、リーザは小さくうめいて、顔をそっとラードルフの肩に寄せた。
まるで、ぬくもりを求めているように。
「……リーザさま、申し訳ありません」
そう呟いて、ラードルフはぎゅっと抱き寄せた。
首筋にリーザの細い息がかかる。
ちゃんと生きていることがわかる――このぬくもりが損なわれなかったことを、どうしても触れることで確かめたかった。
誰かに見咎められることのない今だけ、それを自分に許したかった。
少しの間じっと抱き寄せたままでいた。
名残惜しい思いでそっとリーザの身体を離し、膝に頭を乗せて横たえさせる。
その姿勢のまま、テオの名前を呼んだ。揺らすのははばかられたのだ。
何度目かの必死の呼びかけに、テオは瞼を開けるとゆっくりと身体を起こした。
肩を大きく上下させて、懸命に息を整えている。
「……ラードルフさん、これはいったい……」
「雨で土砂崩れを起こしたんだ。見てみろ、木が倒れているだろう――怪我はないか」
「はい……たぶん。少し、腕を擦りむいたくらいで……」
「ならいい。しかし、どこか痛んできたらすぐ言うんだ。いいな」
テオはこくんこくんと何度も頷いて、頰についた泥を落とそうと手で拭っている。
状況を把握するのに時間がかかっているのだろうが、しかしテオの顔つきはさっきまでとはだいぶ違った。
ラードルフのよく知っている、繊細な青年の顔だ。
まるで憑き物が落ちたような、という表現がふさわしい変わりようだ。
テオは呆然とした目であたりを見回したあと、その焦点がリーザの上で合った。
「リ、リーザさまっ……」
「揺らすな、テオ。まだ意識が戻っていないんだ」
「は、はい……あっ」
ラードルフに制されたテオは、慌ててリーザの両手足を拘束していたリボンと縄を解いた。
白かったはずのリボンは土にまみれて薄汚れていた。
相当きつく縛っていたのか、縄目がリーザの肌にうっすらとついている。
「ぼくは……なんてことを……」
「テオ、いったいどうしたんだ……いつものお前と様子が違いすぎる」
「そうかもしれません。でも、ぼくがやったのは確かです……ちゃんと覚えています。どうやってリーザさまを連れ出して、仲間を欺いて……お二人に、どんなひどいことを言ったかも、覚えています。あのままだったら、リーザさまを殺していたかもしれない……。でも、あれはぼくの本音です。偽りのない、ぼくの気持ちです」
そう言いながらも悔やむようにうなだれるテオに、ラードルフはそうか、とだけ答えた。
テオはほぼ錯乱状態だった。
そのまま凶行に及んだ。
しかし、とラードルフは思った。
言っていることはどうだ――確かにそのとおりだ。自分は逃げている。
王女に対する気持ちから目を背け、『任務』だの『お仕えするべき人』だのという名目で傍にいた。
傷つきたくない、嫌われたくないという王女の願いを叶えようと、必死になった。
対症療法だと言われても構いはしない、そう思ったのは……。
愛しているからだ。
まったくもって、テオの言うとおりだった。
黙ってそう考えをめぐらせていると、腕の中がそっと動いた。
「テ、オ……」
か細い息にまぎれて、リーザが言った。
「リーザさま……!」
「ご無理なさらないでください、リーザさま。助けがくるまで、動かない方がいい」
ラードルフの言葉に、リーザは力弱くすがるように手を伸ばした。
ラードルフの手がその細くて冷たい手を受けて、強く握る。
「わかってる、本当はずっと、わかってたの、テオ――私はお父さまが大嫌いだった。お母さまが死んでからは会いにも来ない。時々やって来たかと思えば、自分を憎むようなことばかり言う。どうしてこんなに憎まれなきゃいけないのかわからないまま、ずっと修道院に入れられっぱなし――大嫌いだった。あの人が自分のお父さまだなんて、思いたくなかった。いつか、ホラントに言ったことがあったわ……お父さまが本当のお父さまでなければいいのに、って……。叱られてしまいましたけれど」
収穫祭の夜には言わなかったリーザの本音が、途切れ途切れ、小さな声で語られた。
これ以上話しては体力をけずってしまう。ラードルフはそうわかっていても、止めることはできなかった。
「テオの、言うとおり。私はずるい人間です……誰からも嫌われずに生きたい、そう願いながら、自分は誰かを愛そうとはしなかった。できる限り笑って、なんでも素直に言うことを聞くから……どうか、嫌わないでほしいと思っていただけ。強い悲しみや、苦しみだけじゃない……誰かを愛することも、受け入れたくなかった……誰かを好きになることは、悲しみを生むから。お父さまやお母さまがそうであったように、自分がそうなってしまうことが、怖かった」
テオはじっとリーザの顔を見ている。
ラードルフの手を握るリーザの力が、少しずつ、強くなる。
「テオ、ごめんなさい。謝ったら、また、怒られてしまうけれど……。自分の中にある憎しみを知ってもまだ、怖いの。誰かに嫌われるのも、悲しむことも……。でも私、どんなにきれいごとだと言われても、それでも誰とも傷つけ合うことなく生きていきたい……テオも、私も、これ以上誰かを傷つけることがないように、そう祈りたい……」
「リーザさま……」
うなだれるテオは、ラードルフが包んでいたリーザの手に触れた。
泥が払いきれないで汚れていたが、その手はとてもあたたかかった。
「……テオ、そこの果実を、リーザさまに切って差し上げてくれないか」
「え……」
近くにまで迫った土砂の中に、倒れた木の葉に守られるようにして、いくつかの果実が転がっている。
ラードルフは胸元から布を取り出し、足元のブーツから仕込んであるナイフを外した。
「布でよく拭いて、きれいに皮を剥けば食べられるだろう。話し疲れて、喉も渇いていらっしゃるだろうし……うさぎ型にするぐらいのサービスがあれば立派な一皿だな」
「ラードルフさん……」
「今ならできるだろう?」
いつのまにか泣き出していたテオは、涙で震える手でしっかりと果実を握りしめると、まな板がなくともあっという間にうさぎ型に仕上げた。
もう一枚の布をラードルフが手のひらに広げ、それを皿代わりに乗せた。
「……リーザさま、どうぞ」
一口大に切った果実を、リーザは細い指先でつまんで、口に運んだ。
口がかすかに動いて、やがて青白い喉を通り過ぎていく。
「ありがとう、テオ。とても、おいしいです。……大丈夫、オットーは怒ってなんかない。村の皆さんも、あなたの無事を祈っています」
「リーザさま……ごめんなさい……」
そのとき、開かなくなってしまった教会の扉をどんどんと叩く音がした。
「ラードルフ団長ッ、聞こえますか――」
助けに来た騎士の声だ。ラードルフは大声で返した。
「ああ、聞こえる! 扉を無理に開けると建物全体が崩壊する――慎重に開けてくれ! ……テオ、リーザさまを支えていてくれ。俺は扉をなんとかする」
「わかりました、ラードルフさん……!」
そう言ってリーザをテオにもたれかけさせたとき、リーザがつぶやいた。
「――あのビスケットをつくったのは、あなたではないのね……」
背を向けていたラードルフにも、そのつぶやきははっきりと聞こえた。
教会の外からたくさんの声が波打つように響いてくる中、自分が胸の中で恐れていたことをリーザも承知していることを知った。
***
「食べなきゃ生きていけないなんて、因果な生き物だな、人間ってのは」
小部屋に大きな窓から夕陽が静かに差していた。橙色が背中に跳ね返っているのがまぶしい。
「食べないで生きていけるならどんなに楽か……そうお考えになったことはありませんか、王女殿下」
「あるわ――でも今は、そんなふうには思わない」
リーザははっきりとそう答えた。
予想どおりの反応だったらしく、彼は満足そうに笑った。
「エミーリエさまも、そう仰っていました。王女殿下はエミーリエさまに本当によく似ていらっしゃる。外見だけでなく、中身も」
最後はほとんど嘲笑うかのような言い方だった。
「似過ぎていて、またわからなくなってきた――愛しているのか、憎んでいるのか……」
火にかけられたケトルがしゅうしゅうと勢いを増して音を立てる。
まるで何かをせき立てるかのように。
「聞いていかれますか? つまらない昔話でよければ、だが」
「ああ、ぜひ」
ラードルフの返事とリーザの頷きを見届けて、ホラントはティーポットにお湯を注いだ。




