第三話 居候と一人の男
ティカ・エーメンテルは、ミスルライン王国でも有数の豪商の家に、四人兄妹の三女として生まれた。
女王ベルヘアが住まう、王都ミスラールの一等地に建てられた大邸宅で、彼女は何一つ不自由することない幼少期を過ごした。
ティカは十歳になると、王立の高等学院に通うように言い渡された。
王族や貴族、富裕層の子女が通うことで知られるそこで、一般教養の他に王国の仕組みや礼儀作法といった、上流階級で必要となる知識を叩き込まれた。
元々、知識欲に関して旺盛であったティカは、それらを素直に学んでいった。
しかし、父の思惑に気付いたとき、娘は密かな決意を抱くようになった。
父の思惑とは、ティカを淑女として育て上げ、有力な貴族の下へ嫁がせること。
家督を継ぐのはティカの兄と既に決められており、長女は王族の下へ、次女は王族の傍系である地方領主の下へ、それぞれ嫁ぐことが決まっていた。
上流社会における仕来りや、父の立場については理解はしていたが、自分の意思が介入する余地のない人生を送ることにティカは反発した。
十三歳になり、高等学院を卒業を目前に控えた頃、ティカは魔法学院への進学を希望した。
渋る父に対し、「貴族の妻であっても、魔法に精通していれば王宮に地位を得る機会も増えるだろう」と、表面上は父の意向に理解を示すふりをしてまで、何とか説得に成功したティカだった。
在学中の四年間で、ティカは戦闘に用いられる魔法を主に学び、学院が定期的に行う魔術の実践学習にも精力的に参加した。
また、夏と冬の長期休暇期間は、下町の酒場で知り合った冒険者たちと行動を共にするなどして、幾らかの収入と貴重な経験を得ることに勤しんだ。
これは、魔法学院卒業直前に、父の前から姿を消す際に役立った。早い話が家出したのだ。
親元から完全に離れたティカは、故郷のミスルラインからも離れ、隣国のキユレント自由国へと向かい、そこで冒険者になることを選んだ。
五年間の冒険者暮らしの中で、様々な経験を積んだ赤毛の少女は、一人前の女冒険者へと成長していた。
十五歳を過ぎた辺りから、そこだけ時間の流れが止まってしまったのではないかと思われる胸部は別として。
そんなティカに転機が訪れたのは、二十三歳の誕生日を間近に控えた時だった。
キユレントの王都ユナーエで開かれた、王国主催の闘技大会に、それまでパーティーを組んでいた仲間の一人が、冷やかし半分でティカの名前で申し込んだのだ。
剣や斧といった武器の使用は勿論、魔法の使用まで許されたその大会は、まだまだ中堅にもなっていない冒険者が太刀打ち出来るはずもないと思われた。
しかし、周囲の大方の予想に反し、ティカは準決勝まで勝ち進んでしまった。
残念ながら準決勝で敗退したものの、四位入賞を果たしたティカの下に、騎士団のスカウトがやって来た。
父の束縛を嫌い冒険者になったティカが、それを受けるはずもなかったのだが、その日を境に仲間の態度が変わった。
事ある毎に、ティカは自分たちとは違うと言い、あからさまに距離を置くようになったのだ。
そんな彼らを見ている内に、彼女の中で冒険者という職業に対するある種の熱意が、急速に冷めていった。
それから程なくして、ティカはパーティーから抜けた。
ミスルラインに戻るつもりはない。かと言って、キユレントで騎士になるつもりもない。
今後の身の振り方を一晩考えた赤毛の元冒険者は、他の大陸へ渡ることに決めた。
ユナーエから馬車で二日ほど行った所に、モザルヴァという港町があり、偶々そこに入港していたイレ・マバル諸島行きの定期船へ、ティカは飛び乗った。
キルウィク大陸からイレ・マバルへ。イレ・マバルからアルベロテス大陸へと船を乗り換えて、海上の旅を続けた。
そして、ダリンの港へ到着し、アルベロテスの大地を踏みしめた感慨に浸る間もなく、気付いた時には、ティカは異世界の地に飛ばされていた。
コンビニから出た麻美とティカが、自宅へ向かって歩いていると、後ろから一台のワゴン車がゆっくりと近づいてきた。麻美の予感が見事なまでに的中したのだ。
無論、そんなものが当たったところで嬉しくも有難くもない。
足を速めてその場から立ち去ろうとする麻美を引き止めたのは、ティカだった。
こちらは徒歩で、相手は車である。どんなに必死で走ったとしても、到底逃げ切れるものではない。
仮に自宅まで辿り着けたとしても、今度は家の中に押し入られてしまう可能性もある。そうなってから警察を呼んでも遅いのだ。
「ま、あれくらいの人数ならなんとでもなるから。麻美はあまり顔を見られないようにして、あたしの後ろに居てね」
体型はティカと麻美に大した差はないのだが、身長だけは麻美のほうがティカよりも3cmほど高い。
流石に自分よりも背の低い女の後ろに隠れるというわけにもいかなかったので、麻美は出来るだけ俯き加減で顔を隠すようにティカの後ろへと回った。
「家まで帰るんでしょ? 送ってってあげよーかぁー?」
後部スライドドアを開けて姿を現したのは、コンビニの店先で声をかけてきた男だった。
にやけた顔つきといい、下心の滲みまくった物言いといい、こんな男の言葉に従う者など、余程の世間知らずか単なる間抜けくらいなものだ。
「…………」
表情を消したまま、無言でいるティカを見て、男は目の前の女が怯えて声も出せないと思ったのだろう。
「怖がんなくてもいいってばぁ。ちゃぁんと送ってあげるからさぁ」
そう言いながら、二人へと近づく。男の後ろを窺うと、車内では別の男二人が待ち構えるようにしてシートに座っていた。
「さ、乗って乗って」
さらに近づいた男が、ティカの腕に触れようとした直前。
立ち竦んでいるかに見えたティカの右足が、文字通り目にも留まらぬ早さで真上へと振り抜かれた。
凄まじい速度で蹴りあがった膝が、男の股間を直撃する。
「あ……がっ……!」
男が白目を剥いて崩れ落ちるのを冷たい視線で見下ろしていたティカは、後ろの麻美に小さく囁くと、すぐ傍の路地へと駆け込んだ。
後ろからは、ワゴン車から降りてきた仲間らしき男たちの怒声が聞こえてくる。
ものの数十歩も行かない場所で、二人は立ち止まった。
そこは、ビルの陰になっており、周囲には照明らしきものもなく、夜の闇がそのまま残されている場所であった。
相変わらず背後からは男たちの粗野な大声と、足音が響いている。
ティカは振り向いて、相手が追いつくのを待つ。どうやら、ここで連中を片付けるつもりのようだ。
「待てっつってんだろーが! テメェ!」
ようやく追いついた男の一人が、本性を曝け出しながら怒鳴る。
『だから待ってるじゃない』
ティカはこの時、初めて男たちに向けて口を開いた。
「あぁ? 何だぁ?」
しかし、ティカの喋った言葉はキルウィク大陸公用語、つまり“向こうの世界”の言語である。当然、目の前の四人には何を喋っているのか分からない。
尤も、仮にこの場に語学に長けた者が居たとしても、この世界には存在しない言語なのだから、理解できるはずもないのだが。
『意思疎通』の魔法くらいならば、おそらく使えるだけの魔力は回復しているであろうが、この様な輩に今や貴重となってしまった魔力を使う気は、ティカにはない。
だから、赤毛の元冒険者はそのまま続ける。
『まったく……。どこの世界でも、アンタたちみたいな馬鹿はいるものなのね』
「コイツ、外人か?」
「そうなんじゃね? 髪の毛赤い日本人なんていねぇだろ」
「染めてんのかも知れねーじゃん」
「コスプレだったりしてな。最近はオタクの女も増えてるって言うぜ?」
わざわざティカが人目に付きづらい場所を選んだ意味も分からず、四人の男たちはゆっくりと近寄りながら会話を交わしている。
憐れな犠牲となった男の末路を見たためか、流石に少しばかり慎重になっているようではあるが。
『いいから、やるならさっさとかかって来なさいよ。面倒だから四人一度でも構わないわよ?』
言葉は分からずとも、口調から馬鹿にされたことに気付いたのだろう。男たちの顔に、再び怒気が宿る。
「余裕かましてんじゃねーぞ、コラ」
一人の男が、ズボンのポケットから折りたたみ式のナイフを取り出した。
パチリと音がして、闇の中でその刃が白く浮かび上がる。
その男につられるように、他の三人も上着やズボンのポケットからそれぞれ得物を取り出していた。
一人は拳に填める金属製のナックルを、一人はどこで手に入れたのか伸縮式警棒を、もう一人は最初の男とは違うタイプの折りたたみ式ナイフを手にしている。
それらをティカに向けてかざしながら、別の男が声を上げる。
「大人しくしてりゃあ、キモチイイことだけで済んだのによ」
「まー、どっちみち、ちょっと痛い目に見た後は、キモチイイことするんだからチャラじゃね?」
好き勝手なことを口にする男たちを一通り眺めたティカは、呆れたように呟いた。
『武器を手にするってことは、命を賭けるってことなんだけどなあ。でもまあ、こっちの世界じゃ必ずしもそうじゃないみたいだし……。
特に、こいつらにそんな覚悟があるとも思えないし、仕方ないか』
「だからニホンゴで喋れっつってんだろが!」
凶器を目にしても一向に怯む気配すら見せない赤毛の女に苛ついた男が、金属製のナックルを填めた拳で殴りかかってくる。
まともに食らえば、良くて打撲、下手をすると骨折しかねない勢いである。
だが、ティカは慌てることなく、僅かに身体をずらすだけで男の拳をかわした。
向こうの世界で、盗賊や魔獣を相手に生死を賭した戦いをいくつも経験してきた彼女にとって、目の前の男が繰り出す攻撃には必殺の気迫が感じられないのだ。
そのような生半な攻撃など、かわすことは造作もない。
あっさりと避けられた男は、勢い余ってたたらを踏んだ。
「何よけてくれちゃってんの……ンノヤロウ!」
別の男が伸縮式警棒を振り回すが、それも空を切るばかりで、ティカの服にすら掠ることも出来ない。
『ああもう、面倒くさいなあ。剣があれば一瞬なのになー』
男たちの攻撃をひらりひらりとかわしながら、赤い髪の異世界人がぼやく。
向こうの世界ならば、さっさと斬り倒してお終いなのだが、こちらではそうもいかない。
第一、ティカが所持していた長剣は、魔法を使って普通の人間には分からないように、麻美の家に置いてきてある。
主に長剣と魔法で戦っていたティカとしては、素手での戦闘は苦手とまでは行かないものの、やり辛いことには変わりなかった。
特に、相手を殺してはならないという一点において。
それでも、あまり長引かせると、麻美に狙いを変えられてしまう可能性もある。そうなれば、更に面倒なことになってしまう。
『襲ってきたアンタたちが悪いんだからね。ケガで済まないかも知れないけど、そこはご勘弁ってことで』
そう告げると、ティカは右手を軽く開いた状態で、男たちに向けた。
「じゃ、行こうか」
「う、うん……」
四人の男が路上に這いつくばり、濁音だらけの呻き声を上げているのを完全に無視して、ティカが麻美を促した。
とりあえず、当分の間は彼らが起き上がることはないだろう。ならば、早急にこの場から立ち去るべきだ。
「大丈夫だって。一応、手加減はしといたから、死にはしないわよ。……多分」
不穏な一言を付け足しておいて、ティカは来た道を戻り始める。
置いて行かれそうになった麻美が、慌ててその後を追う。
やがて、そこには無様な姿の四人の男だけが残された。
それから正確に二分後。
闇の中から、一つの影が靴音を響かせながら現れる。
「ふーん……。どうやら、僕の“読み”は当たっていたみたいだ。しかも、同郷ときてる。
いやはや、人生はびっくりさせられることばかりだね」
やけに暢気な口調で独り言ちたその影は、未だ唸っている男たちなどその場にいないかのように、ティカたちが去った方向を見遣り、再び靴音を響かせながら闇の中へと消えて行った。